06/11/12 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:機会を無駄にしない
聖書箇所:コロサイ人への手紙 4章2-6節
新しく生まれ変わったクリスチャンは「神との関係とともに人との関係も新しくされた」ことをパウロは教えて来ました。今まで私たちが見てきたように、教会の兄弟姉妹の関係において、また、家庭においても様々な変化がイエス・キリストを信じる一人ひとりの中に生まれて来ると、パウロは教えました。夫婦関係、親子関係、そして、雇う者とそこで働く者との関係、これまで私たちはこれらのことを学んで来ました。ところが、4:2でパウロはこのようなことを言っています。「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」、それまで日々の生活について話して来たパウロは、ここからまた「祈り」について教え始めるのです。なぜでしょう?これまで、新しく生まれ変わった私たちがどのように生きて行くのかを具体的に教えてきたパウロ、このような生活がクリスチャンには可能だとパウロは教えてくれました。そのパウロが突然この2節で「祈り」について教え始めるのです。どう思いますか?当然、パウロは目的をもって書いています。それは、私たちの新しい歩みと関連しているからです。あなたが新しい歩みを、クリスチャンとして主に喜ばれる歩みを為して行くために必要なものは何か、もうすでにパウロは私たちに教えてくれました。覚えておられますか?神のみことばが私たちにどれほど大きな力をもたらすのか、3章の中で見てきましたが、パウロがここで再び「祈り」について教えるというのは、あなたが主の前に生まれ変わった者として新しい歩みを継続して行くために必要なものは、神のおことばであり、同時に、祈りなのです。祈りがあなたの生活には必要なのです。あなたが神の愛を実践して行くためにも、あなたがどんなときにもキリストの平和をもって生きて行くためにも、あなたがすべてのことにおいて従順であるためにも、あなたにはみことばとともに「祈り」が必要なのです。そこでパウロは、祈りについて、短い箇所ですが、この大切なことをここでもう一度愛する兄弟姉妹たちに教えようとするのです。
☆祈りの生活
1.命令、「たゆみなく祈りなさい」
4:2にはこの命令が記されています。「たゆみなく」とは、揺るがないで忍耐強く続けなさい、専心しなさい、専念しなさい、常に従事しなさい、そのことを念頭において従事して行きなさい、という意味です。パウロ自身が伝えたいことは、祈りはしてもしなくてもどちらでもいいというものでは決してないということです。「祈り」は私たちが常に念頭において従事しなければならないことであり、私たちは「祈り」のために専心し専念しなければならないのです。しかも、忍耐をもってそれを継続し続けることが必要であるということを、パウロは私たちに教えるのです。
2.注意事項
そして、この2節には二つの注意事項が記されています。
(1)「目をさまして」
油断することなく注意しなさい、眠らないで目を覚ましていなさいということです。現在形ですから、ずっとそのようでありなさいと言います。
(2)「感謝をもって」
どんなときでも、あなたが祈り続けて行くときに感謝を忘れてはいけないと言うのです。もうすでに見たように、パウロはこの手紙を書いているとき第1回目の幽閉生活を経験していました。人間的に見ると感謝などできない状況にいたパウロが、このことを言うのです。あなたが祈るときに大切なことは祈り続けることと、祈りに感謝を忘れないことと。
これからそのことを見て行くのですが、その前に、「祈り」についてしっかり学ぶことです。これは何度繰り返してもいいのです。
祈りとは?=たとえば、「祈り」って何ですか?と聞かれたとして、どのように答えますか?祈りとは神との会話ですとよく聞きます。神との交わりと言う人もいます。また、神へのお願いですと、ここまで言うと少し問題かもしれません。確かに、神との会話であり神との交わりです。しかし、「祈り」とは「礼拝」なのです。詩篇70:4には「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう。」と、いつも言いますように。」とあります。このように、神をあがめよう、神をほめたたえよう、神を心から礼拝しようというそのような祈りはみことばの中に溢れています。詩篇145:3にも「主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。」と同じように教えています。ですから、しっかり覚えていただきたいことは、確かに、祈りは神との会話、交わりですが、それ以上に、祈りはあなたが神を礼拝する機会なのです。なぜなら、私たちは「礼拝」という、定められた日曜日のこの時間にすることは確かに「礼拝」ですが、日々の生活において、月曜日から土曜日まで、私たちの歩みのすべてを私たちは礼拝者として生きて行くからです。礼拝者として主に礼拝を捧げ続けて行くのです。ですから、私たちの祈りは間違いなく神に対する礼拝なのです。
