06/10/22 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:神に喜ばれる家族 2
聖書箇所:コロサイ人への手紙 3章20-21節
主イエス・キリストとの新しい関係は私たちの人間関係に影響を及ぼしました。前回見たように、神は夫婦の関係に大きな影響を及ぼしてくださいました。今日は、親子の関係において神がどのようなことを教えてくださっているのか見て行きます。みことばをご覧になれば分かるように、3:20は子どもに対する教えであり、21節は親に対する教えが記されています。まず、20節の子どもに対する教えから見て行きましょう。
☆子どもたちに対する教え
20節に「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。」とあります。パウロは子どもたちに対してひとつの命令を与えています。それは「すべてのことについて両親に従いなさい」という命令です。すでに見てきているように、パウロはこのコロサイ人への手紙と同じ時期に、エペソ、ピリピ人への手紙を書いています。エペソ人への手紙を見るとて、今、私たちが見ている同じ教えをパウロが与えていることに気付きます。エペソ6:1には「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。」とあります。この教えを見た時、これは新約聖書に出てきた新しい教えではなくて、実はモーセが十戒を授かった時に、その中に記されていた教えのひとつです。「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト20:12)。ですから、旧約の中を見ても、新約を見ても、子どもがどのように親に対するべきなのか、どのような責任があるのかは明らかです。それは、子どもたちは親に従って行くことです。この教えを明確に見て行くために、ここで記されている「子どもたち」とはどういう人たちを指すのかを考えなければなりません。ここで言われている「子どもたち」とは、まだ親と同居している子どもたちのことです。親によって守られ、養われている状況にいる子どもたち、親の保護下にいる子どもたち、親元を離れて独立していない子どもたちのことです。そのような子どもたちに対して与えられている命令は「従いなさい」ということです。新約聖書の中に21回も出てくることばです。「従う、服従する、耳を傾ける、よく聞く」という意味を持ったことばが使われています。このことばがどんなところでどのように使われているのでしょう。ひとつは自然界に対して使われています。イエスが弟子たちと船に乗ってガリラヤ湖に漕ぎ出しました。そのとき、大暴風雨に襲われました。すごい嵐です。弟子たちは船が沈むのではないかと恐れイエスのところに行き助けを求めました。マタイ8:25「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」と…。そのとき「:26 イエスは言われた「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」、それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。:27 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」、ここに出てきた「言うことをきく」ということばが「従う」ということばです。イエスが命じると自然界がイエスに従いました。風に対して、湖、波に対して言われたら、その通りに従った、このことばが子どもたちに対して使われている「従う」ということばです。
また、別の箇所、マルコ1章を見ると、イエスがカペナウムの会堂におられた時に、そこに汚れた霊につかれた人がいました。その人に対して「1:25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。:26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。:27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」と、ここに「従う」ということばが使われています。ですから、コロサイ、エペソで使われていることばは、子どもたちが自ら進んで親の言うことに耳を傾けようとする、親が命じるその命令に服従しようとする、親から与えられている教えに従って行こうとすることです。なぜなら、親を愛し敬っているからです。そのような態度をもって親に従って行くようにというのが、コロサイ3:20やエペソ6:1でパウロが教えていることです。しかも、この「従う」が現在形であるのは、1回従ったらそれでよいというのではなく、継続して習慣的に子どもたちよ、親に従って行きなさいと教えているのです。皆さんに思い出していただきたいのですが、私たちが子どもだったとき、私たちは親に従いたくない、親が言ったことに従順でありたくないと、そのようではありませんでしたか?今、子育て中ならそのことを経験しておられるかもしれません。子どもたちはなかなか従って来ない、何が原因なのでしょう?罪です。従いたくないという罪です。パウロは教えています。Ⅱテモテ3:1-2には「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。:2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、」と、社会はだんだん悪くなっていって、ますます親に従わなくなって行くと言います。今、まさにそのような時代になっています。
