礼拝メッセージ要約

Assisting the study of God's Word

2006/08/13 礼拝メッセージ

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Messenger: 近藤修司
Passage: コロサイ3:7-11
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06/08/13  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師


主  題:あなたは新しい人2

聖書箇所:コロサイ人への手紙 3章7-11節

 コロサイ3:7-11を見ましょう。「あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」

アメイジング・グレイスという曲を書いたジョン・ニュートンは82歳で召されましたが、召される少し前、彼はメッセージの途中で次のようなことを大声で言ったと言われています。「私の記憶はほとんど薄れてしまった。しかし、私は二つのことを覚えている。それは、私は偉大な罪人であること、そして、キリストが偉大な救い主であること」と。まさにこのことこそパウロが私たちに教えようとして来たことです。パウロは私たちが最悪な罪人であること、同時に、キリストは最高の救い主だと、そのことを彼は私たちに教え続けてくれているのです。エペソ2:3でパウロはこんなことを言っています。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」、生まれながらの私たちは神に従おうともせずに、神の敵であるサタンを愛して、そのサタンに従って神の敵として生きて来たと言うのです。私たちは罪の中を神に逆らいながら生きて来たのです。だから、私たちはさばかれ、永遠の地獄が約束されていたのです。なぜなら、私たち自身が神に逆らい続けて、神の忌み嫌われることを自ら進んで行ない続けてきたからです。パウロが教えることは、この手紙の読者たちも私たちも皆そのように歩んで来たということです。コロサイ3:7に「あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。」と、まさにそういう罪の中を生きて来たと言います。

私たちはすでに3:5でパウロが言う罪の一部を見てきました。7節に「歩み方をしていました」とありますが、この動詞の時制は不定過去で、パウロはその人が生まれてから救われるまでの過去の生活のすべてを総括して言っているのです。人間は生まれてからイエスを信じて罪が赦されるそのときまで、すべて神の敵として生きていると言います。救いに与るまでこの5節のみことばが教える「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼり」という、このような生き方こそが自分自身の特徴だったのです。しかし感謝なことに、神がそのようなところから私たちを救い出してくださったのです。そして、救われた私たちに対してパウロは、これまでと異なる、神に喜ばれる生き方をするようにと命じるだけでなく、そのように新しく生きて行くことができるということを教えようとしているのです。パウロは、イエスを信じる今の私たちにも不可能なことを命じようとしているのではないのです。救われたあなたにはこのような生き方が可能であると言います。だから、パウロはこのように生きて行くべきであると繰り返し教えるのです。

 エペソ2:10でパウロはこのように言いました。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」、神があなたを救ってくださったその目的は、あなたが良い行いをするためであり、しかも、あなたがその良い行ないをして行くために必要なものを神は備えてくれていると言うのです。そうすると、私たちには弁解の余地は残っていません。そのように生きて行くことができるように、神がすべてのことをしてくれたのですから。また同時に、Ⅱコリント5:15に「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」とあるように、人生の目的が全く変わったというのです。自分のために生きて来た私たちが、救われて生まれ変わったことによって、今度は私たちを造ってくださった創造主なる真の神のために生きるのだと。それも私たちにとっては重荷ではなく、そのようなことができる者へと私たちは生まれ変わったと言うのです。だから、パウロは私たちに重荷を与えようとしているのではないのです。新しく生まれ変わったあなたがどのような歩みをすれば神を喜ばせることができるのか、その歩みを具体的に教えてくれているのです。前回もそれを見てきましたが、今日、私たちが見るところも、パウロ自身が、新しい人としてどのように生きて行けば良いのか、そのことを教えるのです。

☆新しい人としての歩み

 5-11節には二つの否定的な命令が出ています。5節には「地上のからだの諸部分、…殺してしまいなさい。」、8節には「…捨ててしまいなさい。」と、どちらも否定的な命令が記されています。

