06/09/10 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:新しい生活
聖書箇所:コロサイ人への手紙 3章12-14節
神の恵みによって救われたキリスト者たちがどのように生きて行くのか、その生き方の実践篇をこの3章からパウロは教えてくれています。そして、もうすでに私たちは3章の5節と8節のところから二つの否定的な命令、つまり、こういうことをしてはならないという否定的な命令を見てきました。5節には「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。…」とあり、「殺してしまいなさい」とパウロはもうあなたは救われた者、新しくされた者だから、これまでと同じように罪にあなた自身を支配させ続けることを許してはならない、罪があなたを支配することを許してはならないと言います。自分の思い通りに歩もうとするこれまでの罪の生き方を許してしまうのではなく、イエス・キリストを信じ救われ新しくされた者として、内在している聖霊なる神の導きに従い、そのみこころに従って歩んで行きなさいと、そのことをこの5節でパウロは教えました。二つ目は8節、「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」、「捨ててしまいなさい」とあります。神が忌み嫌われる救われる前の生き方、罪の生き方を捨てなさいと言います。これは放棄しなさい、捨て去りなさいという意味です。道徳的に汚れたその着物を脱ぎ捨てるように、その生き方があなたを支配することがないようにと。このような否定的な命令を与えた後、パウロは今度は肯定的な命令に変わって行きます。
3章12節から見て行きます。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」と最後にある「身に着けなさい。」という命令がここに記されています。12節のみことばは原文ではこの「身に着けなさい」ということばが最初に出てきます。そしてパウロは、では何を身に着けるのかを続いて教えるのです。しかも、今まで見てきた三つの命令は全部同じ時制を使っています。つまり、行ないを今すぐ始めるようにということです。しかも、緊急性を要するもの、先延ばししないで今すぐそのような生き方を始めて行きなさいと言います。すでに、私たちが見て来たように、このようなことをしてはいけない、また、このように生きなさいという様々な命令を私たちが覚えるとき、皆さんも経験しておられることと思いますが、最初はその命令に対して、分かったと言ってその命令を守ろうと努力しますが、なかなかうまく続きません。そして、みことばを学んでそれを実践できるためには、神の恵みが必要だと私たちは知っています、神さま、あなたが望んでおられるみこころはよく分かりました、私はそのように生きて行きたいです、どうぞ、あなたの恵みによってそれを実践させてくださいと、このように生きて行くべきだと分かっているので、そのように生きようとします。ところが、信仰生活というのはこうして歩んで行くときに、最初にもっていた非常な熱心、熱意、神を喜ばせたいという熱い思いが時間とともにだんだん薄れてくることを皆さんも経験しておられると思います。こんなはずではなかった、かつては主のためにだけ生きて行きたいと思っていたのが、だんだん、その思いが薄れてきてしまったと。もうすでに私たちは、どうすればそのようなジレンマに打ち勝って行くことができるのか、どうすれば私たちはその初めの愛を持ち続けて行くことができるのかを見て来ましたが、パウロはこの12節から今一度そのことを私たちに教えてくれるのです。なぜパウロがそのことを教えるのかと言うと、私たちが今から学ぼうとしている、神から与えられたすばらしい祝福、彼は三つの祝福を教えますが、その祝福を覚えて行かなければ、いつの間にか、あなたの信仰生活からそのような喜び、熱意、熱心という思いが次第に薄れて来ます。もしかすると、あなたの信仰生活はただの形だけのものになってしまうかもしれません。礼拝に来ている、祈っている、祈祷会に来ている、でも、それは形だけで神が期待しておられる熱い心の思いがなくなってしまっている、また、薄れてしまっている可能性があるのです。ですから、今から見て行くこの三つの祝福をしっかり覚えてください。
☆クリスチャンに与えられている祝福
パウロは、信仰が形だけのものにならないために、クリスチャンであるあなたはどんなにすばらしい祝福と恵みをいただいているのかを教えます。
1.神によって選ばれた者である
