礼拝メッセージ要約

Assisting the study of God's Word

2006/06/04 礼拝メッセージ

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Messenger: 近藤修司
Passage: コロサイ2:13-15
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06/06/04  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師

主  題:偽教に惑わされるな5

聖書箇所:コロサイ人への手紙 2章13-15節

 コロサイ人への手紙の2章、今日は13節から15節までを学んで行きます。

「2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」

パウロは繰り返し繰り返し、この読者たちにイエス・キリストによる救いがどれほど完全なものであるのかということを教えます。イエス・キリストを信じるだけですべての罪が赦されるということ、信仰の成長においても、イエス・キリストのこのみことばだけで十分だと、そのことをパウロはもう私たちが学んできたように繰り返して来たのです。しかし残念なことに、どの時代であってもこの真理にチャレンジする人々がいます。イエスを信じるだけでは不完全である、聖書だけでは不完全であるという人々は、どの時代にも存在するのです。もちろん、パウロたちの時代もそうだったし、今の私たちの時代も同じです。感謝なことに、時代がどうあれ、神は私たちにこの真理のみことばである聖書を与えてくださいました。私たちはこの聖書に戻ればいいのです。みことばが何を言っているのか、神はみことばを通して何を言わんとしているのか、それこそが私たちの信仰の土台です。パウロは間違った教えが入り込んできた教会の中にあって、イエスだけで十分だということを繰り返してきました。そして、今日私たちが見るこの箇所でも、パウロはそのことを教えるのです。イエスを信じるとあなたの罪は完全に赦される、救いに関してイエスだけで十分だと、信仰生活においてもしかりと、そのことをパウロは私たちに教えてくれるのです。

そこで、パウロが13節から再び私たち一人ひとりに、今の私たちも、どれほど救いから遠く離れた者であったのか、救いに関しては絶望的な存在であったのかということを教えるのです。それを知っているクリスチャンというのは、それゆえに、神に深い感謝をささげる者です。自分がどれほど罪深い者であるかということが分かっていればいるほど、私たちはその神に感謝をささげます。どれほど自分が罪深い者であるかということを知ることは大切なことです。本当の自分の姿を知ることは大切なことです。その時に私たちはこんな私を救ってくださって感謝しますと言います。

もし、あなたが今朝目覚めてから、神さま私のような者を救ってくださってありがとうございます、こうして新しい日をくださって、またあなたを礼拝できることを感謝しますと、神に感謝をもって今日を迎えられた皆さん、そういう歩みをしているなら、あなたは正しい歩みをしているのです。もしあなたが、確かに、私はかつては神にこの救いを感謝していたときがあったけれど、それは昔のことでと、もし、あなたの心の中にこの神が為してくださった救いのみわざに対して感謝がないとすれば、どこかおかしいのです。あなたの信仰生活から救われた喜びを奪うものは、私たちの周りにあふれています。それをまとめて罪と言います。罪は私たちからその喜びを奪って行きます。だから、私たちはいったいどこからこの喜びを失ってしまったのか、感謝を失ってしまったのか、何が自分からその喜びを奪ったのか、しっかりそのことを探った上で、そこに立ち返ることです。今日、私たちが見て行くみことばは、もう一度私たちにそのことを思い起こさせてくれます。今日からまたあなたは新しいスタートを送ることができます。神に救われたことを感謝する者としての新しいスタートです。