1.心を正しく保ちなさい

パウロがまず言いたかったことは「あなたの心を正しく保ちなさい」です。イエスを信じて救われたあなたに必要なことは、あなたの心を常に正しく保つことだと言うのです。言い方を変えるなら、神に逆らってきたこれまでの生き方をしないということです。新しく生まれ変わったあなたは、本当の自分らしく生きるのです。確かに、「自分らしく生きる」というのはこの世の中でも言われていますが、それではありません。世の中が言うことは、結局は自分の好きなように生きなさいということです。しかし、私たちクリスチャンが本当の自分らしく生きると言う時は、生まれ変わった者として、新しい人として生きて行くということです。かつての自分とは違うのです。新しくなった自分が、それにふさわしく生きて行くことです。前回も見たように、この5節の「からだの諸部分、…殺してしまいなさい。」というのは、からだが神に敵対するものとして用いられてきたから、パウロはここで、あなたのその肉を罪に支配され続けるのではなくて、かえって、聖霊によって支配され続けなさいと教えるのです。罪を放っておかないでしっかりとそれを支配しなさい、自分の思い通りに歩もうとする生き方を許してしまうのではなくて、聖霊の導きに従って、そのみこころに従って歩んで行きなさいと、そのことをパウロは教えたのです。

2.救われる前の生き方を捨てる

 二つ目の否定的な命令は8節「すべてこれらのこと、…を、捨ててしまいなさい。」と、パウロは一体何を「捨ててしまいなさい。」と言っているのでしょう?5節のところでも言われていましたが、神が心から忌み嫌われる、神が怒られるような、救われる前の生き方を捨てる、すなわち、罪を捨てなさいということです。「捨ててしまいなさい」というのは、上着を脱ぐ、放棄する、捨て去るという意味をもったことばです。罪を捨てるのですが、5節にも8節にもその罪のリストが上がっていますが、今日、私たちが見る8-9節には六つのリストがあります。五つの名詞と一つの動詞です。

(1)怒り=このことばの基になっているのは「満ちる」ということばです。ということは、この「怒り」はずっと心の中に満ちている怒りのことです。心の中にずっと怒りを持ち続けている状態です。どうしても私はあの人のことを赦すことができない、あの人のことがどうしても受け入れられないと、そのような状態をずっと保ち続けようとするのです。なだめられることを拒んで、その怒りを持ち続けて行こうとすることです。ある神学者は「習慣的な怒り」と訳します。だから、ある人が何かに対して怒ったというのではなくて、その人の心の中に怒りがふつふつと継続して存在しているということです。

(2)憤り=激情とか突然の怒りです。ある時爆発する、そのような意味をもっていることばです。

(3)悪意=ある人の喜びをどうしても喜べない、自分が好きでない人が喜んでいる、その人が幸せであるとどうしてもそれが我慢ならない、その人の幸せよりもその人の不幸を喜んだり、そのことを期待したりする、そういった意味です。辞書では、意地悪、陰険な心と訳されています。

(4)そしり=この「そしり」に使われているギリシャ語を神に対して用いたときは「冒涜」と訳します。神に対する冒涜です。それを人に対して用いた場合は、人を中傷する、人の悪口を言う、人に対して屈辱的なことを言うという意味です。

(5)恥ずべきことば=下品な会話や冗談です。汚れたことばや猥褻なことばです。

(6)偽りを言う=うそを言うことです。パウロはあなたが偽りを言うとき、うそをつくとき、あなたは神ではなくサタンを喜ばせていると言います。しかし、もしあなたが真理を話すなら神に喜ばれると言います。パウロはエペソ4:15で「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」と、クリスチャンが成長して行くために必要なことは、私たちが真実を話すことです。

