礼拝メッセージ要約

Assisting the study of God's Word

2006/11/05 礼拝メッセージ

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Messenger: 近藤修司
Passage: コロサイ3:22-4:1
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06/11/05  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

主  題:神の喜ばれる家族3

聖書箇所:コロサイ人への手紙 3章22節-4章1節

 イエス・キリストによって生まれ変わった私たちには様々な変化が訪れます。私たちの生き方に変化が生まれて来ます。新しい関係がそこに生み出されて行きます。もうすでに私たちが見て来たように、私たちは新しい夫婦の関係を築いて行くことができる、新しい親子の関係を築いて行くことができる、そして、私たちが今日見ようとしているのは、その当時、実際に家庭の中に存在した奴隷たちとの関係、主従の関係、主人としもべの関係です。そこにも、信仰は大きな変化をもたらすのです。その当時、ローマ帝国には数百万人の奴隷がいたと言われています。パウロが教えたいことは、イエス・キリストを信じることによって、この主がすばらしい影響をその主人と奴隷であるあなたの関係にももたらすということです。パウロが奴隷たちに言いたかったこと、それは一言で言うなら、「奴隷たちよ、従いなさい」ということです。しかも、この命令をパウロが現在形で与えているというのは、継続して従い続けて行きなさいということです。

☆奴隷たちに対する命令

従いなさい

さて、この命令を聞いた奴隷たちはどのように思ったでしょう?彼らは人間として扱われていたのではなく、物として扱われていたからです。そのような彼らにとって、自分たちの主人を愛しなさいとか、敬いなさいとか、この主人に従って行きなさいということは「はい、そうですか」ではすまなかったかもしれません。しかも、パウロはどのように従って行くのかまで教えています。彼は二つのことを言います。みことばを見てください。

1.どのように従って行くのか

 22節から「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。23: 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」とあります。「従う」という命令を与えたパウロは、その従い方についても教えるのです。

条件をつけてはならない

「すべてのことについて…」とパウロは教えています。たとえ、命じられることが自分にとってしたくないことであっても、それが罪でない限りしなさいと言います。また、「奴隷たちよ。すべてのことに地上の主人に従いなさい。」と言ったとき、主人の条件は記されていません。主人からの命令に条件がないように、どんな主人に従っていいのか、どんな主人には従わなくてもいいのか、そのようなことは記されていません。すべての主人に対してです。つまり、主人にも条件がないということです。どのような主人であっても、優しい主人でも、厳しい主人でも、いやな主人であっても、従いなさいと言うのです。ですから、最初にパウロはこの「従う」ことに条件をつけないと言ったのです。

2)正しい態度で従う

 このことについてもパウロは二つのことを教えています。

(1)正しい動機であること

 22節にそれがあります。(a)「真心から」とあります。これは「心」と「誠意をもって」ということばが並んでいるのです。心の誠実さ、心からの誠意をもってやりなさいという意味です。この「誠意をもって」というのは、下心がないということです。犠牲をいとわない行為でやりなさい、物惜しみしない行為でやりなさいと、それがここで言われている「真心から」という意味です。ですから、これをしたら何かもらえるのではないかとか、これをしたら得ではないかとか、そのような下心があってはならない、あなたの主人が命じることに対して、喜んで心から誠意をもって、その命令に従って行きなさいと言うのです。この正しい動機について彼はもう一つ、(b)「主を恐れかしこみつつ」と書いています。パウロは、あなたが主人の命令に従うときに、神の感情を害すること、神に対して罪を犯すことがないように、自分の行動をしっかり吟味して、恐れをもってやりなさいと言うのです。だから、あなたが主人からいろいろな命令を受けるときに、あなたの心の態度が、すべてを見ておられる神の前に神の感情を害するようなことになってはならないと言うのです。神の前に罪を犯すような、そのような心の態度で行なってはならないと。そして、もう一つ付け加えるなら、ここに出てきませんが、エペソ人への手紙の中でパウロは同じメッセージを与えており、そこにはこのように書かれています。エペソ6:5「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。」と、今私たちが見ているコロサイと同じメッセージがここに記されています。ここには(c)「キリストに従うように」と、つまり、奴隷たちの動機を正しくしなさいとパウロは教えるのですが、あなたが主に従うというのは、まさに、あなたの主であるキリストに従うように、その命令に従って行きなさいと言うのです。これがパウロが望んだ正しい動機です。このような動機をもって命令に従いなさいと言います。

