礼拝メッセージ要約

Assisting the study of God's Word

2006/10/01 礼拝メッセージ

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Messenger: 近藤修司
Passage: コロサイ3:17
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06/10/01  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

主  題:新しい生活4

聖書箇所:コロサイ人への手紙 3章17節

 イエスを信じて新しく生まれ変わったクリスチャン一人ひとり、私たちは新しい生活を始めています。主とともに歩むという新しい歩み、新しい生活です。その新しい生活の特徴について私たちはこれまでに三つ見てきました。神がすばらしい恵みによって私たちを救いへと導いてくださった、それだけでなく、毎日の生活においても、私たちが気付いていないだけで、神は私たちの思いをはるかに越えたすばらしい祝福を一人ひとりに与えてくださっています。その恵みをいただいた者として、その恵みを与えてくださった神に対して、どのようにふさわしく生きて行くべきなのか、今日私たちはその四つ目のことを見て行きます。新しい生活の特徴の四つ目です。その前に、これまで見てきた三つのことはどのようなものであったか振り返って見ましょう。

☆新しい生き方の特徴

1.愛、神によって愛された者はその愛をもって人を愛するようになります。

2.平安、神の平安が私たちの心を支配し続けるように、これは可能なことです。私たちの心が神の平安によって満たされ続けるのです。どんなときにもこの平安によって私たちは歩むことができると、このような人に私たちは生まれ変わったのだとパウロは教えてくれました。そして、この平安をもっている人は平和を作り出す人です。

3.神のみことば、それがその人のすべてを支配しているのです。新しく生まれ変わった人は聖書のおことばによって歩んで行こうとする人です。私たちの行動も私たちの意志も感情も考えも、そのすべてを司っているこの心が神のことばで支配されるように、そのことを願いながら歩んでいる人々であると言います。

 これら三つのことを私たちは学んできました。そこで皆さんにもう一度思い出していただきたいこと、それは、神のことばであるこの聖書が神の祝福をいただくために最も大切なことの一つである、主の祝福をいただくためのそのカギはこの神のおことばであるということ、そのことを私たちはしっかり覚えておきたいものです。というのは、聖書を見るとき、みことばはそのことを何度も私たちに教えているからです。たとえば、詩篇1篇を見ると、そこに神は私たちが今学んでいることを教えてくれています。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」と神が祝福を与える人々、神が喜ばれる人々とはどういう人なのかをこの著者は教えてくれるのですが、まず最初に彼は、神に祝される人はこのようなことをしない人であると言います。それは、みことばに反することをしないということです。それがこの1節で著者が教えることです。神のみことばに反することをしない、そうすれば、あなたは神の祝福をいただくのだということです。というのは、ここに出てくる「悪者、罪人、あざける者」は皆共通しています。神のみことばに従って行こうとしない人です。「悪者」は神に対する状態を表わします。神に敵対し神に逆らう人々のことです。生まれながらの私たちは皆そうでした。私たちを造ってくださった創造主を信じることもなく、その方に従うこともなく、私たちは自分の都合で様々な神というものを造って来たのです。私たちが崇拝してきたものはこの宇宙のすべてのものをお造りになることができる方なのでしょうか?残念ながら、この多神教の国に生まれた私たちはいろいろなものを神として崇拝して来ました。聖書が私たちに教えることは、神と呼ぶにふさわしいお方は、この世界のすべてのものをお造りになり、私たち人間を造り、いのちを備え与えてくださった方だけです。悪者というのは、その神に背を向け、その神から離れ、その神に敵対している人のことです。二つ目の「罪人」というのは、その人の生き方です。神の前に正しく歩んで行くのではなく、神が望んでおられる、神が喜ばれる、神が求めておられる、その正しい道から外れてしまっている、的を外した生き方、歩むべき道から外れてしまった生き方、つまり、罪の生き方を行なっている人々のことです。「あざける人」とは神への態度です。また、神を信じ神の前に正しく生きようとする人々に対する態度でもあります。彼らの態度は、神に対してあなたなど必要としませんと、神に正しく歩もうとする人々をあざけるのです。このような人々のことを言うのです。初めに言ったように、彼らに共通するのは、すべて神のみことばに反する生き方をしている人々です。みことばに従おうとせず、自分の考えに従って歩み続けようとしている人々です。ですから、この詩篇の著者が最初に教えることは、このような人々とともに歩まないということです。彼らの生き方に倣って彼らと同じように生きるのではなくて、そのような生き方から離れて正しく生きるということです。