親に従う理由
1)主が喜ばれることだから
パウロは子どもたちになぜ親に従うべきなのか、その理由を教えています。コロサイ3章を見てください。3:20に「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。」とあります。つまり、私たちがなぜ親に従って行くのか、親の保護下にいる子どもたちがなぜ親に従うのか、その理由が書かれています。それを主が喜ぶからだと言います。主に喜ばれること、それは主が喜んでくださることを行なっているからです。当然のことです。ですから、確かに、コロサイ3:20には「すべてのことについて、」と書いてあるのですが、例外があるのです。もし、私たちの親が神が喜ばれないことを命じた場合、それは例外です。神に逆らうことをしなさい、罪を犯すことに従っても神は喜ばれません。子どもたちの責任は主に喜ばれることを行なって行くことだからです。主に喜ばれることをして行くとき、すばらしい祝福がそこにあります。神からの祝福をいただこうとするなら、神が喜ばれることを行なって行くことです。エペソ6:2-3でパウロはそのことを教えています。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。」と、二つの祝福された約束がここに出てきました。
◎祝福の約束
(1)「あなたはしあわせになる」
子どもたちにぜひ聞いておいていただきたいことは、神があなたを豊かに祝してくれるためにあなたに必要なことは、あなたが本当のしあわせを手に入れるために必要なことは、親の教えに従って行くことです。ここで使われている「しあわせになる」ということば、「しあわせ」という副詞ですが、どこに使われているでしょう?イエスがマタイ25章で話されたことがあります。主人が自分のしもべたちに5タラント、2タラント、1タラント預けて旅に出ました。そして、戻って来て清算しました。5タラントと2タラント預かった者は、それを用いて働きをしました。そして、戻ってきた主人の前で「:20 ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」と言ったそのとき、主人は「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と答えています。この「よくやった」ということばがここで使われている「しあわせ」です。私たちは皆しあわせを求めています。親である皆さんも子どもたちの寝顔を見てそのように思われるでしょう。子どもたちを神が本当に祝してくださるようにと願います。自分よりも何百倍も何千倍も祝して欲しいと願います。
子どもたちがしあわせになるために必要なことは聖書がもう教えてくれています。私たちは分かっています。どんなに財産を蓄えてもそこにしあわせがないことを、どんなに名声を博してもそこにしあわせがないことを。いったいどこにあるのか、みことばが教えてくれています。神にしかないと。だから、私たち親が子どもたちに教えて行くことは、本当のしあわせを与えることのできる唯一のお方である神を受け入れ、その方に従って行くことです。それしかないことを子どもたちに教えて行かなければいけません。そして、子どもたちにパウロが教えることは、あなたが本当のしあわせを手に入れるためには、神が教えているように、あなたの両親に従って行くこと、あなたの両親が教えることにしっかり従って行くことです。ですから、神の祝福を私たちが手に入れるためには、神が喜ばれることを行なって行くことしかないのです。預言者であるエレミヤはこのように言いました。「17:5 主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。:6 そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。」(エレミヤ17:5-6)と。神に信頼することがない、神を受け入れることもない、神に背を向けて生きる者に、神の祝福、神のしあわせが訪れることはないと言うのです。ですから、まだ親元にあって、親によって養い育ててもらっている一人ひとりの若い人たち、あなた方が親の言うことにしっかり耳を傾けて従って行くなら、神はあなたを祝してくれる、あなたにしあわせを与えてくれると約束してくれています。
(2)「地上で長生きする」
これは人生の長さのことではありません。神に祝されたならあなたは100歳まで生きますと、聖書はそのようなことを約束していません。確かに、長生きすることも神の祝福ですが、実際には、若くして殉教していった多くのクリスチャンたちがいます。彼らは祝されていなかったのでしょうか?いいえ!ですから、これは人生の長さ、年数の長さではありません。人生の質のことです。豊かで有意義な、満ち足りた人生を送ることができるというのです。神から与えられた人生を祝福のうちに過ごして行くことができると言うのです。悲しいことに、自らの不従順の罪ゆえに無駄な人生を過ごしている人々が多いし、過ごした人々が多いことは事実です。パウロは、もしあなたが両親の教えにしっかり従って行くなら、神はあなたを祝して、あなたを本当に実り豊かな人生を過ごすことができるようにしてくださるというのです。神が祝された人生を全うすることができるのです。パウロが「私は…走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテモテ4:7)と言いました。彼自身、死を目前にしたときそのように言ったのです。パウロは自分の人生を振り返って後悔していたでしょうか?やるべきことはやって来たと言っています。なぜなら、彼は毎日の生活でそのように主に対して従順に従ってきたからです。罪を犯せばそれを告白して正しく生きようとしたのです。そこでパウロは子どもたちに言うのです。あなたたちは神の祝福を得ることができる、そのために必要なことは神の教えにしっかり従って行くことだと。神はこのことを子どもたちに教えておられるのです。それが神の喜ばれることだから、しっかり親に従って行きなさいと。
