礼拝メッセージ要約

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2006/11/19 礼拝メッセージ

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Messenger: 近藤修司
Passage: コロサイ4:3-4
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06/11/19  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

主  題:機会を無駄にしない2

聖書箇所:コロサイ人への手紙 4章2-6節

 私たちは「祈り」について学んでいます。前回、私たちは「祈りは神への礼拝である」ということを学びました。また、なぜ、私たちがたゆみなく祈り続けて行くことが必要なのか、そのことについても学びました。それは私たちが常に神の助けを必要としているからです。新しくされた者として、それにふさわしい歩みを継続するためには神の助けが必要です。だから、私たちは祈り続けて行くことが必要なのです。そのことをパウロはよく知っています。だから、彼は何度も「絶えず祈りに励みなさい」とか「絶えず祈りなさい」と命じているのです。ノルウェー・オスロの神学校の教授であり、説教者であり、教会の指導者でもあったハレスビーはこのように言っています。「私たちのクリスチャン生活をこれほど幸せにするものはありません。主なる神との静かな切れ目のない交わりほどたましいにとっての祝福はありません。主なる神が近くにおられるという感情が私たちのたましいを満たすとき、それは私たちが普通感じるところの平安や喜び、内的満足や確信などのすべてに優ります。こうして、主なる神との交わりを分かち合うとき、逆境も悲しみもそのとげを失います。」、また、「平和で勝利に満ち、喜びに溢れたクリスチャン生活は、日々新しくなるという最も深い奥義を学んだ人だけのものです。すなわち、彼らは絶えず神に立ち返り、永遠の御国から新しい生命力を得ているのです。私たち多くの者のクリスチャン生活が余りにも弱いのは、祈りのこの部分が正常ではないからです。祈りはたましいの霊的呼吸です。私たちのからだが絶えず生気を保つのは呼吸をしているからです。私たちは一日に3度、ときには4度食事をします。しかし、呼吸は昼も夜も止むことがありません。朝に少し呼吸をして昼までもたせることができないように、朝少し祈って昼までもたせることはできません。ですから、パウロは絶えず祈りなさいと勧めているのです。ですから、一日中、口に出すと出さないとを問わず、あなたの祈りを続けなければなりません。」と。まさに、私たちが学んできた通りのことを彼はこのように教えるのです。祈りは私たちにとって大切なものです。その大切さを知っていたパウロはコロサイの兄弟姉妹のために「とりなしの祈り」を続けていました。皆さんもお気付きのように、このパウロ書簡を見ると、パウロは初めのところでいつも「あなたがたのことを祈っています」と書き始めています。コロサイ人への手紙でもそうでした。1:3で「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。」と言っています。パウロ自身がこのコロサイの兄弟姉妹のために祈っていたことは明白です。そのパウロが今度は「私のためにも祈ってください」とコロサイの兄弟姉妹に祈りを求めるのです。今日、私たちが見て行くのは「とりなしの祈り」ということです。

☆とりなしの祈り

 とりなしの祈りとは人のために祈ることです。これがどれほど大切かというのは、イエスご自身が感謝なことに、私たちイエス・キリストを信じる者のために、とりなしの祈りをしてくださっているのです。ヘブル7:25ではこう言っています。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」と。また、ローマ8:34でもこう言います。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」と、ですから、みことばが私たちに教えていることは、イエスがイエス・キリストを信じるクリスチャンたちのために、今も生きて祈り続けてくださっている、とりなしをし続けてくださっているということです。それだけでも私たちは励まされませんか?私たちはだれかが祈ってくれていると知ることはうれしいものです。まして、イエスが私のために祈ってくれているというのはどれほど大きな励ましでしょう?みことばは実は、別の方もあなたのために祈っていると教えています。そのことを見る前に、「私は祈りが苦手です」という方がたくさんおられるでしょう?私はそのようによく聞きます。人前でどのように祈ったらいいのか分からない、だから、余り祈祷会には行きたくないと…。私も祈祷会で祈りの前になるとよくトイレに逃げました。あのような静寂の中でどのように祈るのでしょう?シーンとして皆聞いています。特に、祈りには難しいことばが出て来ます。教会に来るまで「みこころ」ということばなど聞いたこともありませんでした。だから、人前で祈るときはどのように祈ればいいのか分からない、ことばが出てこないというのはとてもよく分かります。祈ろうとしてもどのように言えばいいのか分からないと。もし、そのような人がおられるならすばらしい知らせがあります。それは、そのことを神もご存じだと言います。そして、そのようなあなたのために、実は聖霊なる神もとりなしをしていると言います。