 同時に、パウロはコロサイ人への手紙で間違った動機をもってはならないということも教えています。二つのもってはならない動機です。(a)人のごきげんとりのような、この「ごきげんとり」というのは面白いことばで、「目」ということばと「奴隷」ということばが合成してできたことばです。つまり、目の前だけの務めぶり、目の前だけでその人に気に入られようとする奉仕のことです。主人の目ばかりを気にして、主人が見ているところだけいいことをして気に入られようとする、主人にいいところを見せて、主人に感銘を与えたり感心を与えたりしようと、そのような動機で仕えてはならないというのです。もう一つは(b)うわべだけの仕え方、これも二つのことばの合成でできたことばです。「人」と「喜ばしい」です。つまり、人の好意を得ようとするとか、人にへつらう、人のご機嫌とり、おべっかをつかうということです。ですから、この二つのことから私たちに分かることは、奴隷たちが主人に従って行くときに、主人が見ているときだけ、主人の目が届いているときだけ、そういうときだけ、私は頑張っています、私は忠実ですという顔をして振舞ってはならないというのです。なぜなら、このような動機をもっている人は、先ほど見たような正しい動機がないのです。主を悲しませたくない、主の前に罪を犯したくない、そのような思いをもってすべてのことをしようとしているのではないのです。正しい動機をもっている人は、常に、365日24時間そうしようとします。人が見ていようと見ていまいと。

(2)正しい目的

 23節「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」、私たちがもうすでに見たコロサイ3:17には「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」とありました。「ことばによると行ないによるとを問わず」とはすべてのこと、「主イエスの名」とはイエスご自身のことです。ですから、パウロがここで言っているのは、私たちのすべてのことをあたかも主が為しておられるようにしなさいということです。イエスが為されたように私たちも為し、イエスが語られたように私も語って行く、まさに、イエスを完全な模範として私たちはその模範に従って行くようにと言います。だから、当然そのような人は、神のみこころは何であるか、どんなことを神は喜ばれるのか、それを考えてそれを実践しようとします。言い換えるなら、みこころでないこと、神が喜ばれないことはしないとすることです。その生き方によって神の栄光が現わされて行くからです。パウロはⅠコリント10:31で「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」と、まさにこのことを言っているのです。私たちイエス・キリストを信じている一人ひとりにこのことが神によって命じられているのです。すること全部、語ることすべて、それを聞いておられる神が喜ばれるように、あたかもイエスが語られたように、行なわれたように私たちもそれに倣って行なって行きなさいと言うのです。ですから、パウロは奴隷たちに対して、そのようにあなたたちは新しい正しい目的をもってしなければならない、それは、すべてのことを主のためにしなさいというのです。エペソ6:6には「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、」、

「キリストのしもべとして」とあります。これがクリスチャンです。私たちはイエス・キリストのしもべです。イエス・キリストの奴隷です。だから、すばらしい奴隷は主人を喜ばせようとします。私たちもキリストのしもべとしてこの主人を喜ばせるようにして行くのです。

 パウロは奴隷たちに詳しく教えました。あなたたちは正しい動機をもって、正しい目的をもって主人に従って行きなさいと。皆さんはどう思われますか?奴隷たちはどのように思ったでしょう?ひどく苦しめられている奴隷なら、このようなことを聞くと辛かったかもしれません。パウロは私たちの味方ではないのか、パウロは私の苦しみなど解っていないと言ったかもしれません。ある人は、パウロはこのような社会的差別を支持しているのかと言います。どの時代でも差別はあります。このような差別の中にあると人々はそれに反対して、差別や制度を打ち壊そうとします。パウロはここで立ち上がって、奴隷たちよ、私といっしょにがんばってこの制度を打ち倒そうと、そのようなことは言っていません。みことばを見たとき、パウロはそうではなかったことが分かります。確かに、パウロの家系はすばらしかった、パウロの受けた教育はすばらしかった、パウロは非常に裕福だった、だから、奴隷たちに対して、他の人たちがそうであるように、奴隷たちを見下していたのでしょうか?決してそうではありません。その証拠に、オネシモという奴隷に対してパウロがどのような思いをもっていたのかを思い出してください。ピレモンへの手紙12節に出てきます。「そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。…」と、ピレモンのところで仕えていた奴隷オネシモ、彼は主人であるピレモンに対して罪を犯しました。恐らく盗みを働いて逃亡したのです。このオネシモに対してパウロは「彼は私の心そのものです。」と言っています。同じ16節では「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。」と、パウロはこの罪を犯した奴隷オネシモに対してどれほどの愛情をもっていたのかが明らかです。彼は差別を容認していません。支持もしていません。奴隷を見下してもいません。

