06/08/06 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:あなたは新しい人
聖書箇所:コロサイ人への手紙 3章5-6節
天国民にふさわしく生きなさい、そのようにパウロは人々を励まし勧めたのです。救われた者にとって大切なことは、その信仰を生きることです。ヤコブが言ったように「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)と、みことばを実践することによって、その人は神からの祝福をいただくことになると言います。1:25に「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」とあります。ですから、私たちイエス・キリストを信じる者がこのみことばを学び、実践することによってその人の信仰が成長して行く、これは豊かな祝福です。私たちが変えられて行くからです。同時に、私たちが神のみことばを学び、それを実践することによって、神の偉大さ、神のすばらしさ、神の存在の事実が明らかにされて行きます。これもすばらしいことです。なぜなら、生まれ変わった私たちは、生まれ変わったことをこの世に明らかにして行くことが私たちの責任だからです。生まれ変わらせてくださった神のすばらしさが人々に明らかにされて行く、それこそ私たちが願うことであり望むことです。神はそのようなことを私たちを通して為してくださる、そのために必要なことは、私たちがみことばを聞くだけでなく実践することです。みことばを行なって行くことです。シドロ・バクスターという神学者は、パウロがこのコロサイ1,2章教理篇、教えについて書いた後に、3,4章を加えた理由について次のように言っています。「とびきり上等のキリスト教であると仰々しく主張しながら、キリスト教的謙遜の実践を怠っていることがあったからである。」と。結局のところ、私たちの信仰というのは、どれだけのことを知っているかではなくて、知っていることをどれだけ実践に生かしているか、そこに価値があるのです。パウロが常に教理、大切な神の真理を教えた後、ではそれを用いてどのように生きて行くのか、パウロ書簡を見て行くとそのことが教えられ続けています。というのは、神の真理を学ぶとともにその真理を実践することが同じほど大切だからです。クリスチャンである皆さんはそのことがよく分かっているはずです。そして、みことばが私たちに教えることは、みことばを学び、学んだその真理を私たちが実践することによって、私たちは変わって行き、私たちのすばらしい救い主のことが、私たちの主のことが、より人々の前に明らかにされて行くのです。だから、実践が大切なのです。みことばをただ聞くだけであってはならないのです。
3章のこの実践篇を学び始めてから、前回、前々回、私たちは天国民として生きるということを学んできました。天国民として生きる生き方とはどういう生き方か、二つのことを私たちはすでに学びました。1.主に対して忠実でありなさい。2.希望をもって生きて行くように。私たちはすばらしい永遠の希望をいただいたのだから、その希望をもっている者にふさわしい生き方をしなさいと言います。天国民であることを教えたパウロは、今度は私たちに、クリスチャンというのは新しい人なのだ、新しい人へと生まれ変わった者なのだということを、再び教えようとするのです。新しく生まれ変わった者はどのように生きて行くのか、生まれ変わったあなたに主はどんなことを望んでおられるのか、そのことを今日、この5-6節を通して学んで行きます。
☆新しい人としての生き方 5-6節
1.自分の心を正しく保つことが必要
5節を見てください。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」と、心を正しく保ちなさいということがここに記されています。パウロは「地上のからだの諸部分…殺してしまいなさい。」と言っています。これは、自分自身で自分のいのちを絶つことではないことは明らかです。「殺してしまいなさい」というのは、死なせるとか、活力を失わせるという意味です。というのは、イエスを信じた私たちは生まれ変わったのです。かつての私たちを支配してきた古い人はキリストとともにもうすでに死んでしまったのです。そして、新しい人として生まれ変わったのです。そうすると、かつては私は罪の奴隷でした。しかし、生まれ変わることによって神の奴隷となったのです。これが救いだと私たちは何度も学んできました。しかし、私たちはまだ誘惑を受けます。贖われていない罪のからだをもっているからです。その罪のからだが私たちに古い生活に戻るようにと誘惑するのです。だから、パウロがここで言わんとしていることは、そのような様々な罪が私たちに対して誘惑をしかけてくるわけですから、その活力を、その力を失わせるように、そのような罪が私たちを支配することがないように、かえって私たちはその罪を支配するようにというのです。気をつけなければいけないことは、私たちクリスチャンもそのような罪に支配されてしまうことがあるのです。そのことをパウロは私たちに教えるのですが、だから、気をつけて、そのような罪に支配されることがないように自らの心をしっかり守って行かなければならないと言います。
