礼拝メッセージ要約

Assisting the study of God's Word

2006/07/23 礼拝メッセージ

06/07/23  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

主  題:天国民として生きる日々1

聖書箇所:コロサイ人への手紙 3章1-4節

 教会に入り込んできた数々の異端に対して警告を与えたパウロは、続いて、救われた者はこの残された地上の人生をどのように生きて行くのかを教えて行きます。信仰の実践、そのことはパウロが常に教えたことでした。彼の書簡を見て行くと、聖書の教えがあった後、では、それをどのように実践して行くのか、そのことをパウロは教え人々に勧め続けたのです。今日、私たちが見ようとしているこの3章からも、実は、パウロがそのことを教えるのです。彼が言わんとすることは、天国民として生きて行きなさいということです。そのことをパウロは特に、この3:1-4で教えようとするのです。ですから、まず、この1節を見ると、彼は救いのことについて話を始めるのです。「1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」、ここで「もし」という接続詞が付けられているのですが、それは彼らの信仰をパウロが疑っていたということではなくて、この接続詞には「だから」という意味があるのです。2:20を見てもパウロは同じようにこの「もし」という接続詞を使っているのですが、彼らの信仰を疑ってはいません。だから敢えて、これを日本語で訳すなら「こういうわけで、あなたがたが、キリストとともによみがえらされたのだから」と言った方が私たちにはよく分かるでしょう。なぜなら、パウロは彼らの信仰を疑っていたわけではないからです。彼がまず言うことは、2:20で「もしあなたがたが、キリストとともに死んで」と、私たちはもうすでに学んだことですが、その支配から離れる、支配から解放されるということでした。生まれながらに私たちを支配して来たそのサタンの支配から、そして、永遠の滅びの運命から、神は私たちを解放して自由にしてくださった、それが、この「キリストとともにあなたがたは死んだ」ということでした。パウロはガラテヤ2:20で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と同じことを教えています。そして、死んだだけではない、その死からよみがえってきた、それがパウロがこの3:1に記していたことです。私たちはキリストとともによみがえったのだと、これはもうすでに完了した出来事として、不定過去という時制をパウロは使っています。しかも、受身であるというのは、自分の努力ではなくて神によってイエスを信じるあなたはその死からよみがえらされた、新しく生まれ変わったのです。そのことをパウロは教えるのです。これが救いです。どんな罪を私たちが犯していても、神はその罪を完全に永遠に赦してくださる、私たちを新しく生まれ変わらせてくださる、そのようなすばらしい神の恵みを聖書は私たちに教えるのです。そして、パウロはそのことをここでもう一度コロサイの人たちに教えるのです。あなたたちはキリストとともに死んで、そして、あなたたちは新しく生まれ変わったと。

 パウロはローマ人への手紙6:4で、新しく生まれ変わった人は何のために生まれ変わらされたのか、その目的を教えます。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」、このバプテスマは水のバプテスマではなく聖霊のバプテスマのことです。イエス・キリストを信じたとき聖霊のバプテスマを受けるのです。そのときに救われたのです。そのときにかつてのあなたは死んだのです。そのときにあなたは生まれ変わったのです。よみがえったのです。新しい者として…。続いて、「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と記しています。ですから、あなたが生まれ変わったのは、新しい歩みを始めるためなのです。そのために、神はあなたを救ってくださったというのです。ですから、パウロはここから実践篇に入って、どのようにクリスチャンが生きて行くのかを教えるのですが、そのような新しい歩みを始めて行くためには、その人は救われていなければならない、救われていない人がこの教えを実践しようとするなら、それは重荷となります。どんなに意志の力が強くても自分の意志で自分を変えることはできません。私たちの心を変えることもできないのです。神の一方的な恵みによって私たちは変えられて行くのです。だから、パウロはこの実践を教える前に、再び、救いについて教えるのです。救われたあなたはこのように生きて行くことができると…。

☆救われた者の新しい生き方、天国民としての生き方とは?

1.忠実に生きて行く

1節に「1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。」と、このような命令がなされています。では、「上にあるものを求める」生き方とはどのような生き方でしょう?パウロはそのことを私たちが正しく理解するために、このみことばの中に三つのヒントを与えています。

上にあるものを求める生き方とは?