ローマ8:26-27でパウロはこのように教えています。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」。私たちはどのように祈るのが適切なのかその内容が分からない、だから弱いとみことばは教えるのです。その人のためにとりなしをしたい、その人のことが重荷となって自分に与えられている、でも、どのように祈ったらいいのか分からない、神さま、どうぞこの病気を癒してください、どうぞ、神さまあわれみを与えてくださいと、抽象的なことは祈れるのです。でも、どのようにことばに出したらいいのか分からない、しかし、心配しなくてもいい、イエスを信じているあなたのうちに住んでいる聖霊なる神が、あなたに代わってとりなしの祈りをささげてくれていると言うのです。27節にある通りです。私たちには分からないけれど、聖霊なる神はどのように祈るべきか、その内容をご存じだと言います。神のみこころに沿って正しく祈るのです。ですから、うまくことばが出てこないから、うまく表現できないからと心配しなくても良い、神はあなたの心をご存じで聖霊なる神はあなたに代わってとりなしをしてくれると。すごい配慮です。神はここまで私たちの弱さを分かっておられるのです。だから、私たちはどのように祈ったらいいか分からないから祈るのを止めようではなく、こんなにすばらしい配慮を神がしてくださっているから、神が命じておられるように祈り続けて行こうと、そのような信仰者になりたいものです。そのことは神ご自身があなたに対して望んでおられることです。

○パウロが人々に祈り求めたこと

 さて、コロサイ人への手紙に戻って、とりなしの祈りを求めたパウロは4:3で「同時に、私たちのた

めにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。」

と言っています。ここでパウロは二つの祈祷課題を上げています。パウロはどのようなことを人々に祈り求めようとしたのでしょう?なぜ、それが大切かと言うと、実は、この祈りの課題というのは、今の私たちにも、そして、今の教会にも最も必要な課題であることに間違いないからです。今、私たちはこういう祈りをしなければならないのです。パウロが上げたこの祈りの課題は今まさに私たちの、そして教会の祈祷課題だからです。お互いのためにどのようなことを祈り合って行くべきなのか、そのことを知るためにもパウロがここで教える二つの祈祷題をしっかり見ましょう。

宣教の機会のために  3節

 3節に「神がみことばのために門を開いてくださって」とあります。パウロが望んだことは、このみことばのために神が門を開いてくださること、つまり、機会が与えられることを祈ってほしいということです。パウロ自身、どんなときでも神はその時その時に伝道の機会をくださるということを知っています。ですから、彼は如何なるときでもその機会を探るのです。たとえば、パウロがエペソの町に行ったとき、彼はそこに2年間滞在するのですが、その機会を用いて彼は多くの人々にイエス・キリストのことを伝えました。使徒19:10に「…アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」とあります。ですから、パウロは2年間を無駄にしなかった、時間を有効に使って人々にイエス・キリストのことを伝えたのです。彼はこのエペソの町に滞在するときに、このような確信を得ていました。「というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、…」(Ⅰコリント16:9)、だから、私はここにいるのだ、神が私にたくさんのチャンスをくれているから、私はここに留まってすばらしいイエスのことを伝えるのだと言うのです。ですから、今私たちが教えられることは、パウロはどこにあろうと神は伝道の機会をくださるし、その機会を決して無駄にしてはならない、だから、私にはその知恵が必要だとそれを求めていることです。パウロがどんな所でもどんなときにでも、常にイエス・キリストの福音を語り続けていたことをいくつか振り返って見ましょう。