 この六つのことを見てきました、すべてこれらはことばに関するものです。ことばに関する罪をパウロはここに上げているのですが、特に、注目していただきたいことは、最初の四つのことは非常に関連しています。5節に出てきた罪のリストもそうでした。心に問題があれば、と見てきたのですが、この8節に出てくる最初の四つの「ことばによる罪」もまさに心に関連するのです。もし、私たちが怒りを抱いてしまうなら、先に言ったように、どうしてもあの人を好きになれない、嫌いだと、その思いを許してしまうなら、その間違った思い、その罪はあなたの心の中で大きくなって、大きな罪を犯して行くことになります。つまり、あなたの中にそのような怒りをもっていると、そこから憤りが出てきます、ある時に爆発するのです。また、その人が受け入れられない、その人のやっていることが皆嫌いになってくるのです。そうすると、その人の幸せではなく不幸を喜び始めるのです。そして、そういう罪を放っておくと必ず悪口が出てきます。見事です。これは私たち人間皆に共通した問題です。人の悪口を言うとき、あなただけに言うけれど、誰にも言わないと言いながら、たくさんの人に言っています。私たちがそういう話をするときは、必ず、その人の悪いところを言いながら、結局は自分自身を満足させようとしているわけです。なぜ人の悪口をいうのか、心の中にその人への怒りがあるからです。周りの皆も自分が思っているように、その人に対して悪く思ってもらいたいからです。自己中心の最たるものです。このように見たとき、私たちの心をしっかり正しく守って行かないと、心の中に少しでもそのような怒りがあると、それは大きな罪になり、形となって現われてくるのです。神が私たちにこの口をくださったのは、真実を語るためであって人をののしるためではありません。この口は神を称えるためのものであって、神によって造られたものをけなすためではありません。ヤコブが言うように「賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」(ヤコブ3:10)と。私たちには必ず誘惑があります。だれかの悪口を言いたいという…、そのとき私たちがすることは自分の心を吟味することです。なぜ、そのような思いをもっているか、その動機を吟味するのです。そして、その罪を神の前に告白することです。だれかの悪口を言っても、言っている本人は喜べないし、そんなことを聞かされている人も喜べない、だから、そのような罪は止めなければいけないのです。そのことをパウロはここでも教えているのです。このようなことばによる罪だけではありません。もう一つパウロは罪のリストを上げています。

(7)人に対する偏見11節)=偏見による罪です。「ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人」と、パウロはリストを上げました。それには目的があります。初めに上げた「ギリシヤ人とユダヤ人」、彼らは自分たちが一番として他の人を見下していた非常にプライド高い人々です。ギリシャ人はギリシャ語を話さない人々を、彼らは未開人だと言って見下していたのです。ユダヤ人は自分たちは選民だとしてそうでない人々を見下していたのです。自分たちは正しい、自分たちは神に喜ばれているけれど、他の人々はそうではないと。「割礼の有無」、これはユダヤ人にとっては非常に重要でした。ユダヤ人たちは割礼を受けていない人を汚れていると忌み嫌ったのです。「未開人」、無知な野蛮な人間だと言います。特にここで「スクテヤ人」という人々の名が出てきます。彼らは西シベリヤから黒海、カスピ海地方に住んでいた遊牧騎馬民族です。様々な国を支配、占領して行ったのです。このコロサイ人への手紙の中に彼らの名前が出てくるというのは、彼らがコロサイの人々に何か影響を与えていたというよりも、彼らのことが人々の間で知れ渡っていたのでしょう。野蛮人の代表として…。人々は彼らのことを野蛮人の中でも最も低い存在であると見ていたのです。人々から軽蔑されていた彼らがこのリストに上げられています。そして、「奴隷と自由人」、この当時はこのような区別があったのです。

奴隷は人間以下の存在であると見られていたわけです。だから、自由人と奴隷の間には全く交流がなかったのです。このような社会の問題をパウロは取り上げて話しているのです。しかし、イエス・キリストを信じた私たちにはそのような区分は全くないと、つまり、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」、私たちは同じキリストをもつ者であり、兄弟姉妹、家族の一員だと言います。イエス・キリストを信じる私たちには、国籍も人種も身分も地位も全く関係ないと、これが私たちがこの世に発するメッセージなのです。そのような人間が作り上げてきた垣根を、神は全部取り払ってくださったのです。パウロはⅠコリント12:13で「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」と言います。私たちは一つになった、聖霊をいただき兄弟姉妹なのだと。私たちは皆キリストによって造られ、生まれ変わった者だと言います。イエス・キリストは人間の間に偏見を築くために来られたのではなく、人間がその罪ゆえに築いた偏見を砕くためにこの世に来られたのです。