また同時に、パウロはすべての人は平等だということを教えています。なぜなら、神の人間に対するさばきが平等だからです。それが、この24-25節に出てきます。「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。:25 不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。」、パウロが教えることは主からの報いがあるということです。これは、奴隷には驚きのメッセージでした。先ほども言ったように、奴隷は人間として見られていなかったからです。ローマの法律によれば、奴隷はたとえどんなものであろうと財産をもつことを禁じられていたのです。そういう人たちに、あなたたちにはすばらしい報いがあると言われたら、彼らは驚いたでしょう。地上の主人からほうびを貰うことはほとんどなかった、しかし、パウロは地上の主人ではない、天の主人があなたたちにすばらしい報い、ほうびを与えてくれると言うのです。そのことを言った後24節を見てください。「御国を相続させていただく」とあります。25節を見ると、ある人は御国をいただきますが、ある人は自分が行なった不正、これは不義を働くと訳せることばですが、そのような悪いことをした人々にはその悪いことに対して相応しい報いがあると言うのです。ですから、すべての人間を指しているのです。なぜなら、2種類の人間しかいません。神の前に正しい人と神の前に正しくない人、神の前に罪赦された人と神の前に罪赦されていない人です。どちらも報いを受けるのです。神の前に正しい者は神からすばらしい祝福をいただく、御国が与えられる、永遠のいのちが与えられる、でも、残念なことに、神の赦しをいただいていない人、神の赦しを拒み続け神に逆らっている人には、その人の罪がさばかれるのです。ですから、どちらの人であっても、神のさばきには不公平なところはないのです。4:1を見ると「主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。」とあります。パウロは地上の主人たちに対しても、あなたたちの責任はあなたたちの主人に対して正しくなければならない、そうでなければ、あなたたちは間違った不正の行ないに対してそれを自分で刈り取ることになると言うのです。確かに、社会においては残念ながら不公平があることをパウロは知っていました。しかし、パウロは神の前では不公平は存在しないと言います。25節の最後で言われている「不公平」ということばは「えこひいき」と訳せることばです。人はそれをするのです。でも、神はえこひいきをしない、神はそれぞれが行なったことに応じて、ふさわしく正しく公平に、えこひいきなく報いを与えると言います。つまり、神の前ではすべての人は平等なのです。この人は身分が高いから神は特別に何か、とか、この人は社会的に、人々が見て身分が低いからと、神は彼らのことを粗末に扱われることなどない、神のさばきは公平だ、なぜなら、神の前ではすべての人は平等だからです。

 確かに、パウロは身分や生活環境の違う人々が社会に存在することを知っています。裕福な人貧しい人、教育を受けた人受けなかった人、社会的地位のある人そうでない人、確かに、一見すると不公平が存在していると見える社会、しかし、パウロはそのようなことを知っていながら、人々の注意をあることに向けさせるのです。そのことをぜひ覚えてください。この奴隷たちに、そして、その奴隷の上に立っている主人たちにパウロが教えたかったことは、すべての人が神の前に共通の責任をもっているということです。どのような責任かというと、それは、主に対して従順であれ、主に対して忠実であれということです。あなたがどのような身分の人であろうと関係ない、どれ程の教育を受けていようと関係ない、どれだけの財産があろうと関係ない、あなたが人間である限り、あなたにとって必要なことは主に対して従順であることだと言います。だから、パウロはここから、奴隷たちの上に立つ主人たちに対して、あなたたちにも実はあなたたちの上に天の主人がいる、その方に対してどのように生きるかという責任があるというのです。地上の奴隷たちには、あなたたちの上には確かに主人がいる、でも、彼らに仕えるということは、実は天の主人に仕えていることだ、だから、どのような身分であろうと、あなたの責任は主に対して従順であることだと言うのです。これが、ここでパウロが教えようとしたことです。