 パウロはアジアからヨーロッパに移って来ました。トロアスからマケドニア地方に移動して行きます。現在のギリシヤです。そこで最初に、占いの霊につかれた女奴隷の主人がパウロを訴えるのです。なぜなら、パウロはこの女奴隷から悪霊を追い出したからです。この主人は女奴隷から占いによって儲けを得ていたのです。その霊が追い出されて儲ける見込みがなくなったのでパウロを訴えたのです。長官はパウロを捕まえむち打ち、牢に閉じ込めるのです。使徒の働き16章に出てくる記事です。その時に、パウロとシラスは主を賛美していました。すると、16:25に「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」とあり、囚人たちが聞き入っていたこと、

そして、大きな地震が起こって牢の扉が開いてしまって、看守は囚人が皆逃げしまったと思い、責任をとって自分は自害しなければいけないとしたとき、パウロは「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と言います。囚人たちはなぜ逃げなかったのでしょう?みことばが教えるように、囚人たちはパウロの口から語られる神のことばを聞いていたからです。それを聞いていたのは囚人たちだけではありません。看守もそうでした。だから、看守は「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言うのです。投獄されているときにパウロたちはキリストのことを伝えたのです。囚人たちが逃げなかったのは牢から自由にされることより、もっと大切な自由を得たからです。罪からの自由です。パウロは牢の中で愚痴をこぼしていたのではない、その中でもそこが伝道の場所だと思ってその機会を用いたのです。

パウロがローマに引いて行かれたとき、彼は軟禁状態に置かれましたが、自分で家を借りることができました。使徒28:30-31に「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、」とあります。ある一定の自由はあったのですが、そこから外に出ることはできなかった、彼は2年間そのような状態にありました。その間、パウロは行動範囲は限られていたにも拘わらず、そこに機会を見出そうとしました。だから、31節にあるように「 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」のです。28:23-24には「そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。」と、パウロは朝から晩まで時間を使ってキリストのことを宣べ伝え続けたのです。このときの様子がピリピ人への手紙1章に記されています。「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。

:13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、」と、こうして軟禁状態にあることが実は福音を前進させることになった、なぜなら、パウロは軟禁されていることによって、そこにいた親衛隊の全員と彼を監視していた人たちの全員にこのキリストのことが伝えられたと言うのです。ピリピ1:12-13に記されています。だから、パウロは第1回目のローマでの投獄のときにあっても、彼はその時間を無駄にしなかったのです。置かれているその所が福音を語るチャンスだとして語るのです。そして、この2年間にパウロは四つの手紙を書いています。獄中書簡と言われているものです。それは、エペソ、ピリピ、ピレモン、コロサイの手紙です。パウロは獄中で自由がないと嘆くことなどなく、神がくださった機会を無駄にしてはいないのです。だから、パウロはエペソ6:20で「私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」と、どんなときでも私たちがしたいことは一つ、キリストの福音を伝えて行きたい、だから、大胆に語れるように私のために祈ってほしいと言うのです。牢屋の扉を閉ざしてそこに人を閉じ込めることができるのは兵士である人間です。しかし、宣教の扉を開かれるのは神です。パウロは閉ざされた環境の中にいたのですが、決して宣教の扉が閉ざされたとは思わなかったのです。必ず、その中にあっても宣教の機会が与えられることを信じているのです。

