06/09/24 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:新しい生活3
聖書箇所:コロサイ人への手紙 3章12-17節
神の恵みによって救われた一人ひとり、神は当然、その新しく生まれ変わった者たちが新しい生活を始めることを期待しておられます。救ってくださった神に対するふさわしい生き方がどのようなものか、私たちはこれまで見てきました。
☆新しく生まれ変わった人の特徴
どのような生活をすることを神は望んでおられるのでしょう?また、どんな生活をすることが可能なのでしょう?
1.愛 14節
まず、愛の生活、愛を示すことだと言います。パウロが教えた最初のことは、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさいということでした。イエスを信じる前には私たちにはこのことは不可能でした。しかし、神によって救われ生まれ変わった私たちは、神が私たちを愛してくださったように、人を愛することができるように生まれ変わったのです。あなたの為すことすべてにおいて愛が動機であるようにとパウロは言いました。
2.平和・平安 15節
平和、平安が特徴であると言います。キリストの平和があなたの心を支配するようにしなさいと。パウロはどんな時にもあなたの心がキリストの平和、平安に満たされ続けて行くようにと言いました。このことは新しく生まれ変わったクリスチャンにとって可能なことです。では、どうすればいいのでしょう?パウロはそれを教えてくれました。
◎キリストの平安に満たされ続けて行くために
平安をあなたの審判員にすること
キリストの平安があれば、あなたは主の前に正しいことをしているわけであり、もし、その平安がなければあなたは間違ったことをしている、正しいことをしているのか間違ったことをしているのか、それを明確にしてくれる審判員、それがキリストの平安だと言います。もちろん、その時に私たちは、その平安がキリストからのものかどうかを見極めなければいけません。なぜなら、自分の思い通りに物事が進んでいるとき、私たちの心は平安だからです。ですから、その平安が神からのものかどうかを見極めることが必要なのです。パウロがすでに教えてくれたように、本物の平安というのは、神への感謝、神への賛美、神への従順を生み出すものです。そして、同時に、この平安は自分の心の中に働くだけでなく、教会における対人関係においても影響を及ぼすということを見てきました。つまり、キリストの平和に満たされている人は、お互いの間に平和を保とうとします。一致をもたらそうとするような働きを始めるのです。このようなことがその人のうちにあるなら、それはあなたの平安がキリストの平安であること、本物の平安であることを証明していると、パウロはそのことを前回私たちに教えてくれたのです。
2)感謝すること
私たちの心が常に平安に満たされて行くために必要な二つ目のことは、感謝することです。15節の後半を見ると、「また、感謝の心を持つ人になりなさい。」という命令が与えられています。これも現在形の命令であって感謝の心をずっと持ち続けて行きなさい、そうすることによって、あなたの心がキリストの平安に支配されることになると言うのです。実は、このことはパウロがピリピ4章でも教えていることです。4:6から「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と、ここには二つの命令が記されています。「思い煩うな」と「知っていただきなさい」という二つの命令です。これらはどちらも現在形で記されています。ということは、パウロは今だけでなくこれからもずっと思い煩うな、神にあなたの願い事を知っていただきなさいと言うのです。神が私たちに教えてくれるのは、私たちは思い煩いに勝利することができるということです。どのように願い事を神に知っていただくのか、祈りのことを教えているのは確かですが、「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、」と言っています。つまり、思い煩いによってではなく、どんなときにも感謝をもって主に祈りなさいということです。そのことを明確にするために、二つの形容詞が使われています。「何も」と「あらゆるばあいに」の二つがどんなときにも、どんな状況においても、例外なくと言います。あなたがどのような状況にいたとしても、その中で神があなたに望んでいることは、感謝することだというのです。
そして、あなたがそのようにすれば、7節の最初「そうすれば、」という接続詞に続きます。結果を現わします。あなたがいつも、思い煩う代わりに感謝するなら、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(7節)と言います。結果としてあなたに与えられるのは、一つ目に神の平安であるというのです。しかも、その神の平安についてパウロは説明を加えています。それは「人のすべての考えにまさる」と言います。つまり、私たち人間が想像もつかないもの、私たちの考えの及びもつかないもの、私たちの常識を遥かに越えた神の平安が私たちに与えられるというのです。どんな平安で私たちの心が満たされるのか、とても期待のできることです。
