06/07/30 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:天国民として生きる日々2
聖書箇所:コロサイ人への手紙 3章3-4節
あなたがたは天国民として日々を歩んで行きなさいとパウロは教えてくれました。天国民として生きるということはどういうことなのか、まず、この3:1-2で教えたことは「忠実に生きること」ということでした。主イエス・キリストに喜んでいただくためにすべてのことを行なって行きなさい、すべてのことを主のために、主が喜んでくださるために最善を為して行きなさいと、まずパウロは教えたのです。二つ目に彼が教えることがこの3-4節に記されているのです。
☆天国民(救われた者)としての生き方
1.忠実に生きること
2.希望をもって生きること
「3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」、キリスト教会の歴史は迫害の歴史です。初代教会に始まったキリスト者への迫害は、約250年間も続きました。数百万人のクリスチャンたちが殉教して行ったのです。それは、その時だけでなく、その後もまさにクリスチャンがいるところには様々な迫害があったのです。場所が違えど時代が違えど、迫害の中にいるクリスチャンたちがその中でもしっかり信仰を守り続けたその力は何だったのでしょう?彼らを支え続けたものはいったい何だったのか、それは天国への希望です。イエス・キリストの復活がその希望の約束に確信を与えました。イエス・キリストが死からよみがえってきたというこの事実が、人々に私たちもよみがえる、そして、私たちは罪赦されているゆえに、キリストとともに天国で過ごすという、その希望をもって多くの人々はいのちをも捨てたのです。これは、初代教会のクリスチャンだけではありませんでした。旧約のクリスチャンもそうだった、旧約の信仰の勇者たちも、天国を夢見て、その日を待ち望みながら日々を歩んだのです。
ヘブル人への手紙11章でこの著者は過去の勇者たちのことを教えます。ノアについてアブラハムについて、イサクについてヤコブについて、この信仰の勇者たちがいったい何を思いつつ日々を歩んだのか、そのことを11:13-16で教えています。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」と、みことばがはっきり教えてくれたように、この信仰の勇者たちは約束された天国という、神が備えてくださった都を待望しながら生きて行ったのです。ですから、新約の人々だけでなく旧約の信仰者もそのように生きたのです。天国を待ったのです。天国を楽しみにしたのです。彼らは天国が約束されていることを喜びながら、一日一日を過ごしました。救われていることを感謝しながら、天に国籍をもつ者とされたことを喜びながら、彼らは日々を生きたのです。同時に、その天国を待望しながら日々を過ごしました。それは、彼らが直面しているその苦しみからの逃避のためではありません。なぜなら、もしそうなら毎日を喜んでいないからです。日々救われたことを感謝して、日々天国に行けることを感謝している人々は、その日を待望していました。早くイエス・キリストにお会いしたい、早くこの罪のからだから解放されたい、そうすればもう神を悲しませること、失望させることはないからと。そのように信仰の勇者たちは生きたのです。
パウロはⅠテサロニケ4章でこのように言っています。テサロニケのクリスチャンたちはもうすでに死んでしまった人たちのことについて、いろいろなことを心配していました。そこで、パウロはこのように言います。「:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」と、イエスを知らない、天国の約束を受けていない人たちのように悲しむことのないように、なぜなら、あなたがたには天国が約束されているからと。クリスチャンにとって死は絶望ではないのです。待望しているものです。イエスにお会いできるから、私たちはその日を待っているのです、私たちのためにいのちまでも捨ててくださったそのお方にお会いできるから、喜びの日です。私たちはどこかに旅に出ると早く家に帰ることを楽しみにします。そこに愛する家族がいるからです。私たちは私たちを愛してくださった主にお会いすることができる、その日を待望するのです。その死について教えたパウロは、この4章の最後でこう言います。「:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」と、パウロが望んだことはクリスチャンたちが励まし合って、大変なことがあるけれど、しっかり先を見よう、神が備えてくださった永遠の住まいである天国を期待しながら待望しながら、今日を生きて行こうと。この希望をもって皆生きたのです。なぜなら、神はこの希望をイエス・キリストを信じる者に与えてくださったからです。クリスチャンである皆さん、主は私たちイエス・キリストを信じる者にすばらしい祝福をくださった、主は私たちを希望をもって生きることができる者にしてくださったのです。この希望は失望に終わることはないとみことばは言います。私たちは死んでどこかさまようのではないのです。このすばらしい救い主イエス・キリストにお会いすることができる、これが聖書の教えであり、これが私たちクリスチャンの希望です。