☆救いのすばらしさ

1.救われる前は死んだ者だった

パウロは先に話したように、私たちは救いに関して絶望的であったと言いました。というのは、13節でこのように言っているからです。「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、」と。「死んだ者であった」とパウロは言っています。私たちは皆生きていると思うし、赤ちゃんが生まれたら新しいいのちが誕生したと言います。しかし、聖書にはその生まれた赤子でも神の前には死んでいると言うのです。驚きです。神は、肉体的には確かに生きているけれど、神の前にはこの可愛い幼子は実は死んでいると言います。そのことをパウロは私たちに教えようとするのです。生まれながらに私たちは死んでいる、それは、生まれながらの人間は神の祝福から、また、いのちの源である神から引き離されて生きている、だから、神の祝福をいただけないのです。私たちは皆本当の喜びをもって生きたいと願っています。平安をもって日々を過ごせたらどんなにすばらしいかと思っています。安息をもって、心からの満足を持って生きることができたらどんなにすばらしいかと願っています。それを得るために皆一生懸命になっています。あなたも今そうかもしれません。しかし、どんなに願っても、どんなに一生懸命頑張っても、私たちはそれを得ることはできないのです。皆さんはもうそのことを経験してこられました。なぜなら、生まれながらの人間は霊的に死んでいるからです。真面目に真剣に生きている人はいっぱいいます。でも、いのちの源である神のもとに来るまでは死んでいる、神しか与えることのできない喜び、平安、安息、本当の満足を決して得ることはできないと言うのです。そして、いのちの源である神から離れた人は、どんなに良い行ないをしているとしても、どんなにすばらしい人間であったとしても、どんなに尊敬を得ていたとしても、その人にはいのちがないというのです。なぜなら、いのちの源である神から引き離されているからです。そのような状態だから神は警告されるのです。生まれながらに、あなたは永遠のさばきに向かっている、いのちの源である神に心を開くこともなく、その方に逆らっているし背き続けているからと、そのことをパウロはこのみことばによって私たちに教えてくれるのです。

 生まれながらに霊的に死んでいる私たち、永遠のさばきへと向かっている私たち、その理由がここに記されています。もう一度13節を見てください。二つの理由を教えます。一つは「罪によって」、もう一つは「肉の割礼がなくて」です。

罪によって=この「罪」ということばは同じパウロが書いたエペソ人への手紙2:1では「罪過」と訳されています。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」と、パウロはここで私たちの生まれながらの状態をこのように表わしたのです。「罪過と罪」とありますが、この二つのことばにはそれほど大きな区別はありません。でも、パウロがこのように使っているので、どんな意味か見てみましょう。「罪過」ということばには「それる」という意味があります。真理から外れてしまう、脱線するという意味です。つまり、これは神の示された基準から離れて行動しているという意味です。神がこのように歩んで行きなさいと言われたその道から外れてしまっているのです。しかも、ある神学者はこのことばについてこんな補足説明をします。「このことばは神に対して意識的に、意図的に故意に罪を犯すことを表わすことばだ」と。ですから、パウロは、結局、問題がどこにあるのか、どうしてあなたが永遠の滅びに行くのかというと、あなたが自分の意志によって、神が歩みなさいと言われる道から離れて、その道から外れて歩んでいるから、神に逆らうことをあなたが自らの意志で選択してそのように生きているからだ、だから、さばかれる、死んでいると言うのです。私たちは神に対して様々な罪を犯しています。みことばの中でも、私たちの背きの罪に関して警告があります。旧約聖書ヨブ記36:9に

「そのとき、神は、彼らのしたことを彼らに告げ、彼らがおごり高ぶったそむきの罪を告げる。」とあります。神は人間を見て何をご覧になっておられるのでしょう?そこにある「おごり高ぶったそむきの罪」と、それを責められると言うのです。私たちは神に背を向けて、いつまで経っても神に従おうとしないのです。そこに問題があるというのです。そのような生き方を私たちはして来たのです。

 同時に、私たちには生まれながらに不信仰の罪があります。いつまで経っても神を信じない、信頼しようとしないのです。エゼキエルはそのことを言います。15:8「彼らがわたしに不信に不信を重ねたので、わたしはこの地を荒れ果てさせる。――神である主の御告げ。――」、20:27「それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたの先祖は、なお、このようにして、わたしに不信に不信を重ね、わたしを冒涜した。」、神に対して「不信に不信を重ね」ていると言います。私たちは生まれながらに、神を信じることもなく、神など私には必要ありません、間に合っていますと言って、不信仰の罪を犯し続けて来たのです。ローマ書1章が教えるように、神がいることは分かっているのに、私たちはその神を認めたくない、自分の好きなように生きて行きたいとして、罪を犯し続けて来たのです。私たちはさばかれて当然の者です。そこまで神に対して傲慢でありかたくなであり、背き続け信じようとしないのです。そして、「罪」とは的を外れた生き方です。だから、私たちはどんなに頑張っても神が私たちに望んでおられるその基準に到達することはないのです。

パウロはこのような二つのことばを用いることによって、私たちの状態は死んでいる、だから、神から引き離されている、神のいのちをいただいていない、永遠のさばきに向かっているのだと言うのです。

