礼拝メッセージ要約

Assisting the study of God's Word

2006/07/16 礼拝メッセージ

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Messenger: 近藤修司
Passage: コロサイ2:20-23
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06/07/16  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

主  題:偽教に惑わされるな8

聖書箇所:コロサイ人への手紙 2章20-23節

 イエスはこのように言われました。「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:11-12)。結局はここに問題があったのです。プライドです。私たち人間のプライドに原因があったのです。今まで私たちは、いろいろな間違った教えが教会の中に入り込んできて、コロサイの教会を混乱に陥れていたということを見てきました。律法学者たち、律法主義者たち、彼らは自分たちは律法を守っているということを自慢して、そうでない人々を見下していました。また、神秘主義者たちは特別な体験をしている、その経験によって彼らは自らを誇っていたのです。そして、同じように、そのような経験をしていない人々を見下していたのです。ですから、やはり、ここに問題があったのです。プライドでした。というのは、私たち人間はなかなか人との比較を止めません。すぐに、私たちは人と比較して、この人より勝っている、この人より劣っていると考えてしまう愚かな者です。

あのイエス・キリストに従った弟子たちも実はそうでした。イエスとともに日々を過ごしていたにもかかわらず、彼らは同じことを繰り返し、そして、彼らも私たちと同じ失敗を犯し続けたのです。ちょうど、ガリラヤ湖の北にあるピリポ・カイザリヤに弟子たちがいました。そこからガリラヤ湖畔のカペナウムに彼らが南下して行くその途中に、彼らはイエスから、これからご自分が十字架にかけられること、そして、三日目によみがえることを聞かされました。ところが、そのことを聞いていたにもかかわらず、弟子たちがそのカペナウムへの途上で何を話していたのかというと、だれが一番偉いのかということでした。ですから、イエスがいったい何を話していたのですかと質問されたとき、だれも答えることができませんでした。それは余りにも恥ずかしかったからです。イエスの十字架の話を聞いていながら、彼らはそのことについてではなくて、自分たちの中でだれが一番偉いのかということを話していたのです。彼らはカペナウムに到着しました。そこで、イエス・キリストは再びご自分が十字架にかけられること、そして、よみがえることをお話になりました。その後、ヤコブとヨハネの母がやって来てこんなことを言うのです。マタイ20:20-21「そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。:21 イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」。皆さん、イエスはそれを聞かれてどのように思われたでしょう?これから、自分は人々の罪のために十字架にかかって身代わりとなって死ぬのだということを話しているにもかかわらず、それを聞いていた人たちの関心というのは、その身代わりの死よりも自分たちのことでした。その話を聞いていた弟子たちは彼らに対して憤慨するのです。なぜ、彼らはそのことを聞いて怒りを覚えたのでしょう?それは、彼らがイエスの十字架の話を聞いて、なぜ、そのことを考えないのかということで怒ったのではなくて、彼らは自分たちもそこにすわりたかった、自分たちもそのことを願っていたのです。自分が祝されたい、自分が誉められたい、これが、イエスが弟子たちに十字架のこと、復活のことを話したことへの弟子たちの応答でした。

カペナウムにあってイエスは弟子たちから「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」(マタイ18:1)と質問を受けました。そこでイエス・キリストは弟子たちに対して答えを与えるのです。18:2-4「:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」、つまり、だれが一番偉いのかと言い合っていた弟子たちにイエスが教えられたことは、「自分を低くする者が、天の御国で一番偉い」ということです。慢心している者ではなかった、へりくだった者だったのです。謙遜であり正直であり、利己的でなく、そして、従順に従って来るこの子どもたち、その子どもたちのような者が天の御国で一番偉いのだと言われました。ですから、私たちはもういい加減に人との比較を止めることです。人間的な価値観や個人的な好みを、信仰という名でもって私たちは人に押し付けてはなりません。かえって、私たちイエス・キリストによって救われた者たちは、これまでの価値観ではなくて、聖書が教える正しい価値観、また、判断をもって歩んで行くように、また、お互いが歩んで行けるように励まし合って行くことが必要です。