ですから、最初にしないことを教えた著者は、今度は2節にどういうことをするのかを教えてくれます。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」と記しています。二つのことを教えています。一つは、みことばを喜ぶということです。みことばを学ぶことを喜ぶし、みことばを実践することを喜ぶということです。そして、二つ目は、みことばを反芻するということです。「昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」と。どうでしょう皆さん、あなたにとってみことばを学ぶというのは一番の喜びでしょうか?みことばを学べるということは本当にすばらしい、そのことを楽しみし、そのことを喜びとし、期待しながら学んでおられますか?また、私たちは日曜日のこの特別な時間にみことばをごいっしょに学ぶわけですが、学んだみことばを1週間どれくらいの期間覚えていますか?もう駐車場に行くまでに忘れてしまうかもしれません。だから、祝福をいただけないのです。原因はそこにあるのです。みことばが教えてくれることは明らかで、神が祝福する人々、神が喜ぶ人々とは、みことばに反することをしないだけでなく、今度はそのみことばを愛して、そして、みことばをいつも覚えてみことばに従って行こうとする人々です。だから、神はその人を祝福すると言います。

3節に「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」と、聖書を見たとき、神は、神を愛し、神が喜び、また、神が愛する人々に何の問題もありませんと約束してはおられません。神の前を正しく歩んでいる人が困難や様々な迫害に遭遇しませんと聖書は言っていません。かえって聖書の約束は、たとえあなたがそのような中を歩むことがあったとしても、あなたはその中にあって豊かな実を結ぶことができます、その中にあって喜ぶことができます、その中にあって感謝することができますと言っています。しかも、そのようなことを通して、その人は変えられて行くのです。その人はますます神に喜ばれる人に、言い方を変えるなら、キリストに似た人に変えられて行くのです。そのために私たちは救われ、そのために生かされているのです。そのような働きを聖霊なる神は私たちのうちに為そうとしているわけです。では、そのような者に私たちが変えられて、神の祝福をいただきながら歩んで行くために必要なことは、今見て来たように、私たちがこのみことばに対してどのようなことをするのか、また、どのようなことをしないのかということ、そこに掛かっています。アメリカ・ミネソタ州の教会の牧師ジョン・パイパーは「クリスチャンの生活、それは記された神のおことばである聖書の上に生きることである。本当のクリスチャン生活における私たちとみことばとの関係は、活動的であって非活動的ではない。」と言っています。彼が言いたいことは、つまり、私たちは消極的に何もしないでただ神が何かをしてくださるのを待っているのではだめだというのです。私たちはみことばを聞き、みことばに従って前に進んで行くことが必要なのです。もし、クリスチャンが消極的であれば、神に対して何かやってみてくださいというような態度をもっているなら、なかなか何も起こって来ない、私たちはそれを追及するのであって、それが起こるまでただ待つのではないと言います。あなたの信仰生活はどうでしょう?これまでの信仰生活を振り返ってみたとき、神に対して、もっとしましょう、もっと何かをさせてくださいと、そのような積極的な信仰生活だったでしょうか?神のみことばを見て学んで、そして、教えられたその真理に対して、主よ、私はそのように歩んで行きたい、そのようにして行きたいと積極的に歩んできたのか、それとも、だめです神さま、時間がありませんと言って消極的に歩んで来たのか、私たちは信仰において進取的であって退嬰的であってはならないのです。前に進んで行くことです。神の約束をいただいたなら、その約束を受けて歩み始めることです。そこで立ち止まっていては何も起こらないのです。ですから、私たちの信仰生活をもう一度考えたとき、神はこのようにみことばを通して神が何を望んでおられるのか教えてくださる、それをいただいた私たちの責任はそこから歩み始めることです。それにはみことばを実践することです。神はそれを助けてくださいます。みことばがあなたの生活に活きて行くならあなたは変わって行きます。神があなたのうちに働いて行かれます。

みことばが私たちの心を常に支配しているように、このみことばによって私たちが歩んで行こうとするなら、神はすばらしい祝福を与えてくださるし、私たちはこのすばらしい主の証を為し続けて行くことができるのです。四つ目の特徴を見ましょう。コロサイ3:17のみことばに記されています。