祈りは礼拝
(1)神を崇める=祈りを通して私たちは、神がどんなに偉大なお方か、どんなにすばらしいお方か、どんなにすばらしいことをなさったのか、神のご性質を覚え、神のみわざを覚えてその方をほめたたえるのです。これはまさに礼拝の行為です。
(2)感謝=私たちは主に感謝を捧げます。詩篇136篇は1節から26節すべてが神への感謝に溢れています。人々は神に対して感謝を捧げ礼拝しているのです。
(3)告白=神の前に罪の告白があります。私たちが主に祈るときに大切なことの一つは、自分の罪を主の前に正直に告白することです。旧約聖書を見たとき、ダニエルもヨブも、信仰の勇者たちが主の前に立つときにしていることは罪の告白です。なぜでしょう?自分が今その前に立っている神がどのようなお方か、そのことを考えたとき、私たちがまずしようとすることは、この方の前に立つにふさわしい者に整えていただきたいということです。聖い正しい偉大な神の前に立つのにふさわしく自らを整えようとします。今、皆さんがここに来て礼拝を捧げていることも、このように心整えられた状態で座っておられるはずです。愛する兄弟姉妹とともに礼拝しているこの時間、キリストの復活を記念するこのとき、これはクリスチャンの特権です。私たちはそのために集まって来ているのです。ですから、私たちが神の前に罪を告白することは神を崇めているのです。神よ、私は罪深いです、そして、感謝します、こんな者を赦してくださることをと…。
(4)願い=私たちが主の前に願いをもって行くとき、この方が必要を与えてくださると信じています。そうでなければ、私たちが願い事を捧げるとき、大切なことを見落としています。私たちはこの方が私に必要をくださるということです。この方の前に私の必要をもって出て行くことが赦されているのです。そのことを感謝しながら私たちは主の前に立つのです。
(5)とりなし=とりなしをするときはどうでしょう?人々のために祈るとき、彼らの成長のために、彼らの救いのために、といろいろなことを私たちは祈ります。旧約聖書を見ても、モーセも神の前に祈り続けています、イスラエルの民の救いのために。パウロ自身もイスラエルの民の救いを祈っています。ミリヤムが罪を犯したときモーセは彼女のために祈りました。アロンのために祈っています。それは、自分が彼らより優れているということではなくて、彼らが神の前に、だれかのためにとりなしするために主によって立たせていただいているのです。そのことを喜びながら、そのことを感謝しながら、同時に、主を畏れながらとりなしを為している、そのすべての行為は神を崇め、神を畏れているのです
(6)主ご自身に対する自分自身の愛と信頼の言明の機会=つまり、私たちが神の前に立つとき、私たちは「神さま、こういう課題があります、こういう祈りがあります」と、主の前にもって行くとき、私はあなたのみこころが成されることを確信しています、あなたはこのような者を愛してくださっています、必ず、あなたは最善を与えてくださることを信じていますと、だから、感謝が生まれます。そのことを忘れてしまうと、私たちには不満しか出てきません。詩篇46:1-3には「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」私は恐れないと、このような祈りを捧げたのです。神さま、私はあなたを信頼しています、なぜなら、あなたは神だからと。ですから、私たちの祈りはそのように神とはどんなにすばらしい方なのかを、私たちはもう一度自らのことばを通して、自らの心からのことばをもって神を崇めているのです。
このように、私たちが「祈り」ということを考えるとき、必ず、行き着くところは「祈りは神に対する礼拝」です。だから、重要なのです。
祈らない口実
祈りに対して、パウロは「たゆみなく祈りなさい」と言います。その命令を与えたのです。忍耐強く、この祈りにあなたは専心して行きなさいと。この命令を聞いて皆さんどうでしょう?あなたが考えなければいけないことは、私は神が望んでおられるような「祈りの生活」を行なっているかどうかです。私はほんとうに喜んで祈りのために時間を割こうとしているかどうかです。
(1)「忙しい」「一人になる場所がない」
私たちがよく使う言い訳は「私は忙しい」、また、「一人になる場所がない」ということも聞きます。祈ろうと思えばどんな所ででも、どんな時でも祈れます。ぜひ、覚えてください。祈らないことは