私もよく聞きます、病院に入院しているときにイエスさまのことを伝えることができましたと、そういう証を聞きます。考えてください、あなたが入院しなければその人たちは神のことを聞くことが出来なかったのです。入院したその機会を無駄にしなかった、神さまどうぞ、あなたのことを伝えることができるようにと、そのように探ると機会はたくさんあります。私も子どもの学校のPTAの役をしているといろいろな人と接することができますし、住んでいるところで理事をしているといろいろな人と知り合います。あるときに、何人かの男性に言われました、建物の修復工事の話し合いよりこの人(私)の話のほうが面白いと。つまり、私たちには機会を探ればいくらでもあるのです。私たちにとって気をつけなければいけないこと、また、私たちが目を開かなければいけないことは、神が機会をくださっているのに、みすみすその機会を逃してしまっていることです。パウロが祈ったこと、また、パウロが祈りを求めたことは、どんなときでも福音のメッセージを語る機会であるから、私はその機会を用いて語って行きたい、だから、その機会のために祈ってほしいというのです。皆さん、こういう祈りこそ今私たちに必要なのです。私たちは後地上に何年いるでしょう?何ヶ月?何日?分からないけれど今日が最後かもしれないと思い、私たちはこの日を有効に使うことが必要です。今日しかないとして今日やるべきことをしっかりやることです。あなたは機会を無駄にしていませんか?イエスのことを伝えておられますか?この1年間を振り返って、あなたはどんな機会を得ましたか?どんな機会を求めましたか?

パウロが最初に祈りの課題として挙げたことは「宣教の機会のために祈ってほしい」でした。二つ目に挙げた課題は、

宣教の働きのために  3-4節

 宣教の機会だけでなく、働きのためにも祈ってほしいとパウロは求めています。このコロサイ4:3-4でパウロは宣教の働きに関して二つのことを言っています。一つ目は3節の後半「…私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。」と、つまり、パウロは「正しいメッセージを語れるように」、メッセージの内容が正しいものであるように、間違ったことを語らないようにと求めました。もう一つは、4節「また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」と、二つ目に彼が求めたことは「正しく語ること」です。この二つのことをパウロは宣教の働きについて求めているのです。

1)正しいメッセージを語れるように  3b節

 同じ時期に書かれたエペソ6:20には「…福音のために大使の役を果たしています。…」とあります。パウロがこの福音宣教のことをどのように考えていたか想像できます。私には大切な務めが与えられていると、パウロはそのことをしっかり理解していたために、当然、私はこのメッセージを正しく伝えなければいけないと思ったのです。私たちも大切な用をことづかったときは忘れないようにまた、正しく伝えるためにメモします。パウロは神から託されたメッセージがどれほど大切かをよく知っていました。ですから、彼はそれを正しく語ろうとしたのです。そのメッセージは「キリストの奥義を語る」ことです。救いのメッセージのことです。もうすでに私たちはこのことをコロサイ1:26-28で学んできました。「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」と、パウロは異端が持ち込んできた神秘的なことを言いたいのではありません。奥義とは、旧約の時代、その当時の人々にはまだ知らされていなかったことが、新約の時代にすべての信者に明らかにされたこと、そのすばらしい神の恵み、真理を指しています。旧約の人々には隠されていたからそれが奥義なのです。どのようなことが奥義なのか、私たちはすでに学びましたが、簡単に復習すると、キリストの再臨、復活はよく分かっていませんでした。また、キリスト自身についても、コロサイ2:2に「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」とある通り、キリスト自身が奥義だと言います。つまり、パウロはイエスがどういうお方であるのかを旧約の人たちはよく分からなかった、奥義だと言い、けれども、今私たちはこのキリストがどういうお方なのか、この奥義が私たちの前に明らかにされたと言うのです。つまり、イエス・キリストは神であり、イエス・キリストは神の知恵である、人となって私たちのところに来てくださった神だと、パウロは教えるのです。