二つ目は「あなたがたの心と思いを…守ってくれます。」です。「守る」という非常に大切な動詞がここで使われているのですが、皆さん、この意味を忘れないでください。聖書の中でも「見張る、監視する、見守る、保護する」という意味があります。同時に、「守備隊を配置する」という意味もあります。何かを守るために兵士を送る、そして、兵士がそこをしっかり守ると、そういう意味をもったことばです。ですから、神が私たちにどんなことを約束してくださったのかが分かります。しかも、神が守ってくれるものは何でしょう?この7節のみことばが教えてくれるのは「あなたがたの心と思い」なのです。パウロはここでこの「心と思い」の違いを明確にしようとしたのではありません。というのは、「心」というのは私たちの行動、意志、感情、考えなど、私たちのすべてを支配しているところです。「思い」は心の中にあるもので理性だという人がいます。そうなると、線引きは難しくなってきます。パウロが言うのは、神が私たち人間の中心の部分、つまり、私たちの行動、意志、感情、考えなどを支配している部分を守るということです。なぜそこを守っていただかなければいけないのか、そこが攻撃されて弱ると、私たちには絶望、失望、嘆きが出て来るからです。だめだ、無理だ、できない、有り得ない、どうして?神さま、いったい私のどこが悪いのですか?もういいです、といろいろなことが私たちの口から出て来ます。なぜなら、私たちの心がそういう思いを抱いているからです。この現状に対して、もうだめだ、もう無理だ、お手上げだ、光が見えないと…。たとえば、私たちもよく耳にすることですが、家族のために祈っていてもなかなか救われない、そのような方がたくさんおられます。私たちが望むことは私たちの愛する家族が皆救われることです。でも、一生懸命祈り、一生懸命伝道の機会を用いてもなかなか救われない、そうすると、ある人は私の伴侶はなかなか救われません、子どもたちはなかなか救われません、もうあきらめていますと言います。神には不可能なことはないという真実を完全に信頼できなくなってしまっている、そんな心の状態の人がおられるでしょう。感謝なことに、私たちの群にはこのようなことを言う人はほとんどいませんが、他ではよく聞きます、年老いて自分は役に立つことができないということを…。現実を見てそのように思うかもしれません、私のような者が何の役に立てるのだろうと。もう無理だとあきらめている人がいるかもしれません。そういう人は同じように、神には不可能なことがないというこの真実、また、神はこの私を用いてくださるという約束を完全に信頼できないのです。神さまはそう言われているかもしれないけれど、それは私に対してではないと。青年たちの中で結婚のことを祈っている人がたくさんおられるでしょう。祈っているけれど神はなかなか与えてくださらない、そうするとある人は、神は不公平だと思っているかもしれません。神は必ず必要を満たしてくださるという真実を完全に信頼できないでいる、そんな状態の人がいるかもしれません。病気ばかりしていてなかなかその病気が治らない、そうすると、あなたの心の中には神は私のことを本当に愛してくださっているのだろうかと、神の愛を疑っているかもしれません。いろいろなことが挙げられますが、いろいろな現実の中で私たちが神のことを信頼できなくなってしまう、神の約束を疑ってしまう、そういったときに私たちの心の中に様々な心配や不安や恐れが出て来るのです。その時に、私たちは心から感謝も賛美もなくなってしまうのです。悲しいことに、私たちはいろいろなことで神の知恵や力、やさしさ、神の正しさを信頼できなくなってしまうのです。このようなことを経験したことがあるでしょう?グレイス・コミュニティ教会のジョン・マッカーサー博士は「神のやさしさ、知恵、公平さ、真実さ、愛、真理、こういったことに疑いを抱くことは神への冒涜の一つの形である。」と言っています。なぜでしょう?聖書は神はこのようなお方だと明確に教えてくれるのに、私たちはいいえそうではない!と言うからです。それは信じられないと言うからです。だから、私たちの心が守られなければいけないのです。心が弱ってしまうとそのようになってしまうから、パウロが教えることは、神はあなたの心に、そのような疑いをもってしまう、不信を抱いてしまう、そのような弱い心を神ご自身が守ってくれるということです。神があなたの心と思いをキリスト・イエスによって守ってくれることによって、あなた自身が心配、不安、疑い、恐れ、そして、思い煩いを経験することがない、このように神は働いてくださるのです。