 確かに、今の私たちのこの日本において、このような主従の関係、主人と奴隷の関係は存在していません。しかし、仕える者と仕えられる者との関係はあります。たとえば、国家という枠組みの中でも、国のリーダーがいて国民がいるわけです。職場においてもそうです。雇う者と雇われる者がいます。ですから、パウロはその当時存在していた主人と奴隷の関係について教えたのですが、これはまさに今の私たちの社会でも十分に適用されるものです。なぜなら、教えられている真理は変わらないからです。もう一度思い出してください。主人に仕えて行くときに、パウロが教えたことは条件を付けてはならないということでした。そうすると、皆さんが会社に勤めていて、皆さんのボスはもしかするとすばらしい人でないかもしれない、えこひいきする人かもしれない、あなたのことを嫌いかもしれない、でも、どんなボスであったとしても、あなたはそこで仕える者としてどのようなことを覚えるのでしょう?今見て来たように、条件をつけないでその人に従って行くということです。どのような命令にも従うのです。なぜなら、あなたはすべてのことを主に対してすることだから、もちろん、例外があります、その人が罪を犯せと言うときは拒まなければいけません。あなたは神に対して責任があるからです。ですから、罪でなければいやなことを言われたとしても、私たちはそれに従って行こうとするのです。どんな主人であっても私たちはその主人に従って行こうとします。それが、みことばが私たちに教えていることです。

 もう一つ思い出してください。正しい態度でなければならないと言いました。あなたがそのように自分のボスに従って行こうとするときに、正しい動機をもってやりなさいと、下心をもって何かもらえるのではないかとそんな不遜なことを考えるのではなく、真心からあなたはボスに従って行きなさいと言います。あなたがしようとすることすべてに、主を恐れかしこみつつ神の感情を害することがないように、神の前に罪を犯すことがないようにという思いをしっかりもちながらやりなさい、人のごきげんとりのようなうわべだけの仕え方であってはならないと。正しい態度、つまり、正しい動機であり正しい目的でした。私たちは大変な国に住んでいます。悲しいことに、私たちの国はこの真の主に対して心を開いていない、いろいろなことで不満を感じるかもしれません。しかし、みことばを見るなら私たちはこの国の国民として何をするのか、国家のリーダーのために祈って行くことです。主のみこころが為されて行くように、どんなにひどいリーダーであっても主が言われることは「従って行きなさい」です。どのレベルでも、会社であっても、あなたは最高の働き人になることです。なぜなら、あなたは正しい動機をもち正しい目的をもって主のためにそれをしているからです。周りの人が見て、この人は時間を盗んでいる、怠けている、仕事をやっているように見せかけて実はしていない、最近、それが問題になっています、病欠をしながら給料をもらっているなんて、私たちクリスチャンはそうであってはならないのです。なぜなら、皆さんがその職場に勤めているというのは、皆さんをそこに置いてくださった神に対して働きをなすことだから、それを神が喜んでくださることだからです。国家においても私たちは責任を果たすのです。税金を払わなければならないなら払うのです。神から与えられたものを神の前に使うのです。カイザルのものはカイザルに返せとイエスが言われた通りです。

こういう話をするとある人は難しいと言います。なぜなら、私の勤めている会社の状況は分からないからと、でも、私は知らなくても神はご存じです。それが神の命令です。奴隷たちに対しても条件がなかった、私たちにも同じことを言われるのです。私たちは国民として最高の国民であるべきです。会社にあっても最も信頼のおける、最も勤勉な者であるべきです。学校においても同じです。勤勉であるべきです。主のために生きているからです。

2.どうすれば従順になって行くのか

 「従うこと」、それがどうして可能になるのか、聖書は教えてくれています。どうすれば私たちはそのように従順になって行けるのでしょう?もう私たちはコロサイ3:16で見ました。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」と、キリストのことばを私たちのうちに豊かに住まわせると、私たちのうちには喜びが出てきます、感謝が出てきます。そして、聖霊なる神が私たちを支配するとき、喜び、感謝だけでなく、私たちは従順であろうとするのです。従順というのはキリストとともに生きている人の証なのです。エペソ5章でも同じことを言います。聖霊に満たされなさいと言ったパウロは、聖霊に満たされると喜びをもつし、感謝をもつし、そして、従って行く者になる、従順な者になると言います。私たちは罪の性質のまま、自分の力で従順な者になれるでしょうか?それは大変なことです。しかし、神が私たちを支配し、神が私たちを導いてくださるなら、私たちはそのような者に変えられて行くのです。ですから、従順に歩んでいる人というのは、神がその人のうちに働いているからできるのです。だから、可能なのです。