(a)神を悲しませること=祈りをおろそかにすることは、神を非常に悲しませることです。言い方を変えると、これは「罪」です。サムエルはこう言います。Ⅰサムエル12:23「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。」
と。つまり、サムエルは祈りをやめることは神に対して罪を犯すことだと言っているのです。Ⅰテサロニケ5:17には「絶えず祈りなさい。」とあります。ですから、私たちは絶えず祈っていなければみことばに反しています。それは罪です。だから、神は悲しまれるのです。神はあなたのために喜んで時間を取ろうとしているのに、あなたのほうが「ごめん、忙しい」と言う、一体、私たちは何者なのでしょう?私たちは万難を排して神との時間を楽しもうとするし、喜んでそのために備えようとするはずです。
(b)誘惑に負ける=祈らないからあなたは成長しないし、誘惑にも負けるのです。主の前に祈っていないときのあなたの生活は、必ず、様々な誘惑に負けています。イエスはルカ18:1でこのように言われました。「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」、つまり、私たちは祈りにおいて失望してしまうことがあるのです。いろいろな出来事によって心が萎えてしまうことがあるのです。先が見えなくなって真っ暗になって希望を失ってしまうことがあるのです。どうしてでしょう?私たちが祈りを忘れるからです。よく考えてください。皆さんが毎日祈り続けるというのは、ある種の戦いではありませんか?実際に難しいことです。だから、皆さんが祈ろうと思っていても、いろいろなことがあってだんだん祈る時間がなくなってしまってできなかったということがあるはずです。つまり、そこに誘惑が働いているからです。何かの力があなたに祈ることを止めさせようとするのです。だれかはあなたが祈ることを望んでいないのです。なぜなら、あなたが祈りの人になることによって望ましくないことが起こるからです。それは、あなたが信仰において成長し、あなたがすばらしい神の栄光を現わして行くからです。ムーディー聖書学院初代校長であったルーベン・アーチャー・トーレーはこのように言っています。「祈りがないという事実は、悪魔が教会や伝道などの働きの中に入りきった時に与える一大障害であり、多くに人々はそのために能力ある祈りの武器を悪魔に取り上げられてしまうのである。そして、悪魔のほうでは、教会が祈りを投げ捨ててしまいさえすれば、どんなに多くの機関や団体が出来ても、また、いかに巧みなる工夫をもって、この世をキリスト教化しようと計画するとしても、少しも驚かないのである。いやむしろ、悪魔はそのようなことを笑って歓迎している。彼は今日の教会を見て静かに微笑みながら『諸君はどうか、青年会の働きも青年女子の働きも、文書伝道も特別伝道も大説教会も聖歌隊もどしどしと盛んになさるがよろしい。立派なオルガンも教会に据え付け、すばらしい説教家を招くのもよろしい。そして、リバイバル運動も盛んにやるがよろしい。但し、この一つだけはやられては困る。すなわち、諸君が全能の神の御許に人々を連れて行って、熱心な、粘り強い、信仰的な力ある祈りをするということである。このことだけをしないならば、その他のいかなることをやっても差し支えはない』と言っている事であろう。」。考えてみる必要があります。なぜなら、サタンが恐れるのは何でしょう?私たちではありません。サタンが恐れるのはただ一人、神です。その神と私たちが交わっているときがサタンにとって一番厄介なのです。だから、サタンは私たちのうちに働いて、この神と交わりを持たないように、神に頼って行くのではなく、自分の力や知恵に頼って行くように必死になって私たちを誘惑するのです。そして、私たちはすぐに誘惑に負けてしまいます。私たちは、忙しいから仕方ないとか、教会に行っているからもう十分だ、いろいろ奉仕をしているから祈りの時間が短くても神さまは赦してくれるとか言いますが、私たちクリスチャンがこの世にあってキリストのすばらしさを証して行くために必要なことは、みことばが教えるのは、神が教えてくれるのは「祈り」です。ある人はこう言うかもしれません。
(2)神はすべての必要をご存じだから祈らなくても良い