(2)肉の割礼によって=パウロは「肉の割礼がなくて」ともう一つの理由を上げています。「肉の割礼」についてパウロはここで二つのことを言っています。(a)それは罪である、もう私たちが見て来たように、この「肉」は罪の性質を表わすことばです。2:11で教えられてきたように、私たちは「キリストの割礼を受けたのです。」、つまり、罪の性質をもっていた私たちがきよめられて、新しい性質をいただくのですが、まだ、あなたは心がきよめられていなかったから、あなたは死んでいたと言います。これはもうすでに学んできたことです。(b)神の恵みの契約からもれていた、二つ目にパウロは、民族的にも私たちは救いから遠く離れていたと言います。そのことは、もう一度エペソ人への手紙を見てください。2:11-12「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」、12節のみことばを見ると、パウロは私たちとイスラエルの人たちがどのように違うのかということについて、そこに五つのことを述べています。

◎私たち異邦人は、

1)キリストから離れていた

パウロは、私たちはイスラエルの人々のように、救い主について知ることがなかったと言うのです。彼らは救い主のことを聞いていました。私たち異邦人はまったくそのことを知らされていませんでした。罪の赦しに関してもそうです。

2)イスラエルの国から除外されていた

 確かに、私たちはイスラエルに属する者ではありません。このイスラエルは神が特別に祝し、特別に守り、特別に愛して選ばれた人々、選ばれた国でした。なぜ、神はイスラエルを選ばれたのか、イスラエルを愛し他の国を憎んだのではありません。神はすべての人を愛しておられます。でも、神は目的をもってイスラエルを選ばれたのです。それは、イスラエルを通して神のみ栄が現わされ、神がどのようなお方であるかをすべての人々が見るためです。しかし、確かに、イスラエルの歴史を見たとき、彼らの中に神を愛し神に忠実に従う人々がいました。私たちはその国に属していなかったのです。ですから、彼らが聞くように、また、知るようなことを知ることはなかったのです。

3)約束の契約については他国人

 神はイスラエルとの間にいろいろの契約を結ばれました。アブラハムに始まり、モーセも、ダビデにも、そして、新しい契約であるパレスティナの契約があります。その約束を神は守って行かれます。イスラエルを祝福するという、その観点から見ても、私たちはそこに属さない者でした。

4)望みがなかった

 最初に見たように、救い主のことはよく分からないから、私たちは救い主から与えられる希望をもつことはありません。救いについても永遠についても、皆、私は天国に行くと言うかもしれませんが、それが事実であるかどうかという保証は、この聖書が私たちにくれるものです。神が与えてくれるのです。ですから、私たちはそのことを知らされていた国の人々と比べて、何も知らず、希望は薄かったのです。

5)この世にあって神もない

 つまり、異邦人である私たちは神について正しい知識がなかったと言うのです。そして、私たちは神がおられることを知っていながら、その神に対して自らの意志によって背いてきたというのです。

 ですからパウロは、民族的に見ても、イスラエルの人々がもっていたような様々な特権を私たちはもっていなかった、そういう点からいっても、私たちはこの救いから遠く離れていた者だと言います。私たちは死んでいたと言われたとき、神がどんなことを言われても、また、人々がどんなことを言ったとしても、私たちは理解することができなかったのです。肉体的に死んだ人に、どんなに語ってもどんなに叫んでも、その人は聞くことができないように、霊的に死んでいる私たちは神のことを理解することはできなかったのです。だから、私たちは罪を犯してきたし、ユダヤ人のように真理を知ることもなかった、そして、私たちは霊的に死んでいるゆえに、神のことが分からなかったと。そういうことをパウロは教えることによって、あなたにはこの救いに関してはまったく絶望的であったと言います。私たちはそのことをしっかり覚えることが大切です。