パウロはこの3節から、このすばらしい希望の根拠について教えて行きます。それが本当にあなたのものであること、与えられたこの希望がどんなにすばらしいものなのか、そのことの説明を与えてくれるのです。日本語の聖書には出てこないのですが、原文ではその理由を述べることばで始まっています。この3-4節でパウロは二つの理由を挙げています。
◎クリスチャンが希望をもって生きることができる、その理由
1)永遠の救いが約束された
また再び、パウロはここで救いについての話をします。3節「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、…」と、もう何度も見て来たように、死とよみがえり、新しく生まれ変わったということが記されています。あなたはすでに死んでいると、霊的な死です。かつての神に逆らってきたあなたはもうすでに死んだのだと、これは過去のこと、イエス・キリストを信じたときに、あなたはキリストとともに死んだ、そして、生まれ変わって新しいいのちが与えられたのです。新生のことをパウロは再びここで教えるのです。パウロは何度も何度も同じことを繰り返しています。ローマ6:8に「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」とすばらしい約束があります。イエス・キリストを信じた人、あなたは新しく生まれ変わった、同時に、あなたは肉体は死を迎えることがあるでしょう、しかし、それで終わってしまうのではない、永遠の滅びに至るのでもない、キリストを信じて罪赦されたあなたはよみがえって神とともに永遠を過ごすのだと、そのことをパウロはこの後私たちに教えてくれるのですが、すばらしい祝福がこの後に描かれています。それをごいっしょに見て行きましょう。パウロは救いのことを話した後、3節の後半にこう続けます。「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」と、二つのすばらしい祝福がここに記されています。(1)「あなたがたのいのちは、キリストとともに」、今あなたはイエスとともにいるというのです。この「ともに」という前置詞は「そばに、いっしょに」という意味です。ですから、私たちはこの地上にいて神から離れているかのように思うかもしれません。また時には、神が私から遠く離れてしまっているかのように思うかもしれません。しかし、みことばが教えていることは、あなたはキリストといっしょにいるということです。すばらしい約束です。イエスがあなたを離れることなくいつもともにいてくださる、いつもそばにいてくださる、どこにいようと何をしていようと、主はあなたとともにいてくださる、それはあなたの敵としてではない、あなたの味方としてあなたを愛する者としていつもそばにいてくださるのです。イエスを信じた瞬間からそのことが始まって、そして、私たちはこのお方と永遠を過ごすのです。生まれ変わった者にはこんな祝福が与えられているのです。(2)「神のうちに隠されてある」、この「隠されてある」ということばは「隠す」ことと「安全」とを教えるのです。実はこの「隠す」ということばは「秘密にされたままにする」という意味をもっています。というのは、イエスを信じていない人には、私たちクリスチャンに与えられた祝福を理解することはできないということです。なぜなら、彼らにはそれが隠されているからです。それがどんなにすばらしいものか、私たちが分かるようには分からないのです。Ⅰコリント2:14でパウロはこのように言っています。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」、イエスを信じて初めて、この神がどんなにすばらしいお方であり、約束されたものがどんなにすばらしいものであるかが分かるのです。ですから、私たちが一生懸命愛する人たちに話しても、彼らがなかなか分からないのは、この祝福が隠されているから、もちろん、その中でも神は私たちを通してご自身のすばらしさを証してくださっています。けれども、彼らが私たちに与えられたすべての祝福を理解できるかというと、残念ながらできないと、そういう意味がこのことばにはあるのです。もう一つの意味は「安全にしまって置く」です。つまり、ここでパウロが言うことは永遠の保証です。一度いただいた救いを失うことは決してないということです。神があなたを救ってくれたらあなたはその救いを絶対に失うことはないのです。なぜ、パウロがここで「隠されてある」ということばを敢えて使ったのかというと、実は、この当時のギリシャ人は、通俗的に、人が死んで葬られることを「彼は地中に隠された」と言ったのです。ですからパウロは、あなたがたは地中に隠されたと言っているけれど、私たちイエス・キリストを信じている者のたましいはこの地面の中ではなく、もっとすばらしいところに隠されている、もっとすばらしいところに安全にしまわれていると言ったのです。