4.従順 17節

「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」。この従順に関して三つのことを見ます。

1)従順の範囲

 多くのクリスチャンに、この時間は神のため、この時間は自分のためというようなことがよく見られます。日曜日は神のため、月曜から土曜までは私のためというような…。果たして、それは神が望んでおられる従順でしょうか?みことばを見てください。「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、」とあります。ここには「ことばによると行ないによるとを問わずと、つまり、パウロはあなたのすることすべてと言うのです。パウロは「ことば」「行ない」

と言いました。Ⅰコリント10:31ではパウロがこのように言っています。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、…」と。つまり、こういう日常の行為からすべての行為を言うのです。コロサイ3:17でパウロが教えていることも私たちの「すべて」のことです。従順に関して神があなたに望んでいることは「あなたのすべて」です。あなたのすべてをもって主に従って行くということです。

2)従順の模範

 二つ目に、私たちの従順に関する模範を見ます。それはこの17節の真ん中にあります。「すべて主イエスの名によってなし、」と言います。「主イエスの名」とはイエスご自身を指しています。ですから、「イエスご自身によってなしなさい」とも言えるのです。つまり、パウロがここで言いたいこと、教えたいことは、クリスチャンであるあなたは、あなたのすべてにおいて、あたかも主がなされるように行なって行きなさいというのです。主が行なわれるように、主が語られるように、あなたのすべてのことを行なって行きなさいと。私たちの主であるイエスのみこころ、イエスが望まれること、喜ばれることを行なって行くということです。それは、神のみこころでないこと、神が悲しまれること、喜ばれないことを行なわないということでもあります。そのように私たちが歩んで行くなら、先ほどⅠコリント10:31で後半の部分を残したのですが、パウロはこう言いました。「ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」

と、そのことが初めて実現するのです。そして、その栄光を現わすために、つまり、神とはどんなにすばらしいお方なのかということが明らかにされて行くために必要なことは、私たちが為すことすべてにおいて、あたかも主がなされるように、主がなされるようなこと、主が語られるようなことを、私たちが語り行なって行くということに掛かっているのです。

 山上の説教の中でイエスは、マタイ5:16「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と教えておられます。

イエスがここで教えられたことは、クリスチャンである一人ひとりが人々の前で、神がどんなにすばらしいお方であるかを明らかにして行きなさいということです。どのようにするのでしょう?それは、あなたがたの良い行ないによってです。私たちが神の前に正しいこと、神が喜んでくださることを行なって行くなら、間違いなく、私たちのその生き方を通して、主のすばらしさが明らかにされて行きます。それは、イエスが望まれたことであり命じられたことです。なぜ、私たちがこのように主に従って行くのかというと、それがクリスチャンだからです。私たちは主イエス・キリストのしもべであり、主イエス・キリストの弟子であり、主イエス・キリストのこの地上における代理なのです。私たちはこの地上にあって、神がくださっている今日という一日を用いて何をしようとしているかというと、私の救い主である、私の主人であるイエスがどんなにすばらしいお方であるかということを証することです。それが生かされている目的だからです。クリスチャンはこのイエス・キリストを主と受け入れたのです。この方が私たちの新しい主人なのです。私たちがイエスを信じた瞬間に私たちに起こることは、この方に従って行こうとすることです。なぜなら、この方が私の主だからです。

 覚えておられますか?マタイ7:21で「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、」とイエスは言われました。聖書の知識をたくさんもっているかもしれない、いろいろな質問に答えることができるかもしれない、だからといってその人が天の御国にはいれるわけではないとイエスは言われたのです。では、だれがはいれるのでしょう?21節はこのように続きます。「天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」と。でも、勘違いしてはいけないことは、父なる神のみこころを私たちが行ない続けることによって結果的に天国に行けるのではありません。天国に行ける、そのために、神は救いを与えてくださるですが、救いが与えられたということの証拠は、その人の生き方が明らかにするのです。主に従って行こうとする、主のみこころに従って行こうとする、その生き方です。ヨハネ8:47でイエスはこのように言っておられます。「神から出た者は、神のことばに聞き従います。…」と、これが救われている人の特徴なのです。「ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」、つまり、救われている人、天国に行ける人とそうでない人の違いはどこにあるかというと、神のことばに従おうとしているかどうか、神のみこころに従おうとしているかどうかです。はっきりしていることは、私たちは完璧ではありません。失敗の連続です。神の前に喜ばれることをしたい、神のみこころに従って行きたい、みことばに従って行きたいと思っていながら、失敗の連続です。しかし、少なくとも私たちの心の中には、神に喜ばれることをして、神のみことばに従い、みこころに従って行きたいという思いが与えられています。なぜなら、生まれ変わったからです。それがクリスチャンです。私たちはイエス・キリストを私の救い主、私の主と信じて、この方に従って行こうという、その選択をしたのです。ですから、私たちはその時に生まれ変わり、新しい願いが与えられました。それは、この方に喜ばれることをして行きたい、この方のみこころに従って歩んで行きたいという願いです。みことばはそのことによって私たちが本当に救われているのかどうかが明らかになると教えるのです。

