礼拝メッセージ要約

Assisting the study of God's Word

2006/12/03 礼拝メッセージ

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Messenger: 近藤修司
Passage: コロサイ4:7-18
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06/12/03  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

主  題:パウロの同労者たち

聖書箇所:コロサイ人への手紙 4章7-18節

 恐らく、皆さんの信仰生活の中で、その時は気付かなくても後になってから、やはり、神のなさることは完全だった、神のなさることにぬかりはないと気付かされたことがたくさんあるでしょう。やはり、神は神だ…と、ここまでご配慮いただいたのか、ここまでご存じだったのかと、後になって私たちはそのように気付くことがあります。私たちがその信仰生活の中で繰り返し教えられて来ていることは、神は私たちの必要をご存じで、私たちのために最善を為してくださっているということです。私たちはその都度、確信が強められて行きます。みことばが教えるその通りの神だと…。その確信は私たちの信仰生活を通して強められて行きます。このパウロが記したコロサイ人への手紙を見ても、私たちは同じことを教えられます。つまり、パウロの宣教においてもいったい何が必要であったのか、神はそのことをご存じなのです。パウロが神からいただいた尊い働きを為して行くために何が必要なのか、そのことをご存じの神はその必要を備えてくださったのです。つまり、パウロにはすばらしい同労者たちが与えられたのです。パウロは一人ではなかったのです。もちろん、皆が最後まですばらしかったわけではありません。それを今見て行くのですが、神はパウロが主のみこころを為して行くために必要な同労者たち、 仲間たちを与えてくれたのです。私たち信仰者も、悲しいことに、落ち込んでいる状態にある人は自分は孤独だ、だれも自分のことなど見てくれないと、悲観的に物事を見てしまいます。本当はそうではないのに…。なぜなら、神は常にそばにいてくださるし、私たちには兄弟姉妹がいるのです。いっしょに励まし合って、いっしょに祈り合う友を神はくださったのです。私たちはそのことに気付いていないのです。こんなに立派な信仰者であったパウロですが、神は彼の弱さを知っておられます。彼は一人でやって行けないことを知っています。だから、神は彼のためにすばらしい同労者たちを与えたのです。ここに8人の名前が出て来ます。パウロはそれをこの手紙を締め括るに当たって、最後のところでそのことを告げるのです。私たちは今から、パウロを助けた同労者たちのことを見て行きます。どのような人物だったのか、どのようにパウロを助けて行ったのでしょう?

☆8人の同労者たち

1.テキコ

 まず一人目は7-8節に出てくるテキコという人物です。「私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。:8 私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。」、幸せな、幸運なという意味をもった名前テキコ、この名前は新約聖書の中に5回出て来ます。それらを見て行く時間はありませんが、どのような人物だったのか、少なくとも、ここに四つのことを覚えます。(1)異邦人:使徒の働き20:4には「プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、テモテ、アジヤ人テキコとトロピモは、パウロに同行していたが、」とあります。彼はアジア人でした。(2)愛する兄弟:7節に「愛する兄弟」であるとパウロは言っています。美しい兄弟姉妹と、そのような関係を見て取ることができます。パウロはテキコを心から自分の愛する家族の一員として見ているのです。(3)忠実な奉仕者「忠実な」とは「信頼できる」と訳せることばです。テキコはパウロにとって信頼を置くことができる人物だったのです。「奉仕者」ということばも「しもべ」と訳することができることばで、同時に、これは「執事」と新約聖書の中で訳されていることばでもあります。そのようなリーダーがいてくれたのです。パウロの周りには本当に信頼できる霊的な存在があったのです。これは教会にとって大きな力です。なぜ、教会が霊的なリーダーを選ばなければいけないのかというと、教会はキリストのものだからです。キリストのみこころを求めている人たち、キリストのみこころを知ることのできる人たちが、神の教会を導かなければいけないのです。パウロがすばらしかったこと、パウロが神から大きな祝福をいただいたのは、確かに、彼は様々なところを巡回して行きました、一つの教会を牧会したわけではなかった、しかし、彼はある面では牧会者でした、というのは、いろいろなところの愛する兄弟姉妹のことを覚えて祈っていたからです。そして、そこで働く牧師たちと非常に密接な関係がありました。そのパウロにとっての大きな喜びは自分が信頼できるリーダーがいたことです。恐らく、どの牧師でもそういうことができるでしょう。私たちクリスチャンはお互いのことを愛しますが、皆同じように信頼できるかというとそれは別問題です。私も感謝なことにこの教会に遣わされて信頼を置くことのできる兄弟姉妹がおられる、それは大きな励ましです。その人たちを信頼し祈っていただくことができます。パウロにはそのような人たちが与えられていたのです。