私たちが祈らない口実の二つ目です。確かに、これもよく聞くことですが、間違っていることはお分かりでしょう。確かに神は、あなたが祈らなくてもあなたの必要はご存じです。神はあなたの必要を与えてくださいます。しかし、あなたが必要をいただくために神が定められた方法は、あなたがそれを求めること、祈りという方法です。というのは、みことばを見たとき、求めたなら与えられたのに求めなかったからそれを得ることがなかったことが記されています。ヤコブ4:2に「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」とあります。こういうことがあるのです。私たち親もそうです。子どもが何をほしがっているのか大体分かります。神がなぜ私たちに祈ることを命じられたのか、それによって私たちが神の前に心の思いをもって行くことができるように、神の前に求めるように、そのためです。ヤコブの手紙を見てください。面白い記事があります。あなたが神の前に求めなかったゆえに、与えられなかったものがいくつか出て来ます。(a)知恵=1:5「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」、いろいろなことが起こってくるけれど私たちにはなぜか分からない、神の知恵が必要なのです。でも、その知恵を得るために「神に願いなさい」、神さま、教えてくださいと、それをしないから知恵を得ることがない人がいるのです。(b)戦い、争いに対する勝利=4:1-2「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。:2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。:」、戦いや勝利に対する勝利も私たちがそのことを神の前に求めるなら、神は与えてくれる、しかし、私たちはそれをしようとしないのです。あの人がこんなことを言った、この人がこんなことをした、と心の中に怒りをもつとき、その罪に対して、問題に対して、私たちが勝利して行くためには祈りが必要なのです。でも、祈り求めないとそのような怒りを持ち続けることになります。(c)苦しみからの解放=5:13「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」、苦しみからの解放を得るために神が教えてくれているのは「祈りなさい」です。そうすると、神が助けてくれると言います。(d)いやしを得られない=5:14-15「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。…」、このように長老を呼んで祈ってもらうとどんな病も癒されると、そんなことを保証しているのではありません。必ず、神のみこころがなされるのです。しかし、みことばが教えていることは、そのようなことをしなかったために病のいやしを得ることがなかったケースがあるということです。(e)いのちが延長されない=地上でのいのちが伸ばされなかったケースもあります。というのは、南王国ユダの王であったヒゼキヤは病気になって死に掛けていたとき、預言者イザヤがやって来て、あなたはもう死にますから身の回りを片付けなさいと言います。その時にヒゼキヤは主の前に祈ります。そうすると、神はイザヤに言います。今から引き返してヒゼキヤに言いなさい、あなたの祈りを聞いたから、そして、あなたを癒すからと、彼は癒されて15年、いのちが与えられました。Ⅱ列王記20章に出てきます。また、別のユダの王アサは両足が何かの病気に罹って非常に重かった、みことば教えるのは、彼は主に求めることをしないで医者を求めたのです。Ⅱ歴代誌16章に出て来ます。その2年後に彼は死んでいます。主の前に祈ったヒゼキヤ、祈らなかったアサ、祈ったから必ず神はいのちを伸ばしてくれるのでしょうか?それも神のみこころのうちにあります。しかし、このようなケースがあるのです。祈らなかったために、神が与えようとしてくださるものを私たちがみすみす逃してしまう、そのようなことが確かに聖書の中に出て来ます。だから、私たちにとって祈りは非常に大切なのです。何かを得たいからでは決してありません。しかし、感謝なことに、神は私たちに私たちの心の思いを神の前に持って来ても構わないと言われた、あなたは自由に心の中のものを、重荷を主の前に持って行くことができるのです。神はそれをよしとされ喜ばれるのです。
たゆみなく祈るとは
パウロは「たゆみなく祈りなさい」と命じました。確かに、モーセを見たとき、彼は40日40夜祈ったことが聖書に記されています。イエスも一晩中祈ったとあります。ルカ6:12「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」と。イエスのように完全に人であり完全に神であった方が、常に完璧に神のみこころに従っておられた方が、父なる神の前に静まり、一晩中その方の前に祈り続けたのです。ですから、私たちイエス・キリストを信じる者にとって、祈りがどれほど大切であるかが分かります。勘違いしてはならないことは、「たゆみなく」とは24時間ずっとという祈り時間の長さではありません。長く祈ったらいいというのではありません。なぜなら、パリサイ人はそのようにしていたからです。人前で長い祈りをしていましたが、神はそれを喜ばれませんでした。神の関心は祈りの長さではありません。私たちがいつもたゆみなく祈るとはどういうことでしょう?なぜ必要なのでしょう?