モールという神学者は、この「殺す」という命令は自己中心主義とか、利己主義を殺すことだと言います。確かに、よく考えて見ると、生まれながらの私たちは例外なく自己中心で利己的です。神はそこから私たちを救い出してくださったのです。だから、パウロはここで、自分の思い通りに歩もうとする生き方、これは罪ですが、それを許してしまうのではなくて、聖霊の導きに従って、そのみこころに従って歩んで行くようにということを勧めているのです。パウロがこの5節の最初の部分で言っていることは、あなた自身は罪に支配されてみこころから外れて、自分勝手に生きて行こうとするのではなくて、聖霊なる神の導きに従い、そのみこころに従って行く、そのためにあなたは自らの心をしっかり正しく守って行かなければいけないということです。神中心の生き方をすること、それは何も新しい教えではありません。これが救いだからです。イエスはマルコ8:34でこのように言われました。「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」、「自分を捨て」とありますが、「捨てる」とは「拒絶する、それと縁を切る」という意味で、つまり、これまで私たちは自己中心的な自分勝手な生活、神を無視する生き方をして来たけれど、そのような生き方と決別することです。そのような生き方をするために神は私を造ったのではないから、神が私を造られたのは、私がその神を信じ愛して従って行くためです。だから私は、神が私を造ってくださったその創造の目的に反して生きている、そのことに気付いたとき、それを止めよう、目的に沿って正しく生きて行こうとするのです。ですから、自分を捨てると言うのです。そして、二つ目に「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
と言われます。自分中心の生き方から、神のために生きる生き方に変わるのです。「イエスさま、私はあなたについて行きます。信仰の歩みにおいていろいろな苦しいことも出て来るでしょうが、私はあなたを私の主として、あなたの創造の目的に従ってあなたのあとをついて行きます。」と。そのように決心して主イエス・キリストを信じ受け入れたのです。その人に救いが与えられたのです。ですから、このコロサイ3:5で教えられていることは何も新しいことではありません。私たちを救いへと導いてくださったイエスのおことばを私たちは再び思い出すのです。主のみこころに従って生きて行きなさいと。
5節に「地上のからだの諸部分」とあります。パウロはなぜこのような言い方をしたのでしょう?この「地上のからだの諸部分」は神に敵対するものだと言います。私たちのからだ、肉ですが、パウロは、実はそれが罪の手先として用いられることがあるからだと言います。そして、用いられてきたからです。確かに、私たちが罪を犯すときは私たちのからだを使っています。もちろん、心の罪も神は見ておられますが、私たちのからだはそのように罪に使われているから、パウロはここで「地上のからだの諸部分」と言っているのです。そして、その種類について彼はこの後教えています。五つのことが記されています。
(1)不品行=性的不道徳です。ここで言われている不品行というのは、夫婦間以外のセックスのことです。夫婦間以外はすべて不品行なのです。性は夫婦にだけ与えられたものです。それ以外のセックスはすべて罪です。そのことを聖書は不品行と言っています。神学者のバークレーは「純潔はキリスト教が世界にもたらしたまったく新しい美徳だった。」と言っています。古代社会では婚前交渉や見せ掛けだけの結婚が少しも恥とされないばかりか、当然のこととして受け入れられていたのです。欲のままに生きたらいい、何をしても構わない、好きなら肉体関係をもってもいいと。しかし、神はそれは罪だと言われるのです。不品行の罪だと。(2)汚れ=不潔な放埓な生活です。ほしいままに振舞って酒や女性に溺れて行く、そのような生活です。ガラテヤ5:19-21でパウロは同じことを言っています。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」、「不品行、汚れ、」が同じように記されています。Ⅰテサロニケ4:7-8に「神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。:8 ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」とあります。パウロは、あなたが救われたのはこれまでのように罪の中を歩むのではなくて、正しくきよく生きて行くためだ、それを神は望み命じたと言います。ですから、もしあなたがそれに逆らうなら、あなたは神ご自身に逆らっていることになると言うのです。