礼拝メッセージ要約

Assisting the study of God's Word

2006/06/25 礼拝メッセージ

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Messenger: 近藤修司
Passage: コロサイ2:16-17
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06/06/25  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

主  題:偽教に惑わされるな6

聖書箇所:コロサイ人への手紙 2章16-17節

 イギリスの作家C・S・ルイスが書いた小説で、日本語のタイトルで「悪魔の手紙」というのがあります。悪霊のかしらがその手先に手紙を送るのですが、その中にこのようなものがあります。「もし、人が卑しくもキリスト者になるなら、我々が望むことは、彼らをキリスト教プラスαと私が呼ぶ精神状態にしておくことである」、小説ですが非常に興味深いことを言っています。悪霊のかしらがクリスチャンに惑わしをしている悪霊の手下に対してこのようなアドバイスをするのです。彼はキリスト教と神癒、心理学、キリスト教と心霊研究など、キリスト教プラスαという状態に保つべきだと言うのです。彼らがどうしてもキリスト者になるというなら、少なくとも何か一味違ったキリスト者にさせなさい、信仰そのものの代わりに、キリスト教の色がついた何かの流行と置き換えなさいと言います。まさに、このようなことを私たちはこのコロサイ人への手紙を通して学んできたのです。コロサイの異端、コロサイの偽りの教師たちがしてきたことは、まさにそうでした。イエス・キリストを信じるだけでは不完全だ、聖書だけでは不十分だと、これが彼らがこのコロサイの教会や、その周辺の町々、ラオデキヤやヒエラポリスの人々に対して教えていた内容です。そこで、パウロはこのような様々な間違った教えによって混同していたクリスチャンたちに、真理を教えて彼らの信仰を正しく導き成長させようとしたのです。 

私たちがもうすでに見て来たように、救いに関して絶望的であった私たちを、神は一方的に赦してくださって、救いを与えてくださいました。イエス・キリストの十字架は人類の希望であり、神の勝利宣言です。前回は、2:14から、神がイエス・キリストを信じる者にどんなことをしてくださったか、パウロが教えていることを見てきましたが、四つのことばに注目しました。「:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」、(1)債務証書を無効にされた=拭い去る、ふき取るということです。羊皮紙に書いたものをスポンジでふき取るときれいに消えるように、神はイエス・キリストを信じる者の罪を完全にふき取ってくださったというのです。(2)債務証書を取りのけ=私たちを責め立てていた債務証書を私たちの目の届かない所に神は片付けてしまわれた、もうそれはあなたと無縁だと言います。(3)証書を十字架に釘づけにされた=もうこれは終わった、かつてはその証書が私たちに、あなたは負債を負っている、あなたは罪があるゆえにさばきに服しなければならないと私たちを訴えていたが、神はその証書を十字架に磔にしてくださって、もうこれは清算済み、解決済みとしてくださったのです。(4)すべての支配と権威の武装を解除して=ローマ軍が敵に勝利したとき、彼らは捕虜を見世物として引き連れて町を行進しました。そのことをもって、神はもうサタンに対して、サタンに従う悪霊たちに対して、敢然と勝利された、そして、その勝利の行進に彼らを捕虜として連れて来ていると、そのようにパウロは教えたのです。

ということは、イエス・キリストを信じたときに、私たちの罪は完全に永遠に赦されたのです。生まれながらに私たちは自らの罪ゆえに永遠のさばきに向かっていました。私たちは「死」という力にどうしても打ち勝つことができなかった、しかし、イエス・キリストが私たちのために十字架で死に、死からよみがえってきたことによって、このサタンに対してこの罪の永遠のさばきに対して永遠の滅びに対して、神は完全な勝利を信じる者に与えてくださった、私たちは滅びないのです。永遠の地獄に行かないのです。神の恵みによって罪赦された私たちには、永遠のすばらしい祝福が約束され、それが私たちを待っているというのです。だから、クリスチャンである私たちはもっと喜ぶべきです。こんなにすばらしい救いをいただいたのです。しかし、何度も見て来たように、サタンにとってみると、救われた私たちクリスチャンが喜んでいるというのは、我慢ならないことです。この世界に、クリスチャンが喜び感謝して、神の与えてくださったその救いを誉め称えている様な、そんな社会になっていったら大変です。だから、彼らがしようとしていることは、先ほど見たように、キリスト教プラスαの信仰者にしようとするのです。つまり、イエスを信じるだけでは何か足りないのではないか、信仰生活においても、イエスを信じてみことばに従って行くだけでは何か足りないのではないか、もっと何か要るのではないかとそのように思わせて、そのようなものに引っかかったクリスチャンたちは、見事に神が約束してくださったすばらしい喜びを失って、喜びと感謝のない歩みをするのです。それこそ、彼らの思うつぼです。パウロはそのことをよく知っています、サタンが何を望んでいるのか、何をしようとしているのかと。パウロが私たちに望んでいること、これは2000年前も今も変わりません。イエスを信じておられる皆さん、あなたに必要なことは、しっかりとこの神のすばらしい救いのみわざを覚え続けることです。どんなにすばらしい神の愛によってあなたは罪赦され救われたのか、そのことを決して忘れてはならないと、パウロはここでも繰り返し教えてくれるのです。

