礼拝メッセージ要約

Assisting the study of God's Word

2006/07/02 礼拝メッセージ

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Messenger: 近藤修司
Passage: コロサイ2:18-19
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06/07/02  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

主  題:偽教に惑わされるな7

聖書箇所;コロサイ人への手紙 2章18−23節

 よくこんな質問を耳にします、「私は救われているかどうか分からない。」またある人は、「私はどうしたら信仰が成長するでしょう。」、実はこんな質問を同じ人から何度も聞くことがあります。確かに私達の日々の生活において私達を惑わすものはたくさんあります。でも、みなさんもし自らの信仰に対して疑問を持つことがあったり、また成長に対して疑問を持った場合どうしたらいいでしょうか、聖書に戻ることです。みことばに戻ることです。なぜかと言うと、救いを与えて下さるのは主です、神さまです。

だったらその神が私達に与えてくださった聖書、神様のみことばに戻ればよいのです。どうしたら神様が魂の救いを得ることが出来るのか教えてくれているからです。また成長に関しても、成長を与えてくださるのは神様です。だからそのお方が私達にどうしたら信仰の成長を得ることが出来るのか、そのことを教えてくれています。だから、そのことが記されている神のみことばに私達は耳を傾ければそれでいいのです。みことばの教えにしっかりと立ちなさい、聖書にしっかりと立ちなさい、人間の考えや、人間の教えにではなく神様の教えに、神様のおことばに立つように。パウロは私達に偽りの教えに惑わされるなと警告し続けてきました。彼は3つの偽りの教えをあげて、こういった教えに振り回されてはならない、そう言った教えに心を奪われてはならないと警告を続けて来ました。

☆当時の教会に入り込んでいた三つの偽りの教え

[Ⅰ]律法主義。つまり旧約聖書に記されているさまざまな律法を守り行うことが、救いには必要なのだと彼らは教えた。イエス様を信じるだけでは不十分であって、食べ物に関しても、飲み物に関しても、祭りに関しても、特別の日に関しても、そういう日を守ることがあなたを救いへと導くのだと。しかしパウロが教えたことは、とんでもない、イエスキリストを信じる信仰によって救われるのであって、そういう律法は全て影であって、律法があなたにしたことは、あなたに救いが必要であるということを示してくれた。しかしそこまでで、救いをもたらすことは出来なかった。実体が現れた、影ではなくて。救い主が来て下さった、その方は私達に救いが必要だと言うことを示すだけでなくて実際に救いを与えて下さった。イエス・キリストを信じる信仰によって、私達は、完全に永遠に魂の救いを頂くのです。罪の赦しを頂くのです。ですからパウロが言いたかったことは、そういった律法主義の人々がしたことは、この神様が下さったすばらしい純粋な救いの恵みのメッセージに混ぜ物をしてその価値を下げた、そんな教えに耳を傾けてはならない、そういうものに惑わされてはならないと教えたわけです。

[Ⅱ]神秘主義。この18節と19節の所に記されてあります。「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、:19 かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」

パウロはここで、これらの神秘主義者について彼らの特徴をあげています。

1)神秘主義者の特徴

(1)ことさらに自己卑下する者  18節

ここで使われている言葉は、その考えが謙虚である、そういった言葉を使っているのですが、でもここでよく見てみますと、パウロが言いたかったのはそういうことではなくて、実はこの人たちはわざとらしい見せかけの謙遜者達であるということです。だから、日本語の聖書でも「ことさらに」という言葉を付け加えています。わざと、故意にという意味です。自己卑下する人々、つまりへりくだる人々、まずパウロが言った神秘主義者の特徴は、見かけは非常に謙遜だけれど、心は全然そうではない、心は全くその逆で、非常にプライドがある、高ぶっているのです、自分自身のことを自慢しているのです。自分が謙遜だということを喜びとして、そのことを自慢しているような人々、こういった人々だというのです。何に対してなのかこの後パウロが教えます。そのような人々が巧妙に教会に入り込んで来たのです。行ないだけを見ていると非常に謙遜なのです。そうするとみんなもそういった言葉に耳を傾けるのですが、実はしかし、彼らが教えたことはとんでもないことでした。