 今、私たちのこの国を見ていると悲しいことばかりです。ニュースを見たくなくなるほど、新聞を読みたくなくなるほど悲しい事件ばかりが続いています。なぜ、人々はこんなにいのちを簡単に、粗末にしてしまうのかと思います。いろいろなニュースを聞いて、意地悪やいじめを受けている人がたくさんいます。そのようなことを経験した多くの子どもたち、また、おとなも、私など生まれて来なかった方がよかった、私なんてどうなっても構わない、死んだほうがいいと思う、あんたは気持ち悪いと言われたり、生まれて来なかった方がよかったと、そのような社会の中にいて、多くの人はそういう嘘にだまされているのです。なぜなら、あなたは気持ち悪いことなどない、生まれて来る価値があって、神が造られた特別な存在です。あなたは神が特別に造られたこの世界にただ一人しかいない、大切な存在です。確かに、いろいろな違いがあります。Ⅰコリント12:18から、パウロは私たちのからだにたとえてこのように言います。「しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」、パウロが教えることは、みな働きは違う、あなたは貧しい環境に生まれ育ったかもしれない、あなたは裕福な家庭に生まれたかもしれない、あなたは教育熱心な家庭に生まれかもしれない、そうでない家庭に生まれたかもしれない、どんな家庭であってもどんな境遇であっても、神はあなたは大切なものだと言われるのです。神はあなたに対してすばらしい計画をもっておられると言うのです。ですから、私たちは人と比較することは止めて、神が私を造ってくださったという、この真理をしっかり覚えることです。人が何と言おうともです。そして、私たちがあのような人でないから私は不幸だとか、あの人が持っているものを私はもっていないから私は劣るとか、私はあのような学歴がないからだめなんだとか、地位がないから…と、そのような空しいことを捨てることです。神はそのようなことによってあなたを見ているのではないのです。神の評価は勉強ができるかどうかで変わるものではありません。神の関心はそのような世の中の人々が関心を払うものにはないのです。神の関心はただ一つ、あなたが創造主なる神の前に従順であるかどうかです。世の中の人々は私たちの外側を見ます。多くの人はそのような立派な人といっしょにいたら何か恩恵を蒙るからと考えます。そのような中に生きている私たちはともすればそのように人を見てしまいます。悲しいことに、私たちはそのように人を差別する社会の中に生きているのです。私たち一人ひとりはよく考えなければなりません。私たちの国でもいろいろな差別があります。私たちクリスチャンはそこから解放されたのです。私たちにとって、どこで生まれたなど関係ありません。私たちの価値観は変わらなければいけません。神がもっておられる価値観です。神は言われます。すべての人は神によって造られた大切な存在だと。神はすべての人を平等に見ておられると。奴隷は自分の身分を卑下する必要はなかったのです。神はそのことを分かってそこに置かれたのです。彼の責任は、そのことを卑下して神に怒って人生を無駄にすることではなくて、地上の主人に従って行くこと、それは天の主人に従うことになるからと言います。地上の主人たち、あなたたちに必要なことは差別することではなくて、あなたたちの天の主人に対して従順でありなさいと言います。神がすべての人間に望んでおられることは同じことです、「従順でありなさい」です。

 クリスチャンである皆さん、この価値観をもって私たちは歩まなければいけません。偏見をもって、差別をもって私たちが生きるなら、悲しいことに、その歩みは神の前に間違っています。主がご覧になるように私たちは人を見るのです。すべての人は神によって造られた尊い存在です。私たちは主によって贖われた者として、この主が望んでおられることを実践して行かなければなりません。どんな環境にあっても、あなたの責任はあなたの主人に対して忠実であることです。それが、主が望んでおられることです。どうぞ、そのことを覚えてこの1週間を歩んでください。神はあなたを用いてくださる、そして、私たちがこの世に発するメッセージというのは、すべての人は神に愛されている尊い平等な存在だということです。そして、あなたの責任は造られた者として造ってくださった主に従って行くことであると。

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