礼拝メッセージ要約

Assisting the study of God's Word

2006/09/17 礼拝メッセージ

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Messenger: 近藤修司
Passage: コロサイ3:15
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06/09/17  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

主  題:新しい生活2

聖書箇所:コロサイ人への手紙 3章15-17節

 パウロは、キリスト者は新しくされた者であるゆえに新しい人としての生活を期待したのです。この3章12節の「身に着けなさい」という命令で始まるみことば、パウロはクリスチャン一人ひとりが神の恵みに対するふさわしい生き方をもって、神を崇め続けるようにと願ったのです。神のすばらしい恵みを覚える一人ひとりが、その恵みにふさわしく生きて行くように、あなたは新しくされた者だから新しくされた者として主の前を歩んで行くようにと望んだのです。そして、前回から私たちは、新しい生活とはどんな生活なのか、そのことを見始めました。

☆新しく生まれ変わった人の新しい生き方、その特徴

1.愛  14節

 「愛」というのが新しく生まれ変わった人の特徴であると言います。自分自身のように隣人を愛すること、イエス・キリストが与えたこの命令をパウロ自身もここで勧めるのです。あなたの為すことすべては愛に基づいて為さなければならない、あなたの行動のすべての動機が愛でなければならないとパウロは勧めるのです。どんなにすばらしい行ないをしたとしても、深い同情心をもって歩んだとしても、たとえ、あなたが慈愛、謙遜、柔和、寛容を実践したとしても、それらを「愛」に基づいて行なっていないのであれば、それはすべてむなしいとパウロは私たちに教えるのです。このことは確かに、愛の章と言われているⅠコリント13章の中でパウロは同じこと、「愛がなければむなしい」と繰り返し教えています。13:1-8「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」、どんなにすばらしいことをしても、どんなにすばらしい信仰をもっていても、愛がなければむなしいと言うのです。まさに、パウロはここで自分自身のように隣人を愛すること、そのことを教えたわけで、実はこれこそ神によって愛されていることを自覚していることの証明だと思われませんか?自分と同じように隣人を愛することができるのは、まず、自分が主によって愛されていることを知っているからです。人々を赦すことができるのは、自分のような罪人のかしらが赦されたことを知っているからです。ですから、自分と同じように隣人を愛するというこの命令を守って行くことができるのは、自分が主によって愛されていること、自分が主によって赦されたことを実際に確信しているからです。主に赦されたことが分かっている人は、そのことを心から感謝し、そして、人を赦すという行為によってその感謝を明らかにするのです。

 今日、私たちはこの15節のところから、新しい生活の特徴を続いて学んで行きます。パウロは、あと三つのことを私たちに教えてくれますが、今日は15節だけで終わってしまいそうです。

2.平和、平安  15節

 よく私たちも「ピース」ということばを耳にしますが、それは平和とも訳せるし、平安とも訳せます。人間関係において、そこに存在するものは平和です。私たちの心の中に存在するもの、それは平安です。パウロは15節のみことばで、この平和と平安について教えるのです。 15節「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」と、つまり、パウロはどんなときにもあなたの心がキリストの平和によって心が満たされ続けて行くように、どんなに辛いときでも、どんなに悲しいときでも、どんなに苦しいときでも、あなたの心が常に平和に、平安に満たされるようにと、そのことをパウロはここで命じているのです。この「支配するようにしなさい」という命令は現在形の命令です。確かに命令は分かりました、しかし、私の心がいつも平安に満たされ続けて行くというのは、大変なことだ、なぜなら、私の心はすぐにいろいろなことで心配や不安を抱いてしまう、いつも平安で居続けることは難しい、自分には不可能なことだと、そのように感じる人は少なくないと思います。なぜなら、今までの生活を通してそのように実践しようとしたけれど、なかなかそのようにはならないと…。しかし、パウロは私たちに不可能なことを教えているのではありません。可能なことをいっているのです。イエスを信じている、神があなたを救ってくださったのなら、この命令はあなたにとって不可能な命令ではなく可能なことです。なぜなら、クリスチャンがどういう人かを思い出してください、クリスチャンはキリストの恵みによって罪が完全に赦された人です。同時に、罪の赦しによって神との平和を得た人です。人間は生まれながらに神に敵対するものです。そのような関係を神は修復してくださった、だから、神との平和を得ることができるのです。パウロはローマ5:1で「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」と言っています。これがクリスチャンです。神と和解したのです。神との平和をもっている人です。罪赦されることによってこれが可能となったのです。その神との平和がその人に神の平安をもたらしたのです。神との平和を得た人に神の平安が与えられたのです。イエスはそのことをヨハネ14:27で話されています。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と、このことばを注意深く見てください。「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」と言うのです。そして、それは「世が与えるのとは違います」と言います。なぜなら、確かに私たちもこの世のものを得たときには、何となく心が騒いでいたのが落ち着くとか、ほっとするとか、そういうことを経験することがあります。でも、イエスが言われたことは、わたしの話している平安はそのような状況に左右されるものではない、自分の望んでいるものを手に入れたから喜んでいる、だから、平安だ、望んでいるものが手に入らない、だから、不安だと、そういうものではないと言います。そして、もう一つ「わたしの平安を」と言われました。イエスがもっておられた、また、イエスがおもちのこの平安を与えるという約束を与えたのです。それが可能なのは、イザヤがこれから生まれてくる男の子について預言をしたときに、その子の名前を挙げました。イザヤ9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」「平和の君」と呼ばれる」とあります。だから、この方は平和をもたらすことができるのです。そして、信じる者に平安をもたらすことができるのです。なぜなら、この方はその平安の、平和の君であられるからです。しかし、パウロが言っていることは分かるけれど、現実は自分自身の中にそのような平安はない、自分の信仰生活を見たとき、救われてしばらくの間は確かに平安をもっていた、でも、今はその平安を失ってしまったと、そのような人たちもおられるでしょう。感謝なことにパウロはここに、どうすればここで言われている平安を持ち続けることができるのか、平安に満たされ続けて行くその方法について教えてくれています。