(2)御使いを礼拝する者  18節

 御使いを礼拝する、天使を崇拝したわけです。これはご存知のとおり大きな罪です。黙示録22章の所でヨハネが、様々なことを示してくれたこの御使いの足元にひれ伏して崇拝しようとした時、御使いがヨハネに対して言ったことは、黙22:9「すると彼は私に言った。「すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」です。天使がヨハネに教えたことは、神だけを崇拝しなさい、創造主だけを崇拝しなさい、それ以外のものを崇拝することは神に対する偶像崇拝の罪であるということです。みなさんに覚えて欲しいのは、彼らはこういった天使を崇拝していたということです。神がお造りなった天使の中で、もっとも美しく、もっとも知恵のあった天使はサタンです。サタンは何を望みましたか?彼は、神のように人々から崇拝されることを望みました。彼は神になろうとしたのです。そうすると彼がすることは、本来ならば創造主のみに向けられるべき崇拝を自分に向けようとするのです。そうすると、こういう天使崇拝とか、ありとあらゆる神以外のものを崇拝する、その行為の背後に存在しているのは何なのか、明らかです!サタンがしたいことはみんなが創造主の方に向かないことです。創造主を信じてその創造主を崇拝しないことです。神でないものを神として崇拝するようにとサタンは誘惑をするわけです。そして、この神秘主義者たちは明らかにそういった天使を崇拝する人々であったとパウロは教えます。

(3)幻を見たことに安住していた  18節

 幻とは、特別な超自然的な経験、体験です。自分達の見たことそれを細かく調べたのです。つまり、この人たちは聖書を細かく調べて行ったのではなくて、自分達が見たこと、経験したこと、体験したこと、そういうものに関心を持って心を開いて行ったのです。皆さん、こういう動きというのは、つまり聖書ではなくてそういった経験とか体験に重きを置くような動きは、キリスト教の歴史の中で繰り返されています。この日本でも1980年から90年にかけて、「第三の波」とか、「力の伝道」と言われるような聖霊運動が入り込んで来ました。その指導者の一人は、米国のカリフオルニア、ロサンゼルスの牧会者であるジョン・ウインバーという人ですが、この人が書いた「力の伝道」という本は、多くの人々に影響を与えました。どのようなことを彼は記しているのか、これは「混迷するキリスト教」の中からの抜粋ですが、「第三の波は劇的なしるしや不思議がこの運動の神性性を示すと言う。奇跡的現象が第三の波の信条の核心である。第三の波は、奇蹟、幻、異言、預言、癒しが福音に必須の付加と確信する。これらを伴わないキリスト教は不能であり、西洋的な物質主義的意向に毒されたものと見る。」と、彼が言ったことは、劇的なしるしとか不思議が必要だということです。奇蹟、幻、異言で話すとか、預言するとか、癒しが福音には必ず附加されなくてはならない、それが伴っていないキリスト教は不能であると。考えていただきたいのはそれは聖書の教えですか?そんなことを聖書が言っているのですか?また彼は、「しるしと不思議は第三の波伝道の鍵だ。ある第三の波は、未信者が十分な信仰を持つには奇蹟的なことを体験する必要があるとさえ言う。単なる福音のメッセージを語ることでは世界をキリストに至らせることは出来ない。彼らは、たいていの人は奇蹟を見ずに信じることはない。見ないで信じる人は回心が不適切で霊的成長が止まると言う。」。奇蹟的なことを体験しなければその人の信仰はおかしいと言う、奇蹟を見ないでは人は信じない、奇蹟を見ないで信じた人のその信仰は不適切で成長なんてそこにはないと言うのです。考えていただきたいのは、こういうことを聖書が教えているかどうかです。また、彼らはきっぱりと聖書の充足性を否定します。聖書だけで十分だという考えを否定するのです。彼らは、神様は今日も教会に新しい啓示を与えると教えています。聖書はまだ完成していない、まだ神様の啓示はいっぱいあるのだと、そんなことを聖書が教えているでしょうか?

 ジョン・ディアーという牧師はこの運動の中で大きな役割を示す神学者の一人です。彼は元々牧師であり、しかもダラス神学校で教鞭をとっていた人物です。この人物がこの第三の波の運動の神学的指導者の一人となりました。彼が1920年にシドニーで行われた「霊的戦い会議」で配った印刷物の中に次のようなことが記されています。「私達の人生に対する神の最高の計画を成就するためには、書かれたことばと、天から新たに語られるみことばの両方から神の声を聞くことが出来なければならない。」と。 