まず最初にパウロは選びについて教えます。確かに、旧約の時代においてもイスラエルの民は神によって選ばれた人々でした。その選びに関して聖書が教えているのは次のところです。申命記7:6-8にイスラエルの民についてこのように教えられています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」、なぜ、神がイスラエルを選ばれたのか、7節から続きます。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。:8 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」、「主があなたがたを愛されたから」と、つまり、この選びというのは、神がイスラエルの民を選ばれたその理由は、神が彼らを愛されたからだと言います。彼らが特別だったからではありません。彼らが何か特別なことをしたからでもありません。神が一方的にそのようになさったのです。もちろん、その背後には神の完全なご計画があります。しかし、イスラエルの民に対して、あなた方が他の民に比べて特別に優れているからではなく、わたしがそのようにしたと言われます。ローマ8:33でパウロはこう言います。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」と。だれのことでしょう?クリスチャンです。イエスを信じたあなたのことです。みことばはあなたは神に選ばれたと言います。パウロはテトス1:1でこのように言っています。「神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ――」と自分は何のために神に選ばれたのか、その目的が書かれています。「私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。」、パウロはクリスチャンのために、彼らの信仰のために、彼らの信仰の歩みのために私は召されたと言います。もちろん、だれが選ばれているのか分からないために彼はすべての人に福音を語ったのですが、彼自身は「神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために」、この務めのために神によって選ばれたと言います。Ⅱテサロニケ2:13には「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」と、イエスを信じているあなたに神が言われることは、初めから、エペソ1:4の通り「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」というのです。Ⅱテモテ1:9にも「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、」
とあります。これらのみことばが私たちに教えることは、神があなたを一方的に選んでくださったということです。あなたが良い働きをしたから、良い人間になったから神はあなたを選んだのではなく、ちょうどイスラエルの民が神の一方的な恩恵によって選ばれたように、あなたも神の一方的な恩恵によって選ばれたのです。そのことをパウロは教えているのです。神はあなたを世界を創造する前から選んでいてくれたと言うのです。アラバマで集会をしているとき、その集会後に前回の訪問時に信仰をもたれた一人の壮年の方がこう言われるのです。質問していいですか?なぜ、私が救われたのでしょう?と。この質問は私たちが何度も神の前に問いかけた質問です。神さま、なぜ私のような者がこんなすばらしい祝福にあずかったのでしょう?なぜ神さま、私のような者を救ってくださったのでしょう?と。あなたが本当に救われているなら必ずこの質問にぶつかります。もし、あなたが一度もこのように思ったことがなければ、あなた自身の信仰を、恵みを考えてみなければなりません。私たちはこの質問にいつもぶつかるのです。人間的に優れた人はあふれるほどいるのに、なぜ、私のような者をあわれんでくださって、救いへと招き入れてくださったのですか?と。そのことに私たちはいつも驚かされるのです。みことばが私たちに教えてくれるのは、このすばらしい恵みに私たちがあずかったのは私たちの働きではないということです。
先日、アメリカでニュースを見ていると、ある一人の有名な方が出てきて、彼女と友だちに聞いているのです。「あなたは死んだら天国に行きますか?」と、本人もまた友人たちも声をそろえて「間違いなく行きます」と答えます。「なぜですか?」と質問は続きます。「だってこの人はすばらしい人です。この人は必要がある人のところに出て行ってその人を助けようとします。自分のことよりも他の人を優先します。だから、天国に行きます」と。そのように私たちは思うかもしれません。けれども、聖書はそのようには教えていません。私たちのいかなる働きも神を満足させることはないと言います。どんなにいい事をしていても、そのときの私たちの心や思いを吟味すると、その中にいい事をしている自分を誇っている自分がいたり、いい事をしている自分を人々に見せたいという思いがあったり、いい事をしている自分がそうでない人たちを見下していたり、自慢したりと、神はすべてのことをご覧になっていて、行ないによってはだれ一人として神の救いにあずかる者はいないと言われたのです。では、どうすれば救われるのでしょう?神の一方的な恵みです。神のすばらしい恵みによって私たちはこの救いにあずかることができるのです。
パウロがまず最初に、このクリスチャンたちにしっかり覚えていなさいと教えたことは、あなたは神によって選ばれてこのすばらしい救いにあずかった、あなたの行ない、あなたの功績によるのではないということです。