◎平安に満たされ続けて行く、その方法とは?

 15節をもう一度見てください。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」とありますが、この「支配する」ということばがカギなのです。この動詞は審判官という意味をもったことばです。審判、アンパイア、レフリーです。そこから、判定する、仲裁する、審判員のように行動するという、そのような意味をもつことばとして使われるのです。バークレーはこのことばについてこのように説明しています。「パウロが用いているこの動詞は運動用語から出て来ている。競技中何か問題が紛糾した場合、それに決定を下す審判員に当てて使われることばである」と。そのことばをここで使ったパウロは、私たちが平安に満たされ続けて行くために必要なことは、

平安をあなたの審判員、レフリーにしなさい

 もう少し説明します。たとえば、野球なら審判員はアウト、セーフを言います。バスケットボールならファールかどうかを判定します。それが審判です。パウロがこの平安をあなたの審判にしなさいと言うのは、あなたが正しいことをしていれば、この審判はセーフと言ってくれます、もし、あなたが間違ったことをすると、審判はアウトと言います、つまり、パウロは平安を審判にするということは、平安があるかないかによってあなたのしていることが正しいか間違っているかを見極めるようにしなさいと言うのです。イエスを信じたクリスチャンは、何度も学んできているように、生まれ変わったのです。新しい願いをいただきました。それは、私たちのすべてをもってキリストを喜ばせて行きたいとする願いです。だから、私たちは毎日の生活において私たちの行なう選択が、私たちの考えることが、私たちの口から出すことばが、私たちがいろいろ想像することが、神の前に喜ばれるものであることを願います。そのことを私たちは求めます。パウロはあなたのしていること、あなたの選択、あなたの考え、話していること、そのすべてが正しいかどうかは神が教えてくれる、平安が審判であるならと言います。だから、主の前に正しいことをしていればあなたのうちには平安があるけれど、そうでなければ平安がなくなると言うのです。但し、そこには注意事項があります。シカゴのムーディー教会の牧師であったW・ウァーズビーが非常に興味深いことを言っています。「私たちは心において誤った平安に注意しなければなりません。ヨナは故意に神に背きました。彼は嵐の中船底で寝付くことができました。『私にはそれに関しては平安がありました』は、私たちが神のみこころのうちにいるという十分な証拠ではありません。私たちは祈って神のみこころに降服して、聖書の中に神の導きを求めなければなりません。心の平安だけがいつも神の平安であるというわけではありません。そこには他のものが含まれます。実際にこのヨナの生活を見たときに、ヨナは平安があると思っていました。しかし、外を見ると嵐でした。なぜ嵐が起こったのか、ヨナの罪が原因でした。」と。ですから、彼が言いたいこと、私たちがみことばを通して教えられることは、確かに、私たちの平安はそれが正しいか間違っているか、そのアンパイアになってくれる、それによって判断することができる、しかし、同時に、私たちは注意していなければ、間違っているのにそれが正しいと思い込んでしまう、そのような危険もあるということです。