禁欲主義者たち、彼らは肉体的な欲望を抑えようとしました。なぜでしょう?それによって、自分たちがより霊的な者になる、それによってより神に喜ばれる者になると信じたからです。たとえば、より質素な生活をするほど、きっと神が喜んでくださると、そのような考え方は確かに今でもクリスチャンたちの間にあります。質素な生活をしていると、それがその人の霊性を現わしているかのように…。でも、気をつけなければいけないことは、果たしてそれは聖書が教えていることかどうかです。私たちが気をつけなければいけないことは、そのような様々な人間的なこの世的な考え方が、あたかも聖書の教えであるかのように私たちのうちに入り込んできて、そういうものに基づいて私たちが生きて行くなら、私たちは知らず知らずのうちに聖書から外れてしまっている可能性があるということです。律法主義者も神秘主義者も最初は神のことを思って一生懸命したのかもしれませんが、知らず知らずのうちに彼らは本来あるべき姿から外れてしまったのです。彼らは大切なものを見落としてしまったのです。

このコロサイの教会やその近隣の教会に入り込んできた間違った教えについて、私たちはこれまで学んできましたが、これらに共通していたことは何でしょう?これらが目的としていたことは、イエス・キリストを信じている人々が聖書だけでなく、聖書以外のものにも目を留めるように、イエス・キリストを信じるというその信仰だけでなくて、それ以外のものにも目を留めるように、神の恵み、それ以外のものに目を留めるように、このように生きるようにと誘惑したのです。

☆間違った教え

3.禁欲主義

 私たちイエス・キリストを信じる者は神の前にあって神の栄光のために生きて行く者です。ですから、神のおことばであるみことばに基づいて正しい判断、選択をすることが私たちの責任です。人間の考えがみことばよりも重んじられてはならないのです。禁欲主義者たちも同じです。聖書以外のものを重んじようとします。パウロは人々が救われる前の生き方に戻ろうとしていることに心痛めました。サタンは常に私たちが神に従って行かないようにと阻み、誘惑するのです。パウロはこの禁欲主義者たちに対して彼らの間違いを教えようとします。彼らが間違っていることの理由を三つ挙げるのです。

◎禁欲主義の間違いの理由

1)世的である  20-21節

 20-21節「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、:21 「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。」。このような生き方はこの世的な生き方だと言います。この世を支配しているのはだれでしょう?この世の流行、この世の考え方を支配しているのはサタンです。彼自身の考え方をこの世は見事に反映しているのです。この世の価値観はサタンの価値観です。私たちはそういう世の中に生まれ育ってきましたが、神のあわれみによってそこから救い出され解放されたと言うのです。ですから、20節の初めにパウロは、救われた人がどういう人か、その定義をしています。二つのことが出てきます。(1)キリストとともに死んだ=かつての神に逆らってきた自分はキリストとともに死んだのです。自分勝手に生きて来た、自分の罪の奴隷として生きて来た私たちは、キリストともに十字架にかかって死んだのです。そして、私はキリストとともによみがえったのです。生まれ変わったのです。私たちはイエス・キリストを生まれながらにもっている自分の信仰に加えたのではないのです。神に逆らってきた私がその罪を認めて、神さま、私は間違っていました、あなたの前に正しく生きて行きます、罪を赦してくださいと悔い改めをもってイエス・キリストを信じ受け入れました。そして、その時に私たちは新しく生まれ変わったのです。だから、救われたのです。ローマ6:6-7に「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」とある通りです。ですから、パウロはもう一度言うのです。あなたはイエス・キリストともに死んだのではないですか?かつての自分は死んだのではないですか?それがクリスチャンだからと。(2)この世の幼稚な教えから離れた=ガラテヤ4:3からパウロはこのように言います。「:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。」、救われる前の私たちはこの世の幼稚な教えの奴隷だったと。そして、8節にこう続きます。「:8  しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。」と、生まれながらに人間はすべてこのサタンとその悪霊たちの奴隷なのです。だから、人間は生まれながらに罪人なのです。ですから、私たちは罪を犯すことによってサタンを喜ばせているのです。そういう生き方をしてきたのです。9節には「:9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」とあります。パウロが教えていることは、あなたがたはサタンと悪霊たちの奴隷だったから、その考え方生き方の中でどうすることもできなかった、主人が命じることしかできなかった、罪に罪を重ねることしかできなかった、しかし、神はそこから救い出して自由にしてくださった、悪魔の束縛からあなたは解放された、それなのに、なぜかつての生き方に戻ろうとするのですか?あなたはその幼稚な考え、その幼稚な教えから離れたのでしょうということです。コロサイ2:20にある「離れる」ということばは「その支配から離れる」ということです。その支配の範囲外に出るということです。ですから、かつて私たちを支配していたサタンも私たちを支配することができないのです。私たちはそこから解放されて新しい主人に仕える者となったのです。創造主なる真の神に仕えるのです。私たちはサタンの奴隷であったのが神の奴隷へと生まれ変わったのです。ですから、そのとき初めて、私たちは神に喜ばれることをする者に生まれ変わったのです。それなのに、あなたはどうしてかつての愚かな生き方に戻ろうとするのかと、パウロは彼らを責めるのです。どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、どうして、まだ救われていないときのように、あなたは生きようとするのかと。