(4)同労のしもべ:いっしょに主に仕えるしもべ、これこそクリスチャンです。私たちは皆主のしもべです。主人は主イエス・キリストです。この方に仕えて行こうとするのが私たちです。そして、この主人に仕えるために、私たちはこの方にできるだけ忠実であろうと一生懸命労するのです。なぜなら、主に従うことは、この世にあって容易いことではないからです。いろいろな摩擦、問題、障害が出て来ます。だから、いっしょに労するのです。わずか、この7節のみことばを見るだけでも、パウロ自身がどのような状況にいたのか見て取ることができます。パウロがこういうことを喜び、こういうことを神に感謝し、そして、神はすばらしい働きをこのパウロの歩みの中にも為しておられた、こんなすばらしい兄弟がパウロには与えられていたのです。

2.オネシモ

 9節「また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。」と、オネシモのことは私たちはもうすでにピレモン書で学びました。ピレモンという非常に裕福な主人の金を(多分)盗んで逃亡した奴隷でした。そして、ローマにおいてパウロから伝道され、信仰に至った人物です。パウロはここでこのオネシモのことを「あなたがたの仲間」だと言っています。ここにもクリスチャンのすばらしさが出ています。罪はお互いに赦し合うものです。私たちはキリストの仲間である、神の家族である、ですから、罪に対してはそれは罪だということを指摘されなければいけませんが、罪を告白するならそこには赦しがあります。神が赦されたように私たちもお互いを赦し合って行くのです。ですから、パウロはこのオネシモのことを見下げてはいません。私たちの仲間のひとり、そして「忠実な愛する兄弟オネシモ」と記されているわけで、パウロにとってはこのオネシモが愛する存在であったし、オネシモもパウロにとって信頼できる人物に変えられていたのです。この二人のことを見るだけでも、私たちは神のすばらしいみわざを見ます。あなたが神によって変えられることを願い、神によって変えられるなら、間違いなくあなたは神に信頼される者になります。私たちは失敗します。しかし、私たちがそれを悔い改めてまた主に従って行くなら、神は私たちを変え続けてくださるのです。今日、生きているということはまだチャンスがあるということです。

 この二人(テキコとオネシモ)を派遣する目的をここでパウロは教えています。パウロたちの様子を知らせるためだとあります。8節を見ると「彼によって心に励ましを受けるため」だとあり、読者たちの心が、コロサイの人たちの心が励まされるためです。パウロたちのことを心配していたコロサイの兄弟姉妹たち、近隣の人たちが、神がパウロたちを通してどのようなことを為してくださっているのか、その報告を聞くことによって励まされるのです。だから、パウロはこの二人を彼らのところに送ろうとしたのです。彼らはこのコロサイ人への手紙を携えて出て行くのです。証が大きな力があるというのはこういうことです。いろいろな集会で、神はこのようなことをしてくださっていると、そのことを聞くだけでも私たちは励ましをいただきます。神は完全なことを為してくださると希望を持ちます。ですから、私たちは証し合うことが必要であり、もし、そのようなことが為されていなければ、皆さんの交わりにおいて、主がどのようなことを為してくださったのか、それを証することです。よく「証」って何ですか?と聞かれますが、神がどんなにすばらしいことを私にしてくださったのか、それをお話しするのが証です。あなたのことではありません。あなたのうちに為してくださった神のすばらしいみわざを語ることです。そうして私たちは神を崇めるのです。どうぞ、二人でも三人でも集まるなら、そのように神のすばらしさを証しながら励まし合ってください。パウロたちもそうしています。