神のうちに隠されている、神があなたのたましいをしっかりと安全に保っておられると言うのです。ローマ8章を見てください。8:31-39「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」、何と力強いパウロのことばでしょう。何ものも神の愛からあなたを引き離すことはできない、何ものもあなたを訴えることはできない、なぜなら、私たちの救い主であるこの主イエス・キリストが神の右の座に着き、あなたのためにとりなしてくれる、あなたが罪を犯すときはこの主イエス・キリストが父なる神の前で、彼のこの罪のために、彼女のこの罪のためにわたしは十字架で死にましたと、とりなしをしてくれるからです。だから、私たちはこの神の愛から引き離されることはない、神がしっかりと私たちを守ってくださっているからです。
私たちが旅行をしてホテルに泊まると、その部屋には金庫があります。セーフティーボックスという、つまり、そこに貴重品を入れて自分の番号を押して閉めておけば安全です。外からは何があるか見えませんが、しっかりと貴重品を守ってくれます。私たちは私たちのたましいを私たちの永遠を神という絶対者のもとに委ねたのです。その方があなたのたましいをしっかりと守っていてくれるのです。だから、クリスチャンにとって死というのは恐ろしくないのです。私たちには永遠が約束されているからです。救いは私たちに保証されているのです。この救いは一度受ければ決して失うことはないのです。この3節で「神のうちに隠されてある」とあるのを、ある人はこう思うかもしれません。確かに私たちは神のうちに隠されている、神のうちに保たれている、では、どうしてキリストが神のうちに保たれる必要があるのかと。実は、パウロはここで大切なことを教えているのです。「キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」、これはキリストと父なる神の関係を教えているのです。何となく、父なる神が偉大で、イエス・キリストがそれより劣る存在であるかのように思うのですが、パウロは決してそのようなことを言わんとしているのではありません。本質的に全く同じであるキリストと父なる神、パウロはここでキリストが神と同等である、一つであることを言っているのです。ヨハネ17:21-22でイエスはこのように言っておられます。「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」、イエスがここで言われているのは、父なる神とイエス・キリストは一つであるということです。ですから、コロサイ3:3に「キリストが神のうちにある」というのは、キリストと父なる神が一つであるということを言っているのです。こんな僅かのことばでもパウロは、キリストがいったい誰であるかということを読者たちに教えているのです。繰り返しますが、偽りの教師たちが入り込んできて彼らが教会の中に混乱をもたらした、それはキリストの神性に対するものでした。ですから、パウロはキリストは神であり、キリストと父なる神は一つであるということを言わんとするのです。
この3節でパウロが教えたことは、神のうちにあなたのいのちは隠されてある、あなたの永遠のいのちは神によって守られていると、そのことです。しかも、この「隠されてある」という時制を見たとき、これはもうすでに完了したということを言っているのです。あなたがイエス・キリストを信じたときに、その瞬間に、あなたのたましい、あなたのいのちは神のもとに保管されているのです。そして、その状態がその後もずっと続いているということを言っているのです。イエス・キリストを信じた人は、そのようなすばらしい祝福の中に神によって招き入れられたのです。二つ目の祝福です。
2)栄光のからだが約束された 4節
4節「私たちのいのちであるキリストが…」と、パウロはここで再びキリストがだれなのかを教えるのです。パウロはただ「キリスト」とは言わなかった、「私たちのいのちであるキリスト」と説明しているのです。いったいイエスとは誰なのか?いのちなのだと言います。イエスはヨハネ10:28で「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」と言われました。なぜイエスはこのように言うことができたのでしょう?その答えはみことばの中にあります。イエス・キリストがいのちだからです。いのちの源でありいのちそのものだと言うのです。だから、同じヨハネ11:25でこのように言われました。「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と。このヨハネはその手紙の中でも同じことを教えています。Ⅰヨハネ5:20「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」、なぜ、イエス・キリストは永遠のいのちを与えることができるのか、それは、イエス・キリストが永遠のいのちだからです。だから、ご自分のそのいのちを与えることができるのです。ですから、同じⅠヨハネ5:12に「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」と書かれています。つまり、いのちであるイエスを信じている者にはいのちがあるけれど、いのちであるイエスを信じていない人にはいのちがないと言うのです。だから、私たちにとって大切なことは、このいのちであるイエス・キリストを信じているかどうかです。イエス・キリストを信じた人には永遠のいのちが与えられるのです。なぜなら、永遠のいのちが私たちのうちに内在してくださるからです。