 では、どうすればいいのでしょう?本当にこの平安が神からのものかどうかを知るために…。簡単です。なぜなら、今の審判のことをもう一度考えてみると、審判に対する正しい態度、間違った態度が何か考えて見てください。間違った態度は、その審判に対して不平不服を言うのです。その判定はおかしい!と。確かに、人間が審判の場合は誤審があります。でも、審判が神なら誤審はありません。つまり、神の為さることは必ず正しいのです。ですから、私たちに必要なことは、まず、私たち自身の心が「神さま、どうぞ、私のしていることが正しいのか間違っているのか教えてください、なぜなら、私はあなたの前に正しいことをしたいからです。あなたに喜んでいただきたいからです。」と真摯な態度で神に助けを求めることです。そのとき、神は必ず教えてくれます。しかし私たちが、神がどのように言われても私は自分の考えを変えません、自分の気に入らない判定だから受け入れませんと、そのような態度ならどうでしょう?あなたが主に、このキリストの平安にあなたがすべてのことの審判を任せて行くなら、あなたに与えられている平安は神から来ていると確信することができるのです。ですから、自らの心を吟味すればいいのです。どのような思いをもってそれを望んでいるのかです。

そして、15節のみことばを見ると「自分の平安」とは書かれていません。「キリストの平和」、「キリストの平安」と言っています。自分の思い通りの生活をしている人々がいて、彼らの生活を見たときに結構落ち着いているように見えるときがあります。ここで言っているのはそういうものではないというのは明らかです。キリストご自身がお持ちの平安のことです。ですから、

もし私たちが本当にキリストの平安によって満たされているなら、支配されているなら

(1)必ずそこには神への感謝、神への賛美、そして、神さま、私はあなたにますます従順でありたいです、あなたのみこころに、みことばに従って行きたいですという従順の思いが生まれて来ます。忘れないでください。そのことをパウロは私たちに教えてくれるのです。それはこの後みことばを見て行くとき明らかになって行きます。そして、もう一つ15節の次のところに出てきます。

(2)教会に平和をもたらす人となって行きます。「そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。」とあります。これは教会のことです。しかも、「そのためにこそ」と書かれています。当然、前の

「キリストの平和」とこれは関連しているのです。つまり、この「キリストの平和」が私たちの心を支配するときに、私たち自身の心が喜びや感謝や従順にあふれて行くだけでなく、その「キリストの平安」というものは対人関係にも影響を及ぼすのです。だからパウロは、すべてのクリスチャンは例外なしに、救われているなら心に平安を常に保ちなさい、同時に、教会にあってお互いに一致、平和を保ちなさいとこの15節で教えるのです。先のW・ウァーズビーは続けてこのように言っています。「もし、私たちの心に平安があるなら、私たちは教会において他の人たちと平和であるでしょう。私たちは一つのからだとなるように召されたのです。そして、そのからだにおける私たちの関係は調和と平和でなければなりません。もし、私たちが神のみこころから外れているなら、私たちは不和と不調和を教会にもたらすことは確かです。」と。だから、私たちのいただいている平安がどこから来ているかが分かります。神がくださる平安はこういう働きを為すのです。だからパウロは、そのような「キリストの平安」によってあなたの心が常に支配されているようにと言ったのです。このことに関して、ミシガンのハイランドパーク・バプテスト教会の牧師ジョージ・スレーガンはこのように言います。「ここで言われている平和は個人的、また、総合的である。教会の兄弟姉妹によって悲しみを経験した人たちは、多くの場合、キリストに支配していただくことを望まない。その結果、彼らは証において不機嫌、気難しいものとなり、しばらくすると群から身を引くようになる。苦味の根は平和の実を実らせない。平和にとっての致命傷は古い人によって及ぼされたこれらの激情、癇癪を欲しいままにさせることである。」と。もう今まで私たちが見て来たように、イエスを信じた私たちのこの地上における戦いは何だったでしょう?私たちはもう新しい人を着て古い人を脱ぎ捨てたのです。新しい人に生まれ変わったのです。しかし、私たちの信仰生活において私たちの肉はこれまでの生き方に引き戻そうとします。神が私たちに何を為そうとしておられるのでしょう?それは私たちの心にキリストの平和が与えられた者として、その平安をもって、個人として、そして、教会の中で歩んで行くようにと、神はそのように私たちを用いようとするのです。しかし、肉はそれを望みません。肉は必ずその一致や調和を乱そうとします。それが肉の働きです。それが罪の為すわざです。だから、気を付けなさいと言うのです。