神様の最高の計画を成就するためには、書かれたことば、つまり聖書とプラス天から新たに語られることばの両方からこえを聞かなくてはならないと言うのです。彼は聖書の充足性の教理は悪魔的だと言います。そんなことを聖書は教えていますか?こういった考え方が日本にも入り込んで来て、こういった考え方を信じている著名な牧師、宣教師、神学者がいっぱいこの国にはいるのです。こういった本がどんどん翻訳され出版されて、書店に並んでいるのです。信じられないことと思われるかもしれません。でも、これが現実です。クリスチャン新聞をご覧下さい、そこにはこういった運動の広告がいっぱい出ています。「リバイバル甲子園ミッション」というものが、かなり前に甲子園で行われました。たくさんの人々がその働きに加わりました。私たちは加わらないとその時皆さんに話しました。何故か、こういう考え方の影響を受けているからです。聖書だけでは不十分、何か特別の体験が必要と、人々はどんどんそういうものを追い求めるようになって行くと、今、そうなっています。パウロが言ったように、この教会に入り込んで、人々を惑わしている偽りの教師たち、彼らの関心はみことばではなくて、それ以外のものでした。 

(4)肉の思いによっていたずらに誇り  18節

 肉、罪の性質です。彼らの自慢はそういう肉の思いしかなかったのです。彼らは自慢し合っていたのです。どんな体験をしたか、どんな経験をしたかと…。ですから、こういう教師たちに共通していた事は、見かけは謙遜であったかもしれない、しかし、心の中は人を見下していたり、高慢な心の態度があったのです。皆さん、シカゴのムーデイ教会の牧師であったウオーレン・ワーズビーは、「真の礼拝は常に人を謙虚にする」と言っています。そう思いませんか?私達が神の前に立つ時に神様が私達になさる事は、我々のみにくさをこれでもかと示されます。なぜ、このような者が神によって生かされているか? なぜ、こんな者をここまで愛を持って扱われているか? 驚かされる事ばかりです。神様のみことばを通して私達は自らの罪深さに気づかされます。その時、私は一体何を人の前で神の御前で誇りとするのだろうと思います。なぜなら、自分の本当の姿を見、そして、神様がどんなお方であるかが見えるほどに、私達がこれまで誇って来た事がいかに空しいものであるかが明らかになって来ます。私たちの財産なんて神の前には虚しいもの、それは永久に続くものでもない、私たちの仕事なんてあっという間に終わってしまう、私たちの持ち物、学歴にしても、みんなはかないものです。一時的な、本当にあっという間に過ぎ去ってしまうものです。パウロは神の前に立つ時に、神様がどんなに偉大な方かと教えられる度に、この方に対する恐れが彼の心の中に芽生え、それが強くなって行きました。彼は、神様を知るほどにいかに自分が罪深いかが示され、彼は心から自分は罪人のかしらだと叫ばずにはおれなかったのです。そして同時に、彼はそこで止ったのではなく、神様、なんでこんな罪人のかしらをここまで愛して下さるのですか?と、彼の心は神に対する感謝と愛によって満たされて行きました。そして同時に、パウロはではどのようにして私はこの神に対して、私の感謝を現わして行こうかと、それが彼の意志に働いて、行動に出て行ったのです。神様のために一生懸命生きたのです。神様の為に忠実に生きて行こうとしました。

ですから、神の前に正しく立つ者、神様を正しく知っている者は、間違いなく神様によってより謙虚な者にされて行きます。これまで誇って来た事が全く虚しいものだと気付かされる事によって、「誇るはただキリストの十字架」とパウロが言ったように、まさにそんな者に私たちは変えられて行きます。ところが、この神秘主義者達は自らの体験とか、自分の事ばかり自慢するのです。本当に自慢すべき存在は神のみです。こんな者を愛して下さって救ってくださった、この神様が私達にとっては誇りです。ところが、この神秘主義者たちがした事は、神を誇るのではなくて自らを誇るのです。どちらが偉いか? どちらが立派か?そんなくだらない事ばかり、肉の思いによっていたずらに誇っていたのです。

(5)かしらに堅く結びつくことをしない  19節

 かしらとはキリストの事です。かしらに結びつくことをしない、キリストの方に行こうとしない、神様の方に行こうとしないのです。もちろん、今まで見て来たように、彼らの関心は神のおことばではなく、彼ら自身が経験し体験したことです。だから、彼らは真理に到達する事はありません。彼らの致命的な問題はすべての源であるキリストに結びつこうとしないことです。キリストを離れて生きて行こうとする、だから、彼らには救いも、また、成長もないのは当然のことです。枝が幹から離れて生きることができないように、私たちも頭から離れたからだがそれだけで生きることはできないのです。ジョン・マッーカーサー先生はこのようなことを言われます。「人間の性質には客観性から主観性に移行するという傾向がある」と。私たちが客観性に物事を見る事が出来れば素晴らしいことです。全ての事に対して。これが本当に神様のわざなのか、何が神様に喜ばれる事なのか。客観的に物事を見る事が出来るなら…。