 ですから、従順であることはクリスチャンにとって重荷ではないのです。私たちはそのように歩んで行きたいとします。パウロはこのように言っています。Ⅰコリント11:1「私がキリストを見ならっているように、…」と、パウロは彼自身の人生の、信仰生活の模範はイエスだと言うのです。パウロはイエスが歩まれたように自分も歩みたいと願いました。では、イエスの生き方はどうだったでしょう?ご自分の好きなように生きて来られたのでしょうか?そうではありません。その生き方は明らかにあることを願いとしていました。それは、神のみこころを行なうことです。ヨハネ4:32から見てください。弟子たちがイエスのところに食物をもってきたとき、イエスは「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」と言われ、弟子たちはでは「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」と、そのようなことを話しているのですが、そのときに34節「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」と、つまり、イエスにとって最も大切なこと、それは父なる神のみこころを行なうことだと言われたのです。同じヨハネ5:30を見てください。「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」、イエスは「わたしを遣わした方」、父なる神のみこころを求めて生きておられたのです。6:38に進んでください。「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」と教えています。ですから、イエスの生き方というのは、父なる神のみこころに従おうとされ、イエスは完璧に従われました。だから、パウロはそのイエスを目標にしたのです。イエスを模範にしたのです。なぜなら、パウロ自身も主のみこころに従って行きたいと願っていたからです。イエスを信じた一人ひとり、パウロも私たちも、救われた私たちは新しい思いをもって生きています。それは、イエスがそうであったように、私たちも神のみこころに従って生きて行こうとするのです。

 コロサイ3:17に戻って、「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、…」と、どこを見ても自分というものが記されていません。最初に見たように、神が私たちに望んでいるのは私たちのすべてです。この方はその権利をもっておられるのです。なぜなら、Ⅰコリント6:19-20で教えるように私たちは「:20…代価を払って買い取られたのです。」「:19…もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」とパウロが言うように、私たちのすべてのものは神のものなのです。では、信じる前は自分のものだったかというとそうではありません。信じる前、私たちのすべてはサタンに属していたのです。そこから解放されて真の神の所有物となったのです。救われる前の私たちがしてきたことは、すべて主人であるサタンを喜ばせることでした。神の恵みによって救われた私たちには、今度は、真の神を喜ばせる生き方が始まったのです。新しい私たちの人生、これは主のものなのです。神のものです。神が私たちに託してくれているものです。だから、託された私たちの人生のすべてをもって、私たちの救い主であり造り主であるすばらしい神のみこころに従って行きなさいというのです。私たちが自分の考えや自分の願いを満たすためではなく、主のみこころを為すために日々を過ごすことです。

 イエスが弟子たちに教えられた「祈り」、マタイ6:10に「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」とあります。なぜこの祈りを私たちがするのでしょう?神に逆らっているのは私たち人間だからです。神のみこころに従いたくないと思っているのは私たちです。救われる前は全然そのような思いはありませんでした。救われたらすべてが変わったかというと、私たちの日々の葛藤はみこころに従って行くか、自分の思い通りに生きて行くかです。私たちの主である神の前に従順にならないのは私たちです。パウロはこのことがよく分かっていました。自分の人生のすべてはもう神のものだと。だから、このように言いました。ピリピ1:20「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。」、彼が生きることよりも死ぬことよりも大切に思い、ただ一つ願っていることは、キリストのすばらしさが現われることだと言うのです。私のすべてはもう私のものではない、私はただ一つの目的のために生かされているから、それは私を造ってくださり私を救ってくださったこのすばらしい生ける真の神のすばらしさを現わすためだと。だから、私たちは神のみこころに従って生きて行こうとするのです。モーセは申命記の中でこのように言っています。6:18「主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。」と。