ここまで、神は私たちのことを分かってくださり、こんなに行き届いた配慮をしてくださるのです。神は私たちが弱いことをご存じです。何が必要かご存じです。どんなことで心が騒ぐかも全部知っておられるのです。神はあなたの心と思いを守ると言われたのです。私たちはいろいろなことで恐れを抱いているときは夜眠れません。私もある所に行った時、現地の牧師が用意してくれたホテルの部屋の窓のカギが壊れていたことがありました。すると、だれか入ってくるのではないか、日本人がチェックインいたことを知っているから、それを思うとなかなか眠れないのです。ところが、きちんと保安も行き届いていて泥棒も入って来ない、そのような場所だったなら私たちは少なくとも安心して休むことができます。あなたの心を神は守ってくれるのです。
◎なぜ感謝が私たちに平安をもたらすのでしょう?
それは私たちに神への信頼があるからです。なぜなら、感謝するということはあなたが主への信頼を明らかにしているからです。たとえば、先ほど話したように家族の救いのために祈っていてもなかなか救われない、もう無理かとあきらめてしまう、神には不可能がないというその真実を完全に信頼できない状態にある、でもその中で、しかし神さま、私はあなたを信頼しますと言うとき、私たちは神に感謝を捧げることができるのです。私たちの全能の神は私たちの祈りを聞いてくださるからです。あなたの願い、あなたの祈りは主の前に届いているのです。これだけでも私たちは感謝できます。自分の願っている結果がすぐに訪れなくても…。心配しなくてもいいのです。神の御手のうちにあるからです。どんな状況の中でも神さま、私はあなたが全能であることを信頼します、どうぞ、みこころを為してください、どんな方法か分からないけれど、あなたが私を使うと言われるならどうぞ使ってくださいと、そのとき、私たちは神に対して信頼を現わしているのです。私たちの肉体は無理だ、不可能だと言うかもしれません。しかし、私たちの信仰は言います、神はどんなことでもおできになる方だと。
私たちが分からなければいけないことは、私の主が私の弱さを分かった上で用いると言ってくださるのです、この主にお役に立てることを少なくとも私たちは神に感謝することができるはずです。先ほど言ったように、結婚にしても病気にしても、疑いが出てくるかもしれない、そのときに私たちは神がどういうお方かを覚えて、神はすべてのことをご存じであり、神は常に最善を為す方であり、神は私を愛してくださっている、それだけで十分なはずです。私たちはこのように言えるのです。もし神が結婚に導いてくださるなら、神は最善の人を最善のときに与えてくださる、だから、そのことを信じて感謝しますと。病いの中で苦しんでいるとしても、私たちはイエスの十字架を思い出すときに、この方はご自分のいのちを捨ててまで私を罪から救ってくださった、そして、私が今こうして生きているのは、それがベッドの上であろうとどこであろうと、主が目的をもって生かしてくださっている、だから、主よ、どうぞみこころを為してくださいと、私たちを生かしてくださり、すばらしい永遠を備えてくださった神を見上げてその方に感謝することができるはずです。新しく生まれ変わった者はその中にあって、でも、私の神は…と言います、私たちがよくやってしまうことは、神のおことばを聞いても「でも、神さま」と言うのです。私たちのあるべき姿は、私たちの肉が無理だと言っても、でも、私の神には不可能がない、神が私を忘れてしまったように思えるときでも、でも、神は私を見捨てていない、神が用いると言ってくれているのだからと言います。私たちはいろいろな状況に置かれていますし、これからもそうです。大切なことは、その中で唯一信頼できる方にしっかり信頼してその方に対して正しく歩み続けて行くことです。感謝できないような状況のときも、神を見上げてその神を神として崇めるときに、私たちの心と思いはキリストにあってしっかり守られるのです。平安を私たちのうちに留め続けてくださるのです。そのことをパウロはここで教えてくれるのです。
ピリピ4章に戻ってください。9節の真ん中にもう一度この接続詞「そうすれば、」が出てきていることに気付かれるでしょう。先ほど見たようにこれは結果を現わすのです。それは「平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」という結果です。7節では「神の平安が、あなたがたの心と思いを」守ると言いました。神の平安です。9節では「平和の神が」と神ご自身があなたとともにいると言うのです。ものすごい約束です。だから、私たちクリスチャンはこの神の平安のうちを歩み続けて行くことができるのです。もし、私たちが正しく歩むなら…。そのためには感謝することです。そしてもう一つ、9節の前半「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。」