06/11/26 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:機会を無駄にしない3
聖書箇所:コロサイ人への手紙 4章5-6節
新しく生まれ変わったクリスチャンたち、この地上にあってどのように生きて行くのか、そのことをこれまでパウロは私たちに具体的に教えてくれました。天国民にふさわしく新しい人生を歩んで行きなさいと、その生き方、生活をパウロは教えてくれたわけで、今日、私たちはその最後のところに入って行きます。4章に入って「祈り」についてパウロが教えたところを見てきました。「たゆみなく祈りなさい」と。そして、今日見るところは「外部の人に対して賢明にふるまい」です。この「たゆみなく祈る」ことと「賢明にふるまう」こと、私たちはこの二つの命令をこの中に見出します。最後にパウロはこの命令を読者たちに、クリスチャンたちに与えようとするのです。「外部の人に対して賢明にふるまい」なさいというのは「宣教」です。このすばらしいイエス・キリストのことを宣べ伝えなさいとパウロは言います。今日私たちは、パウロが最後に教える「宣教」について見て行きます。
☆宣教について
1.行ないによる宣教 5節
5節に「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」とあります。「外部の人」とは、ユダヤ人にとっては自分たち以外の人です。異邦人のことをそのように言います。ユダヤ人の教師ラビにとっては、このことばは他の宗教を信じている人々を指します。そして、今私たちがみことばを見るときこの表現は、まだイエス・キリストを信じていない人、このすばらしい神の救いにあずかっていない人を指していることは明らかです。たとえば、Ⅰテサロニケ4:12に「外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」とあり、パウロが言わんとしているのは明らかにイエスを信じていない人に対してということで、「外の人々」という表現を使っているのです。ですから、まずパウロが言うことは、クリスチャンたちが神との関係において、この群の中にあって、そして、家庭にあって、社会にあって、どのように生きて行くべきなのかということです。
1)賢明にふるまいなさい
この「ふるまう」ということばは、「周り」と「歩く」という二つのことばの合成語です。ですから、歩き回る、生活する、日を過ごすという意味で使われることばです。ですから、パウロがここで言っていることは、外部の人、すなわち、イエス・キリストをまだ信じていない人に対して、あなたたちは正しく生活しなさい、言い方を変えると、彼らに対して、行ないによって証をしなさいということです。このことは、聖書の中を見ると何度も神が教えていることです。行ないによる証です。たとえば、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)と言われています。つまり、クリスチャンはこの地上にあって良い働き、良い行ないをすることによって人々がそれを見て、私たちを誉めるのではなく、私たちのうちに働いて私たちを変え続けてくださっている神を誉めるようにと言います。また、ペテロも同じことを言っています。Ⅰペテロ2:12「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」。まだ、神を知らない人々の中にあってあなたがたは正しいことを行なって行きなさい、そうすることによって良き証が為されるのです。私たちが良い行ないを為して行くということは非常に大切なことだということは、長老の資格の中にも教えられています。Ⅰテモテ3:7「また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。」、これが長老の条件としてパウロがテモテに与えているのですが、言われていることは、教会に属していない人々、私たちのこの社会で私たちの周りの人たちにも評判が良くなければならないのです。あの人は信頼できる、あの人はどこか違うと、なぜなら、私たちはそれを学んできました。神は私たちを生まれ変わらせて新しく造り変えてくださったのです。だから、私たちは当然、今までとは違うし、神を知らない人たち、イエス・キリストの救いにまだあずかっていない人たちとは違うはずです。それは私たちが自分を自慢するためではありません。神がそのように私たちを変えて行ってくれるからです。ですから、私たちは当然、自分がどのように生きて行くのかという大きな責任があるのです。