パウロは特にこの16節から、この当時の教会の中に入り込んで人々を惑わしていた三つの偽りの教え、偽教を明らかにすることによって、そして、彼らの間違いを上げることによって、人々に警告を発しています。その間違いの教えを明確にすることによって人々に警告を発しているのです。私たちは今日からそのことを学んで行きます。

☆当時の教会に入り込んでいた三つの偽りの教え

1.律法主義

 16-17節「:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」

1)律法主義者たちは律法を守ることが重要だとした

繰り返すことですが、是非頭に入れておいてください。偽りの教師たちは教会の中に入り込んで、人々を惑わそうとしたのです。彼らがしようとしたことは、イエスを信じるだけでは不十分だということです。彼らが言おうとしたことは、信じるというその信仰だけではだめで、律法を守ることが必要だといったのです。というのは、律法主義の人々は、救いにおいてもそうだし、信仰生活においても、律法を守るという行ないが必要であることを強調したのです。律法を守っていたら救いに与るでしょう、律法を守らなければ信仰は成長しないと、それが彼らが強調し教えたことです。彼らは言います、それは神の命令である、聖書はそのように教えていると。確かに、この食べ物や飲み物に関しては、何を食べていいか、何を食べてはいけないか、何を飲んでいいか、何を飲んではいけないか、そのことは旧約聖書の中に記されています。レビ記11章、申命記14:3-21にそのことが書かれています。ですから、確かに、旧約聖書の中には食べ物、飲み物に関して教えがあります。

また、祭りや新月、安息日に関する教えも旧約聖書の中に記されています。16節で言われている「祭り」とはどういうものかというと、これは、毎年お祝いした恒例の祭りでした。1年に一回の祭りです。どういうものがあったかというと、「過越の祭り」、皆さんもよくご存じです。イスラエルの民がエジプトで奴隷になっていたときに神が約束されました、そこからイスラエルの民を連れ出そうと。最後に神が行なわれたわざは、門柱とかもいに羊の血が塗られている家の初子は殺されないが、塗っていなければその家の初子は家畜に至るまで殺されると、そして、その通りのことが起こったのです。血が塗られた家は過ぎ越そうと、イスラエルの人々はこれ以降、その時のことを思い起こしながら、この過越の祭りを祝い続けたのです。また、彼らは年に1回、「7週の祭り」というものを祝いました。それは、過越の祭りの後50日目に行なったのです。そこで、その祭りのことを第7週の祭りとか、ペンテコステと呼びました。第50という意味です。使徒の働き2章にペンテコステが出てきますが、それはキリストの復活後50日ということで、ペンテコステと言われたのです。また、「仮庵の祭り」というのもあります。イスラエルの民がエジプトの地を出てきて、彼らが神の前に罪を犯したゆえに彼らは40年間荒野をさまよった、その放浪を記念して彼らは仮庵の祭りを、今でも祝っているのです。このように毎年祝っている恒例の祭りは、レビ記23章に出てきます。