三つ目にあるのは(3)情欲=性的汚れに導いて行く恥ずべき欲望です。シカゴ・ムーディー教会の牧師ウォーレン・ウァーズビーは「このことばは性的汚れを喜ぶ心の状態だ」と言っています。ストア派の哲学者たち、禁欲主義者たちですが、彼らはこのことばをこのように用いました。自らの感情に支配されることを自分自身で許した人、それがこの情欲に満たされた人だと。大切なことを私たちは今覚えておきたいのです。この後でも見るのですが、ストア派の学者たちが言っているように「自らの感情に支配されることを自分自身で許した人」と、つまり、その選択をしたのは自分だ、そういう間違った選択をするなら間違った結果が起こると、実は、パウロはそのことを私たちに教えようとするのです。私たちが罪を犯すときその責任は自分にあります。人間がどのように罪を犯して行くのか、みことばは明確に教えてくれます。それは最後に見ましょう。(4)悪い欲=切望、憧れという意味がありますが、同時に、禁じられているものを憧れることという意味もあるのです。神が禁じていることを憧れるというのです。そのような欲望です。情欲よりももっと幅の広い意味で使われ、すべての悪い願いです。(5)むさぼり=貪欲です。このことばの語源は「貪欲なもの」ですが、このギリシャ語は「より多く」と「持つ」という二つのことばの合成語が使われているのです。つまり、この「むさぼり、貪欲」はより多くのものを持ちたいとする願望です。決して満足することがないのです。常に物や快楽を追い求め続けて行くのです。しかも、そのためなら何でもすると言います。それが人の持ち物であっても、欲しくて仕方がなかったなら盗んででも手に入れたいとする、金を得たいならどんな悪いことでもする、自分の願望を満たすためには手段を選ばない、そういうことです。実は、このことはモーセが神から十戒をいただいたときに出て来ているのです。覚えておられますか?その十戒の中の最後の教えは「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト20:17)です。いつまで経っても満足しない心、自分の願望を満たすために手段を選ばない、そのような思いが心に入って来ないように自分の心をしっかり守っていなさいと言うのです。5節の終わりには「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とここにも偶像礼拝ということばが出てきます。パウロの言わんとすることは明白です。どうして、このような生き方が偶像礼拝なのでしょう?それは神よりもこのような欲望を愛してその虜になっているからです。彼らが最も愛しているものは欲なのです。それが自分の生きる目的であり生きがいなのです。本来なら、私たち人間は神のために生き、神こそが私たちの生きがいだったのです。しかし、自分の欲がそれに代わってしまった、だから、偶像なのです。そのような生き方が偶像礼拝だとパウロは言ったのです。ガラテヤ5章の中で「偶像礼拝は肉の働きのひとつである」とパウロは言います。5:19-21「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」、罪がこのような生き方を私たちにもたらして行くのです。エペソ5:5では「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。」と、このような生き方をしている人が神の国に入ることはないというのです。なぜなら、それは彼らが神よりもそのような生き方を愛しているからです。もう一つ、パウロはピリピ3:19でこのように言います。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」、彼らの神は彼らの欲望だとパウロは非常に明確に語っています。だから、偶像礼拝なのです。彼らの思いは地上のことばかり、永遠のことなど全然考えない、今さえ良ければそれでいいと、今さえ楽しければそれでいい、今だけ、今だけと、今のことしか考えない、だから、コロサイの3:1-2でパウロは教えたのです。「1 …上にあるものを求めなさい。:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」と、なぜなら、救われる前の私たちは天のものを思わないで、地上のことばかり考えていたからです。私たちはそこから救われたのだから、天のこと、永遠のことをしっかり考えて生きなさいとパウロは教えているのです。
コロサイ人への手紙3章に戻って、このような罪があなたの心を支配しないように、あなたの心を守って行きなさいと言います。なぜなら、6節に「このようなことのために、神の怒りが下るのです。」と、そのような生き方に対する神の報いがここに記されています。神に敵対する生き方の結末です。神に逆らい続ける生き方の結末です。6節で言うように「神の怒りが下る」のです。聖書においてこの「神の怒り」