2.聖なる者とされた
こう言うと、何か私たちは罪が赦されてきよくなったと思うのですが、ここで使われている「聖なる者」
ということばは、神にささげられた、神のために聖別された、別の言い方をすると、神の目的のためにあなたは召し出されたという意味です。あなたが「聖なる者」とされたのは、罪の中を歩み永遠の滅びに向かっていたあなたに対して、神は一方的に働き、神はそこからあなたを救い出してくださった、そして、それで終わったのではない、神にとって役に立つ者として生かしてくださったというのです。私たちは地獄から解放されて天国に行けるためだけに、神は私たちを救い出したのではないのです。多くの人が思うことは「私は地獄ではなく天国に行きたいからイエスを信じます」です。確かに、そのようなメッセージは人々に受け入れられ易いのです。天国に行きたいのならイエスを信じなさいと。しかし、それは聖書が教える福音のメッセージではありません。そのことは皆さんもう十分にご存じのはずです。福音のメッセージは「私たちは生まれながらに私たちを造ってくださり、私たちを愛してくださり、私たちの主であり神である方に逆らって生きて来たこと、それが罪です。そして、私たちはそれが間違っていることに気付かされて、神さま、私は間違っていました、もうあなたに逆らった生き方は止めます、あなたを私の主として私の救い主として受け入れて、あなたに従って行きたい、イエスを送ってくださり、イエスが十字架で死んで三日後によみがえってくださった、このすばらしい救いのみわざを私は受け入れます、どうぞ、私の罪を赦して、私に罪の赦しを与えてください」ということです。私たちは人々に罪の悔い改めを伝えるのです。そして、その罪を悔い改めて救い主のところに立ち返るように、私たちは人々に命ずる者です。
救われた私たちに対して神は何と言われているでしょう?Ⅰコリント6:20「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」です。今回訪問したところでは、60歳代より上の方々が皆みことばを覚えているのです。みことばを一生懸命暗記して、それを自分のものにしようとしておられます。皆さんもきっとそうだと思います。ですから、恥ずかしがらずに言ってください「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」と。それがあなたが救われた目的なのです。神の栄光を現わすために神はあなたを救い出してくださった、その目的のために私たち人間は造られたのに、私たちはその目的から逸脱して自分勝手に歩み始めたのです。神の栄光ではなくて自分のために生き始めたのです。しかし、神は私たちを救い出してくださり、神にとって役に立つ者に私たちを生まれ変わらせてくださったのです。そのことをパウロは言うのです、あなたは聖なる者とされたと。
3.愛されている者である
これまでの二つは形容詞ですが、ここだけ動詞が使われています。しかも、この動詞の時制を見ると、過去も愛されたし、今現在も愛され続けているという時制が使われています。神はあなたのことを愛してくださっていると。ローマ5:8でパウロはこう言っています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」、もし、あなたが愛されていないと思うようなことがあったなら、イエスの十字架を見上げることです。あの十字架はあなたが愛されていることの証明です。あなたに対する神の愛は、あの十字架ではっきり示されたのです。そこを見上げることです。ヨハネもⅠヨハネ4:9からこう言います。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」、あなたが愛された証拠はどこにあるのか、ヨハネは言います。父なる神はひとり子をこの世に送ってくださり、その方があなたの身代わりとなって十字架で死んでくださり、そして、そのことを信じるあなたに永遠のいのちを与えてくださった、ここに愛があると。罪人であったあなたに、神に逆らってきたあなたに、神は永遠のいのちを与えてくださった、ここに神の愛が明らかにされたと言います。続いて10節「:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」、私たちが愛したからその見返りに神は私たちを愛してくれたというのではなく、神が私たちを一方的に愛してくれたと言うのです。ですから、クリスチャンの中で「私は本当に愛されているのかな?」と思っている方がいるなら、悪魔はこのように見事に神の愛を疑わせます。こんなに熱心に祈っているのに、こんなに一生懸命主に仕えているのに、主はあなたの願いを聞いてくれない…、神はあなたのことを愛しておられないからだと、そのようにして神の愛を疑わせるのです。そのときに、私たちは十字架を見上げることです。神はあなたは愛されていると言われます。