こんなすばらしい祝福を神はくださった、主イエス・キリストは信じる者に永遠のいのちを与えると言われるのです。ところが、現実はイエス・キリストご自身がこのように嘆いておられます。ヨハネ5:39-40「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」と、イエスが人間を見てどんなに嘆いておられるか知ることができます。イエス・キリストはいのちの源であられる、そして、イエス・キリストはイエスを信じるすべての人にこの永遠のいのちを与えようとしてくださっている、しかし、問題はそのいのちがあることを知って聖書を学んでいながら、そのいのちの君を受け入れることがないというのです。そのいのちの源であるイエス・キリストを信じないというのです。どれほど、その不信仰に対して神は嘆いておられることでしょう。神の為さったことに何か落ち度があるのではないのです。こんなにすばらしい救いを神が備えてくださったのに、あなたがそれを受け入れないと言うのです。一生懸命聖書を見ているのに、なぜ、あなたはその救い主を受け入れようとしないのか、なぜ、このいのちをいただこうとしないのかと。イエス・キリストはいったい誰なのか?聖書が明確に教えてくれます。いのちです。彼は永遠のいのちです。
同時にパウロはここで、キリストと私たちとの関係も教えます。キリストはいのちであると同時に、私たちイエス・キリストを信じる者にとって、イエス・キリストはいのちだと言うのです。よく私たちはこのようなことばを耳にします。「サッカーが私のいのちです」とか、「仕事が私のいのちなのです」
とか、それが自分にとって一番大切なものだからです。また、それが私たちの生きている目的だったりします。このために私は生きているのですと。パウロが言うのは、私たちにとってのいのちはキリストだということです。覚えておられるでしょう?「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と、パウロ自身がこのようにピリピ1:21で語りました。彼は私のいのちはキリストだと言いたかったのです。どういうことでしょう?いのちとは人を生かすものです。いのちがあるから人は生きているのです。では、キリストが私のいのちだということは、キリストが私を生かしてくれている、死んでいた私をキリストがいのちを与えて生かしてくれているというのです。何のために私を生かしてくれているのでしょう?キリストのためです。それが救いです。かつて私たちは生きていると思っていた、けれど、神は言われます、あなたは死んでいたと。あなたは霊的に死んでいた、あなたは永遠の地獄に、滅びに向かっていたと。しかし、神があなたにいのちを与えて、死んでいたあなたを生き返らせてくださった、新しい目的をもって、新しいいのちをもって生きる者となった、それは、このキリストのために生きるためです。自分のいのちをキリストに捧げると言っているのではありません。このいのち自体がキリストのものだと言うのです。そのように私たちは自分の人生を見ているでしょうか?24時間の中でこの部分は神に捧げるけれど、残りは私のものだとか、1週間の中で日曜日のこの午前中だけ何とか教会に行きましょう、しかし、後は私のものだと…。パウロはそんなことを言っていません。聖書はそのようなことを教えていないし、神はそんなことは望んでおられません。神が言われることは「あなたのすべてはわたしのもの」です。かつてはサタンのものだった、でも、わたしがいのちを捨ててあなたを救い出してわたしのものとした、あなたのすべてはわたしのものだと、強制的ではなく、あなたの意志によってあなたのすべてを用いてわたしに従って来なさいと、そのことを神は私たちに教えてくださっているわけで、パウロ自身が「私たちのいのちであるキリスト」と言います。キリストが私の生きる目的であり、キリストが私たちにとって最も大切なもの、私のいのちそのものだということです。