 21節にもう少し説明を加えています。「すがるな。味わうな。さわるな。」と、このようなものに縛られて生きていたあなたは、なぜまたそこに戻ろうとするのかとパウロは言うのです。この「すがるな」ということばは、ある英語の翻訳を見てみると「触れる、さわる」と訳されています。日本語の聖書でここに「すがる」と書かれているのは、恐らくレビ人たちが守り続けて来たしきたりにしがみつくという、その意味で使っているのでしょう。というのは、レビ人たちは異教徒たちの食べ物や飲み物の習慣から自分たちは完全に分離していると、そこを誇っていたのです。レビ人たちが守り続けていたしきたりを一生懸命守り続けて行こうとしていた彼らに、パウロはなぜそのようなことにしがみつこうとするのかと言います。「味わうな」はご存じのように、旧約聖書の中にはたくさんの食べ物、飲み物の教えがあります。血を飲んではならない、豚の肉を食べてはならない、偶像にささげられたものを食べてはならないなど、そのようなことを人々は守ってきました。救われたクリスチャンたちがまたそこに戻ろうとしていると、パウロはそのことを嘆くのです。「さわるな」と同じように旧約聖書の中には、汚れたものが出てきます。死体や墓、骨など、そういったものに触れてはならないと言うのです。そういうことを守っているから神は喜んでくださっている、神は祝してくださっていると彼らは思ったのです。だから、救われていながらも、そのようなことをすることでより神に喜ばれるのではないかと、彼らはその方向に向き始めたのです。みことばの中には確かに食べ物や飲み物に関する教えがあります。マルコ7:

19を見ると「そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」と、「すべての食物はきよい」、何を食べても構わないとイエスは教えています。Ⅰコリント6:13では「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。」と、パウロは食べ物よりも大切なものに目を留めなければいけないと言っています。私たちが覚えなければいけないことです。禁欲主義者たちは何を食べる食べない、何を飲む飲まないという行ないを自慢していたのです。このような人たちにみことばはそれは「愚かなこと」だと言います。食べ物、飲み物に関して、私たちの生き方に関して、私たちには自由が与えられています。何を食べることも何を飲むことも赦されています。但し、私たちには責任があります。私たちは何ものの虜になってはいけないのです。これがなければならない、これを食べなければ、これを飲まなければと。また、私たち一人ひとり、イエス・キリストを信じる者が考えなければいけないことは、私がこれを食べることによって神の栄光を現わすかどうかです。これによって神が喜んでくださるかどうかです。私たちはそのルールをもって私たちの為すべきことを判断して行くのです。もし、私たちの食べる物が弱い兄弟のつまずきとなるなら止めることです。つまり、私たち一人ひとり、神の前に立たされている者として、自らに与えられている責任に基づいて、何が神に喜ばれることなのか、そのことを判断して選択することです。私は皆さんにはそれができると信じます。あなたは自ら考えて、何が神の栄光を汚すのか、何が神に喜ばれることなのか、しっかり判断してそれをして行くことができると信じます。そのように歩み続けて行くことです。彼らは律法を守ってさえいれば…、実際は守っていなかったのです。特別な体験さえしていれば、また、このように自分の欲を制御さえしておけば、そのような行ないによって神は喜んでくださり、そして、私は成長して行くのだと考えたのです。神が私たちに望んでおられることは、一人ひとりがしっかりと正しいことが何かを考えて選択をすることです。