と、つまり、私たちは感謝するだけでなく、神のみことばを実践して行くなら、私たちのうちには神の平安が与えられるというのです。このことはヤコブも私たちに教えてくれます。みことばを実践することによってすばらしい祝福があるとヤコブは言っています。ヤコブの手紙1:21-25を見てください。「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。:23 みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」、どんな人が祝されるのか、神のおことばを実践する人です。先のピリピ4:9では「…学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。」とこの命令は現在形でした。継続してみことば実行して行きなさいと教えました。そして、ヤコブが教えていることも同じで、私たちは聞いたみことばを実践することが必要だと言うのです。
もう一度、コロサイに戻ってください。実は、パウロはこのことをここで新しく生まれ変わった人の新しい生活の三つ目の特徴として私たちに教えるのです。
3.みことばにいつも支配されている 16節
新しく生まれ変わった人、本当のクリスチャンの特徴は「みことばにいつも支配されている」ということです。いつもその人のうちにはみことばがあるということです。16節には「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、」と記されています。キリストのことばを豊かに住まわせなさいと言います。「住まわせる」というのが現在形の命令です。キリストのことばを継続してあなたがたのうちに住まわせて行きなさいと言います。この「住まわせる」という動詞は聖書の中では、「住む」とか「宿る」と訳されていることばです。ですから、うちに住むということから内住する、人の心の中に宿ってその人を動かすという意味があります。だから、この16節で「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」と命じたパウロが言いたいことは、神のおことばによってあなたの生活の全てが支配され続けて行くようにということです。みことばが生きている生活、たとえば、その人の生活はどんなときにもみことばによって判断しようとする、このことについて聖書は何と言っているだろう?この件に関して聖書はどういう教えをしているだろうと、いつも聖書に基づいて自分の歩みを吟味している、なぜなら、その人はみことばに従って歩んで行きたいからです。みことばがクリスチャンの心を支配すること、すなわち、その人の行動、意志、感情、考えなどを司っている心がみことばによって支配されている、そうすれば、当然、その人の生き方は変わって来ます。それほど、みことばは力をもっているのです。その力を知っていたパウロはこのように言います。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」と「豊かに」という副詞を付けています。「豊富に」ということです。少しだけではなく、あなたの心にたくさんこのみことばを蓄えなさい、そして、このみことばを神の助けによって実践して行きなさい、みことばがあなたを支配するようにして行きなさい、そうすれば、あなたは変わるから…とパウロは教えるのです。みことばはそれほどの大きな力をもっている、そのことは私たちはもうすでに何回も繰り返し学んで来ています。いくつかのことは復習になります。
◎みことばの力
(1)みことばは信仰の成長をもたらす
Ⅰペテロ2:2が教えるように、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」、あなたの信仰が成長するためには絶対にみことばが必要なのです。みことば以外のものがなくても大丈夫です、みことばさえあれば…。悲しいことに私たち多くのクリスチャンたちは、みことばよりもそれ以外のところに目を向けています。私たちが戻らなければいけないのは神のおことばです。聖書が教えるのはみことばによって私たちは成長するということです。
(2)罪に対する勝利をもたらす
詩篇119:133を見ましょう。「あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。」と、この詩篇の著者が自分自身の歩みを正しく保とう、罪から離れて神の前に正しく歩んで行こう、そのために「みことばによって私を守ってください」と望んだのです。また、詩篇119:11には「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」とあります。信仰の先輩たちが私たちに教えてくれることは、私たちが罪に勝利するためには神のみことばをしっかり蓄えることだということです。私たちの生活を振り返ってみたとき、神に逆らっているとき、罪を犯しているときは、間違いなくみことばから離れています。みことばを愛してみことばを学んでみことばに従おうとしているときは、私たちは罪を犯そうとはしません。