また、「新月」とあるのは「新月祭」です。これは毎月祝います。民数記28:11-14にそのことが出てきます。そして、三つ目が安息日です。安息日は毎週、この日を聖なる日として祝ったのです。ですから、毎年恒例の祭り、毎月行なう祭り、毎週行なう祭り、その三つの祭りがここに記されているのです。安息日というのは、神が創造のあと七日目に休まれたというその神の安息から、また、奴隷の身分からイスラエルの民が解放されたその記念のために、この日を聖別したのです。ですから、確かにこのように聖書に書いてあるではないかと律法主義者たちは言います。彼らは、イエスを信じるだけで救われると確信していた人々、また、信仰生活においても神の恵みによって、みことばに従えばよいのだ、イエスは霊的成長に必要なすべてのことを満たすことができると確信していた人々に対して、彼らを非難したのです。このように聖書が教えている律法を無視するあなたたちはおかしいと、人々を責めるのです。それが、コロサイ2:16の後半に「だれにもあなたがたを批評させてはなりません。」と記されているのがそのことなのです。「批評させてはならない」とは、さばかれてはならない、非難されてはならない、咎められてはならない、という意味です。つまり、そういうことを人々はしていたのです。あなたたちは間違っている、律法を守らずにどうして救いを得ることができるのか、神のおきてを守り行なうことなくして、どうして信仰の成長があろうかと。ですから、その当時の様子を少しうかがい知ることができます。このような状況にあったのです。そこで、パウロは彼らが間違っていることを明かにするのです。確かに、旧約聖書の中には食べ物に関して、飲み物に関して、様々な祭りに関して、教えがあります。では、なぜ今の私たちはそれを守らなくてもいいのでしょう?

2)今の私たちが律法を守らなくてもよいとする、その理由

(a)これらの律法はイスラエルの人々に対して与えられているから

その理由の一つは、これらの律法はイスラエルの人々に対して与えられているのです。パウロはイスラエルの人々が救いに至ることを心から願いました。しかし、人々はなかなか心を開こうとしません。パウロがイスラエルの人々に対して言っている箇所、ローマ9:4を見てください。「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。」とあります。律法は彼らに与えられたものなのです。なぜでしょう?それは、彼らが神によって選ばれた国であることを示すためです。確かに、イスラエルは選民です。選ばれた人々、選ばれた国です。かといって、すべての人々が救われる保証はどこにもありません。救いはイエス・キリストによるのです。救いは神によって、その恵みによって与えられるものです。それは変わっていません。しかし、神はこの国民を選ばれ、この国民に律法を与え、そして、この国民が他の国の人々と全く違う生き方をすることによって、神に選ばれたことを明らかにしようとしたのです。そういう目的をもってこの国の人々を選び、この国の人々に律法を与えられたのです。ですから、私たちがしっかり覚えておくことは、確かに、聖書には記されているけれど、それは私たちイエス・キリストを信じるクリスチャンたちに対して命じられたものではないということです。それが証拠に、新約聖書の中を見て、今私たちが見てきたように、これは食べてもよい、これはいけない、これを飲んでもよい、これはいけないという教えがいったいどこに出ているでしょう?皆さんが料理をするとき、聖書のレビ記を開いてこの食材はいいだろうか?と考えたりはしないでしょう?新約の今の時代にあって、神は私たちがすべてのことを感謝していただくようにと教えているからです。Ⅰテモテ4:3b-4にパウロはこのように教えています。「しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。:4 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」と、つまり、みことばが教えていることは、私たちクリスチャンは与えられている食べ物を感謝するということです。食事の前に祈るのはその感謝の現われです。クリスチャンはすべてのものを感謝していただくのです。もちろん、そこにはルールがあります。確かに、神は私たちがすべてのものを喜んで感謝していただくようにと教えてくださっています。旧約のイスラエルの人々に与えられたような、何を食べてもよい、何を食べてはならないという、そういう教えは私たちには適用されません。しかし、私たちにもルールがあることを忘れてはならないのです。

食べ物、飲み物に関しての神のルール

(1)兄弟につまずきを与えない

Ⅰコリント8:13を見てください。「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」、パウロは、何を食べてもよいけれど、それが信仰の弱い兄弟姉妹たちのつまずきになるなら止めておきなさいと言います。私はそのようなことはどうでもいい、好きに食べていいのだから自分の好きに食べますというのは、愛に基づいた行為ではないのです。だから、私たちクリスチャンは人々のつまずきにならないように、配慮するのです。