しかし、私達はいろんなことを通して主観的に見てしまいます。他の人がどう思うかとか、聖書がたとえどう言おうと、私が経験した、私が体験したから…と。このようなことはいっぱいあります。

マッカーサー先生は「混迷の中のキリスト教」の中で「カリスマ運動は主として霊的成熟の近道を約束することで成長して来た。カリスマ運動の最大の魅力は、常に信者に力や理解や霊性が体験により直ちに得られ、通常の成長のプロセスにつきものの時間や苦しみや戦いは不要であるという事だった。」と記しています。 すぐに成長しますよ、すぐに霊的に大人になりますよと、そうすればみんなそういったものに関心を示すでしょう。何故なら、信仰の成長には時間がかかるものです。それはイヤだという人には好都合です。そして、人々はそういう体験に走って行くのです。癒しや異言に人々は関心を示して、それらがみことばよりも重要になって行くのです。約2千年前にこういった事をパウロが警告しました。神秘主義の人達がいろんな方法をもって、人々がみことばから離れるように、離れるようにとして行くと。そして、今私たちが住んでいるこの日本でも同じ事を見ます。まさに私達の周りで行われていることです。「かしらに堅く結びつくことをしない」のです。

皆さん、全てはここから始まるのです。キリストに結びつく事によって全てが始まるのです。救いも、成長もそこから始まるのです。 ヨハネの福音書15:1-5で「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と、イエス様がおっしゃったように、私達がたましいの救いを頂く為に必要なのは、この救い主であるイエス・キリストにつながる事です。枝だけが存在しても、それが幹につながっていなければ、栄養分をもらえないし実を結ぶことはできません。私達も神様の祝福をもらう為には、真の神様につながらなくてはならない、キリストにつながっていなければなりません。イエス・キリストを救い主として受け入れる、その信仰によって私達はキリストとつながるのです。罪が赦されるのです。そして、罪が赦された私達はこのキリストにつながり続けて行くのです。

19節の後半に「このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」とあります。パウロが言った事は、かしらに結びつく事、つまりキリストに結びつく事によってその人の信仰は成長するということです。 ちょうど体が関節と筋によって養われ結び合わされて成長するように、信仰もそのように神様によって成長するのだとパウロが言っています。ところが、こういった神秘主義者達は、人々が成長するのに必要な神様のおことばというものに目を向けないように、みことばから離れるように離れるようにと誘惑したわけです。私達が成長して行く為に必要なのは聖書だと言うことを皆さんご存知でしょう。神様は私たちの信仰の成長に必要な二つのものを与えてくれています。一つは、今手にしている聖書のみことばです。Ⅱテモテ3:15-17には「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」と、パウロは聖書は救いを与えると言います。聖書をしっかり見ることによって、私たちは救いを得ることができると。そして、このテモテは幼い頃から聖書に親しんできたと、すばらしいことです。「:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」と、私たちの成長のために有益だと言い、17節には「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」とあります。 ペテロもⅠペテロ2:2で「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」と言ったように、確かに、みことばは私達信じる者に救いを与え、みことばに従う者に成長をもたらすものです。そのことをパウロもペテロも教えてくれるのです。

 ですから、あなたが成長する為に必要なものは神様がちゃんと備えてくれています。みことばを学ぶ度に、私達がどのように歩んで行ったら良いかを神様によって示されます。そして感謝なことに、それを実践して行く力も神様が備えてくれています。聖霊なる神様を私達の内に与えてくださったのです。

そうすると、私たちの信仰が成長する為に必要な神様のおことばが与えられ、それを実践する為に必要な力である聖霊なる神様が与えられています。そして、もう一つ必要なことは、私達自身がその事を望むことです。あるクリスチャン達は、神様が私の心を変えることができるのなら変えて見なさいと、そんな態度を取っているクリスチャン達がいるわけです。神様のみことばを学んで、そしてみこころを知って、そして、どうぞ神様それを私がしたいと思うように私の心を変えて下さいと、祈りをするのですが、その前に自分自身に問いかけなければならないのは、神様の命令に私自身が従って行きたいかどうかです。私の心は従って行きたくありません、だから、この従って行きたくない心を変えて下さいと、そんなことを祈る事自体に問題がありませんか? 神様、私は疲れていて会社に行くような気分になれません、行きたくありません、だから神様行きたいという気分になるように私の気分を変えて下さいと、そんなことを祈っていたら、家族の人は言うかもしれません。「そんなことせずに早く行きなさい。」と。そんなことの為に私たちは祈りません。しなければならないことを私たちはするはずでしょう。でも、信仰になったら別なのです。私自身が選択して行かなければ、決心して行かなければ私自身がそのように歩んで行かなければならないのです。ところが、全部他人まかせです。神様そんな気持ちになれるように助けて下さいと…。信仰が成長する為には、「神様、私は成長したいです。私は増々あなたに喜んで従って行きたいです。感謝です、あなたが助けを下さってことを、どうぞ私を導いて下さい。」と、 私達の選択、そのように決心することが必要なのです。神様は私達の信仰が成長する為に必要を備えて下さっている、そして、私達には残されているものがあります。それは私たち自身がそれを選択するということです。残されているのは私たち自身の選択です。