1)「(地上のものを思わず)天にあるものを思いなさい。」  2節

上にあるものとは天にあるものだとパウロは言います。ここでは、地上に対する思いとそうでない思いとを比較しているのです。というのは、私たちは生まれながらに地上のことばかり考えて生きて来たからです。この3:5を見るとパウロはそのことを教えています。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」、8節にも「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」とあります。ですから、こうして見てみると、パウロが言いたいこの地上のものを思った生き方がどんなものかが分かります。それは救われる前の、生まれながらの私たちの生き方なのです。神を無視して好き勝手に生きるその生き方です。私たちの創造主である神を忘れて自分の快楽のために欲望のために生きる、そのような生き方です。パウロはピリピ3:19でこのように言います。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」と、神のことなど考えようともしない、考えることはいかに自分を満足させるか、自分を喜ばせるか、そのことだけだと言います。ですから、この「上にあるものを求めなさい」というパウロの命令は、救われる前と違う生き方をパウロが命じていることは明らかです。

2)「キリストが、神の右に座を占めておられます。」  1b節

1節に戻って「…上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」と、パウロがこのように言うのは、明かに、この「上にあるものを求める」ことと「キリストが、神の右に座を占めておられる」ことが関連しているからです。このイエス・キリストが父なる神の右に座しておられるというのは、使徒たちが語り続けたメッセージでした。「使徒の働き」を見ると彼らは何度もそのメッセージを繰り返しています。また、イエス・キリストご自身も、カヤパ総督のところでさばきを受けているときに、そんな話をされました。「イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(マタイ26:64)。ですから、使徒たちもイエス・キリストが神の右の座に着座されたというメッセージを語ったし、イエスご自身も十字架にかけられる前に話しておられたのです。この「神の右の座」とはどういう意味なのでしょう?実は、ここは名誉と権威の座を象徴するところなのです。ですから、パウロはここで再び読者たちに対して、イエス・キリストが至高的存在であるということを明かにしようとしたのです。覚えておられますか?偽りの教師たちが教会に入り込んで来て人々を惑わせましたが、彼らは、イエス・キリストは至高的存在ではない、そんなに優れた方ではないと、そのようなことを言って人々を惑わせたのです。ですから、パウロはもう一度、キリストがいったいだれなのか、どんなお方なのかということを明かにしようとしたのです。彼が人々に明らかにしたかったことは「キリストは神である」ということです。キリストはすべてのものを統べ治めておられる真の創造主なる神だということを明かにしたかったのです。キリストこそすべての主であり、すべてのものを治めておられる方だと。そして、同時に、そのお方はイエス・キリストを信じる私たちの主であられるのです。そうすると、パウロが敢えて、「上にあるものを求めなさい」と言い、その後にこの「キリストが、神の右に座を占めておられます。」と話したというのは、今言ったように、キリストが私たちの主であるということと関連しているのです。もう一つ、三つ目のヒントを見てみましょう。そうすれば、パウロがここでいったい何を言いたかったのかが明らかになります。

3)(上にあるものを)求めなさい。  1節

この「求める」という動詞は、何かを得ようと一生懸命努めること、骨を折って頑張るということ、また、欲しがる、熱望する、願望するという意味をもったことばです。オリンピックの選手が金メダルを目指して、そのために一生懸命努力を積み重ねている、その様子を画くとこのことばの意味がより鮮明になるかと思います。パウロが教えたいことはそうだったのです。キリストを求めて生きて行きなさい、あなたの主であるキリストを求めて行きなさい、これまでの救われる前の生き方ではなくて、神が喜んでくださる生き方を一生懸命求めて生きて行きなさいと、そのことをパウロはここで教えたかった

のです。何とかもっと神に喜んでいただこう、そのためにすべてのことに最善を尽くして行こう、そのために一生懸命努力しよう、そのことを一生懸命熱望して生きて行こうと、それがここでパウロが言わんとしたことです。どうしてそのように言えるのかというと、実は、この「求める」ということばに拠っています。このことばは新約聖書の中には117回も出てきます。その中でも、皆さんがよく知っておられるのがマタイ6:33のみことばです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」、ここでイエスは何を教えられたのでしょう?求めることは二つあります。「神の国」と「その義」です。