また、妻たちに対するペテロの教え、Ⅰペテロ3:1-2に「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。:2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」とあります。あなたが神を恐れかしこみながら、神の前に清く正しく歩んでいるから、その生き方があなたが一生懸命説教するよりも力があると言うのです。つまり、宣教には、私たちのことばよりも私たちの行ないのほうに力があるのです。いくらでも私たちはいいことを言えますが、問題は私たちがどのように生きているかです。すばらしいことを語っていても、ある人は行ないによってそれをサポートするけれど、ある人は行ないによってそれを否定します。私たちがどんなに神はすばらしいと言っても、私たちがそのことを喜んでいなければ私たちの言っていることは嘘だと、皆見破ります。神には本当の喜びがあると言いながら喜びをもっていなければ、また、神は私たちの心を慰めてくれると言いながら心が乱れているならどうでしょう?神は本当の平安をくださるし、私たちを生まれ変わらせてくださって神の愛をもって人を愛することができる者になったと言いながら、私たちが人を愛していなかったらどうでしょう?クリスチャンである私たちはそのことをよく考えなければいけません。なぜなら、私自身がどこに行ってもよく聞くことは、私自身への戒めでもありますが、うちの親は偽善者だ、言っていることとやっていることが違うと…。そのようなことがあってはならないのです。つまり、私たちがどんなことを語るか、それも大切ですが、私たちがどのように日々を過ごすかということが大切だということです。
コロサイ4:5に戻って「外部の人に対して賢明にふるまい」、この「賢明にふるまい」というのは原語では「知恵によって」とか「知恵をもって」と教えています。知恵によって生きなさい、知恵をもって行動しなさいということです。つまり、私たちがこの社会にあって、イエス・キリストをまだ知らない人々に対してキリストのすばらしさを証して行くために知恵がいるのです。私たちが神からいただいた本当の喜びや希望を人々の前で明らかにして行くためには、神の力、神の助け、神の知恵が必要なのです。だから、パウロは「知恵によってふるまいなさい」「知恵によって行ないなさい」と記しているのです。そのことについては、パウロはもうすでにこのコロサイ1:9-10で教えています。「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」と、パウロはこのようなことを祈ったのです。コロサイの兄弟姉妹たちが知恵をもって生きて行くこと、知恵ある者として日々生活することを望んだのです。それはIQ、この世のたくさんの学問を身に付けることを言っているのではないことは明らかです。なぜなら、パウロがここで祈った内容を見ると、これは「主のみこころに関する知恵」であると言っています。パウロが望んだこと、パウロがクリスチャンに期待したことは、クリスチャンの信仰が成長して行くこと、つまり、神のみこころが何かをしっかり判断できるような信仰者として成長することです。ですから、おとなのクリスチャンは神のみこころが分かっているのです。何が神の前に喜ばれるのか、何が主にかなった歩みなのか、それは10節に出ていますが、そのことが判断できる人、それが信仰のおとななのです。霊的なクリスチャンというのは、神のみこころが何かを知っている人たちです。そのことを求めようとしている人たちです。この世の知恵ではないのです。そして、知恵ある者となるために必要なことは、私たちが知恵の源である神を知ることです。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7)とある通りです。
モーセはこのように祈っています。「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」と。モーセも神の助けが必要だったのです。神の前に「神さま、どうぞ教えてください。私はあなたの前に喜ばれること、正しいことを為し、みこころに従って行きたいから」と祈り続けなければならなかったのです。
2)機会を十分に生かして用いなさい
4:5に続いて「機会を十分に生かして用いなさい」とあります。神の助けをいただきながら、まだ、イエスのことを知らない人々に対して正しく歩んで行くようにと教えたパウロは、今度は機会を十分に生かすことが必要だと言います。このことばは「市場で物を買う」とか「市場で買い出す」という意味をもったことばです。市場で買い物をするときは、必要なものを買うためにその売り場で物を選びます。何もしないでは買い物ができません。だから、パウロが言うことは、私たちはまだイエスのことを知らない人たちにイエスのことを紹介し教えて行こうとするのですが、そのためにはあなたが何もしないで黙っていてはいけないということです。神にただ宣教の機会を与えてくださいと祈っているだけでは何も来ないのです。だから、私たちに必要なことは祈りながら出て行くことです。機会はいつまでもあるわけではないのです。後悔のないように、あの時にあの人にイエスのことを語っておけばよかった、折角チャンスがあったのにその機会を逃してしまったと。イエスはこのように言われました。ヨハネ9:4「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」と。つまり、いつまでもこのような機会があるわけではないということです。ですから、私たちが機会を与えられている今このときに、するべきことをしっかりしなければいけないのです。座っていてはいけないのです。