(3)みことばは知恵をもたらす
Ⅱテモテ3:15「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」、聖書はあなたに知恵を与えると言います。だから、私たちがこのみことばによって支配されているなら、みことばは私たちに知恵をくれる、その知恵をもって、私たちはコロサイ3:16で見るように、人々を励まし人々を正しく導いて行くことができるのです。「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、」とあります。私たちが互いに教え合い、互いに戒め合って行くために必要なのは知恵です。その知恵は神のおことばから得るのです。だから、私たちはみことばをしっかり蓄えることが必要なのです。
(4)喜び・感謝をもたらす
16節の後半に「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」とあります。
「詩」とは恐らく旧約聖書の詩篇を歌ったのでしょう。「賛美」はこの詩篇以外でしょう。また、使徒たちのことばも歌にして賛美していたのでしょう。そして、「霊の歌」というのは内住する聖霊なる神によって生み出される賛美、証の歌です。神が私たちの心に喜びを与えてくださるなら、自然にそこから歌が生まれて来ます。神のすばらしいみわざを称える、そういう賛美が生まれてくる、主に対する感謝が生まれてくるのは、私たちの心がキリストのおことばによって支配されているからです。みことばに満たされることによってこれらのことが起こるのです。そうすると、心からの賛美というのは、みことばが心を満たしていなければ起こらないのです。
皆さん、みことばをたくさん蓄えましょうと言われても、正直なところ、なかなか難しいことです。記憶力が鈍ってくるのは事実です。でも、それを言い訳にしてはいけません。不可能のない神が私たちを助けてくれるからです。それなら、私たちには工夫が要ります。旧約聖書の中でもその工夫を示唆している部分があります。どうすれば自分自身がしっかりみことばに立ち歩んで行くことができるのでしょう?申命記を見てください。6:6「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。」と、まず最初にモーセが命じたことは、自分自身の心にみことばをしっかり刻むようにと言うのです。それが人に教えるのであれ、子どもに教えるのであれ、まずあなたがしなければいけないことだと教えます。あなたが主に対して正しく生きて行くためです。その次を見てください。「:7これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。」、あなた自身が学んだみことばを子どもたちに教えて行きなさい、しかも、一日中です。すべてのときにそうしなさいと言います。8-9節には「:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」と記されています。つまり、ここでモーセが教えようとしたことは、まず、あなた自身がこのみことばを一日中思い出すことです。何らかの方法でいつもみことばに触れているようにすることです。たとえば、みことばを書いたカードを持ち歩くことかもしれません。私たちは工夫しなければいけません。そして、神のみことばを見て覚えるように、なぜなら、このみことばが私たちを変えて行くのですから、このみことばが私たちに喜びをもたらすのですから、みことばから離れてはいけないのです。8-9節で言われている「あなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」ということは、今でも確かに敬虔なユダヤ人たちはテフィリンというのをやっています。イスラエルに行くと、黒い箱を額につけている、左の腕に黒い箱をぶらさげている人たちがいます。彼らがなぜ今でもそのようなことを行なっているのか、このみことばから来るのです。イスラエルの家にはメズーザというものがあります。ここには神のみことばが入っています。テフィリンもそうですが、いつもみことばを覚えるようにと言うのです。しかし、そういうものをぶらさげることを神は言われたのでしょうか?それよりも神のおことばを常に覚え続けて行くように、このみことばをいつも思い、あなたの心から離さないようにと言うのです。ですから、旧約の時代もそうなのです。彼らはどうすればこのみことばがいつも自分の心を支配することができるのか、その工夫を凝らしたのです。このようにして彼らは生きたのです。私たちの歩みにおける大きなヒントではありませんか?