「神の国」とは何を意味したのでしょう?私たちは「国」と聞くと、どこどこの国という地域を連想しますが、ここで言われているのはそうではありません。地理的、地域的なことではなく、イエスが言われたのは「神が支配される」ということです。ですから、「神の国をまず第一に求めなさい」というのは、神によって支配されることを求めなさいということです。私たちのすべてのことが神によって支配されることです。私たちの考えも、私たちの思いも願いも。そうすると自由がなくなってしまうと思う方がいるかもしれませんが、そうではなくて、神によって私たちの心が支配されることによって、私たちが正しい思いをもって正しい行ないを為して行くことができるからです。イエス・キリストが「神の国をまず第一に求めなさい」と言われたのは、自分のために生きることから、神に対して忠実に従順に生きることを教えたのです。パウロはローマ人への手紙14:8でこのように言いました。「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」と、非常に面白いことをパウロは教えています。つまり彼は、もう私のすべてのものは神のものだと言っているのです。私が生きているのも神のためであるし、私がいつか死を迎えることがあっても、それも神のためである、すべて神が支配しておられると。だから、パウロは自分の人生を見て正しいことが分かっていました。私の人生における責任はまず神に対してだということです。なぜなら、私のいのちも私のからだも実は私のものではなくて、神のものだからです。イエス・キリストがご自分のいのちを私たちのために捨てることによって、神はあなたを罪から買い取ってくださった、永遠の滅びから買い取ってくださった、そして、私たちは神の所有とされたのです。ですから、あなたのいのちも「私のいのち」とは言わないのです。神が託してくれたいのちです。私のからだも「私のからだ」とは言わない、神から託されたものだと言うのです。持ち主は神だからです。ですから当然、持ち主が神ならその持ち主を喜ばせるために、私たちはすべてのものを用いて行くことです。イエスが神の国を求めなさい、神に支配していただきなさい、つまり、神にいつも喜んでいただくように、あなたのすべてを明け渡して歩んで行きなさい、なぜなら、あなたのすべてのものは実はもうあなたのものではなくて神のものだからですと言われました。パウロはそのようにして生きたのです。まさに、パウロは神の国を第一に求めて生きたのです。

そして、二つ目にイエスが言われたのは「その義を求めなさい」です。それは、神の完全な義ときよさを求めて生きて行くということです。この世のことに関心をもって生きて行くよりも、神を喜ばせることに渇きと飢えをもって生きて行きなさいと。ですから、このマタイ6:33でイエスが教えられたことは、あなたの為すことすべてをもって神に喜んでいただくように、そのことを実践して行きなさいということです。そのために、パウロは分かっていました。私のすべては私のものではなくなった、すべて神のものだと。マタイ6:33で「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」と、なぜ「第一に」

とイエスは言われたのでしょう?こういう生き方こそが私たちによって最も優先されなければならないからです。こういう生き方を神は最も望んでおられるからです。キリストのために生きる者とされた私たちクリスチャンは、このキリストが喜ばれること、すなわち、正しさ聖さを熱心に求めながら、すべてのことを神にゆだねて、みこころに沿って歩み続けて行こうとするのです。

 私は以前、世界的な陸上競技の選手と話をしたときに、その練習が厳しいことを知っていましたからその質問をしました。「大変でしょう?」と、その答えは「いいえ、大変ではない、それは私の好きなことをやっているから」でした。大切なことです。私たちクリスチャンというのは、神の前に喜ばれることをして行かなければならないではなくて、して行こう、して行きたいのです。なぜそのようになったのでしょう?それが救いだからです。そのように神は私たちの心の願い、心の思いを変えてくださったのです。もし、そのような思いでない思いを救われているあなたがもっているとするなら、あなたの信仰にはどこか問題があるのです。どこかに罪があるのです。それを告白して神の前に正しく歩み続けて行くことです。この「上にあるものを求めなさい」と、「求める」という動詞は現在形です。継続して、習慣的にそのように歩んで行きなさいと、しかも、これは命令です。だから、一生懸命頑張って、神に喜ばれることを探りながら、それを選択しつつ歩み続けて行きなさい、そういうふうに生き続けて行きなさい、習慣的に、失敗したら神の前に告白してまたそのように歩み続けて行きなさいと、それをパウロはこの1節で教えるのです。確かに、パウロがここで「求める」ということばを敢えて使ったのは、もうすでに私たちが学んできたように、この教会に入り込んできた異端の教え、イエスだけでは不十分でそれ以外のものを求めなければいけない、特別な知恵、特別な経験を求めなければいけないと、パウロはもうそのことを否定しました、そんな必要はないと。そして、ここでも彼が言うことは、あなたがクリスチャンとして生きて行くときに、特別な何かを求める必要はない、あなたに必要なことは、あなたを救ってくださった主に喜ばれる歩みを継続して行くことだということです。この主を喜ばせる生き方を実践することによって、あなたは永遠に価値ある歩みをしていることになるとパウロは言うのです。