2)正しいことだから
エペソ6:1には「…これは正しいことだからです。」とあります。神が喜んでくださるだけでない、それは神の前に正しいことなのです。若い皆さん、あなたの中にある罪は親に逆らうようにと言います。あなたが神の祝福を得ようとするなら、神の言われることに耳を傾けなければいけません。あなたにできることはあなたの両親の教えに従って行くことです。それを神が望んでおられるからです。しっかり考えてみてください。これは神に喜ばれることかどうかと、喜ばれることなら実践して行くことです。そのことをパウロはここで教えているのです。
☆親に対する教え
コロサイ3:21に「父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」、エペソ人への手紙にも教えられています。二つの教え、二つの命令を見て行きます。その前に、昨日、帰りの飛行機の中である雑誌を読んでいるとき、一般誌ですが、このような面白い記事がありました。アメリカ、ペンシルベニア州立大学のポール・アマトという社会学者の調査結果ですが、彼は離婚した父親と彼らの子どもに関する63の調査を分析しました。その結果、子どもが彼らの父親を身近な存在と感じ、父親が威厳をもって子育てを行なうなら、その子どもは学校で良い成績を取り、放課後、トラブルに巻き込まれることがより少なかったと言うのです。一般の社会でもそのように言っています。親はしっかり子どもを育てなければいけないのです。もし、子どもが親を身近な存在と感じ、親がしっかり威厳に基いて(この威厳は神のことばがこのように教えているからと神の権威に基づいています)子育てをするなら、神の約束は、その子どもたちは変えられて行く、すばらしい祝福をいただいて行くと言うのです。二つの命令を見て行きましょう。
◎親への命令
1)「子どもをおこらせてはいけません」
否定的な命令です。コロサイ3:21に「子どもをおこらせてはいけません。」と、子どもたちをおこらせてはならない、子どもたちが激高するようなことがあってはならないと言います。ここで使われていることばは、その子どもたちの心の中に怒りが据えられるということです。子どもが心の中でイライラした状態であるということです。心の中に憤りを持ち続けている状態にあるということです。パウロがこの命令を現在形で言っているのは、ずっとこのような状態に子どもたちが陥らないように気を付けていなさいということです。誤解がないように、この「父たちよ。」ということばですが、これは父親だけを指しているのではなく、ヘブル11:23を見ると「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。」、ここには両親と言っています。ですから、これは父親だけに与えられた命令ではありません。母親も当然含まれるのです。親としてこのような責任があるということを教えるのです。ではなぜ、父といっているのか、家庭においての責任が父親にあるからです。父親は神からそのような大きな責任をいただいているのです。コロサイ3:21を見ると、なぜ「子どもをおこらせてはいけない」のか、「彼らを気落ちさせないためです。」とあります。彼らが落胆してしまわないように、彼らが元気を失ってしまわないように、と言っているのです。というのは、私たちのすること、私たちの語ることによって、子どもたちが元気を失ってしまうこと、落ち込んでしまうことがたくさんあるのです。たとえば、いつまで経っても子どもたちを信じない、信頼しない、信用しない、そうすると、子どもたちは心の中で「僕のお父さんはいつまで経っても僕のことを信用してくれない、ずっと疑っている」と思い、心の中にイライラが出てきます。兄弟の中で不公平をする、お兄ちゃんはよくできるけどお前はなぁと、ふっと口をついて出てくることかもしれません。しかし、そのように兄弟に差別をしてしまう、僕はこれだけ頑張っているのにお父さんは認めてくれない、子どもへの期待が余りにも大き過ぎる、私たちはそれが原因となって悲しい事件を引き起こした子どもたちのニュースを聞いています。そして、どんなにやってもやっても認めてもらえない、忙し過ぎて子どもたちと時間を取らないこと、うちのお父さんは忙しすぎて僕と時間をとってくれない、子どもはどう思うでしょう?お父さんには自分と仕事とどっちが大切なのか、お父さんは仕事のほうが大切なのだ、私たちは言います、仕事だから、仕事しなければお前たちは食べて行けないだろうと、でも、本当にそうでしょうか?子どもの過ちを責めながら、自分が同じ過ちを犯しても謝ろうとしない、お母さんずるい、なぜ自分ばかり責められるのだろうと、もし子どもたちが僕のことなんかだれも愛してくれていない、僕なんか必要とされていない、そのように子どもたちが思ったときに、子どもたちの心の中には今私たちが見てきたような怒りが芽生え始めて行くのです。そのようなことを子どもたちの中にもたらしてはならないというのが、パウロが教えていることです。だから、私たちのすること、私たちの態度、私たちのことばには注意しなければいけないのです。