 このように偽りの教えを為している人たちに対してイエスは何と言われたでしょう?マタイ6:16-18を見てください。「:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。」、断食をしている人は自分が断食していることを皆に知ってもらいたいのです。だから、やつれた顔をするのです。皆が「どうしたのですか?」と聞いてくれるからです。「実は断食しているのです」と、何のためにこのようなことを言うのでしょう?それによって「この人はすごい、断食している!だから霊的な人だ、信仰的な人だ」と、そのように思ってもらうことを期待するからです。だから、イエスは偽善者と言われたのです。確かにその行為は立派に見えるかもしれない、しかし、問題は心がそれに伴っていないことです。だからイエスは言われました。「まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」と、つまり、彼らが受け取る報いは人からの称賛だけです。神からの称賛はないのです。イエスは続けてこのように言われました。「:17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。:18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」、つまり、イエスは私たちの心が問題だと言われるのです。私たちの心が正しいかどうかです。何のために私たちはこのようなことをしているのかです。何のために断食するかです。もし、私たちが心から神の前に何かとりなしをしなければならない、そのときは結果的に断食になるでしょう。それは人に知ってもらいたくはない、自分の心が本当に神に対して求めるものがあって、とりなすことがあって、結果としてそのようになるのです。人に誉めてもらうためではありません。自分の心を注ぎ出すからそのような断食という結果が訪れるのです。ですから、偽善に対する警告がみことばの中に何度も記されているというのは、それが見せかけだけの行為だからです。自慢のための行為だから、人の目ばかり意識して神の目を忘れてしまっているからです。ガラテヤ6:12-13でパウロはこのように言っています。「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。:13 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。」、人々の関心がどこにあるのか、神ではなくて周りの人々の目であると、そのことをみことばは非難するのです。人の目を意識して人の評価ばかりを求めて生きて来たそういう生き方からあなたは解放されたのでしょう、サタンが支配していたその生き方からあなたは自由にされたのでしょう、それなら、どうしてあなたはそこに戻ろうとするのですか?どうしてこの世的な生き方を再び選び取ろうとするのかと言います。

 私たちはそのような生き方をしてはならないのです。私たちはキリストによって新しく生まれ変わった者として、新しい歩みをするように神に望まれているのです。ローマ6:2-4に「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」とある通りです。クリスチャンの皆さん、あなたが救われたのは、あなたが新しい歩みを始めるためにです。先ほども言ったように、あなたはサタンの束縛の中にいました。サタンの奴隷でした。そこからあなたは救われて神の奴隷となった、神のしもべとなって、あなたは新しい歩みを始めて行くのです。新しい主人に従って行くのです。新しい主人を喜ばせる生き方をして行くのです。そして、感謝なことに、生まれ変わった私たちは、そのように生きて行きたいと思うように私たちの思いまでも変えてくださったのです。なぜなら、救われたからです。救われたからそのような新しい願い、目標をもって、新しい動機をもって生きて行こうとするのです。それなのに、どうしてあなたたちはかつての空しい生き方に戻ろうとするのか、そのような生き方をしてはならない、それはサタンが支配しているこの世の生き方だからと、パウロは警告したのです。

2)人間の教えである  22節

 22節「そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。」

つまり、このような禁欲生活は神の知恵に基づいているのではなく、人間の知恵に基づいているとパウロは言います。気をつけなければいけないことは、最初にも言ったように、いつの間にか人間的な考え方がみことばに取り代わってしまって、あたかもそれが神の教えであるかのように、私たちがそれを受け入れて従ってしまうということです。もちろん、私たちは禁欲ということを考えたとき、罪から離れなければいけない、それは当然のことです。そういうことをパウロは非難しているのではないのです。パウロが非難したことは、人間の教えがいつの間にか聖書と摩り替わってしまって、それに人々が従っていることです。こういうものを食べないでいたらいい、こういうものを飲まないでいたらいい、こういうものに触れなければいいと、聖書がいっていることと違うことを人々は行ない守ろうとしたから、パウロはそれに対して警告を与えたのです。イザヤ書29:13でイザヤはこのようなことを言っています。「そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。」と、心が伴っていないと言うのです。マルコ7:7でも「彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」とあります。みことばが警告していることは、神はあなたの行動を見ているのではなくて、あなたの心を見ているということです。何のためにあなたはそれをしているか、何のために奉仕をしているか、何のために祈祷会に来るのか、何のために礼拝に来るのか、何のために…、そうすることによって神が私に何か祝福をくれると思ってやっているなら空しいことです。そうしないと人から何か言われると思ってやっているなら空しいことです。でも、あなたが私は神によって救われ、神を愛するゆえにしているというなら、神はそれを喜んでくださるのです。