(1)主の臨在を意識するから=私たちがそのように祈るとき、神の目が自分に注がれていることを意識します。祈らなかったら私たちはそのことを忘れます。神が遠い存在に思えたりします。でも、神さま!と言って神との交わりをもって日々を過ごしているとき、神が私を見ておられるという事実を私たちは覚えるのです。そのときに、私たちはこの神に依存して行こうとします。私たちにはそれが必要だからです。私たちにはいつも神が必要なのです。神の知恵、神の助け、神の力、神の慰め、神の導きがいるのです。神がこのようなものを与えてくださるから、私たちはいつも神の前にこれらを求めて行くのです。私たちは子どもたちにどう語ったらいいか分からない、孫たちにどう語ったらいいか分からない、友だちにどのように語り、どんな行動を取ったらいいか分からない、常に神の知恵が必要です。
(2)あきらめてはいけない=祈りにおいてあきらめてはいけないと言います。私たちはどれだけ簡単にあきらめてしまうか、ちょっと祈ってすぐに答えが来ないとあきらめてしまいます。神は聞いてくれないと言って…。神があなたに望んでおられることは「たゆみなく祈り続けること」です。そのことを教えるために、ルカの福音書11章を見てください。11:5-13「また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』 :8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」、このように求めたなら友は与えてくれるだろう、私たちも同じ、忍耐をもってあきらめることなく求め続けて行くことだと言うのです。それが私たちの祈りにおいても大切なことであり必要なことなのです。確かに、このたとえだけでもたくさんのことが学べるほど大切なことが記されていますが、今はその時間がないので、簡単に見ましょう。
イエスが教えようとされたことは?
なぜ、13節に「どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と言っているのでしょう?
(a)ご自分がメシヤ、救世主であることを示された
イエスがこの人たちに教えようとされたことはご自分がだれかということです。救世主は必ず人々の中に新しい霊を与えてくれます。神の霊です。そのことは、エゼキエル36:26「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。…」、また、ヨエル2:28-29にも「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。…その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」とあります。当然、イエスがこの話をされているとき、イエスは彼らがそのことを知っていたことをご存じだったわけです。ですから、イエス・キリストはそのことを話されてから、ご自分がだれであるかを明らかにされたのです。メシヤが来るときそのような働きがなされる、新しい霊が与えられる、だから、あなたたちにその聖霊を神が与えてくれる、なぜなら、わたしが来たから、この「わたし」は旧約聖書に約束されていたメシヤなのだということを言っているのです。ここではまだ、聖霊が与えられていませんでした。ペンテコステになって初めて人々に聖霊が与えられるのです。ペンテコステの出来事を見ると、ペテロはヨエル書の預言が成就したと言っています(使徒2:16~)。だから、メシヤの到来とこの聖霊が下ってくる、神の霊、新しい霊が与えられることは必ず一体だったのです。そのことを知っていたこの人々にイエスはこの話をされ、ご自分がだれであるかを明らかにしたのです。
(b)聖霊を与えてくださる
同時に、「どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と、つまり、聖霊が与えられるということ、すばらしい祝福を語っています。聖霊が与えられるということはどれほどすばらしい神からのプレゼントでしょう?もちろん、救いは神が私たち信じる者に与えてくださった最高のプレゼントですが、同時に、聖霊が与えられたということはすばらしいのです。なぜなら、私たちの日々の生活で私たちはいろいろな必要を神に話します。
慰めてほしい:主は完全な慰め主を与えてくださった
励ましてほしい:主は完全な励まし主を与えてくださった
力がほしい:神は完全な「助け主」を与えてくださった
愛がほしい:聖霊は本当の愛が何かを知っている、そして、私たちを愛してくださり完全な愛の神を与えてくださった
真理を知りたい:唯一の真理の君が与えられた
満たされたい:完全な満足の源が与えられた
不安なとき、心を静めて喜びに変えられたい:神は本当の喜びの源を与えられた
私たちのこのような祈りに神は聖霊をくださることによって私たちに答えてくれているのです。このようなすごい約束を私たちにくださったのです。この約束はイエス・キリストを信じた私たちのものなのです。なぜなら、完全な満足の源である聖霊が私たちのうちにいるからです。だから、クリスチャンは世界で最も幸せな者なのです。こんなすばらしい祝福を私たちはもうすでにいただいているからです。
「たゆみなく祈る」ことは信仰のテストでもある
でも、イエスがこのルカ11章で話されたとき、神は確かに私たちに必要なものを与えてくださるけれど、それを得るために私たちが覚えなければいけないことは、「あきらめないで祈り続ける」ことを教えておられます。というのは、こうして、祈り続けて行くというのは、私たちの信仰のテストでもあるからです。