 そして、この奥義に関してもう一つ、それは異邦人とイスラエル、ユダヤ人がキリストにあって一つにされるということです。イエス・キリストを信じることによって、人種に関係なく国籍に関係なく、私たちは救いをいただくということです。そして、皆が兄弟姉妹になるということです。それが「奥義」だと私たちは学んできました。そして、パウロは再び4章でこの「キリストの奥義を語れるように」と言います。エペソ6:19では「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」と言っています。コロサイでは「キリストの奥義」と言い、エペソでは「福音の奥義」と言いました。違うことを言っているのではありません。最初に言ったように、パウロはこのキリストのすばらしい救いのメッセージを語って行きたい、それを正しく語れるように、そのメッセージを間違わないように祈ってほしいと言うのです。彼自身が語ったこの福音のメッセージはどのようなメッセージだったのか、簡単に見てみましょう。使徒の働き20:21を見てください。これが神が私たちに与えてくださったメッセージであり、これがパウロが語った福音のメッセージ、キリストの奥義のメッセージです。「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」、ここには二つの要素があります。一つは「悔い改め」であり、もう一つは「信仰」でした。この二つを彼はしっかり語り続けたのです。

 「悔い改める」とは、考えを変える、向きを変えるとよく言います。でも、それだけではありません。この「悔い改める」というのは新約聖書の中では、神の前における心の変化です。心が変わるということです。そのためには、私たちの知性、感情、意志が当然そこに含まれるのです。なぜなら、それがなければうわべだけのことです。何かすると言って、それが口だけでなく本当にそれを実践するときは、心から「やります」と言います。ですから「悔い改め」は、自分の罪が示されたときに「これは悪い」「これはひどい」というだけでは悔い改めではありません。「私はこの罪から離れよう、こういう罪から縁を切ろう」というのです。だから、行ないに変化が生まれて来るのです。そこには心が含まれているからです。神が喜ばれないことから離れよう、そこから回れ右をしようと。この「悔い改め」と「信仰」は切っても切り離すことができないのです。なぜなら、この二つは「回心」という救いのことを言っているからです。どういうことか説明します。「信仰」は罪に対して心を変えるだけでなく、神に対して心を向けることです。悔い改めは自分が神に逆らっていたこれまでの間違った罪の生き方を止めよう、それに背を向けよう、そして、神の方を向いて、神を受け入れ従って行こうとするのです。ですから、罪から離れて真の神の方に向いて神に従って行こうとするのです。イエスだけが私の罪を赦してくれる唯一の救い主であると心から信じる、神の方を向こうとする、この真の神を信じて行こうとする、これが「信仰」です。ですから、悔い改めと信仰は救いという一つの大きなものに含まれる要素なのです。コインに裏と表があるように、悔い改めと信仰があって回心、救いなのです。悔い改めは後悔ではありません。神に逆らい続けて来た、神を受け入れない罪を犯して来た、私は神の前にさばかれて当然の罪人だと、そのことに気付いて、その生き方を止めよう、今日からこの真の神を信じて従って行こう、このイエスだけが私の罪を完全に永遠に赦してくださる救い主である、私はそれを信じますと、これが救いです。このメッセージをパウロは語ったのです。だから、パウロの語ったメッセージは必ず悔い改めがあるし信仰が含まれているのです。使徒20:24に「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」とあります。パウロはここで、悔い改めと信仰というメッセージはまさにこれは「神の恵みの福音」であると言っているのです。なぜなら、「恵み」というのは救われる価値の全くない罪人の罪を神は赦して、イエス・キリストの義を信じる者に一方的に与えてくださる、そのことです。神が信じる者に対して罪の完全な赦しを与えてくださる、そして、神のきよさ、義を与えてくださる、これが「恵み」の意味です。そして、彼が教えることは、この恵みをいただくために、この救いにあずかるために私たちが語らなければならないメッセージ、それは悔い改めと信仰であり、そして、あなたが罪から救われたこと、それは神が一方的にあなたを恵みによって救ってくださったということです。ですから、私たちは神がみことばを通して教えてくださる真理を曲げてはならないのです。