 元ダラス神学校、トリニティ神学校の組織神学の教授であったノーマン・ガイスラーはこう言います。「このコロサイ3章12-14節にパウロが挙げた徳を身につけたクリスチャンたちは、あらゆる苦しい状況において、彼らの言い争いによってではなく、キリストの平和によって仲裁されることに関心をもっている。」と。もうすでに私たちが見てきたこの12-14節で教えられた、クリスチャンに与えられている様々な徳を身につけているクリスチャンたちは、どんな状況にあっても正しい方法をもって問題を解決しようとします。キリストの平和によって…。このみことばが教えてくれるように、イエスがこの地上にいたときにもっておられた平安、天においてももっておられるこの平安を私たちイエスを信じる一人ひとりは与えられたのです。神からいただいたのです。そして、神は私たちが一つのからだとなることを望んでおられるのです。だから、イエスを信じた一人ひとりはそのために努力するのです。一つになって行くように、調和して行くように、そして、それぞれがキリストにあって成長して行くようにと。

ローマ14:17-19に「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」とあります。「神の国は…義と平和と聖霊による喜び」だとパウロは言います。(A)義とは正しい生き方です。神が望んでおられるのは私たちが正しい生き方をすることです。食べ物や弱い人への助けも大切だけれど、それ以上に大切なことだと教えます。(B)平和とは教会の一致のことです。なぜそれができるのでしょう?イエス・キリストを信じる前の私たちは自分がすべての中心でした。考えの中心はいつも自分でした。だから、自分が受けるにふさわしい扱いを受けなければ私たちはそれに怒ったのです。自分は人々からこのように認められるはずであると、そのように思っている人はそうでない場合怒りを覚えるのです。ところがイエスによって救われた私たちは生まれ変わったのです。今度は人が中心になるのです。だから、私たちは人々のために何をしようか、弱っている人をどのように励まそうか、苦しんでいる人をどのように慰めて行こうか、人々をどのように助けて行こうかと考えます。なぜなら、その最高の模範がイエス・キリストだからです。ピリピ2:6-7が教えるように「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」、人としてこの世に来られ、自分から進んで私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったのです。最後の晩餐のとき、弟子たちはだれもお互いの足を洗いたくなかった、汚くどろどろで臭い足など洗いたくなかった、しかし、イエスはその人たちの足を洗われたのです。なぜでしょう?新しく生まれ変わった者は自分のことより周りの人々のことを優先するからです。だから、平和が起こるのです。だから、一致が生まれるのです。一致を乱すのは自分がいつも中心だからです。それが生まれながらの人間なのです。神よりも自分を愛したのです。自分が中心なのです。しかし、私たちはそこから生まれ変わったのです。(C)聖霊による喜びをもって生きて行きます。18節に「このようにキリストに仕える人は」とあります。まさに、このような生き方が主に仕えることだと言います。私たちはいろいろな働きを覚えますが、私たちが神の前に正しく歩み、人々と平和を保ち、聖霊をもって歩んでいるなら、まさに、それが神が望んでおられる生き方だと言うのです。だから、その次に「神に喜ばれ」とあります。Ⅱコリント13:11にも「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」とあります。パウロは「完全な者として歩んで行きなさい」と言います。私たちは残念ながら罪を犯すけれど、その罪を神の前に告白しながら正しく歩んで行きなさい、一つ心になりなさい、平和を保ちなさい、そうすれば「愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださる」のです。ここで神とは愛と平和の神だと言っています。その方があなたとともにいてくださるから、あなたは人を愛することができ、人と平和を保つことができるようになるのです。つまり、神の助けが必要なのです。そして、その神の助けが神の前を正しく歩んで行こうとする人々に与えられるのです。

 もう一度コロサイに戻って、パウロは、私たちがいつもキリストの平和によって心が満たされている、そのために必要なことは、このキリストの平和があなたの審判になること、キリストの平和がいつもあるかないかによって、あなたの歩みを吟味しなさいと教えました。それが一つ目です。二つ目に、