10-14節にはパウロの同労者たちからのあいさつが記されています。10-11節を見てください。ここに三人の人物が出て来ます。「私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです。――この人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。――:11 ユストと呼ばれるイエスもよろしくと言っています。割礼を受けた人では、この人たちだけが、神の国のために働く私の同労者です。また、彼らは私を激励する者となってくれました。」

ここを見ると、11節に「割礼を受けた人では、この人たちだけが」とこの三人のことをこのように説明しています。ですから、アリスタルコ、マルコ、ユストの三人はユダヤ人だったのです。ユダヤ人でパウロとともに働いた人々です。

3.アリスタルコ

 「私といっしょに囚人となっている」と言っています。彼はパウロといっしょに投獄されていました。ある学者たちは、恐らくこの人物は自らパウロの助けとなるために進んで囚人となったと説明しています。そして、彼はマケドニア人でした。今のギリシャの方面です。彼が生まれたのはギリシャのテサロニケという町でユダヤ人の信者です。彼はパウロの第3次宣教旅行に同行してローマへ行っています。そして、恐らくその後投獄されるのでしょう。ピレモン書の24節を見ると「私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。」と、パウロとともに福音宣教を行なった同労者と記されています。少なくとも、これで分かることは彼はパウロと行動をともにしながら福音を伝えて行ったのです。そして、パウロが投獄された後は彼もパウロとともに歩むことを選択したのです。パウロにとってどんなにか励ましであったことでしょう。こんなに自分を犠牲にしてパウロに仕えようとした人物がパウロの周りにいたのです。

4.マルコ

 10節を見ると「この人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。」という説明があります。なぜ、マルコにだけこのような説明があるのでしょう?それを見る前にマルコはどういう人物だったのか、そのことを見ましょう。「バルナバのいとこであるマルコ」とあります。使徒の働きを見ると、彼はマリヤの子でありそのマリヤの兄弟の子がバルナバでした。バルナバはご存じのようにパウロと第1回宣教旅行をともにしました。キプロスの出身で非常に裕福なレビ人でした。このバルナバのいとこであったマルコ、ヨハネ・マルコと呼ばれたこの人は「マルコの福音書」を記した人物です。そして、第1回目の宣教旅行の後、パウロとこのマルコの間には問題が生じました。そのことは「使徒の働き」15章で教えています。15:36-41「幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」:37 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。:38 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。:39 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。:40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。:41 そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。」と、このようなことが記されています。みことばが教えるようにマルコの選択に対して、パウロはそれはおかしいと言い、マルコはその選択によってパウロの信頼を失ってしまうのです。パウロはマルコを信頼しなくなったのです。しかし、そのマルコが後には変えられて行きます。パウロが最後に書いたテモテ第2の手紙では、4:11「ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」と言っています。ですから、第1次宣教旅行が終わってから、どの時点でかは分かりませんが、マルコはパウロの信頼を回復したのです。パウロにとってマルコは役に立つ者となったのです。