あるクリスチャンたちは、自分の罪が余りにも大きすぎて神は赦してくださらないと思っています。その方も神の愛が分かっていないのです。イエスはあなたの過去のすべての罪のためにも死んでくださった、しかし、現在の、そして、未来の罪のためにも死んでくださったのです。イエスはあなたのすべての罪を負って十字架で死んでくださったのです。私たちには様々な誘惑があります。それはあなたが愛されていないのだと言ってあなたを惑わしあなたが神を疑うように仕向けるのです。私たちは十字架を見ることです。そこに私のすべての罪が、過去も現在も未来も、すべての罪が架けられたのです。
パウロはまずこの三つのことを教えます。そして、このような祝福をクリスチャンであるあなたは与えられている、こんなすばらしい祝福を神からいただいたのだ、だから、その祝福をいただいている者としてふさわしく歩んで行きなさいと言います。最初に話したように、そのことを覚えていないとあなたが一生懸命主に仕えているその行ないは、だんだん感動も喜びも薄れて行きます。だから、私たちはいつもどんなすばらしい祝福を神が与えてくださっているのかを覚え続けて行くことが必要です。そして、それを覚えるとき私たちは次のようなことを喜んでやって行こうとするのです。
◎クリスチャンの歩みについて
(1)深い同情心
国語辞典には「他人の気持ち、特に苦悩を自分のことのように親身になってともに感じること」とあります。でも、これはクリスチャンでなくてもだれでも持つことができるものです。国語辞典が定義することができるのはここまでです。なぜなら、テレビなどで様々な苦しい目に会っている子どもたちや人々の姿を見ると、誰しも心が痛みます。何かしてあげたいと思います。そういう気持ちをもつことをパウロがここで命じているのかというと、そうではありません。パウロが言うのは、気持ちだけのことではありません。それを実際に具体的に行ないによって現わしなさいということです。行動のことです。なぜ、パウロは最初に「同情心」と言ったのでしょう?人々に対してあわれみの気持ちをもちなさいと言ったのでしょう?3:11を見ると「そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」、もう私たちが前に学んだように、この当時の社会においてはこのような差別がなされていたのです。もうすでに見たように、奴隷は人間ではなかったのです。奴隷は主人の持ち物に過ぎなかった、女性を冷遇したり、病気の者や老いた者に対しても偏見があったのです。彼らはもう役に立たないと。だから、パウロはそういう社会の中で人々はそのように見ているけれど、あなたはそのように見てはならない、神がご覧になるように見なさい、周りにはいろいろな人がいるけれど、その人たちに対してただかわいそうに思うだけではない、彼らのために何かして行きなさいと言うのです。
(2)慈愛
慈悲、親切、好意、情深さという意味をもったことばですが、国語辞典では可愛がり大切にすることという定義がなされています。この「慈愛」というのも親切な行ないをもって周りの人々の必要を満たそうとする、そういう精神です。先ほどの「同情心」とも関連していますが、神が望んでおられる私たちイエス・キリストを信じる者の姿というのは、ただ心でかわいそうに思うとか、心で彼らに対して親切であろうと思うだけでなく、それを実際に形となって具体的に行ないに現わしなさいということです。彼らの必要に対して何とか答えて行こうとするのです。そういった歩みをするようにと。
(3)謙遜
考えの謙遜な人であるようにと言います。コロサイ2:18には「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、」とあります。「ことさらに」とは「わざと、故意に」という意味でした。ある人はわざと、故意に、人の目ばかりを気にして、人からよく思われたいという動機でもって、いかにも謙遜であるような振る舞いをしていたのです。彼らの心の中は全く逆で私はこのように謙遜であると自慢していたのです。それはすでに見て来たとおりです。見せ掛けだけの謙遜です。パウロが言うのはそういうものではない、それとは全く逆の謙遜を教えるのです。私たちは自分自身の姿を知ることです。神が私たちをどんなふうにご覧になっているかを覚えることです。私たちはすぐに人が自分をどう見るかを考えてしまいます。私たちの社会は恥の社会だからです。皆と同じことをしていれば安心なのです。しかし、クリスチャンは違います。そういうところから解放された者として人の目ではなく、神の目を恐れる者として生きるのです。だから、私たちは謙遜にならなければいけないのではなく、神の目に映っている自分を正しく見て行けば何も私は誇ることができないことに気付き始めるのです。いったい私たちは神の前に何を自慢しますか?自分の財産でしょうか?持ち物でしょうか?教育でしょうか?そんなものは永遠に続くものではありません。そういうものを誇り愚かなものを自分の宝としてきたのがかつての私たちです。パウロ自身、神の目から自分を見たとき彼は言いました。私は罪人のかしらです。私以上の罪人はこの世にいないと。その彼がこう言います。Ⅱコリント12:5「このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。」、9節にも「…ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」と。神の目から自分を見たとき、本当の自分を見つめたとき、彼は神の前に謙虚にされたのです。くだらないことでだれが偉いのかとか、どちらが偉いのかというような生き方をしてはならない、そんなことはもう過ぎ去ったこと、一人ひとりがしっかり神を見上げて神の前に砕かれて歩み続けなさいと言うのです。