パウロがこの5節で私たちの教えようとしたことは、まだイエスを知らない人たちに対して、私たちがじっとしているのではなく、神が機会を与えてくださることを信じ、そのことを祈りながら、しなければならないことをしっかりしなさいということです。私たちはいろいろな人に接するので、その人たちに私たちは行ないをもってキリストを証しているのだから、自らの行ないをしっかり吟味して主の助けをいただきながら、正しく行動して行きなさいと。そこで私たちは考えなければいけません。あなた自身このようにしているかどうか、礼拝に来ることだけで満足しておられませんか?礼拝さえ来ておればとか、祈祷会に来ておれば、集会に出席しておれば、この奉仕をしておけばと。パウロがなぜ最後にこのようなことを言っているのか、なぜ宣教を言うのか?それは、そのために私たちは救われ、そのために生かされているからです。イエスが私たちにくださった大命令は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)であり、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)です。私たちはここにいて、何のために日々生かされているのか、それは主を証するためです。神があなたを救ったのはキリストの証をするためです。いろいろな奉仕もあるでしょうが、あなたがキリストの証人としてだれかに福音のメッセージを語っているかどうかです。私たちはこういう奉仕をしているから大丈夫と、それを口実にしてしまいがちですが、クリスチャンが原点に戻って、キリストが私に何を望んでいるのか、先の大命令、キリストを証して福音を伝え、救われた人々を導いて訓練して成長させる、弟子を作ることです。パウロはそれをしなさいと言っているのです。そのことを私たちが実践しているなら、パウロが言ったように、私たちの労苦は無駄ではないと言い切ることができるのです。Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と、私たちがそのように生きるなら、その生き方、その人生、その生活は主の前に決して無駄ではないというのです。無駄な人生とはそれをしない人生です。パウロはⅡテモテ4:2でこのように言っています。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」、どんなときでも神のみことばを伝え続けて行きなさいと、問題は私たちがそれを実践しているかどうかです。行ないによる宣教をパウロはこの5節で教えました。
2.ことばによる宣教 6節
パウロは続いて6節で「ことばによる宣教」を教えます。「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」と。
あなたがたのことばが、
(1)親切で:親切なことばを話すことは非常に大切なことです。箴言16:24に「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」とあります。とげのあることばより親切なことばのほうがずっと効果があるのです。この「親切」ということばは「愛らしさ、感じのよさ、優美さ、心地良さ」という意味があると、ギリシャ語の辞書では定義しています。というのは、この「親切な」というのは、恵みのうちに、恵みによってということで「恵み」ということばが使われています。日本語では「親切」と訳したのですが、原語では「恵み」、恵みにあふれたことばです。Ⅰペテロ2:21-23を見ると「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」とあります。イエスがどのようなことを語られたのか、悪に対して悪をもって応じることがなかったのです。イエスのおことばの一つ一つには罪がなかったのです。イエスが語られたことばのすべてが神に喜ばれるものでした。ことばで失敗しない人はいないでしょう。
ことばに関して聖書は私たちにどのように教えているでしょう?あなたのことばは、(a)優しくあるように:伝道者の書10:12に「知恵ある者が口にすることばは優しく、愚かな者のくちびるはその身を滅ぼす。」とあります。同じことを言っていても言い方によって違います。聞いた後不快になるということを私たちは作り出していないでしょうか?(b)適切なことば:箴言15:23「良い返事をする人には喜びがあり、時宜にかなったことばは、いかにも麗しい。」、適切なことばを適切なときに話しているかどうかです。言わなくてもよいときに言ってしまったり、言わなくてもよいことを言ってしまったりしていませんか?(c)沈黙:私たちは何か話さなければと思って失敗を犯してしまいますが、時には黙っていることが必要なのです。箴言はそのことを教えています。17:27「自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。」と、これの極端な例は言うべきときにも何も言わないことです。日本人は、控えめでなければならない、皆が発言するときも黙っていなければと、これは問題です。言うべきときには言うべきです。しかし、言うべきでないときに言うべきでないことを言っていると問題なのです。「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。」と同じ箴言17:28にあります。