(2)兄弟の信仰成長に役立つように

 Ⅰコリント10:23-24「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。:24 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」、一つ目と関連していますが、何をしてもよいけれどあなたが心がけなければいけないことは、それによって人々の信仰が成長することだと言います。私たちが何かしようとするとき、人のつまずきにならないように配慮することが大切だし、私たちのすることが人々の信仰を成長させる助けになるように、そのことを考えてすることが大切だと言うのです。

(3)兄弟をさばかない

 ローマ14:1-4「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

 14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」

自分と同じでなくてもいい、人をさばかないようにと言います。よく私たちが失敗するのは、皆が自分と同じであってほしいとすることです。しかし、みことばが教えることは自分と同じでなかったからといって彼らをさばいてはならないということです。

(4)すべてのことを神の栄光のためにしなさい

 Ⅰコリント10:31「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」、これがルールです。

 そうすると、食べ物に関して、飲み物に関して、神は、私たちは何をしても構わないけれど気を付けなければいけない、つまずきにならないように、それが兄弟の成長を妨げるようなことにならないように、却って、彼らの成長を助けるように、そして、それによって人をさばくようなことがないように、あなた自身がしっかり考えて神の栄光を現わす、つまり、神が喜んでくださることをしなさいと、そのように言われているのです。よく私たちはこの食べ物や飲み物に関して、いろいろなことを考えます。たとえば、アルコールはどうでしょう?聖書が私たちに教えることは、アルコールに支配されてはならないということです。つまり、アルコールがなければやって行けない状態はアルコールの奴隷です。それは間違っています。しかし、私たちクリスチャンが考えるべきことは、神はあなたにその責任を託してくださったということです。あなたは自分の神に対する責任として、私はこれを飲むことによって神の栄光を現わすことができると思うなら、そうすることです。いずれ、私たちは神の前に立つのです。このことについてはパウロがこの後教えているので、また学んで行きますが、今、覚えておくことは、私たちの中には、ちょっとアルコールを口にするだけでその人は罪を犯したように思ってしまう人がいますが、果たしてそうでしょうか?みことばが教えることは、それによって弱い兄弟がつまずくなら、それは間違っているということです。また、自分の中で神の栄光を無視して、自分の望みを満たしたいためにアルコールを口にするなら、それも間違っていることは分かっています。しかし、もしあなたがつまずきにはならない、神の前にこれは間違っていない、神が喜んでくださると確信するなら、あなたの信仰に応じてそれをすることです。神が私たちに教えておられることは、どのように選択するか、その責任があるということです。神が私たちに望んでおられることは、私たちが心から神の前に正しいと思うことを選択してやって行くことです。アルコールを口にしたからといって地獄に行くことはありません、永遠の滅びに至るわけでもありません。私たちが考えなければいけないことは、それによって神の栄光が現わせるかどうか、それによって選択するのです。

 いろいろな国に行くと、それぞれの国にいろいろな習慣があります。ヨーロッパに行くと、そこのクリスチャンたちは皆ワインを飲みますが、皆よく分かっています。水を入れて飲む人もいるし、私たち外国人がいると、つまずきになるからと飲まない人もいます。何のために私たちはするのか、よく考えることです。神に喜んでいただくためにするなら、それは神は喜ばれることです。私たちにはそういう責任があるということを教えているのです。気を付けなければいけないことは、聖書がいっていないことを振りかざして、これはだめだ!とするなら、それが律法になってしまうのです。なぜなら、律法主義者たちはそうだったのです。私はこういうものを食べていないから、食べているあなたたちに比べて霊的ですと、その態度は間違っていたのです。

心の動機が大切

 食べ物、飲み物に関して教えているだけでなく、「日」に関しても、パウロはローマ14:5-6でこのように言っています。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」、ある人はこの日が非常に重要だ、この日は特別の日だと言います。しかし、パウロが教えていることは、私たちが何を行なうかよりも、どのような心でそれを行なっているかが大切だということです。先ほども見たように、食べ物飲み物に関して、私は私の考えがある、私はこのようにしようと自分の中で決めているものがある、もし、それを人に押し付けたなら律法になるかもしれません。大切なことは、それぞれが神の前に正しいと確信することを自分の心からやって行くことです。この日が特別な日だと思うなら、心からその日を守ることです。