2)メッセージを正しく語れるように  4節

 4節でパウロは「また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」

と言っています。正しく語ることについてパウロは二つのことを言いたかったようです。

(1)はっきり語る=明確に語ることです。人々に明らかにすることです。訳の分からない福音では聞いている者も分かりません。だから、パウロはこの救いのメッセージを明確に語りたかったのです。そして、それは私たち自身も望むことです。なぜなら、みことばはこう言います。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)と、私たちが救いにあずかるために私たちはこのみことばを聞くのです。そして、みことばが私たちに教えてくれるのです。どうしたら罪が赦されるのか…。パウロは救いはこのみことばを聞くことから始まる、だから、私はこのみことばを正しく語らなければいけないと言います。Ⅱコリント2:17で「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」と教えます。神のことばをそのまま正しく語りなさい、それが私たちの責任だと言います。なぜなら、神はみことばを使って聞いている人々の心に語ってくれるからです。ですから、パウロは明確に、人々がはっきり分かるように語りたいから祈ってほしいと言うのです。

(2)正しい動機と方法によって=メッセージが正しくても間違ったやり方で語ることもあるし、また、間違った方法で語ることも起こるからです。4節で「当然語るべき語り方で」と言っています。語ることが当然だからということです。そのためには私たちは正しい方法をもってこのみことばを語って行かなければいけないのです。マスターズ・セミナリーの学長であるマッカーサー先生はこのように言っています。避けなければならない三つの間違った伝道方法、(a)経験中心の伝道:「これはみことばから福音を語ることにではなく人の感情や経験の証に重点を置くものだ」と。聖書のことばよりもその人の証、経験を話すのです。もちろん、これも正しく用いればいいのですが、危険なことは何かと言うと、「この方法における明白な危険は福音を全く理解できないまま、感情的に語られたことに応答し、救われたと思い込んでしまうことだ。何となく救われたと思う、この人の言うことは何となく共感できる、でも、このアプローチの問題、この宣教のやり方の問題は神のおことばに重点が置かれていないということです。」(b)自我に焦点を当てた伝道:「この伝道はイエスを人生のあらゆる問題の万病薬として、また、この世的楽しみ、幸せ、繁栄、成功の元であるとして売り込む。継続した幸せや問題からの解放はイエスによって可能であることを約束する。これは人間中心であって神中心の方法ではない。確かに、救いは喜びや平安をもたらす。しかし、福音は困難のない人生を保証していない。」、つまり、この伝道のアプローチはイエスを信じたらあなたは成功しますよ、イエスを信じたらあなたは全く問題のない人生を歩むことができますよというのです。まさに、私たちのこの社会でもあるご利益的なものです。現実に、クリスチャンになるというのはいろいろな戦い、摩擦を経験します。(c)便宜的な伝道:「これはしつこい圧力をかける手段であったり、あおったり、巧妙に伝道したり、感情的興奮とか感情的鼓舞を求めたり、決心を強要する手法を用いる。」、信じるように信じるようにと、招きの時間が長い、これも間違った信仰の告白という結果をもたらします。

 もしかすると、皆さんもこのようなものに関わって来られたかもしれません。しかし、よく考えなければいけないことは、私たちは私たちのメッセージを語るのではありません。私たちが人を救うのではありません。パウロは「私は神の大使」として神から託された働きを為すことが私の責任だと言います。神のメッセージを正確に伝えなければいけない、そして、私たちは気をつけてこのメッセージを人々に伝えて行かなければいけないのです。ある有名な日本の牧師先生が書かれた本の中にこのような記事があります。「ある人は次のように言う。たとえば、ここに、私はキリストを信じたいが自分の生涯をキリストに委ねる意志はないと言う人がいたとする。神はそのような人に救いを与えられるはずはない。その意見にも確かに一理ある。しかしだからといって、福音を伝えるとき、難しくしてあなたの生活の支配権を主に明け渡しなさいという必要もないのである。」と。この問題は「だれが人を救うのか」です。私たちが人を救うのなら人が聞き易いこと、信じ易いことを語るべきです。私たちがしなければいけないことは、神が語りなさいと言われたメッセージを語ることです。それが私たちの責任です。私たちは神の恵みによって救われたのです。神は私たちの助けなど必要とされません。みこころを成そうとすれば成されます。私たちが恐れなければいけないことは、神が望んでいないこと、神が命じていないことをしてしまうことです。私たちの責任は、神が言われたことを神が指示されたようにやって行くことです。私たちが人間的に期待する結果がなかったとしても、それを神は喜ばれるのです。私たちの人間的な結果を自分たちの姑息な方法で得たとしても、神はそれを怒ってお受けにならないこともあるのです。それは、旧約・新約聖書を通して何度も教えられていることです。人々は自分の知恵や考えに従って事を行なったのです。それを神は喜ばれませんでした。神が喜ばれることは、私たちが神に対して従順に生きて行くことです。神のみことばに従って行くことです。