2)「育てなさい」
今度は肯定的な命令です。エペソ6:4には「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。」と今コロサイで見ました。その次、「かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあります。「育てなさい」というのが二つ目の命令です。神が親に命じていることは子どもたちを育てて行きなさい、この「育てる」とは栄養を与えて成人に育て上げて行くということです。そのように継続して行なって行きなさいというのです。だから、私たち親は子どもたちが成長するように一生懸命いろいろなことをするのですが、子どもたちが成長するにあたって私たち親は目標を持たなければいけません。こういう子どもになってほしいという目標です。皆さん、あなたの子育ての目標は何ですか?ある人はこう言うかもしれません、救いです。子どもが救われてくれたらそれでいいと。もし、そのように思っておられるなら、残念ながら、それは目標ではないのです。なぜなら、皆さん自身を考えてください、皆さんは何のために生きておられますか?イエスによって救われたあなたは何のために生きておられますか?救われるためですか?救われたあなたはそれがスタートラインで、新しい歩みを始めたわけです。それは、神の栄光を現わすためです。それなら、私たちも自分たちの子どもに望むことも同じはずです。この子どもたちが神の栄光を現わす者として成長して行くことです。それが私たちの目標である以上、子どもたちも同じ目標に沿って生きて行くことを望むはずです。だから、パウロはⅡコリント5:9で「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」
と言っています。パウロが望んだことは「主に喜ばれること」でした。それなら、私たちも子どもたちに教えることは、子どもたちが生きていても死んでいても「主に喜ばれること」を最優先して生きるようにということです。これが神が親に命じていることです。これが聖書が私たちに教えることです。
◎どのように育てるのか
どのようにしてそれを達成するのか、それがここに書かれています。「主の教育と訓戒によって」それをしなさいと言います。「教育」とはしつけをすること、必要なら懲らしめを与えること、訓練をすること、そして、「訓戒」とは警告を与えるとか、忠告するということです。つまり、パウロが私たち親に言っていることは、子どもの悪い行いを見て、その悪い行いを正して、正しい生活をするように計画的に継続して訓練して行くことです。子どもたちは皆罪をもって生まれて来ています。だから、罪を行なうのです。環境が罪人にしているのではありません。だから、私たち親は子どもたちが正しいことを行なうように訓練しなければいけないのです。ソロモンは箴言13:24で「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」と言っています。つまり、私たちは子どもを愛するゆえに、子どもが間違ったことをしたときはむちを与えるべきだと言うのです。体罰のことです。同じ箴言の22:15では「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。」と言います。残念なことに、子どもは生まれながらにそのような愚かなこと、罪を行なうのです。だから、そのように懲らしめによってしっかりそれから離れるように訓練しなければいけないということです。また、箴言29:15では「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。」とあります。わがままにさせてはいけない、しっかり訓練しなさいと言います。私たち親はことばをもって行ないをもって彼らを訓練し教育して行くのです。必要なときには励ましのことばによって彼らを励まして行くのです。彼らが悪いことをしたときには、愛をもって彼らを矯正して行かなければいけません。
私たちが子どもを教育して行くとき、私たちは彼らの心が変わることを目標にしなければいけません。たとえば、子どもがある行動を取る、騒ぐ、いうことを聞かない、それをパンパン叩いてその行動が納まったからそれでよかったのでしょうか?決してそうではありません。そのような行動をもたらしている彼の心が変わってこないと、先ほどから見ているように、力づくでその行動を押さえ付けても心が納得していなければ心の中に怒りをもつのです。そういう子どもは、小さいときはまだしも、大きくなって体力がついて来ると親に反抗し始める、家庭内暴力が起きてきます。それは、子どもの頃から子どもたちが心の中で納得していないからです。心の中に怒りをもっているからです。私たちの子育てにおいての責任は、人から誉められるような子どもを作り出すことではありません。子どもたちの心に語りかけて、子どもたちが正しいことを愛するように、神を喜ばせることを喜びとするような子どもたちとなるように、心に働きかけて彼らを教えて行かなければならないのです。そして、間違ったことをしたときには、私たちは愛をもって体罰をすることです。子どもたちは分かります。親が自分を愛してくれているかどうかが分かります。そのために私たち親がしなければいけないことは何でしょう?