2)感謝をもつこと

  15節の最後に「また、感謝の心を持つ人になりなさい。」とあります。私たちの心がキリストの平安によって満たされて行くために、なぜ感謝が必要なのでしょう?それなら、なぜ、私たちは感謝できないかを考えてみてください。私たちは感謝の代わりに神に不平不満を言います。感謝の代わりに私たちの心は不安になるのです。恐れを抱くのです。なぜそうなのでしょう?それは私たちが神に対する信頼を失うからです。私たちの周りにはいろいろなことが起こってきます。病気もその一つです。仕事を失うこともそうです。予期しないいろいろなことが起こります。そのときに私たちが「どうしてですか?」と思うのは、神が言われていることになかなか信頼できないからです。神は「すべてのことを働かせて益とする」と言われました。それが神の約束です。神はすべてのことを使って私たちの益とされるのです。それが分かっているなら私たちは「神さま、どうしてこんなことが起こっているのか私には分からないけれど、あなたの約束はすべてを通してあなたが私のためにこのことをしてくださっている、だから、私はその約束を信じます」と言うはずです。なぜ、こんな辛い目に会っているのか、なぜ、人が私のことをこのようにさばくのか、なぜ、人が私のことをこのように悪口を言うのか、なぜ、人々が誤解するのか、といろいろなリストが続くでしょう。どうしてか私には分からない…と。しかし、私たちはそのすべてのことをご存じの神を見上げたときに、「神さま、私には分からないけれど、あなたがすべてをご存じで、あなたが導いてくださっていることを信じます」と言います。ある時には、神は本当に私のことを愛してくださっているのですか?とその愛を疑うことがあります。でも、私たちがみことばに戻ったとき、イエスの十字架を見たとき、私は愛されている、イエス・キリストがいのちを捨ててまでも私を救おうとしてくださった、それを見たときに、私たちはこれが愛だとはなかなか思えないけれど、あなたがそう教えてくださったから受け入れますと、そのときに私たちは神に対して感謝が生まれて来るのです。分からないけれど、答えをもらっていないけれど、みことばがそのように言っているから感謝しますと。だから、感謝するというのは私たちの神への信頼の証です。感謝できるときに感謝するのはだれでもすることです。しかし、私たちクリスチャンがどんなときでも感謝できるのは、神を信頼するからです。そして、神を信頼するときに神の平安があるのです。その人は神に喜ばれることをしているからです。みことばはこう言います。ピリピ4:6-7「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」。なぜ思い煩うのか、それは神を信頼できないからです。

 パウロが私たちに教えてくれること、それは、私たちにはなかなか理解できないことであっても、私たちが神がどういうお方かを覚えるときに、私たちはそのお方を称え始めるのです。そのときに、あなたの心はしっかりと守られて行くのです。平安を失っている方がもしいるなら、ご自身の生活を吟味して見てください。必ず、あなたの生活から感謝がなくなっています。これは感謝できるけれど、これは感謝できない、だから、あなたの心に平安がないのです。神さま、私には分からないけれどあなたを信頼します、あなたが神だから信頼します、そのとき神は約束されたようにこのキリストの平和があなたの心を支配し続けてくれるのです。

今日、私たちが見てきたこと、自分の心をしっかり見てください。キリストの平安があなたの心にあるかどうかです。そのためには神の前に、神さま教えてください、私の歩みに間違ったことがあったら正しますからどうぞ教えてください、なぜなら、私はすべての点であなたに喜ばれたいから教えてください、そして、示されたことを神の前に正して行くことです。そうして、キリストの平和があなたの心をしっかり支配します。そして、思い煩うことなく神に感謝をささげることです。神は永遠から永遠まで変わっておられないのです。この方を私たちは受け入れること、信じることができた恵みを感謝することです。私たちの神は全能の神です。全知の方です。すべてのことを委ねることができるお方です。約束は必ず為される神です。この方にできないことは何一つありません。そのような方が私たちの神です。その方に委ねて歩めることがどんなに幸いか、だから、私たちは感謝するのです。感謝しなければならないのです。感謝したくなるのです。こんなすごい神によって私たちは救われ、守られ、導かれているから。どうすれば私の心がいつもこのキリストの平和、平安で満たされ続けて行くのか、パウロは教えてくれたのです。大切なことは、それをあなたが実践するかどうかです。キリストの平和があなたの心を満たしているなら、神はあなたを大いにお使いになります。でも、もしそうでないなら、神があなたに望んでいるのは、主の前に立ち帰って来ることです。神はあなたを使おうとしてくださっているからです。

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