 パウロはⅡテモテ4:2-3で「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」と言っています。なぜ、パウロは最後の遺言ともいえることばでこのように言ったのでしょう?これから世の中は神のことばに純粋に従って行こうとしない、そうなることをパウロは分かっていたからです。教会がみことば以外のものに関心をもって自分たちが聞きたいことを語ってくれる人を求め始めると。だから、みことばを教えなさいと言ったのです。これが私たちの責任です。だから、パウロは祈ってほしいと言ったのです。余りにも大きな責任だからです。しかも、パウロは正しい動機でこの働きをしたいと願いました。Ⅰコリント9:16-17でこのように言いました。「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。」、パウロはなぜ神からのメッセージを正しく伝えて行こうとしたのでしょう?それは自分にその務めが与えられていることを知っていたからです。クリスチャンの皆さん、あなたにも同じようにその務めが与えられているのです。同時に、パウロはこのメッセージを伝えたいという重荷がありました。ローマ9:3を見たとき、自分の愛するイスラエルの人たちが救われてほしいと願っています。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と。パウロがこの福音を伝えて行こうとしたのは、人々に対する愛です。人々に知ってもらいたいのです。このイエス・キリストしか、この福音の奥義しか、罪人を救いに導くメッセージがないからです。だから、パウロはいのちがけで福音を宣べ伝えたのです。この任務を果たし終えることができるなら私はいのちを惜しいとは思わないと言います。

 この働きを神からいただいたパウロは、それが自分のいのちより大切な働きだと思いました。皆さん、パウロがいのちがけで語ったメッセージはその価値があると思われませんか?このメッセージが私たちを救ってくれたのです。このメッセージが神が私たち罪人である人間に与えてくれた唯一の救いのメッセージなのです。パウロは言います。4:3「…この奥義のために、私は牢に入れられています。」、パウロは、キリストの福音が広がったらいい、一人でも多くの人がこの救いを受け入れてくれたらそれでいい、そのために自分のいのちがなくなろうともと言っています。そのような思いをもってあなたは福音のメッセージを語っておられますか?なぜ、パウロは私たちのためにとりなしてほしいと言ったのでしょう?「私たち」と言っているのは、パウロと同労者たち、皆に祈りが必要だからです。お互いに祈り合う、このとりなしが必要なのです。今年、ロンドンのスポルジョンの教会に行きました。私が一番関心をもっていたのは、スポルジョンがメッセージをしているときに、教会の地下室でその教会の多くのクリスチャンたちが礼拝中祈り続けたことです。この礼拝が祝されて礼拝を通して神の栄光が現わされるようにと、だから、この教会は祝されました。残念ながらその部屋は焼けて無くなっていますが、その教会の力はどこにあるのかと問われて、スポルジョンが見せたのは人々が祈っているその地下室でした。お互いのために祈り合うというその祈りには力があるのです。私たちは互いに祈りが必要です。教会は祈りを必要としています。だれかこの中で、礼拝が祝されて礼拝に神の栄光が現わされて救われるたましいが起こされるように、私はそのことをとりなそうと言う人はいないでしょうか?とりなしの祈り、パウロはそれを求めたのです。そして、それは今の私たちの祈祷課題です。どうぞ、祈ってください。

Hamadera Bible Church © 2006