ということで、マルコの項目の最初で、なぜマルコについてこの説明があるのかと言いましたが、その答えがここにあるのです。恐らく、多くの人々はマルコをパウロがどのように見ているのかを知っていたのでしょう。パウロ自身はマルコに対して「あなたは間違っている」と言いました。何が間違っていたのでしょう?主の働きをしながら他のことに同じように関心をもつというのは間違っていると言うのです。パウロはマルコに対して私たちが主の働きをするときは真剣でなければならないことを教えたかったのです。後にマルコはそのように変えられたのです。イエスはマタイの福音書の中でこのように言われました。6:21「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」、その後でイエスはこのように言われています。6:24「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と。マルコが学ばなければいけなかったこと、それは主に仕えることにおいていったい何が重大なのかということです。もし、私たちが主に仕えて行くなら主のみこころを優先するべきです。信仰生活においていつも出てくる問題は、みこころと自分の考えとの葛藤です。神はこうしなさいというけれど、自分はこうしたい、何とかそれができないものかと妥協しようとします。でも、妥協では罪悪感を覚えるので、私たちは何とかそれがみこころとなるように願うのです。こうして私たちは神のみこころに従うと言いながら、自分のやりたいことをやって行こうとするのです。そのような歩みを神は喜ばれません。私たちに神が望んでおられることは、私たちが神のみこころに従って行くことです。あなたは神から託された人生を神の助けによって生きているのです。キリストがいのちを捨てて私たちを買い取ってくださったから、私たちのものではなくなったのです。もともとはサタンのものでしたが、私たちは神によって贖われ、神のしもべとなって神のいのちを生かされているのです。マルコ自身が学ばなければいけないことはまた、私たち一人ひとりが学ばなければいけないレッスンです。みこころと自分の考えと。私たちにとって大切なことは、私たちの選択が神のみこころに沿ったものかどうかです。もし、皆さんが本当にみこころを求めようとしているなら、そのことが分かるはずです。みこころを求めるというのは、自分が望んでいることがみこころでなければ喜んで放棄するということも意味します。私たちはみこころと言いながら何とか自分のしたいことを神の許可をもらってやって行きたいのです。パウロは真剣に生きようとしました。なぜなら、神の与えてくださったいのちを、神のために生きることが私たちの人生ということを知っていたからです。私たちもそのことを学ばなければいけません。そして、マルコは学んだのです。だから、パウロにとって役に立つ人物へと変えられたのです。4:10「この人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。」とパウロの配慮があります。

5.ユストとよばれるイエス

 イエスとは一般的なユダヤ人の名前です。ユストについて詳しいことは教えていませんが、少なくとも私たちはこの11節の後半を見るとき、アリスタルコ、マルコと同様にユストも神の国のためにパウロとともに働く同労者、福音宣教をいっしょに行なったことを知ります。そして、この三人は「また、彼らは私を激励する者となってくれました。」。この「激励」ということばは新約聖書ではここにだけ出てくることばです。このギリシャ語から英語の鎮痛剤、鎮痛ということばが出ています。ということは、パウロのその宣教の働きにおいて非常な苦しみ、大変な痛み、悩みがたくさんありましたが、それらを共有することによって柔らかくしてくれたという意味です。神はそのような人を備えておられるのです。苦しみや辛さ、悲しみを慰める人物です。だれかが牧師の職業病は胃潰瘍だと言いました。いろいろな話を聞かされます。パウロ自身もあの人のこと、この人のことを覚えて祈っていました。どうなっているのかと考えると苦しくなってくる…。この後でも見ますが、いっしょに働いた者たちの中で神を忘れて出て行った者がいるのです。そのような中にあってパウロを慰めてくれる者を神は与えたおられるのです。これを聞いただけでも神のご配慮のすばらしさを知ります。神は私たちがいかに弱いかを知っておられるのです。あのパウロでさえも。だから、ふさわしい友、同労者を神は備えてくださるのです。