さて、そのことを教えてくれたパウロは、この2節でそれを実際に具体的にどのように実践することができるのか、そのヒントまでもくれています。

◎どのように、忠実に生きるのか  2節

 2節「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」と、この「思いなさい」ということばがそのヒントなのです。これも現在形です。「思い続けて行きなさい」と言います。つまり、パウロが教えたいことは、正しいことをして行くためにはあなた自身の心を守らなければいけないということです。あなたの考えを守らなければいけない、正しいことを考え続けて行かなければいけないと言います。ローマ8:5-8を見ましょう。ここでは救われている人とそうでない人の比較がされています。「:5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」と、二種類の人がいるのです。ある人は肉に従う者であり肉的なことしか考えていない、つまり、そのことが心の中にいっぱい溜まっているのです。また、ある人は御霊に属すること、神に喜ばれることばかり考えている人だと言います。こうして二種類の人々が対比されています。5節を見ると、救われている人というのは、自分の肉を満足させることよりも聖霊なる神に従って御霊を喜ばせることをして行こうとするのです。でも、救われていない人は自分の肉を満足させることだけを考え、そのように生きようとするのです。6節には「 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」とあります。肉の思いは死である、心が肉によって支配されている人、その人の行き着くところは死、永遠の滅びだと言うのです。なぜなら、その人の考えることは罪であり、罪から罪へと歩み続けて行くからです。心が御霊によって支配されている人には永遠のいのちが与えられ、神の平安が約束されていると言います。7節には「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」と、救われていない人は神に従うことができません。そして、8節には「肉にある者は神を喜ばせることができません。」、救われていない人は神の敵として歩むことしかできないのです。

 さて、このローマ8:5-8でパウロは、考えることとその行動とが非常に密接な関係にあることを教えたのです。それは、人間は考えているように行動する者だからです。ですから、パウロがコロサイ3:2で「思いなさい」と言ったときに、「思う」という知的な行為だけでなく、意志に働きかける行動を促すのです。頭だけの理解でなく実際にそのようなことを実践するように、あなたの心や考えが正しいことにいつも満たされているようにと。そうすることによって、私たちは神の前に喜ばれる歩みを継続して行くことができるのです。皆さん、私たちの心を守るということ、それは非常に大切なことです。今確かに、テレビをつけると、そこから流れてくるものは、どれほど私たちを神が喜ばれる生き方と反対の生き方に導いて行くことを教えてくれるものでしょう?私たちは気をつけなければいけません。何を見るのか、何を読むのか…。では、どうすればいいのでしょう?いくつかのことを提案したいと思います。

◎あなたの心を守るために必要なこと

1)神のみことばと祈り

 私たちに必要なことは、神のおことばをしっかり読み続けることです。確かに、聖書をもって歩くことはできませんが、聖書の箇所をどこかに書いて持って歩くだけでも変わってくるはずです。パウロが言うことは、あなたの心にあるものが行動となって出て来るということです。ですから、あなたの心を神が喜んでくださることを行なうように導いてくれる、そのような思いで満たすことです。神のことばをしっかり覚えることです。いろいろな工夫ができるはずです。

 同時に、私たちはいろいろなことで心が騒がされ、惑わされます。誘惑を受けます。祈ることが必要です。神は助けてくださいます。

2)悪から離れること

 悪から遠ざかることが必要です。

3)間違った方向に導いて行こうとする人々から離れること

 誰かと出会っているとき、いつもその人の話すことが神に喜ばれないことであったら、その人から離れておくことです。彼らを憎むのではありません。でも、距離を置くことです。もし、あなたがそれによって誘惑されるのであれば…。