という表現は、神の罪に対する聖い正しい怒り、そして、結果としてのさばきを表わしているのです。つまり、私たちの怒りと神の怒りとは違うのです。神は罪を犯すことがありません。その正しい神が私たちの罪をご覧になるとき、その罪は必ずさばくと約束されたのです。それが証拠にローマ1:18でこのように言います。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」、汚れをもって真理を受け入れようとしない、神に対して不敬虔と不正を行なっている者たちに対する約束は神の怒りだと言います。また、エペソ5:6には「むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」とあります。このようにみことばを見たとき、みことばが警告することは、人間の罪に対しては必ず神の正しい報いがあるということです。神があなたに警告することは、あなたの罪は神の前にすべて覚えられていて、神はその罪に対して正しい清算をされるということです。もし、私たちが私たちの神はこのような方だということを忘れてしまっていたなら、あなたは間違った神観をもっているのです。何となく神は優しいお方であって、私たちのすることを何でも許してやろうと、私たちの罪を見て少しだけ目をつむっていようと、そのような神を聖書は教えていません。聖書が教える神は厳しい正しい神です。罪に対しては正しくその罪をさばかれるお方です。この厳しい容赦ないさばきのその原因は、神はあなたを愛して、あなたのために尊いひとり子イエス・キリストを十字架に磔にして殺してまであなたの罪を赦そうとしてくださったのに、その神が備えてくださった救いをあなたは受け入れようとしていない、神が備えてくださった罪の赦しをあなたは自らの意志で拒み続けている、その頑なさのゆえに、その不信仰のゆえに、その罪ゆえに、神はこのことを警告されたのです。神は私たちのために救いを備える必要などなかったのです。神は私たちを救ってくださって神に従うように言われたのに、私たちは神に逆らう選択をしたのです。私たちは好き勝手な生き方をして、自分に都合の良い神々を造り出して、人生は自分のものだから楽しめばいいと。私たちは偶然この世に生まれてきたのではないのです。神によって造られて、今このように存在しているのです。私たちは皆、神に対して責任をもっているのです。その責任というのは神の前に正しくあることです。だから、今あなたに必要なことは、罪を悔い改めて神の前に正しく歩む決心をすることです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)とイエスが言われた通りです。神に逆らう生き方を止めることです。そして、唯一真の神であり、私たちの罪を赦してくださる救い主に従う選択をするのです。パウロはローマ2:5でこのように言っています。「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」と、つまり、あなたはそうして神に逆らい続けているゆえに、自分の上に神の怒りを積み上げている、赦されるのにその赦しを拒み、あなたはなお自分の好きなように生きようとし続けていると。だから、あなたには神の厳しいさばきが下るのです。その原因は「かたくなさと悔い改めのない心」です。どんなに神があなたを愛してくださっているかを聞いても、あなたはその神を受け入れようとしない、どんなにあなたの罪を完全に赦してくださるというこの神の恵みを聞いても受け入れようとしない、却ってあなたは、私には救いは必要ない、自分の好きに生きて行きます、これまでもそうであったように、これからも自分の思い通りに生きて行きますと…。それゆえに、あなたには永遠のさばきがあるのです。このすばらしい救いを拒んだからです。もし、この中にまだイエス・キリストの救いを受けていない方がおられるなら、あなたがしなければいけないことは罪を悔い改めて、その罪を赦してくださる唯一の救い主イエス・キリストを信じ、その方に従って行く選択をすることです。そのときに、神はあなたの罪を赦して新しく生まれ変わらせてくださるのです。罪の奴隷であったあなたが神の奴隷とされる、永遠の地獄に向かっていたあなたは永遠のいのちが与えられて天国へ行く者として神は生まれ変わらせてくださるのです。だから、そのような罪にあなたの心が支配されることがないように、自分の心をしっかり守りなさいと言うのです。ペテロもこのように言います。Ⅰペテロ1:14-15「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」。
現実に、私たちの信仰生活にはこの罪との格闘があります。罪との戦いの連続です。私たちは罪から救われ古い人間は死んで新しく生まれ変わった、しかし、罪が私たちを誘惑して、かつての生き方に戻るように、その罪の古い人をもう一度着るようにと誘惑するのです。どうすれば、そのような生活と別れることができるのでしょう?どうすればそのような生活に勝利することができるのでしょう?
◎罪の支配から勝利するためにどうすればいいのか?