6.エパフラス

 12-14節を見ると、最初にエパフラスという名前が出て来ます。「12 あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。:13 私はあかしします。彼はあなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。」、コロサイ1:7で(私たちがすでに学んだところです)「これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。」と言われています。コロサイの人々はエパフラスから何を学んだのでしょう?キリストの福音です。つまり、エパフラスはコロサイの人々に福音のメッセージを語ったのです。そして、そのメッセージを人々は受け入れて来たのです。ですから、このコロサイの教会を彼が開拓をして、恐らく彼がこの教会の牧師だったのでしょう。この人物をパウロは本当に愛しました。そして、ともに福音宣教に励むのですが、4:12を見るとエパフラスは祈りの人であったことが分かります。しかも、彼はこの教会のクリスチャンたちの信仰の成長を祈っています。「あなたがたが完全な人となり」とありますが、「完全な人」とは十分に成長した人、成年の、おとなという意味です。コロサイの人たちが信仰のおとなとなるようにというのが彼の祈りだったのです。同時に、「神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう」と、コロサイの人たちが神のみこころに従順な人となって行くようにと祈りました。「十分に確信して」と、いったい何が神のみこころなのか、しっかり確信をもって、これが主のみこころであるとその確信をもって歩んで行くということです。これは間違いなく、すべての牧師、すべての教師、リーダーたちが祈っていることです。12節の最後に「祈りに励んでいます」とあるのは現在形です。ずっとエパフラスは祈り続けていたのです。しかも、ここで使われていることばは、時間ができたときにというのではなく、非常に努力しながら一生懸命祈っていたとパウロは証言するのです。

 そして、13節を見ると彼は「非常に苦労しています」とあります。コロサイの人々、ラオデキヤの人々、ヒエラポリスの人々のために非常に苦労している、これは非常に強い願いという意味をもったことばです。どれほど、エパフラスがそのことを願っていたのか、彼らのことが常に心にあって、そのために彼は最善を為そうとしていたと、そのことを私たちはここで見るのです。

7.ルカ

 14節「愛する医者ルカ、」、彼は医者であり、そして、「ルカの福音書」と「使徒の働き」を書いた人物であり、ピレモン書の24節を見ると「私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。」と、彼はパウロたちとともに伝道者であったこと、そして、彼はパウロの最後にも立ち会っていたことをⅡテモテ4:11で「ルカだけは私とともにおります。」と教えてくれます。パウロが非常に愛した医者でした。同時に、キリストの福音を伝える熱心な伝道者でした。

8.デマス

 14節「それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。」とあります。ピレモン書24にも彼の名前が出ています。しかし、パウロが最後に記したⅡテモテ4:10では「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。」と記されています。デマスは今の世を愛して私を捨ててしまったと、最後に悲しいことをパウロは記しています。同労者の中にこのような人物がいたのです。現実は、悲しいことにこのようなことはどこでも起こります。一生懸命主に仕えていた人物が離れてしまう…。ヨハネの手紙を見ると、ヨハネ自身が懸念しています。Ⅰヨハネ2:19「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。」と。私たちには分からないことです。デマスはもしかすると、パウロが投獄されているローマにやって来て、ローマの繁栄を見て、その物質的な繁栄を見て、心奪われて主から離れていったのかもしれません。確かに、私たちの周りには様々な誘惑があって、私たちを神から引き離すものは山ほどあります。だから、私たちはお互いのために祈り合うこと、励まし合うことが必要なのです。現実にこのような悲しいことがパウロの生涯にも起こっていたのです。どれほどパウロの心を痛めたことでしょう?

 これが今見てきた8人ですが、最後に見たエパフラス、ルカ、デマスは異邦人です。14節まで同労者たちのあいさつをパウロは伝えたのですが、15-17節にはパウロ自身からのあいさつが出て来ます。「どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。:16 この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回ってくる手紙を読んでください。」、この当時は建物よりも、それぞれの家で礼拝がもたれていました。紀元200年頃まで、家に集まって礼拝をもっていたのが一般的でした。家以外の建物で集まるようになったのは3世紀以降と言われています。そして、16節にあるように「ラオデキヤから回ってくる手紙」と、パウロが願ったことは、今あなたがたが読んでいるコロサイ人への手紙をラオデキヤの人たちにも読ませてあげなさい、また、ラオデキヤから回ってくる手紙があるからそれを読みなさいということです。この手紙がどれかはよく分かっていません。有名な説はこれは「エペソ人への手紙」ではないかと言われています。なぜなら、古い写本には「エペソ人への手紙」と記されていないものがあるからです。そして、ラオデキヤから回ってくる手紙とはもう失われてしまったという説もあります。いずれにせよ、そのような手紙をパウロは記したのです。それは霊感を受けて書かれたものではなかったのです。もし、失われた手紙とするなら…。なぜなら、神が霊感をもって書いたものを神は失うはずはないからです。いずれにせよ、ここで言っていることはそのような手紙を巡回して皆で読みなさいということです。