また、ソロモンは箴言10:19で「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。」と言っています。私たちは時には黙っていることです。12:18にも「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。」とあります。私たちが口にすることば、その言い方はいろいろあるでしょう。しかし、優しくといっても、間違っていることを黙っていることが優しさではありません。間違っていることがあれば愛をもって言うことも必要です。(d)愛、思いやり、戒めのことば:Ⅰテサロニケ5:14「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」とこのようにパウロは教えています。ですから、私たちはことばによって人々を励ましたり、時には人々を戒め助けるのです。(e)有益なことば:聞いている人の徳を高めることばを話しなさいと言います。そのことはエペソ4:29でパウロが教えています。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」と、あなたが口を開くならそれは、聞いている人々の信仰を養うような、信仰を励ますような、その人たちに恵みを与えるようなものでなければならないと言うのです。このようにみことばは私たちのことばについて大切なことをたくさん教えてくれています。
もう一度「あなたがたのことばが、いつも親切で」を見てください。「恵みによって」ということを説明しました。ということは、このような神が喜んでくださることばを私たちが口にするためには、私たちの心が神の恵みによって満たされていることが必要なのです。なぜなら、イエスが何度も教えられたように「…心に満ちていることを口が話すのです。」(マタイ12:34)、マタイ15:18では「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。」とあり、私たちの心がしっかり恵みで満たされていなければ、心が神の前に恐れを抱いていなければ、心が神に対する感謝に溢れていなければ、心が神の前に正しくなければ、どんなにことばを制御しようとしても無理です。問題は心です。パウロはことばに関して「…いつも親切で」あるようにと言いました。いつもあなたの心が恵みに満たされているように、そうすれば、あなたのことばも恵みに溢れたものになると。
(2)塩味のきいた:「塩」の代表的な役割は、味を付けたり腐敗を防止することです。塩によって味の効いたものにしなさい、味を効かせなさいと言います。ということは、私たちのことばが塩が為すような働きをすることが必要だというのです。それは私たちが語ることばが、ちょうど塩が味付けをするように、塩が腐敗を防ぐように、(a)この世的な腐ったことばを口にしてはならない。コロサイ3:8ですでに学びました。「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」と、こういうことばを口にしてはならない、世的な話から離れなさいと言います。同時に、塩味の効いたもの、(b)真実を語ること。コロサイ3:9を見てください。「互いに偽りを言ってはいけません。…」とあり、エペソ4:25には
「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」とあります。そして、願わくば、私たちの語ることばが(c)人々を神の方に心を向けるきっかけとなること。渇きを与えるようなきっかけとなることです。Ⅰペテロ3:15でペテロが教えるように「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」と、私たちの話すことばを通してそれを聞いている人々が、なぜ、あなたには希望があるのかと質問してくるなら、そのときに説明してあげなさいと言うのです。私たちの会話は人々の前に影響を与えているのです。
その結果、4:6b「そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」と、なぜ、パウロはこのように言ったのでしょう?この人は神のみこころに従って生きている人だからです。神のみこころに沿って歩んでいるから、その人の行ないもその人のことばも主の前に正しいのです。そういう人の生き様は神が導いておられるから、神が話すべきときに話すべきことばを与えてくれるのです。そのことは、マタイ10:19-20にも「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。:20 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」とあり、心配しなくてもいい、あなたのうちにいる聖霊が話してくれる、話すべきことを与えてくれると言います。
さて、私たちは今、行ないによってことばによってキリストのことを伝えて行くこと、宣教についてを見てきました。それでは、どうすれば私たちはこのような証人になることが出来るのでしょう?簡単に説明します。もうすでに、私たちは学んできたことです。
○このような働き人になるために必要なこととは?