(1)救われたことを日々覚えること
ローマ6:11に「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」とあります。「思いなさい」、そのように考えなさい、そのように思ってそのように扱って行きなさいという意味をもった命令形が使われているのです。何か思い込みなさいと言っているのではありません。パウロが言うのは、その真実に対してしっかり目を留めていなさい、そのことをいつも考えていなさい、ということです。しかも、現在形であるというのは、そのように継続して歩み続けなさいと言うのです。パウロが教えることは、罪があなたを誘惑するとき、あなたはもう罪に対して死んだ、私はもう生まれ変わったのだということを自らにしっかりとその救いを思い起こさせ続けて行くことです。私たちの一番の問題は、私は罪に対してどうすることもできませんといつも白旗を振る、無条件降伏することです。そうして、罪を犯して行くのです。私は弱いからどうすることもできません、私は罪に対して無力なのですと言います。まったく希望がありません。私はもう古い人としては死んで新しい者に生まれ変わった、罪に対してもう死んだと宣言するのです。もし、私たちがそのような罪の誘惑を少しでも認めてしまうなら、間違いなく、私たちは罪に陥ってしまいます。だから、まずパウロが私たちにアドバイスすることは、しっかりと私は救われたのだというこの救いを覚えて、罪の誘惑に対して、私は生まれ変わったのだ、古い自分は死んだのだということを常に覚えることです。
(2)この世を模範としてはならない
ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。」と、また命令が出てきました。ここで言われている「調子を合わせ」るという動詞は、その模範と同じようにすることです。その掲げた模範と同じように生きて行くことです。模範と同じ形にするという意味です。そういうことをしてはならないと、つまり、パウロが言うことは、この世をあなたの人生の模範としてはならないということです。なぜなら、この世が私たちに勧める生き方は反キリストの生き方だからです。私たちがテレビや映画を通して学ぶこと、雑誌や本を通して学ぶこと、私たちの周りのものから学ぶこと、電車や駅の広告も、至る所でこの世は私たちにこのように生きるなら楽しいよと勧めるのです。しかし、みことばはこの世の生き方を模範とするなと教えます。その生き方がもたらす運命は永遠の地獄です。だから、私たちはそのようなものを模範としないのです。おもしろいことは、この「調子を合わせてはいけません」が受身で書かれていることです。なぜそのように受動態で書かれたのかというと、もし、あなたがその罪を少しでも許してしまうなら、必ず、あなたの生活はそのようになってしまうからです。この世に倣った、この世に染まった、そのような生き方になってしまうから、私たちは気を付けなければいけないのです。この世のいろいろな考え方、罪に心を開いてはいけない、却って「心の一新によって自分を変えなさい。」と12:2の後半で言います。つまり、パウロが言うことは、あなたの心はこの世のことではなくて、神のことでいっぱいになるように、あなたの心をそのように正しいことで満たして行きなさいということです。私たちの心が正しいことでいっぱいになるなら、聖霊なる神はそのみことばを用いて私たちをキリストに似た者に私たちを内側から変えて行ってくれます。
だから、私たちがどのようにして罪に勝利して行くのか、私たちは常に罪から解放されたこと、もう罪が私の主人ではない、生まれ変わったのだと、そのことを自らにしっかりと教えることです。そして、この世を模範として生きて行くのではなく、みことばをしっかりうちに蓄えて、正しいことを選択して行くことです。なぜ、そのことが必要なのでしょう?今、私たちはコロサイ3:5から五つの罪を見ました。不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼり、この五つを見て皆さんは気付かれませんか?これは、不品行に至る罪の過程を教えているのです。まず、私たちのうちにむさぼり、つまり、貪欲な思いを認めてしまって、それが私たちの心に入り込んで、貪欲な思いが私たちのうちで働くことを認めてしまうと、だんだん私たちは禁じられているものに憧れて行きます。そういうものが欲しくなって来る、その思いを放っておくと性的に汚れたことを喜ぶような心の状態になっている、そういう状態を放っておくと私たちは放埓な生活に溺れて行きます。そして、不品行を起こして行くのです。つまり、パウロがここで私たちに教えようとすることは、私たちのそのような罪の行動が生まれてくるその原因は、私たちの心にあるということです。行動を一生懸命改めようとしても、心が改まっていなければ行動は変わって来ないのです。だから、私たちの心を正しいことでしっかり守って行きなさいというのです。様々な罪が私たちの心の中に入ることを許してしまうなら、認めてしまうなら、大変な悪い影響を私たちの生活に及ぼして行きます。だから、心を守ることが必要なのです。
ダビデはこのように言いました。詩篇139:23-24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」、ダビデも自分の心を常に吟味したのです。ダビデ自身が神に求めたことは、神さま、私はあなたの前にいつも正しい心をもっていたい、だから、私の心を探ってくださり、私の心の中に間違ったことがあれば教えていただきたい、私はそれをあなたの前に告白して正しく生きて行きたいと、彼は心を守ろうとしたのです。罪を犯しましたが、神は彼を喜ばれた、心を守ろうとしたからです。救われている皆さん、神があなたに望んでおられることは同じことです。心を守っていなさいと。罪はあなたを支配しようと誘惑してきます。しっかりと罪を支配する者でありなさい、心を守りなさいと、それが新しく生まれ変わったあなたの生き方です。そのように生きて行きましょう。