今、私たちはコロサイ3:16のみことばを見ました。キリストのことばが私たちを完全に支配するなら私たちのうちからはすばらしい感謝、賛美が溢れて出てくるという、この結果は、エペソ5:18の中でパウロが「御霊に満たされなさい」と言ったその命令によってもたらされる結果と同じなのです。私たちが御霊に満たされるとき感謝や賛美が出てきます。御霊によって心が支配される、聖霊なる神がその人の考え、思い、想像、態度、行動、ことばなど、すべてを支配するとき、その人の生き方は変わるとパウロは言うのです。コロサイ3:16でパウロは神のおことばがあなたの心のすべてを支配するなら、あなたの生き方は変わると言います。どちらも同じ結果をもたらすのです。なぜなら、聖霊なる神は、神のおことばであるみことばを用いてみわざを為して行かれるのです。神のわざは神のおことばから離れてはなされないのです。聖書のことばは神のおことばだからです。だから、御霊に満たされている人はみことばを愛している人なのです。そして、みことばを愛し忠実に従おうとしている人は、御霊に満たされている人なのです。この二つを切り離すことはできないのです。
今日私たちは、コロサイ人への手紙の中から、新しく生まれ変わった者の三つ目の特徴を見て来ました。神はそのような者に私たちを変えようとしているのです。これが新しく生まれ変わった者だと言うのです。そして、私たちがイエスによって救われたのなら、私たちはこう言います、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」、私たちはキリストによって生まれ変わったと。このような人に神は生まれ変わらせてくださったと。ですから、今日も私たちが見て来たことは私たちにとって不可能なことを教えているのではありません。このような者へと、神は私たちを導いて私たちを変えて行こうとしておられるのです。だから、私たちはこのような命令を聞くと希望が出て来るのです。こんな人に変えられたいと思うのです。そのために、どうでしょう皆さん、みことばをしっかりと心に蓄えておられるでしょうか?あなたの生活はみことばによって支配されているでしょうか?みことばを愛してみことばに従おうとしているでしょうか?そして、もう一つ、あなたの心がいつもこのキリストの平安で満たされるために、あなたはすべてのことをあらゆるときに感謝しておられますか?
アメリカ、ミネソタ州のベツレヘム・バプテスト教会の牧師であるジョン・パイパーは彼の祈りの中でこんなことを言っています。「不信仰な私たちをお助けください。私たちの心をあなたのみことばと確信に向けさせてください。あなたは『すべての事柄をみこころのままに行なわれ』、『あなたのご計画は阻まれることはできません』。あなたの為さることは最善であり、私たちには夢見ることさえできない賢い方法で成し遂げられます。平安のうちに留まらせてください、主よ。つぶやきや不平を禁じてください。あなたの全能の御手の下に、謙遜で従順な心をお与えください。すべての事柄の、最終的で聖い目的を待ち望むことを教えてください。心の目を開き、キリストにある相続財産のすばらしさを見つめる者としてください。」と、アーメン、主よ、それが私の望みです、不信仰な私を赦してください、すぐに疑う私を赦してください、あなたは神だからあなたを信頼します。そして、あなたのことばを愛して、あなたのことばが私の心を支配するように、主よ、そのことを望みますと。そのようにあなたが歩んで行くなら、この神が約束された祝福があなたのものとして与えられ、その祝福によってあなたがしっかりと守られるのです。そうして、私たちクリスチャンはキリストのすばらしさを世に証するのです。そのすべてのカギはあなたにあるのです。あなたがそのような神のみわざを望むかどうかです。主よ、どうぞ、私を変えてくださいと、そんな願いを神があなたに与えてくださるように、そして、私たちが新しい者として変えられ続け、変えてくださった主が証されるように。