◎親がするべきこと
(1)感情的に行動しないことです。子どもたちは見ていて、今日は機嫌が悪そうだから近づかないでおこう、今日は機嫌がよさそうだと、すぐにあなたの心を見破ります。感情的になってひどいことを言った、子どもを叩いた、それは何のレッスンにもなっていません。却って、マイナスのレッスンを与えているのです。感情的になったときはこういう行動をしてもかまわないということを教えてしまっているのです。私たちが子どもたちを見ていつも考えなければいけないことは、私たちはこの子どもたちをしっかり教育しなければいけないということです。そのために必要なことは、私たちの心が決して感情に支配されていないことです。自分の怒りをぶつけているだけではその子どものためではありません。ただの利己主義でしかありません。
(2)一貫性をもつこと、子どもを育てて行くとき、子どもを叱るときに、このときは怒られたけれどこのときは怒られなかったと、そんなことがあってはならないのです。
(3)子どものために時間を取ること、モーセが神の命令を人々に与えたとき、子どもを教えることに関してモーセが言ったことは、申命記6:7「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」と、つまり、あなたは時間を取って、あらゆる機会を用いて子どもたちを教えて行きなさいというのです。時間を取らなければ彼らの心が見えてきません。子どもたちに真剣に神について、信仰の歩みについて教えてあげなさいと言います。いろいろなレッスンを与えることができます。失敗したときにどうすればいいのか、どのようにその失敗に立ち向かって行くのか、いろいろな問題を抱えていたなら、その問題にどのように向かって行けば神が喜んでくださるのかと、いっしょに考えることです。時間を取らなければなりません。
(4)自分の模範をもって子どもたちを教えて行くことです。恐らく、これが一番難しいことでしょう。神の栄光のために生きてほしいと願っているのは子どもたちだけではありません。自分自身もそのことを願って生きているゆえに、まず、自分がそのように生きることです。私たち自身が罪を犯したらその罪を告白することです。子どもに対してでも詫びることです。あやまちを認めることです。そうすることによって、私たちは子どもたちに大切な模範を示しているのです。私たちが何か間違ったことをしてもそれを平気で過ごしてしまうなら、それが子どもたちに与えたレッスンです。あなたの責任はまず、あなたが神の前に正しく生きることです。そして、願わくば神が私たちのような不完全な者を用いてくださって、祝してくださって、子どもたちにすばらしい模範を残して行くことです。みことばの中を見たとき、良い模範を示した人々、そうでない人々の例がたくさん出てきます。たとえば、旧約聖書の中で、Ⅰサムエル2章にエリのことが出てきます。有名な祭司でした。ところが神は彼のことを喜ばれなかった。エリには二人の子どもがいました。ホフニとピネハスです。この二人の子どもたちは彼と同じように祭司でした。ところが、この子どもたちは大変な子どもたちでした。このエリに対して神の人はこのように言われます。Ⅰサムエル2:29「なぜ、あなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住む所で軽くあしらい、またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。」と。彼らの犯した罪の一つは、彼らは神へのささげ物を軽くあしらったのです。ホフニとピネハスは人々が持って来るいけにえの中の一番良い部分を自分たちのために使ったのです。神にささげる物を彼らは自分たちのために取ったのです。貪欲の罪です。しかも彼らは、そのようなことを行なっていながら、改めようとしなかった、神に対して冒涜の罪を重ねたのです。それに対して父親であるエリは、注意は少しはしていますが、みことばを見るとこうあります。「またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、…」
と、この「あなた」というのはエリのことです。つまり、エリは神を愛するよりも自分の息子たちを愛したのです。そして、そのような罪を犯している息子たちをさばくことなくそれを容認したのです。そのエリに対して神は非常に厳しいことを言われたのです。エリは良い模範を残さなかったのです。子どもたちは神に逆らう者として生活を継続したのです。悲しいことです。間違った模範を示すとき子どもたちは間違った方向に進んでしまうのです。
良い例は、テサロニケの人々のことです。テサロニケの教会のクリスチャンたちはすばらしい模範となりました。マケドニヤやアカヤの地方において、彼らの信仰が人々の間で明らかにされたのです。すばらしい模範だとパウロは称賛しています。彼らの信仰、希望、愛はマケドニヤ、アカヤにおいて模範となっていると。Ⅰテサロニケ2:8-12「このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。:9 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。:10 また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。:11 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、:12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。」