みことばは非常に明確に、私たちにどうすれば神の祝福をいただくことができるのかを教えてくれています。旧約のモーセでさえ私たちに教えることは、主の前に正しいこと、主が喜ばれることを行なって行きなさいです。驚きです。旧約のモーセが言ったことも、新約のパウロが言ったことも、そして、イエスが教えられたことも全然矛盾がありません。私たちが本当に主の祝福をいただきながら歩んで行くために必要なことは、私たちが主のみことばに従って行くことです。そして、そのように生きようとしている人々が本当のクリスチャンです。そのように生まれ変わったのですから。パウロはコロサイ2:20で「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、」と、イエス・キリストを信じ救われたあなたたちはキリストとともにもう死んだのだ、かつての神に逆らってきた自分はもう死んだのだ、新しく生まれ変わったのだ、だから、これまでの生き方ではなくて新しい生き方をして行くのだと言っています。そのような者に生まれ変わったからです。それは主に従順に従って行くという生き方です。

 このコロサイ3:17でパウロは「ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなしなさい」と言いました。私たちは考えなければいけません。自分のしていること、話していることが本当に神の前に正しいかどうか…。そのことに関して二人の神学者がこのように言っています。バークレーはこのように言います。「行動を試みる最上のテストは、私たちがその行動をイエスの御名によって行なえるか、主のみ助けを願ってその行動をとれるかどうか。そして、ことばを試みる最上のテストは、私たちがイエスの御名を唱える同じ口で、そのことばを話せるか、主が聞こうとしておられると知って、そのことばを話せるかと問うことである。」と。このようなことを考えながら私たちが自分の行動を吟味するなら変わります。なぜなら、私たちの行動や私たちのことばが問題になるのは、何も考えずにしてしまうからです。また、牧師でありカルビン大学の新約の教授であったヘンドリクソンはこう言います。「すべてのことば行ないに関して信者はこのように自分に問いかけなさい。このことを発言、または、行なう機会を私にくださった父なる神に感謝することができるかどうか。」と、自分が言おうとすること、しようとすることに感謝できるかどうか、そのようにして私たちは自らの信仰の歩みをしっかり吟味することが大切です。失敗の連続で私はもうだめだと思っている人がいるなら、その罪を告白することです。主は赦してくだる、新しく歩みを始めることです。しっかり目標を見つめて、何のために生かされているのかを思って…。あなたは主によって用いられます。主のすばらしさを証する者として用いられて行きます。あなたはこの地上にあって主の代理です。だから、主の助けをいただきながらその働きを継続することです。

3)従順の動機

 17節の最後にあります。「ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」、つまり、従順に主に従って行くというこの行動の動機は神への感謝だと言います。私たちにとって必要なことは、どんなに大きな犠牲を主は私たちのために与えてくれているのか、どんな大きな犠牲の上にこの救いが備えられ与えられたのか、そのことを考えることです。創造主なる神が人としてこの世に来てくださり、あなたの罪をその身に負って十字架で死んでくださった、いのちを捨ててまであなたの罪を赦そうとしてくださった、この犠牲がなければ私たちは今、私たちに最もふさわしい地獄に向かっています。罪のさばきを受ける地獄に向かっています。しかし、主はあわれみによってこの大きな犠牲をもってあなたを救ってくださった、そのことを私たちクリスチャンは忘れてはならないのです。パウロがこのコロサイ人への手紙を書いたとき、そして、エペソ人への手紙とピリピ人への手紙を同じ時期に同じところから書いていますが、パウロは第一回目の幽閉生活を強いられていたのです。自由がなかったのです。その中にあってパウロは「感謝しなさい」と言うのです。この三つのパウロ書簡を見ると、「感謝しなさい」ということばを名詞や動詞、形容詞の形で11回も使っています。特に、コロサイには6回も出てきます。喜べないような、感謝できないような状況にあってパウロ自身が「感謝」したのです。なぜでしょう?神の恵みを覚えたからです。神のすばらしいみわざを覚えたからです。ですから、皆さん、みことばを見て行くとき、落胆したクリスチャンたち、失望の中を歩んでいるクリスチャンたち、神の前に嘆いているクリスチャンたちが、その中から勝利したその方法は皆同じなのです。皆、主の恵みを思い出したのです。主のすばらしいみわざを思い出したのです。彼らの心は感謝と喜びに変えられたのです。私たちがすることも同じことです。私たちの日々の歩みにおいても、示し続けてくださっている神のすばらしい恵みを覚え続けることです。そして、私たちの心がこの神の恵みに対して感謝に溢れて行くなら、自然とそこに従順という形が出てきます。ロイド・ジョーンズ博士はこのように言っています。「もし、私たちが自分で信じていると言っていることを本当に信じているのであれば、キリスト者として人生の最高の願いは、主に対して私たちの感謝を示すということでなければならない。」と、その通りと思われませんか?本当にイエスの犠牲によって救われた、そのことが分かっているのなら、私たちがこの地上の歩みにおいて一番神の前に願うことは、感謝を現わすことだと言うのです。もっと感謝しようと、キリストの十字架やキリストの与えてくださった恵みを私たちがしっかり覚えるときに、私たちのうちから沸き上がってくるものです。