(4)柔和
このことばは特に生活に現われた外部的な柔和です。内側ではなく外側に現わされた柔和のことです。精神的な内側の柔和なら別のことばを使います。ここでは外部的柔和のことです。優しさ、温和、穏やかさ、という意味があります。イエスはご自分のことをこのように言われました。マタイ11:29「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」、この「心優しく」が今見ている「柔和」と同じところから派生したことばです。でも、この人は何をされてもただ笑っているのではありません。イエスがそうであったように、罪に対してはきよい怒りをもって正しく扱われました。しかし、怒って罪を犯すようなことはなかったのです。私たちに必要なことは、心優しく柔和で温和で穏やかな人として歩み続けることです。それは次の「寛容」にも通じます。
(5)寛容
忍耐、辛抱ということばですが、国語辞典を見ると、過失をとがめだてせず人を赦すこととあります。ここで使われている「寛容」ということばは、不正な扱いを受けたり、不快な状況に追いやられたりする場合、その人々に対して復讐をしよう、仕返しをしようなどと思わないことです。残念ながら、私たちは毎日の生活でいろいろなことに出会います。人からいろいろなことを言われたり、人のいろいろな行ないによって傷つくこともあります。ここで言われている「寛容」は、そういうときにその人に何か仕返しをしよう、報復をしようとは思わないことです。では、その人はどうするのか、神を見上げるのです。なぜなら、私たちはいつか神の前に立ちます。そして、神が私たちに問われることは私たちの生き方についてどのように生きて来たかです。いろいろな状況の中にあって、どのような選択をしてどのように主に仕えてきたか、そのことを神は私たちに問われるのです。だれかが私にいやなことを言った、それはその人の問題です。私の問題はその状況下にあってどのような選択をするかです。彼らに復讐をするなら私が罪を犯したことになるのです。言い訳はできません。すべて、私たち一人ひとりに責任があるのです。ですから、ここで言われている「寛容」な人とは、いろいろな不正な扱いを受けたとしても不快な状況に陥ったとしても、その中で正しい選択をする人です。必ず神の前に立つからです。
この寛容に関してパウロは13節でもう少し詳しい説明をしてくれています。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」、二つのことに注目してください。そのことによってパウロはこの「寛容」ということばの説明をしているのです。一つは「忍び合い」、もう一つは「赦し合い」です。「忍び合い」=人に対して我慢するということです。「赦し合い」=だれかが他の人に不満を抱くことがあっても互いに赦し合いなさい、その罪を互いに赦し合って行きなさいと言います。しかも、この二つのことばはどちらも現在形です。こうして継続して歩んで行きなさいと言うのです。では、私たちが本当にお互いを赦し合って行くために必要なことは何でしょう?このみことばが教えるように「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」です。だから、神が私のような罪人を赦してくださったことをしっかり覚え、その主の赦しを模範として互いに赦し合って行くのです。もし、教会が、クリスチャンの集まりがこのようなことを実践しているなら、私たちはこの世に対してすばらしいメッセージを送ることになります。私たちがキリストの愛を実践しているからです。しかし、群の中にあっていがみ合っていたり、兄弟姉妹どうしが憎しみ合っていたり、お互いのことが嫌いであったり、お互いを避けていたりとそのような罪があるなら、残念なことに、神はあなたを喜ばれないし、この群を喜ばれません。
寛容な者になりなさい、なぜなら、あなたには神からすばらしい祝福が与えられている、あなたを神は選んでくれたし、あなたを役に立つ者にしてくださったし、神はあなたを愛し続けておられる、十分ではないかと言います。そのことをしっかり覚えて、あなたは救われた者として、こんな祝福をいただいた者として、その主の愛を主の赦しを実践し合って行きなさいと、そのことをパウロは教えるのです。