先に話したように、クリスチャンの親である皆さん、もう子育てを終わって孫を見ておられるクリスチャンである皆さん、そして、子育てをしていない皆さん、あなたがどのカテゴリーに属するかが問題ではありません。あなたは信仰の先輩として大きな責任をもっているのです。信仰者として後に続いて来る人々に、それが自分の子どもでも、孫でも、そして、教会の子どもたちであったとしても、あなたは信仰者として彼らの前に模範を示すのです。なぜなら、神が望んでおられることは、神が託された子どもたちを正しく育て続けて行くという責任を神がくださったからです。私たちはそのようにして子どもたちを育てて行くことが必要なのです。それが神が望んでおられることなのです。この働きというのは、教会や教会学校だけの働きではないのです。残念ながら、多くの人々は教会にさえ連れてくれば、日曜学校にさえ入れておけば大丈夫だと思います。でも、聖書を見たとき、この子どもを養い育てて行くという責任は、教会にではなく家庭に与えられているのです。子どもたちに体罰を与えるというのは親に与えられている責任なのです。なぜなら、その子どもたちは神があなたのところに託してくださったからです。託されたあなたの責任は、その子どもをしっかり正しく導いて行くことです。親がするべき責任です。
旧約聖書の中に、アブラハムが召されたその理由が記されています。創世記18:19「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」とあります。神がアブラハムを選び出した目的は、アブラハムが自分の子どもたちとその後の家族に命じるためだと、何を命じるのか、「主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため」です。つまり、アブラハムには大きな責任があったのです。自分の子どもやその子孫に教えを為すという責任です。神の前を正しく歩んで行くようにと。そのような責任を私たちは神からいただいているのです。テッド・トリップという牧師が「親と子のコミュニケーション」という本を書きました。その中で彼はこのようなことを言っています。「あなたは家庭に子どもがいる間は、子育てをあなたの最も大切な仕事として心得るべきです。これはあなたに与えられた使命なのです。あなたは神への恐れと主の教えによって子どもを育てなければなりません。そのためには、あなたは子どもと細やかなコミュニケーションをとって、人生や神の世界について理解させるために、時間と労力をささげる必要があります。これ以上大切なことはありません。このことに時間と労力をささげることができるのは、人生のほんのひとときに過ぎないのです。あなたに与えられた機会は一度しかありません。そのときに戻ってもう一度やり直すことはできないのです。」と。
今、私たち親に神はこの大切な務めをくださった、この神から託された子どもを正しく導いて行くという責任です。私たちがしなければいけない優先順位において最も大切な働きです。どのようにして行けばいいのか、私たちは今日そのことを見てきたのです。しっかりみことばにあって子どもたちを導いて行くことです。子育てをしておられる皆さん、どうぞ、その働きを優先してください。どんなに富を積んでも、どんなに名声を博しても、子どもたちが神を畏れる者にならなければ、私たちは神が私たちに子どもを託してくださったその大きな責任を果たしたことにはなりません。もう子育てを終えてしまったという人、この話を聞いて、もう一度その時間にその時代に戻ることができればと、後悔を心に抱いておられる皆さん、神のことばはいつも私たちに希望をくれます。決して手遅れではないのです。今からあなたにできることは、あなたが本当に心から神を愛して、神を第一に愛して歩んで行くその歩みを始めることです。あなたが神に対して忠実に歩み続けて行くことです。子どもたちの前で、孫たちの前で、教会にあって、教会の子どもたちの前で、あなたが模範として生き始めることです。私たちは謝るべきことは謝らなければいけません。お父さんは今まで間違っていた、お母さんは間違っていた、許してね、お父さんはこれから神の前に正しく生きて行きたい、お母さんはこれから神の前を正しく生きて行きたいと、新しい歩みを始めることです。そのとき、神はあなたのうちに働いてあなたを変えて行きます。そのとき、あなたの家庭の中に神のすばらしいみわざが為され始めるのです。神がしようとしていることは、私たちを変えようとすることです。私たちの責任はまず私が変えられて行くことです。どうぞ、神さま、この働きを私から始めてください、あなたに喜ばれる親となるように、あなたが喜んでくださるおじいちゃん、おばあちゃんとなるように、あなたが喜んでくださる教会のおとなとなるようにと、一人ひとりがそのように求めて行くなら、神は私たちを用いてくださいます。
この大切な子育てを神の知恵によって、神の助けによってなして行きましょう。