 私たちは従順について学んできました。その従順の範囲、私たちのすべてをもって、従順の模範、それはイエス・キリストでした。そして、従順の動機、それは感謝でした。今、皆さん一人ひとりにお聞きしたいことは、あなたの信仰生活は主に対して従順な歩みをしておられますか?主に忠実に歩み続けておられますか? D・Lムーディーというあのムーディー聖書学院を始めた大説教家はこう言います。「キリストの血しおだけが私たちを安全にする(救いのこと)。みことばだけが私たちに確信を与える。しかし、服従だけが私たちを幸せにする。」と。聖歌500番、「主に信頼する」と歌った賛美ですが、この曲は1886年に記されたものです。1886年にムーディー聖書学院の音楽部の部長ダニエル・トーナーはムーディーの集会に参加して、音楽をリードしていました。そのときに一人の若者が立ち上がって証をしました。「私は信頼するか従うかよくわからない」と。トーナーはそのことばをメモし、それを長老教会の牧師で、後にムーディー聖書学院の教師となったジョーン・サミス牧師に送ったのです。そして、彼がこの歌詞を記したのです。「みことばなる、光のうち…」、「げに主は、より頼みて従う者を恵みたまわん」と、そのように折り返しは続きます。日本語では4節までですが、訳されていない5節がありました。その歌詞は「しかし、私たち自身のすべてを祭壇の上にささげるまで、私たちは主の愛

の喜びを決して経験することはできない。主が示してくださったご寵愛、主が授けてくださった喜びは信頼して従う人々のためである。(折り返し)信頼して従え、これ以外にイエスにあって幸せになる方法はない、ただ信頼して従え。」。もし、あなたが本当に主を信頼して従って行くなら、主はあなたの生活のうちに働かれます。

私たちは生まれ変わった者の新しい生活の四つの特徴を見てきました。救ってくださった神に対してふさわしい生き方、一つ目は、このキリストの愛を実践することでした。キリストの愛をもって人を愛しなさいと。二つ目は、キリストの平安がいつもあなたの心を支配するように。三つ目は、みことばがあなたの心をいつも支配しているように。そして、四つ目に、主に対して従順でありなさいと。神はこのような者にあなたを生まれ変わらせてくださった、このような生活をすることができるのです。このように歩んで行くことができるのです。そのために必要なことは、私たちが主イエス・キリストの愛をしっかり覚えなければいけません。そのために必要なことは、私たちがキリストの平安によっていつも心が満たされていなければいけません。どうするのでしょう?すでに学んできました。実践することです。神のおことばが私たちの心をいつも支配するように、しっかりみことばを学び、みことばを反芻しながら自分のものとして行くことです。みことばを知らなければどうして私たちは神に喜ばれることを行なって行けるでしょう?そして、私たちは神のすばらしい恵みを覚えるときに、この神に対する感謝をもって歩んで行くことです。パウロが私たちに何度も何度も教えてくれることは、もう一度基本に戻って行きなさいと、そのことを私たちに教えてくれているようです。主があなたを救ってくださったときのことを思い出しなさい、どんな犠牲によってあなたは救われたのか、思い出しなさいと。そして、その方に対して感謝をもって歩んで行きなさいと、それが私たちに主が望んでおられることです。そして、そのような歩みを私たちがなすことによって、私たちを生まれ変わらせてくださった主が誉められるのです。それが私たちの望みです。

 

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