マタイ15:3-9、これはマルコ7章にも出てくる記事ですが、コルバンということが出てきます。コルバンとは神への供え物やささげものをそのように呼んだのです。マタイ15:5に「私からあなたのために差し上げられる物は」というところには「贈り物」というギリシャ語が使われています。でも、マルコの福音書では同じところでコルバンというギリシャ語が使われています。このことばは非常におもしろいことばです。というのは、持ち物を神のために用いたときに、それをコルバンと言ったのです。自分のもっているものを神のために使いたい、そのときにそれをコルバンと言ったのです。私のこの持ち物は神のものですと、そう誓うのです。律法が教えるようにそのような誓いは破ってはならないと教えられています。そこで、子どもが親から援助を求められたとき、できる範囲で援助すればいいのですが、ある人々は援助できるのに援助したくなかったのです。そのとき彼らはこのコルバンを用いたのです。どうしたかというと、自分の持ち物があり、親がそれを援助してほしいと言ったとき、それができたにもかかわらず、したくないのでその持ち物に対して「コルバン」と言うのです。そして、親に対して「ごめんなさい、私の持ち物はみな神への供え物になりました。だから、あなたに援助をすることはできません」と言うのです。彼らの大きな間違いは、彼らはそのような援助をしたくなかった、正直に実は援助できるけどしたくないのですとは言わなかった、あたかも、自分たちは霊的であるかのように装うのです。ところが、彼らは神にささげることもしないのです。自分たちのために使いたいのです。だから、イエス・キリストは彼らのことを非難したのです。彼らに対してこのように言います。マタイ15:3から「:3 なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。:4 神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。:5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、:6 その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。」と、このように言ったのは人々なのです。今話したように、親が援助してほしいと言うことに、援助できるにもかかわらずしたくないので彼らは「コルバン」と言って、これは神のものだからお父さんお母さんには使えないのですと、だからイエスは、うそつき、大うそつき、あなた方は勝手にそういう人間の言い伝えを作り出して、それに従うことによって神のことばに逆らっていると言います。6節の後半「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」と。彼らはあたかも自分たちが霊的な者であるかのように振舞うのです。でも、そこには大きなうそがあった、それが問題だったのです。ですから、このように見て行くとき、私たち人間は繰り返しているのです。いつの間にか神の教えよりも人間の教えを重んじてしまう、いつの間にか人間の教えを優先してしまうのです。その背後にあるのは、私たちは自分の好きなように生きて行きたい、自分の好きなことをして行きたいということです。そのために人間の言い伝えを自ら作り上げて、それが神のことばに代わるものとして人々に植え付けられて行くのです。私たちが気を付けなければいけないことがあります。人間の教えが神の教えに代わってしまうことです。私も信仰をもってしばらくしてから教えられたことは、映画に行くことは罪でした。悪のハリウッドをどうしてサポートするのかと言われました。アルコールが売られているレストランに行くことも罪でした。ですから、そういう所には立ち入り禁止でした。そのような考え方が存在していることは事実です。私たちは考えなければいけません。それは聖書に基づくものかどうかと。そして、私たち一人ひとりに神から託されている責任は、私たちが神の前に正しいことは何か、喜ばれることは何かを考えて、それを選択して歩んで行くことです。