マルコの福音書の中で律法学者が弟子たちと話し合っているところがあります。9:14-29「さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。:15 そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。:16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」と聞かれた。:17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。:18 その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」:19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 :20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。:21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」 :23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 :24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」:25 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」 :26 するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。:27 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。:28 イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」 :29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」。
父親のことば:22節「…もし、おできになるものなら…」とイエスの全能の力を疑っています。
イエスの答え:この父親のことばに対して、イエスは「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。
するとすぐに、父親は「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言っています。神はどんなことでもできるという、その神への信頼が私たちには必要なのです。信頼するなら自分の欲しいものが手に入るのか、決してそんなこと言っているのではありません。神は必ず私の必要を与えてくださるのです。私たちは、人間的に不可能と思えることでも神は必ず必要を与えてくれる、神は全能であるという信仰をもって神の前に立たなければいけないのです。ところが、私たちは疑いをもって祈るのです。神さま、だれだれが救われてほしいです、でも、人間的に見ると不可能だと思うと、私たちはこの父親のように「もしできることなら」と言ってしまいます。あなたの信仰に対して神は何と言われているでしょう?イエスが父親に対して答えられたように「できるものなら、と言うのか。」ではないでしょうか?
もう一度、今日の箇所コロサイ4:2を見てください。「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」、あきらめないで、いつも神の臨在を覚えながら、神に依存しながら祈り続けて行くように、神にはどんなことでもできるというその確信をもって祈り続けなさい、神は必ずみこころを為してくれると、あなたはそのような信仰者ですか?そんな祈りを捧げ続けていますか?それがパウロがここで望んでいることなのです。そこに、彼は「目をさまして、感謝をもって」と付けています。感謝を忘れてしまうことは危険です。なぜなら、そのとき私たちは神に罪を犯してしまう危険性があるからです。というのは、「こんなに祈っているのに神は聞いてくれない、答えてくれない」と、その心の中には神への憤り、怒り、神への疑いが出て来ます。その祈りの中には感謝もありません。もう、私たちが見て来たように、私の神に対する愛と信頼の言明の機会、私はあなたを信頼します、どうぞ、みこころを成してください、あなたのみこころが成されることを信じて感謝しますと、このように感謝をもって祈ることが正しい祈りをするために必要なのです。
そして、「目を覚まして」祈り続けること、目を覚ましていないと事故に会います。道から外れます。私たちの信仰生活においても、目を覚ましていないと私たちの行動がいい加減な形だけのものになってしまう可能性があるからです。祈ってはいるけれど形式だけのもの、食事の前に祈ることがもう形式になっている、寝る前に祈ることも形式になっている、でも、祈りというのはそのようなものではありません。何か特別な祈りをしたからそれで神の前に自分の責任を果たしたと、とんでもないことです。祈りは神との交わりであり、神を礼拝する機会です。そのために、私たちはしっかり目を覚まして、自分の信仰がどんなものか、私の捧げた祈りがどういうものか、どのような思いをもって捧げているのか、そのことを吟味することが必要です。
パウロは、私たちが新しくされた者として、新しい歩みを始めて行くために必要な祈りについて教えてくれました。どうぞ、目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈り続けてください。あなたが、神が望んでおられる祈りの人になることによって、あなたは変わって来ます、信仰者として成長します。あなたの信仰が成長しなかったのは、みことばを学ばないし祈りもしなかったからです。その罪を告白して、主の前にみことば学ぶ者であり、そして、祈る者になってください。神はあなたを祝して必ずあなたを用いてくださる、そのときに、悪魔は恐れを抱くのです。神の力があなたのうちに働くから。そんな信仰者にあなたがなることを神は望んでおられます。祈りの人になってください、どんなときにも主を信頼して歩み続ける信仰者に…。