 では、私たちはなぜ救われているのでしょう?それは一方的な神の恵みです。イスラエルの民族として生まれたら必ず救われたのか、決してそんなことはありません。しかし、彼らは私たちよりたくさんのことを知っていました。霊的に死んでいる私たちは、私の意志が強いから救いに至ったのか、そうではありません。神が働いてくださらなければ私たちは何も分からなかった、そのように救いにおいては絶望的な私たちに対して、神はすばらしい祝福をくださったのだということを、これからパウロは教えてくれるのです。ですから、まず覚えてください。イエス・キリストを信じておられる皆さん、あなたが神からいただいたこの救いに関して、これはあなたが一生懸命頑張って得たものではない、神が一方的にあなたに与えてくださったものです。あなたには救いを与えられるような資格も、権利もなかったのです。私たちのどこを見ても、私たちはこの救いに与るのにふさわしくない者でした。昔、私がアメリカにいたとき、日本から荷物が届きました。お餅でした。恐らく親戚がつき立てのお餅を送ってくれたのでしょう。1週間経っているとどうなっているか分かります?色が変わっています。白いお餅が緑のお餅になっています。草餅ではなかったのです。カビがいっぱい生えているのです。私はそれを見て、ありがとうと思うとともに、処分しなければ、残しておいてもどうしようもない、捨てるしかない、もったいなかったけれど捨てました。神があなたを見たとき、頭の先からつま先に至るまで罪に覆われているのです。全身カビに覆われているようです。どこを見てもいいところはないのです。ここが私の自慢できるところですと、とんでもない、人には自慢できても神にはできません。それが私たちだと言うのです。人に自慢してもくだらないことです。神は私たちの本質をご覧になっておられます。神の前に私の何ものも自慢できない、それほど、罪に染まった人間なのです。普通だったら、わっ気持ち悪い!捨ててしまおうと、そうされても仕方なかったのです。でも、驚くべきことに、神は私たちのような者を憐れんでくださったのです。そのことがこの後記されています。13節の後半に「それは、私たちのすべての罪を赦し、」とあります。私たちが何か一生懸命頑張ったから神は赦しをくれたのか、このみことば明確に、それは絶対にあり得ないことだと教えています。というのは、この赦しということば、これは動詞ですが、好意であるとか、恩恵を与えるとか、寛大に赦すという意味です。つまりパウロは、私たちが何かをしたからとか、こういう人間に変わったから神が私をあわれんでくれた、というのではなく、どうすることもできない捨てられて当然の私を、神は一方的にご好意を示してくださった、神は私に恩恵を与えてくださった、神は私に寛大に赦しを与えてくださった、そのことを言っているのです。神のお心を変えるような善は、私たちの心の中にも、私たちの行ないの中にも、私たちの考えの中にも思いの中にも、一つもありません。神があなたをご覧になったとき、そこに見るのは罪しかないのです。汚れに染まった罪です。それがあなたであり私なのです。でも、神はそんな私たちをあわれんでくれたのです。ヘブル8:12に「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」とすごい約束があります。だれがあわれんでくれたのでしょう?神です。神が一方的にあなたをあわれんでくださって、あなたの不義を思い出さないと、そのように宣言してくださったのです。だから、今私たちはその救いを喜ぶことができるのです。これは神の一方的な恵みです。

 そして、パウロはこの神がくださる赦し、救いが確実であることの証拠を二つ挙げています。

2.救いが確実であることの証拠  13-15節

(1)キリストの復活

 キリストの復活が、このイエスによって必ず罪が間違いなく赦されるということを証明するのです。13節の真ん中に「神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。」とあります。神は勝利を与えてくださったのです。キリストといっしょに死んでいたあなたをそこから生かしてくれたと言います。12節で学んだように、私たちはキリストとともに死に、そして、私たちは新しく生まれ変わったのです。キリストの復活がそのことを証明してくれているのです。エペソ2:5に「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――」と、神がイエス・キリストをその死からよみがえらせたその力をもって、罪の中に死んでいた私たち、生まれながらに霊的に死んでいた私たちを、そこからよみがえらせてくださった、新しく生まれ変わらせてくださったのです。だから、私たちはイエス・キリストの復活を覚えるとき、私たちは大きな喜びを覚えるのです。そのはずです。キリストが死んでそのままだったら私たちには何の希望もない、でもキリストがよみがえってきたという事実は、イエスを信じることによって罪が赦される、そして、かつての神に逆らい霊的に死んでいた私はもう、イエスとともに死に、そして、私は新しく生まれ変わった、私には新しい性質がキリストによって与えられている、私は生まれ変わったと、そのことを私たちははっきり確信することができるのです。