ことばの罪、偏見の罪、どちらも人に対する罪です。パウロはそのようなものは今のあなたにはふさわしくないと言います。新しく生まれ変わったあなたにはふさわしくないと。なぜでしょう?このみことばの中に二つの理由を見い出します。一つは、あなたは生まれ変わっているから、救われているからです。9-10節に「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、:10 新しい人を着たのです。」

とあります。この「古い人」というのは救われていない人のことです。汚れて堕落し罪深い者です。パウロはそのような古い人はあなたはもう捨て去ったのだと言います。そして、「新しい人」というのは救われた人のことです。罪赦された人です。あなたは神に逆らってきた古い人を脱ぎ捨てて、神に喜ばれる新しい人を着た、救われたのだということをパウロはここで言っているのです。もちろん、この読者たちがキリストによって救われた者であることは7節のところから明らかです。「あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。」と、かつてのこと、過去のことを言い、今のあなたは違うでしょうとパウロは言っています。8節には「しかし今は…」とこの接続詞、副詞を見ても、かつてのあなたと今のあなたは違うということを言っています。しかも、「脱ぎ捨てる」、

「着た」とどちらも不定過去を使っているのです。一度きりのことなのです。ですから、あなたはある時にイエス・キリストを信じようと決心した、イエスを信じて従って行こうと決心した、その瞬間に、あなたは古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着たのです。生まれ変わったと、一度きりのことです。

9-10節に、残念ながら日本語では前置詞が訳されていません。「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、:10 新しい人を着たのです。」、ここに前置詞が含まれているのです。ですから、それを入れて読むとこうなります。「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、:10 新しい人を着たの〈だから〉」と。ですから、あなたは生まれ変わった、あなたは救われたのだ、だから、かつての生き方はあなたにはふさわしくないとパウロは言うのです。それが一つ目の理由です。

もう一つの理由は、あなたは日々新しくされているからだと言います。あなたは日々新しくされて行く者だから、かつての生き方はあなたにふさわしくないとパウロは言います。10節を見てください。この中に「…新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、」とあります。「新しくされ」という動詞は現在形です。つまり、あなたが古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着た、これは一度きりの出来事です。しかし、救われたその瞬間からあることが始まったのです。あることが継続するのです。それはこの「新しくされる」、つまり、神は救われたあなたに対して働きを始められたのです。あなたを新しい者に変えようとする働きです。しかも、この「新しい」というのは質において新しいことです。外見のことではなく質です。私たちは新しい者に変えられ、変えられ続けて行くということです。救われる前とは全く異なる者へと神は継続して変えて行ってくれると言うのです。だから、救われた人は変えられ続けるのです。イエスを信じて罪赦された人は変えられるのです。Ⅱコリント4:16に「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とあります。パウロがここでも教えてくれるように、私たちの内なる人は日々新たにされて行く、新しく、神によって変えられ続けて行くと言います。だから、私たち救われた者は徐々に徐々に変えられて行くのです。新しい願いをもって生きる者になるのです。救われる前にはもっていなかった願いです。つまり、神を喜ばせて歩んで行こう、神を証して行こうと、新しい目的をもって生きるのです。神のみこころを行なって神に喜んでいただきたいという目的です。なぜなら、その時に神の栄光が現わされるからです。かつて、私たちは地上のことばかりを求めてきました。しかし、イエスを信じて救われた時に、かつて求めていた財産や名誉、快楽などではなく、もっとすばらしいものを求めて行こうとします。すばらしいものを見つけたからです。過去に対しても現在に対しても未来に対しても考え方が変わりました。今までは今さえ良ければいい、今楽しければそれでいいと、今しか見なかった、先のこと永遠のことなど考えなかったのです。しかし、神が私たちを生まれ変わらせてくださることによって、私たちは永遠の備えをするように、永遠を見て今日生きるようになりました。そして、私たちの性格も変わり始めました。物の見かた、価値観も変わりました。人のことが気にならなくなりました。それは神のことを意識しているからです。少なくとも、あなたの中にはこのような変化が起こっているはずです。なぜなら、救いというのは新しく生まれ変わることです。そして、その瞬間から神はあなたを新しい者に変え続けて行こうという、その働きが始まっているからです。