そして、最後に14節でこう言います。「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」と、パウロはクリスチャンとしてあなたがたはこういう生き方をするべきだと言いますが、でも、愛がなければこのような立派なすばらしい行ないも無益なものだと加えるのです。「これらすべての上に」と言ったのは、愛が最も大切なものだからです。これが神が私たちイエス・キリストを信じる者たちに望んでおられる徳なのです。「結びの帯」、すべてのものを結びつけるのです。私たちが人に対して深い同情心をもち、慈愛をもち、謙遜をもち、柔和で寛容な者になって行くために、それらをしっかりまとめるのは「愛」だというのです。だから、パウロがここで言わんとしていることを言い換えると、このような一つ一つの行動はこの「愛」が動機となって出て来ているものなのです。愛を動機として、私たちクリスチャンはすべてのことをして行くのです。パウロがローマ13:9-10でこのように言ったことを覚えておられますか?「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」、パウロが言ったことをよく考えてみてください。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」とこういう戒めがあるけれど、もし、あなたが隣人を自分と同じように愛するならそれらの律法を守っていることになると言うのです。なぜなら、もし、あなたが自分と同じように隣人を愛しているなら、このようなことをしないからです。なぜ、人を殺すのですか?その人の持っているものが欲しかったり、その人に対して恨みや憎しみがあるからです。もし、その隣人を愛してその人を赦すなら、その人を殺すことなどないはずです。だから、パウロが教えたことは、私たちクリスチャン一人ひとりが隣人を赦すなら、あなたは律法を全うしているということです。一人の律法の専門家がイエスにこのような質問をしました。マタイ22:36~「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 :37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』:38 これがたいせつな第一の戒めです。:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」、今私たちが見ていることはこの通りなのです。神がどのような祝福をくださったのか、その一つ一つを覚えることによって、私たちの目は神の方に向きます。神さま、なぜこんな私にこのような祝福をくださったのかと神の方を見上げるのです。その神の愛がしっかり分かっているとき、当然、私たちはその神に正しく応答して行こうとします。どのように?隣人に対して、彼らをどのように愛して行くのかです。パウロがここでも教えていることはまさにこのことです。私たちがまことに心から神を愛しているなら、その愛は必ず周りの人々に対して広がって行くものです。「愛は隣人に対して害を与えません」と、彼らのために何かをしようとするのです。それがパウロが私たちに教えてくれていることです。
皆さん、あなたはいつまでこの地上に置かれるか分かりません。私はいつも飛行機に乗るときはこれが最後と覚悟して乗ります。無事に着くたびに、神さま、また生かしてくださった、それなら残されている時間をどのように神のために使って行こうかと考えます。私たちにとって必要なことは今日が最後かもしれないということをしっかり覚えて生きることです。では、神が私たちに今日を与えてくださった、そして、何を望んでおられるのか、私たちクリスチャンは神の恵みをしっかり覚えて、それを実践して行くことです。私たちの隣人たちに私たちの愛を示して行くことです。もちろん、罪があればそれは罪だと言うべきです。その罪から悔い改めるように勧めること、それが愛だからです。私たちに必要なことは、この神の愛を周りの人たちに伝えて行くことです。イエスはヨハネ13:35でこのように言われました。「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」。私たちがこのみことばに従って歩んで行くとき、人々は私たちのうちにキリストを見るからです。
今日、私たちがこのみことばから学んだことは、新しくされた者としてあなたには新しい生活が待っているのです。新しくされた者としてあなたは新しい生き方をして行くはずです。そのことを神は望んでおられるのです。そして、その行ないを私たちが実践して行くために必要なことは、私たちがしっかりと恵みを覚えることだと言います。そして、それに対して応答して行くことです。願わくば、皆さん一人ひとりが神によってどんなに愛されているかということをしっかり覚えて、その方の愛を示して行くことです。まだ、イエス・キリストを信じていない人がいるなら、神があなたを愛してくださり、神はあなたにすばらしい祝福、救いを与えようとしてくださっています。でも、いつまでその機会があるのか分かりません。神がその機会を今日あなたに与えてくださっている、私たちが心から望むことは、そのチャンスが与えられているときにその救いを受け入れることです。神に逆らう生き方を止めて、あなたを愛していのちを捨ててくださったイエスを信じて従って行くことです。この救いを今日、あなたのものとしてください。