3)無力である  23節

 23節「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」、こういう禁欲主義、「人間の好き勝手な礼拝」、自分で考えた礼拝、このようにすればいいと、いろいろな所でいろいろな礼拝があります。やり方が違います。礼拝とは何か、神はどのような礼拝を望んでおられるのか、どのような礼拝を教えておられるのか、そのことを忘れて人間の勝手な礼拝をしているとか、「謙遜」、私たちはもうすでに18節で学びました。わざとらしい見せ掛けの謙遜です。また、「肉体の苦行など」、容赦ない厳しさとか、様々な苦行はいかにも霊的なものに思えるけれど、「肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」と、つまり、そのような行ないを一生懸命しても、あなた自身の心は変わらない、あなたの心の罪はなくなることがないと言うのです。罪の赦し、信仰の成長、このようなことは人間の知恵や努力によって得られることは決してないのです。頑張ったから結果として救いを得た、そんなことはないのです。一生懸命頑張ったから私は神に喜ばれる者になって行ったと、私たちの行ない、私たちのわざ、そのようなもので私たちの本質は変わらないのです。パウロはガラテヤ2:21でこのように言いました。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」、つまり、救いが自分の努力、行ないによって得られるとすれば、キリストは死ぬ必要がなかったと言っているのです。イエス・キリストが十字架で死なれたというのは、私たちは自分で頑張って罪の赦しを得ることが不可能だからです。自分の努力によって罪の赦しを得ることが不可能だから、キリストが来てくださり、ご自分の罪のないいのちを捨てて救いを備えてくださった、その救いを信じる信仰によって神は救いを与えてくださるのです。パウロはそのことを分かっていました。どのような行ないも救いをもたらさないと。

 マルチン・ルターが宗教改革を行ないました。その改革の原則は「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」でした。1505年にルターは友人と歩いていたとき、大きな嵐に遭って歩いていた友人は雷に打たれて即死しました。それを見たルターは恐ろしさの余り、私を赦し私を守ってください、私はこれから神に仕えますと祈って、彼は修道院に入る決心をするのです。その時から彼は救いを求めて格闘し始めました。カトリック教会の定めた救いの道を熱心に歩むことによって、救いを得ることができると彼は考えたのです。そして、修道院で神学の教授として教鞭をとっていたルターは、同時に、自分で聖書の勉強を続けました。そして、彼がローマ人への手紙1:17にある「義人は信仰によって生きる。」というみことばに出会ったとき、彼は悩みました。その意味が分からなかったからです。というのは、彼は義認というのは救いのことではなくて、救いの過程であると教えられていたからです。しかし、彼はみことばを学ぶにつれて、この教会の教えに対して疑問を抱き始めたのです。そして、ルターは、義人とは自分で義となった人ではなく、神によって義とされた人であると、この真理をみことばから読み取るのです。ルターはシュバルカルト信条を書くのですが、その中でこのように言っています。「聖パウロがローマ書3章28節で『人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。』と言い、さらに3:26『それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』と言っているように、いかなるわざ、律法、あるいは功績によって到達することも獲得することもできない、ただ、この信仰によってのみ義とせられるということは明確である。」、これがルターがみことばを学んでたどり着いた結論だったのです。一生懸命努力しました、一生懸命教えを守れば神は救ってくれるのではないかと、ルターが気付いたことは、決してそうではない、いかなるわざ、律法、あるいは功績によって到達することも獲得することもできないもの、それが救いだということです。神の一方的な恵みであると。だから、彼は言ったのです。聖書のみ、信仰のみ、恵みのみと、イエス・キリストを信じるという信仰によってのみ救われると。私たちたちの信仰に、救いにおいても、信仰の成長においても必要なものは聖書のみなのです。私たちが神の子どもとされるのは、この神の恵みのみであって、いかなる行ないによるのではないと、それが宗教改革の原則となったのです。そして皆さん、これが私たちが守らなければならない聖書の原則です。いろいろな教えが入ってくるでしょう。しかし、私たちは聖書だけで十分である、信仰の成長にも、信仰の救いを得るためにも聖書だけで十分である、イエス・キリストを信じる信仰だけで十分だ、神の恵みだけで十分だ、それにプラス何ものも必要ない、これが私たちの信仰です。

 私たちの周りには間違った教えがたくさん入り込んで来ています。だからこそ、しっかりとこのみことばに立って歩んで行くことです。そのときに神はあなたに祝福を与えてくださるのです。それがこの聖書が私たちに教えてくれていることです。


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