バークレーという神学者はこう言います。「私たちは余りにもしばしば新約聖書が主張する真理を回避したり、人間を変えないキリスト教は最も不完全なキリスト教であるという事実を避けて通ったりする。」と。この信仰は人を変えるのです。この信仰はあなたを変えるのです。私は死んだ後天国に行きたいです、だから、イエスを信じます、あぁよかった、永遠の保証ができた、じゃぁこれまでと同じように好きなように生きて行きます…と、これは救いではありません。聖書が教える救いではありません。神があなたを救ってくれたら、神はあなたを変え始めて行くのです。それが聖書の教える救いです。神はあなたを新しく生まれ変わらせてくださった、神はあなたを新しく日々変えて行ってくださる、だから、これまでの生き方はあなたにはふさわしくないとパウロは言うのです。

◎では、どうすれば私たちは変わって行くのでしょう?

 皆さんにたとえば「イエスさまを信じてからあなたは変わっていますか?」と聞くと、さあ、そう願っていますけれど、正直に自分を見て、余り変わっていない…と思われたことは何度もあることでしょう。その時に考えなければいけないことは、自分自身、本当に変わって行くことを望んでいるかどうかです。なぜなら、私たちが変わって行くために必要なものはみことばです。私たちは神のみことばによって変わって行くのです。ペテロがそのことを私たちに教えてくれます。Ⅰペテロ2:2にあるように「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」と、私たちが成長するためにはどうしてもみことばが必要なのです。それが神がお定めになった方法なのです。聖書を除いて信仰の成長など有り得ないのです。なぜなら、この聖書は私たちに神のことを、神のみこころを教えてくれるものです。それを無視して私たちが特別な体験をしたから成長する、それはパウロが教えた誤った教師たちが持ち込んだ異端だったわけです。彼らは聖書から外れたらいい、聖書よりも他のものが必要だと言うのです。パウロは聖書が必要だと言います。ですから、私たちが変わって行くために必要なものはみことばです。

同時に、神の助けがいるのです。もう一度この10節を見てください。「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」とあります。この「新しくされ」は現在形だと言いました。このように神は私たちを変え続けて行ってくださると。この動詞は現在形であるとともに、受身、受動態なのです。ということは、あなたが新しく変わって行くために必要なのは神の助けだというのです。あなたを変えて行ってくれるのは神の働きだからです。神はどのように私たちを変えようとしているのか、このみことばが私たちに教えてくれました。「造り主のかたちに似せられてますます新しく」

と、キリストに似た者へと神は私たちを変えようとしています。Ⅱコリント3:18で教えるように「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と、神は私たちを変えようとしてくださっている、イエスに似たものに私たちを変えようとするのです。そして同時に、私たちの信仰が成長して信仰のおとなになるために、神は私たちを変えようとしているのです。「真の知識に至るのです。」と10節にあります。私たちがもっともっと神に関する知識を、真実をより深く知って行くのです。コロサイ1:9ですでに教えられました。「…神のみこころに関する真の知識に…」と。そこですでに学んだように、神が言われる霊的なおとなとはどういう人なのか?それは、みことばを通して神のことを正しく知って、日々の生活において神の前に正しい選択ができる人です。どのように生きて行けば神を喜ばせることができるのか、様々な状況にあって、何が神の前に正しいみこころなのか、それを正しく見極めて、それを選択する人、これが霊的なおとなです。そして、神はそういう者に私たちを変えようとするのです。だから、私たちにはその神のことをより深く知って行くためにみことばが必要であり、同時に、そのような私たちを変えてくださる神の助けがいるのです。