2)神秘主義者の目的

 さて、今日、私たちはこの神秘主義者達のことを見てきました。彼らは、私達がみことばから離れるように離れるようにと働くと見てきました。彼らは何が目的なのでしょうか?それは18節の中程に「…ほうびをだまし取られてはなりません。」とあります。つまり、彼ら、偽りの教師達の目的というのは、忠実に主に従っているクリスチャンがそのような歩みをしないように、止めるようにと誘惑するのです。クリスチャンの忠実な歩みに対する神の称賛を奪おうとするのです。なぜなら、あなたが神様に対して忠実に歩み続けて行くならば、あなたは神様の栄光を現わし始めて行くから、そうなるとやっかいになるからです。神様の素晴らしさが周りに明らかにされて行く、だから、あなたが忠実に歩まないようにと働くのです。あなたがみことばから外れて他のものに目を向けることは、まさにサタンの思うつぼなのです。何故そう言えるか、パウロはⅠテモテ4:1でこのように警告して行きます。「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」と、すでに見て来たように、サタンがしたいことは、私たちが神様のそのみことばから外れるように、神様のみことばに従うのではなく、私達自身の常識や、一般的な知恵とか、人間的な考えとか、また見たこととか、体験したものとかそういったものに私達が関心を向けて行くようにと働くのです。そして、もし私達が神様に対して忠実に歩むことをやめてしまうのならば、彼らの思うつぼになり、私たちは神様からのほうびを失うことになります。クリスチャンである皆さん、今歩んでいらっしゃるように忠実に歩んで下さい!このレースは終わろうとしているのです。何十年も続くわけではありません。今やめたらダメです!止ったらダメです! 忠実に走り続けるべきです!

16世紀に宗教改革が起こりました。その時に五つの大切なスローガンがありました。その中の一つ、「みことばだけ」です。何故彼らがそれを掲げたかと言うと、その当時のカトリック教会は大きなまちがいをしていたのです。彼らは、クリスチャンの伝統を聖書と同様に権威あるものとしていたのです。そこで宗教改革者たちは、「みことばにだけ権威があるんだ!”我々は人間の考えとか人間の伝統に従うのではなく、みことばだけに従う。」というスローガンを掲げたのです。今の私達のこの国にも同じことが言えます。私たちがすべきことは、神様のことばに戻って行くことです。私達の教会にあって、牧師だけでなく、教会学校の教師達も含めて、教師達が誓うべきことはまさにこのことです。みことばだけを伝えるのです。

パウロはⅡコリント2:17で「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」と言いました。神様のおことばに混ぜ物はしない、神様のおことばに私たちの考えとか、意見とか私たちの経験とかはどうでもいいことです。権威があるのは神様のことばだけなのです。人間にはないのです、教会にもないのです。神のことばだけにそれがあるのです。それが私たちの信仰です。それが私たち教師達が神の前に誓うべき誓いです。私の信仰ってどうなのでしょう? 聖書に戻って下さい!聖書は明確に、イエス・キリストを信じる信仰によって救われると教えているのです。そこに立つことです。 私の信仰の成長はどうでしょうか?みことばに立つことです。神様の下さった、神様のおことばであるこのみことばをしっかりと学び、聖霊なる神の助けによってそれを実践して行くことです。その時に、あなたは変えられて行く、あなたが変えられて行くことによって、周りが変えられて行くのです。そして何よりも、私たちを変えて下さっているキリストの栄光が現わされて行くのです。こうして私たちは生きて行くのです。これが神様のおことばが教えていることです。人間の考えとか、教えとか不思議なわざに私たちは目を止めてはならないのです。不思議なわざは悪魔でもなすことができます。私たちが常に吟味するべきこと、その物差しはここにあります。聖書にしっかりと立って生きることです。それが、パウロがこのコロサイの教会の人々に語っていること、そして、今の私たちにも語ってくれていることです。感謝なことですね、神様がみことばを下さったことは。感謝なことです、聖霊を下さったことは。それなら、そのみことばが教えるように歩んで行きましょう!それが、神が私たちに期待しておられることだからです。

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