4)信仰の友が必要

パウロはこのように言っています。Ⅰコリント15:33「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」と、だから、私たちは良い友、信仰の友を持つことです。兄弟、あなたは間違っているよ、姉妹、あなたは間違っているよということを教えてくれる人たち、そして、皆、私たちは弱いわけですから、その弱いところを助け合って行くような、そういった信仰の友が私たちの歩みにおいては必要なのです。

天国民として生きなさいとパウロは言いました。それはどういうことなのか、神に対して忠実に歩んで行きなさい、それこそ、上にあるものを求め続ける生き方だと、そのことをパウロは私たちに教えてくれるのです。いろいろな選択があります。しかし、大切なことはその中にあって私たちは神の前に正しい選択をすることです。そのときに、神が喜んでくださるからです。

1909年、カナダのオンタリオ州のある牧師の家庭に一人の男の子が生まれました。彼にはすばらしい音楽の才能がありました。彼は子どもの頃から父の教会で特別賛美をしていました。家計の都合で大学を1年で止めた頃のある日曜日の朝、彼は実家のピアノの上に置かれているある詩を目にし、それに曲を付けてその日の礼拝で賛美しました。これが彼にとっての最初の作曲でした。彼は大学を止めたあと、ニューヨークの生命保険会社に勤めることになりました。でも、社会人として彼が働いている間も、教会での賛美やクリスチャンのラジオ放送で賛美することは継続していたのです。あるとき、非常に大きい全国ネットのラジオ局のディレクターから声が掛かりました。オーディションに出てみないかと。このディレクターは彼の賛美を聞いたのでオーディションをと勧めたのです。彼はそのオーディションに合格しました。それは、彼に歌手としての将来と富が約束されたのです。しかし、彼はこの千載一遇の機会を受け入れることが神のみこころであるとして受け入れることがどうしてもできなかったのです。その当時の社会は世界恐慌の真っ只中でした。だれもかれも貧困に喘いでいた、そんな時代でした。人々はどんな仕事にでもありつきたいと願っていたのです。しかし、彼は迷うことなく神のみこころに従うことを選択したのです。神は彼を大いに用いられました。確かに彼は、大金や名声を得ることはありませんでした。しかし、神は彼をキリストのために、全世界で人々の救いのために用いられたのです。20歳のときに彼が書いた曲、その歌詞は「キリストには代えられません。世の宝もまた富も、このお方が私に代わって死んだゆえです。キリストには代えられません。有名な人になることも、人の誉めることばもこの心を引きません。キリストには代えられません。いかに美しいものも、このお方で心の満たされてある今は。世の楽しみよ去れ、世の誉れよ行け。キリストには代えられません。世の何ものも。」、ジョージ・ベバリィ・シェァは、世界中で神のすばらしさを歌い続け、キリストのすばらしさを証し続けたのです。皆さん、私たちはかつては富のために生きていました。名声のために生きていました。自分のために生きていました。それが人生だと思っていました、楽しめばいい、好きに生きればいいと。しかし、神は私たちに教えてくださった、そのように創造主なる神を忘れて生きる人生は、永遠の滅びへとつながっている、神に逆らい続ける人生には永遠の滅びがあると。そして、何と感謝なことに、神は私たちをそこから救い出してくださった、そして、神のものとしてくださった、私たちは新しく生まれ変わったのです。サタンの虜であった私たちが神の子どもとされたのです。ですから、生まれ変わった私たちは、この神のために生きようとするのです。そして、私たちがそのような人生を歩もうとするとき、この世の如何なるものをもってしても得ることができない神の祝福をいただくのです。そこにこそ、本当の満足があるのです。そんな人生を歩みなさいと、それがパウロがこのクリスチャンたちに望んだこと、命じたことでした。そして、神は今、そのことをあなたにも命じておられるのです。これからの人生をどのように生きて行くのか、これからの人生をどのように過ごして行くのか、短い時間です。あなたの創造主に立ち返ることです。そして、あなたの創造主に従って行くことです。そのときに、神が喜んでくださる、私たちの主人である神が…。

Hamadera Bible Church © 2006