 ところが、私たちがみことばを見ても、みことばから示される神のみこころを聞いても、私はそのようなことはしたくない、私は自分の考えるように生きて行きたいと、そうして神に逆らって行くなら、いつまで経っても成長しないのです。神はあなたを変えようとする、そのあなたが変えられて行くために必要なのは、変えてくださる神に自らを委ねて、主よ、どうぞ私を変えて行ってくださいと、主に自らを明け渡して行くことです。それなのに、愚かにも、私たちはそれを邪魔しようとするのです。だから、パウロは言うのです。古い人を脱ぎ捨てなさい、罪を捨てなさいと。言い方を変えるなら、古い人を着ないようにしなさいというのです。つまり、救われていなかったときと同じように生きてはいけませんと言うのです。余り私たちは経験したことはありませんが、たとえば、どこかシャワーもない所を旅しているとして、暑くて暑くて汗をかいて、それが服にシミとなって残っていって、においを発して臭くなってきて、大変な状態です。どろどろで洗濯してもきれいにならないと、そんな状態でやっとのことでシャワーにたどり着いた、あぁよかったと服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びてきれいになった、その後、どうしますか?汚れて臭くなっている服を取って着るでしょうか?きれいな服を着たいとします。パウロが言うのはそういうことなのです。汚れた罪の服を脱ぎ捨てたのに、なぜ、また着ようとするのか、そこに何のメリットがあるのか、それを着てあなたはどんな祝福をもらえますか?と…。あなたは新しく生まれ変わった、神はあなたを変えようとしている、だから、そういう古いもの、かつての罪の生き方をあなたから捨て去りなさい、そういう歩みをしてはならないと言うのです。

 ここまで話して、皆さんの中には一つの疑問が残るはずです。それは、私は新しく生まれ変わったことは分かった、新しい者になったことも分かった、では、なぜ私は罪を犯すのかという疑問です。クリスチャンになっても残念ながら私たちは罪を犯す、なぜでしょう?新しく生まれ変わったのなら、もう罪から全く縁を切って罪を犯さない者になればどんなにうれしいことか、でも現実は、救われていながら悲しいことに私たちは罪を犯すのです。なぜでしょう?それは、この新しい人が罪のからだの中に生きているからです。からだ、肉は罪に用いられるのです。罪は悪によって支配され、影響を受けるのです。私たち、イエス・キリストを信じて罪赦された者が待っているのは、私のからだが新しくされることです。パウロがローマ8:22-23で「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」

と言いました。神が私たちに約束されたのは栄光のからだです。罪を犯すことがない栄光のからだを私たちはいただくことができるのです。ですから、私たちはこの地上にいる間、この贖われていないからだをもっているため、この肉が今までの生き方を行なって行くように、今までの価値観をもつように、私たちを誘惑するのです。私たちの新しい人は神のみこころに従って行こうとします。そこに戦いがあるのです。それがクリスチャンです。間違っていただきたくないことは、イエスを信じた私たちのうちに二つの性質が存在しているのではないのです。私たちがイエス・キリストを信じて罪赦されたときに、古い人が新しい人と入れ替わったのです。信じた私たちのうちには新しい人だけがいて、かつて私たちを支配していた古い人は死んだのです。パウロはそのことをローマ5:17で教えるのです。「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」と、つまり、パウロが言うのは、死が支配するのかいのちが支配するのかです。あなたはまだアダムのうちにあるのか、それともキリストのうちにあるのか、どちらかだと言うのです。その真ん中というのはないのです。生まれながらの人間は皆アダムのうちにあるのです。罪ある者として生まれて来ているのです。しかし、生まれ変わったときにその自分は死んだのです。そして、あなたはキリストのうちにある者として、新しいいのちをいただいて新しく生まれ変わったのです。人間はどちらかに属しています。アダムのうちにいる人々は今永遠の滅びに向かっています。なぜなら、まだその罪が赦されていないからです。キリストのうちにいる人、その人は感謝なことに、神の恵みによって罪赦されて今永遠のいのちへと、天国へと向かっている、どちらかです。

 さて、今日パウロが教えてくれたこと、救われた皆さん、罪赦されて新しく生まれ変わった本当のキリスト者である皆さん、本当の自分らしく生きなさいと言います。救われた者として、それにふさわしい生き方をして行きなさい、そして、神があなたを助けてくださるから、そのようにして歩んで行くようにと…。あなたは新しい人です。生まれ変わったのです。どうぞ、そのように生きて、生まれ変わらせてくださった私たちの偉大な救い主、主のすばらしさを証することです。それが、救われた私たちに主が望んでおられることです。

Hamadera Bible Church © 2006