17節を見てください。アルキポに対するパウロのメッセージです。「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。」と言ってください。」。ピレモン書の2節では「…私たちの戦友アルキポ、」と書かれています。パウロとともにこの戦いに臨んでいる者です。同じ目的をもって働いている者です。恐らく、パウロと同じように宣教師であったか、牧師であったのかは分かりませんが、そういう働きに携わっている人物です。このアルキポはピレモンの息子です。彼の母親はアピヤです。アルキポはラオデキヤ、またコロサイの教会において牧師、宣教師という働きをしていた人物です。エパフラスが留守をしている間に彼がこの教会を導いていたのかもしれません。そのようにカルビンは推測します。その人物に対して与えたパウロのメッセージは「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。」です。この

「注意して」というのは、用心して、警戒しながらやりなさいというのです。それは私たちがもうコロサイ人への手紙で学んできたように、いろいろな異端が入り込んできて、イエスだけでは不十分、聖書だけでは不十分だから、特別な体験、経験が必要だと教え始めたからです。ですから、パウロはアルキポに対して、注意して用心しながら神からいただいたこのみことばをしっかり伝えて行くという働きを為して行きなさいということを言うのです。「果たすように」ということば、これも「完成するように」という意味で、現在形で記されている理由はこの働きは彼が地上にいる間続く働きだからです。アルキポよ、主が召されるまで、主がよしというまでこの働きを継続して行きなさい、しっかり用心して、間違った教えが入って来ないようにして、あなたが主から与えられたこの群を導いて行くという働きを継続しなさいと言うのです。これは主から与えられた務めだから、主が命令されたことだから、しっかりやるようにと。

 そして、最後に18節「パウロが自筆であいさつを送ります。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。」と、このようなあいさつをもってこのコロサイ人への手紙を終えるのです。パウロを覚えることによって人々は励ましを受けるのです。パウロを通して為されている主のみわざを、そして、軟禁状態にあっても喜び、希望を失っていないこと、すべて主の御手のうちにあるという確信をもって歩み続けた、この私をいつも覚えて歩んでくださいと言います。イエスを信じておられる皆さん、私たちはこの手紙を終えるのですが、私たちもしっかりパウロがどのように生きたのかを覚えることです。大変な問題があっても、たとえ、それによって身の危険を招くようなことになっても、彼は神に希望をおいて、信頼をおいて生きました。私たちはどうでしょう?そして、いろいろな間違った教えが入ってくる中にあって、私たちはしっかり神のおことばに立たなければいけません。救いに関して、イエス・キリストを信じるだけで十分なのです。イエスだけで十分なのです。私たちの信仰の成長においても、歩みにおいても、この神がくださったみことば以外に必要なものはないのです。これで十分なのです。人々がどのように巧みに私たちに、特別な体験がいる、このようなものを受けなければいけない、こういうものを経験しなければいけないと言ったとしても、私たちが戻らなければいけないものは神のおことばであり、イエス・キリストです。イエス・キリストだけが至高の神であり、唯一の神であり、私たちに救いをもたらすことのできる救い主だからです。そのことを私たちが心から神に感謝しながら、このメッセージをしっかり妥協することなく伝え続けることです。これがパウロが私たちに教えてくれたことです。


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