(1)みことばを学ぶこと
パウロはコロサイ3:16で「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、…」と言っています。私たちがもうすでに学んだことです。なぜなら、聖書のみことばには神のみこころが記されています。あなたが神のみこころを知って歩んで行くためには、みこころが記されている聖書を知らなくて、どのように歩んで行けるでしょう?神はみことばを通してあなたに語るのです。ですから、みことばを学ばなければみこころを知ることはできないのです。あなたの行ない、ことばが神の前に正しくあるためには、神のみこころである神のおことばに戻ることです。
(2)祈ること
すでに見てきたように「たゆみなく祈る」ことです。いつも主の臨在を覚え、いつも主の助けを仰ぎながら、そして、神に依存して生きて行くことです。
(3)実行すること、よく考えること
パウロはエペソ人への手紙5章の中で「光の子どもらしく歩みなさい」と教えた後、このように言います。「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」(5:10)と。同じ5:17では
「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」と言っています。つまり、私たちに必要なことは、みことばをしっかり学んで神のみこころを知ることであり、神の前に祈りをもって神の助けを求め続けることですが、私たちは考えなければいけません。神さま、これはあなたの前に正しいことでしょうか?と。私たちはみことばを見ます、祈ります、考えます。神さま、これはあなたに喜ばれることでしょうか?あなたの前にふさわしいことでしょうか?正しいことでしょうか?と、そのように考えながら選択をして行くのです。
(4)人のアドバイスに耳を傾けること
信頼できる信仰者に尋ねて教えてもらうことです。私の態度はどう?私の語っていることばは?と、自らを吟味してもらうことです。それは、私たち一人ひとりが神に喜ばれる者になって行きたいからです。私たちの行ない、ことばをもって主を証して行きたいからです。そのような願いをもっている兄弟姉妹と助け合いながら、このような歩みをお互いができるように歩んで行くのです。
パウロはこの3章から私たちに信仰者としてどのように生きて行くべきなのか、その信仰の実践の学びをこのようなことばをもって終えるのです。これは3:17にある「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」ということを繰り返したのです。まさに、同じことを言っています。ことばも行ないも主イエスの名によって為しなさいと。もうすでに私たちが学んだことですが、それは主が語られるように語り、主がなされるように行ないなさいということです。そのように生きて行きなさい、そのときに神の栄光が現わされるのだからと言います。
パウロはこの手紙の最後で、私たちクリスチャンに与えられた大命令の実践を促すのです。最後に皆さんに質問しなければいけないことは、あなたはこの大命令に対して、それを忠実に守り行なっておられますか?ということです。マタイ25章のところで、主人が自分の財産をしもべたちに預けて旅に出た記事があります。5タラント、2タラント、1タラントを預けました。主人が帰ってきたとき、ある者はもうけを得ていたので誉められましたが、1タラント預かった者はそれを隠して置いた、あるいは主人が期待していたことをしなかったために、ほうびのことばを得ることがなかったということ、25:14から書かれています。そこで、主人が言ったことを思い出してください。5タラント、2タラントを預かった者には「良い忠実なしもべだ」と言われました。この「忠実なしもべ」というのは「信頼できるしもべ」ということです。なぜなら、私が言ったことをあなたは守ったからと言われます。皆さん、これがクリスチャンです。パウロはⅠコリント4:2で「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。」と言っています。神が私たちに望んでおられることは、私たちが忠実に神に従って行くことです。1タラント預かってそれを隠していたしもべに対して主人は「悪いなまけ者のしもべだ」、役に立たないしもべだと言われました。なぜ、このしもべはこのような行動を取ったのでしょう?みことばを見ると、彼は主人のことを誤解しています。25:24に「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。」とある通り、あなたはひどい方だと言います。つまり、彼がそのような行動に至ったのは、彼は自分の主人のことが分かっていなかったからです。もし、あなたが主に従って行くことについて何の思いもなければ、あなた自身に問いかけて見なければいけないのは、私は私の主人を知っているかどうかです。クリスチャンでなければそのような思いは出てきません。クリスチャンでなければ神に忠実に従って行こうという思いなど出て来ません。ですから、あなたは自分はクリスチャンだと思っていてもそのような思いがなければ、もしかすると、このしもべと同じように主人のことを知らないのかもしれません。つまり、救われていない可能性があるのです。なぜなら、主を知っている者はその主人のみこころに従って行こうとするからです。その主人のみこころとは何か?「あなたのことばをもって、あなたの行ないをもってわたしを証しなさい」ということです。あなたはどうでしょう?ソロモンは箴言28:20で「忠実な人は多くの祝福を得る」と言っています。神はそのことを望んでおられます。どうぞ、クリスチャンの皆さん、今からもう一度、あなたの使命を思い出して、何のために救われ何のために生かされているのかを思い、忠実なしもべ、信頼できるしもべとして歩み出してください。あなたに神が望んでおられることは「出て行ってすべての人々を弟子としなさい」です。あなたの行ないをもって、あなたのことばをもって…。そして、神はそれを助けてくださるのです。