 何を食べるか、何を飲むか、この日を守るか、守らないか、そのようなことよりもっと大切なことがあると言うのです。どういう思いでもってそういうことをしていないのかしているのか、どういう思いでその日を守ろうとしているのか守らなくてもいいとしているのか、つまり、私たちの心です、そこが私たちがしっかり目を留めなければならないことだというのです。律法学者たちは、心はさておいて、そのような行為だけを強調したのです。行為が彼らの関心だったのです。パウロはそれより心が大切だ、心に目を向けなさいと言います。ですから、このような律法は私たちは守る必要はない、先に見て来たように、それはイスラエルの人たちに与えられたものです。私たちには自由が与えられている、しかし、その中にはルールがあるのです。心から、主が喜んでくださることを考え、選択し、行ないなさいと。

(b)律法は影であるから

 二つ目に、律法を守らなくてもいいとする理由は、コロサイ2:17でパウロはこう言っています。

「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」と。律法は影だと言います。影であって実体ではないと。ヘブル10:1でこの著者は影についてこのように言っています。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」と。つまり、律法というのは、どんなに一生懸命守ろうとしても、その行ないによって、彼らが願っている罪の赦しや救いを得ることは有り得ないと言っているのです。律法は私たちに、私たちが神の基準からどれほど逸脱しているかということを悟らせてくれます。神の基準から余りにも自分は外れているということ、救いが必要だということを悟らせてくれます。しかし、律法をどんなに頑張って守ろうと努力しても、私たちは神が要求しておられる完全なきよさに到達することはできません。つまり、行ないによって救われる人はだれもいないということです。律法はあなたを救いへと導いて行くことはない、影だから…。この実体があなたを救いへと導いてくれるのです。ですから、今見て来たように、食べ物、飲み物、祭りのこと、このような律法というのはみな、人々をキリストの方に目を向けさせようとしたのです。なぜなら、律法を一生懸命守りますと私たちが決心しても、行き着くところはいつも、だめです、できません、失敗しました、無理でしたと、その繰り返しです。つまり、律法が私たちにしようとしたことは、あなたの力では神が受け入れてくださるような完全なきよい者になることはない、神の助けが必要だ、神のあわれみが必要だと、だから、人間は自分の限界に、自分の罪深さに気付いたときに、神のところに助けを求めて行くべきなのです。律法ができたことは人が神の方を向くようにとすることでした。

 食べ物に関しての律法、一生懸命これを食べないでおこうとしても、望んでいる永遠のいのち、罪の赦しを得ることはできなかった、ところが、イエスが来られたときイエスはこう言われました。ヨハネ6:35「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」と、律法の食べ物に関する教えは、私たちに私たちは罪深い者であることを悟らせてくれた、では、イエス・キリストは「わたしはそれを悟らせるだけではない、あなたたちに救いを与えよう」と言われたのです。なぜなら、律法は影なのです。実体ではないのです。実体はキリストです。キリストこそ人々が待望していたもの、律法が示しているものを私たちに与えてくれるのです。わたしがいのちのパンだ、わたしがあなたたちに永遠のいのちを与える、律法は私たちにそのことを悟らせてくれるだけでした。イエス・キリストは悟らせるだけでなく、そのいのちを与えてくれるのです。

祭りに関してはどうでしょう?同じです。一生懸命その祭りを守れば救いを得るのではないか、律法は「無理だ」とします。イエス・キリストがこの世に来られたときに、パウロはこのようなことをこのキリストに対して言います。Ⅰコリント5:7「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」、なぜ、パウロはここで「過越の小羊キリスト」ということばを使っているのでしょう?彼らが過越の祭りを一生懸命守り通して来ても、その行ないによって救われることはないのです。しかし、このイエス・キリストがいけにえによって、ご自分のいのちを捨てるというその行為によって、信じるすべての人を救ってくれるのです。彼らが安息日を守ったのはどうしてだったでしょう?神が創造のみわざを終えられて休まれたからです。でも、安息日をどれほど守っても、彼らが一番望んでいた神の休息に入ることはできなかったのです。だから、ヘブル4章で著者は言います。4:1,3「:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。:3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」と、律法は私たちに道を示してくれました。しかし、私たちが一番求めている救いを与えることはできなかった、この実体であるイエス・キリストが与えてくれたのです。ですから、パウロが言いたかったことは「その影をいつまで追い続けるのか、いつまでその影を重要視するのか、もう実体は来られたではないか、救いが必要なことを示してくれる、それはすばらしいが、それだけではどうにもならない、救い主が来てくれた、この方があなたに救いをくれる、本当の安息をくれる、そこに目を向けなければいけない」ということです。