イエスがいったい誰なのか、自分とどんな関係にあるのか、ということを話した後、パウロはこう続けます。「…キリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。」、キリストが現われるときと聞くと、皆さんは「ああ再臨のことだ」と思われるでしょう。確かに、再臨のことです。そうすると、これは空中再臨のことか、あるいは地上再臨のことかと考えるかもしれません。これが空中再臨だったら疑問が出てくるのです。なぜなら、「キリストとともに、…現われます」とあるからです。キリストとともに再臨するというのは地上再臨の出来事です。地上にクリスチャンがイエスとともに戻ってくるという患難時代のその終わりのことかと思うのです。そうすると、パウロは私たちに空中再臨を待ち望むように、それがクリスチャンの希望であるから、クリスチャンがキリストとともに天に引き挙げられること、それが私たちの希望だからと教えたことと合わせると、いったいどっちのことをパウロは言っているのだろう?と論議を呼ぶかもしれません。しかし、皆さんに注目していただきたいのは、ここでパウロが使っていることばです。「現われる」ということばです。ギリシャ語で日本語では「来臨」と訳されることばがありますが、そのことばがここでは使われていないのです。ここでパウロが言いたかったのは、空中再臨か地上再臨かというそのことではなく、キリストが「現われる」とき、何が起こるのかというそのことです。だから、敢えてその「来臨」ということばは使わなかったのです。この「現われる」というのは「明白にする」とか、その人の本当の性質が明かにされるという意味です。そうすると、パウロは二つのことを言います。イエスがいったい誰なのか、それが明かになるとき、人々がイエス・キリストの栄光を目の当たりにするときがやって来るというのです。人々はこの方こそが真の神であることを見せつけられる、その時がやって来ると。だから、「明白」ということばを使ったのです。人々にはまだイエスがだれかが分かっていないからです。聖人だとかキリスト教を始めた教祖だという人もいます。彼らはこのイエス・キリストこそが唯一の救い主であり、真の神であることを知らないのです。しかし、それが明かになるときがやって来るのです。その時のことを話しているのです。皆さん、キリストが誰であるのかが人々の前で明かにされたときには手遅れです。そのときでは遅いのです。救いをいただくのは今です。罪の赦しをいただくのは今です。しかし、神は約束されました。必ず、このキリストが真の神であることが人々の前で明らかにされるときが来ることを。
そして、もう一つ、その時に何が起こるのか、イエスを信じている私たちクリスチャンが栄光のからだをいただくのです。「キリストとともに、栄光のうちに現われます」、つまり、私たちクリスチャンも栄光のからだをいただくときがやって来るということです。それは、私たちがイエス・キリストにお会いしたときに起こるのです。Ⅰヨハネ3:2でヨハネはこう言います。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」
すごい約束です。私たちはキリストに似た者に変えられるというのです。この罪のからだが取り除かれて栄光のからだをいただき、キリストに似た者に変えられる、神になるということではありません。罪のない者に変えられるのです。栄光のからだが約束されているのです。同じように、ピリピ3:20-21にも「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」とあります。そういう約束が与えられていることをパウロはこのコロサイ3:4で言うのです。必ず、いつかイエス・キリストが誰であるのかがすべての人々の前で明らかにされるときがやって来る、そして、イエス・キリストを信じているあなたも栄光のからだをいただくその時がやって来ると、そのすばらしい希望をパウロはここで語ったのです。
クリスチャンに与えられたすばらしい約束、それは、私たちのこの救いが永遠に保証されていることです。同時に、私たちはこの罪のからだが栄光のからだへと変えられる、その時がやって来ると。私たちクリスチャンは、イエス・キリストが空中に帰って来られる空中再臨のときに、このキリストのもとへと引き上げられます。そして、私たちは私たちを愛してくださった主にお会いして栄光のからだへと変えられます。そして、患難時代が終わった後、私たちはキリストともにこの地上に戻って来ます。このようなすばらしい祝福の約束を神は私たちにくださったのです。これはイエス・キリストを信じているあなたに神がくださった約束ですが、しっかり、あなたが覚えることは、あなたはこのすばらしい真の神と永遠を過ごせるという事実です。この神から離れてどこかへ行くのではありません。永遠の滅びへ行くのではありません。いのちをいただいたあなたは、救われたあなたは、永遠が約束されたのです。だから、天国を見て生きて行くことができるのです。だからパウロは、こんな約束をいただいている者として、その約束をしっかり覚えて天国を見て今日生きなさい、それはあなたのものだからと、そのように生きることを望んだのです。クリスチャンである皆さん、私たちは希望をもって生きて行くことができる者です。大変なことがあってもしっかりこの希望を見上げこの約束を覚えて生きることです。その日に私たちは、私たちの最も愛する、私たちのいのちであるキリストにお会いできるのですから。