そして、律法は私たちの心を変えることはできません。影が私たちの心を変えることはできないのです。パウロはⅠコリント8:8で「しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。」と、何を食べるか食べないか、それによってあなたは神に近づくのではないと言うのです。律法をどれほど一生懸命守っても、それはあなたの心を変えることはないのです。本当の信仰、それは形だけのものではありません。心の伴ったものです。そのことがこの偽善者たちが分かっていなかったことです。彼らは、神のすばらしい救いの恵みに、人間の行ないを加えようとしたのです。何をしたのでしょう?彼らは、神はこのイエス・キリストを救い主と信じるだけであなたの罪を赦すと言ってくださった、こんなすばらしい救いを神は私たちに与えてくださった、それに対して、律法主義者たちは「ああ、それだけでは不可能です、行ないが要るのです。」と、つまり、彼らは神のメッセージに対して、それは間違っていると言っているのです。これはどれほど大きな罪でしょう?そして彼らは、神のすばらしいこの恵みを、この価値を、下げてしまったのです。彼らは恵みに混ぜ物をしたのです。純粋な神のこのすばらしい救いのみわざ、人間の手を全く借りない、神が一方的に罪人である私たちを救ってくださるというこの神の恵みに、人間のそのような行ないを加えて混ぜ物にして、そのすばらしい救いを汚してしまったのです。だから、パウロは「こんな教えに耳を傾けてはならない」と言うのです。信仰プラス行ないという、そのような間違った教えに耳を傾けてはならないと。パウロが言いたいことは、イエス・キリストを信じるだけで完全に永遠に救われるということです。あなたの罪は完全に解決するのです。そのことをパウロは言うのです。

これがまず最初に彼が、この異端の間違いを明らかにしながら語ったメッセージでした。皆さん、イエス・キリストプラスαーではないのです。イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によってのみ、私たちは救われるのです。この信仰によってあなたは罪赦されるのです。これが、みことばが教えるメッセージです。最初に話したように、この律法学者たちや、また、多くのクリスチャンたちが陥ってしまっていたこと、それは、いつの間にか、このキリストとの個人的なつながりやすばらしい生きた関係というものが形だけのものになってしまう、このことはパウロが私たちに繰り返し警告し続けてくれたことです。宗教になってしまうということです。奉仕をするけれど心が伴っていない、祈りをするけれどそれは形式だけのもの、聖書を読むけれどそれはしなければいけないと思っているから、なぜ、朝起きて聖書を読もうとするのでしょう?祈ろうとするのでしょう?多くの人たちは言います、しなければいけないからと、なぜ、礼拝に来ますか?来ないといけないから、皆が見ているから、なぜ、私たちはささげものをするのでしょう?しなければいけないからと。それなら、あなたのしているすべてのことを神は喜ばれません。律法学者たちは見るからに、外見だけを見ると大変宗教的だったのです。彼らのしていることはそうだったのです。しかし、神は彼らの何を喜ばれたでしょう?何も喜ばれません。もし、あなたが一生懸命礼拝し、教会に来て奉仕をし、ささげものをし、祈りをし、みことばを読み、人々を助けと、そのような外見的に見てすばらしい行為であっても、神が見ておられるのはあなたの心の中ですから、そこがどうかと問われるのです。もしかすると、あなたの信仰はいつの間にか形式的なものになってしまっている、その可能性があります。バークレーはこんなことを言いました。「キリスト教を規則や慣習のひとつにしてしまう精神は、今でも死に絶えていない」と。そのような信仰でないことを願います。どうすればいいのか、もう一度、私たちはキリストの十字架に目をやることです。どんなにすばらしい恵みによって私の罪が赦されたのか、あのイエスの十字架を見上げることです。そして、その十字架のみわざを感謝しながら歩むことです。人々は言うかもしれません。それだけでは、余りにも単純だ、そんな信仰は余りにも単純だと、でも、私たちは言います、これが、聖書が教える信仰だと。それが私たちの信仰です。それが私たちの歩みです。みことばに従って行きましょう。神の教えに従って行きましょう。人の考えや思いや教えではなくて…。

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