(2)キリストの十字架

 救われたことを明らかにする、確信を与える証拠の二つ目はキリストの十字架です。この十字架は二つのことを明らかにします。それは、本当の自分と神のあわれみを示すのです。14節のみことばを見ると「債務証書」ということばが出てきます。非常に難しいことばです。このことばは「手書き」という意味をもったことばです。自分の手で書く、サインをするということです。では、なぜそのことばが「債務証書」ということばに訳されているのでしょう?自分が負債を負っていることを認める証書、覚書です。そういう意味がこのことばにあります。だから、日本語の訳者は「債務証書」と訳しているのです。私はあなたに借りがありますと書いて自筆のサインをする、そのことをここで表現しているのです。つまり、パウロがここで言っていることは、実はあなたは神に対して多大な負債を負っている、あなたがどんなに頑張っても返すことのできない負債を負っているということです。そのことを証明するものが何か、14節の初めに書かれています。「いろいろな定めのために」と、つまり、神が与えられた律法があなたを責めるのです。律法を見ることによって私たちは例外なく神の前に負債を負っています、あなたは返すことのできない負債を負っている者だということを明らかにするというのです。なぜなら、パウロが言うことは、律法を見たとき、私たちはどれほど神の基準から外れてしまっているのか、神がしてはならないということを平気で行なっている、神がしなさいと言われることを私たちはしていない、そのことを律法は私たちに悟らせてくれるということです。ローマ3:19でパウロはこう言います。「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」つまり、律法を見たとき、私たちはだれ一人としてさばきの場で、なぜ私はさばきに服するのかと言えないというのです。なぜなら、律法が開かれたら明らかにあなたは、神のおきてをこのように破っているでしょう?と言われるからです。だから、律法を見たとき、私たちはいかに私の歩みと私の生き方と、神が私に要求しているものとが異なるのかということに気付くべきです。私は基準から外れた者です、神の前に私は違反を犯し続けている者です、だから、私は返さなければならない負債を負っている、また、返すことのできない負債を負った罪人なのだと、パウロは言わんとしたのです。

申命記の中でもこのように言われています。27:26「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。」と、だから明らかなことは、神が言われたことを守らなければ、必ず、そこには神のさばきがあるということです。だから、私たちは責められるのです。あなたは神が命じたことをやっていない、あなたは神が望んだように生きていない、だから、あなたはさばかれると。14節でパウロが言いたかったことはそうだったのです。「私たちを責め立てている債務証書を」と、あなたには返さなければならない借金があります、あなたは大きな負債を負っています、あなたは大きな過ちを犯しています、これをあなたは支払わなければならない、しかし、現実はあなたはどうすることもできない、なぜなら、その負債があなたに要求することはあなたのいのちだからです。ですからパウロはここで、今まで見て来たように、私たちがいかに神の前に罪を犯した者であり、私はその罪に対して神の赦しを得るために何一つすることができない、そういう霊的に破産した状態にあるということを教えた上で、今日、私たちがしっかり学ばなければならないことをこれから教えて行くのです。

恐らく、私たちはこうして何度もみことばを見ていても、まだ自分の罪深さというものに気付いていない、私たちが思っている以上に私たちは罪人だということです。私たちが思っている以上に、私たちは汚れています。神は私たちにそのことをより明かにして行ってくれますが、しっかり、皆さんに覚えておいていただきたいことは、救われる価値のない私たち、救われる資格のない私たち、神の基準から完全に逸脱している私たち、罪に罪を重ねている私たち、神のさばきを受けてしかるべき私たち、そんな私たちに対して神は何をしてくれたのか、神はあなたをあわれんだというのです。しかも、そのことをパウロはここで、四つの動詞をもって明確に教えて行きます。驚くべきことを神はしたと言います。

◎神が私たちにしてくださったこと

無効にされた

 この動詞は「拭い去る」とか「ふき取る」という意味です。パウロは敢えてこのことばをここで使ったのです。神が罪深い者のためにしてくださったことは、その罪を無効にされた、つまり、拭い去ってくださった、ふき取ってくださったというのです。バークレーは非常にすばらしい説明を加えています。その当時の様子です。「古代の文書がしたためられた物質は、ガマの一種である植物の髄でできた紙パピルスか、動物の皮から作った羊皮紙と呼ばれるものであった。どちらもかなり高価なもので無駄にできなかった。古代のインクには酸が含まれていなかった。だから、神の表面に書かれても、現代のインクが大抵そうであるように、神の中まで浸透することはなかった。ある学者は時々紙を節約するためには、すでに一度字が書かれたことのあるパピルスや羊皮紙を用いた。そういう時は書いてあるものをスポンジで拭った。古代では紙を拭うことができたのである。古代のインクは放って置かれる限り、消えることはなかった。しかし、インクは神の表面だけのことなので、きれいに拭き去ることができた。それはまるで、何も書いたことがないかのように拭い去られた。神はその驚くべき恵みによって、私たちの罪の記録を完全に消してしまわれたので、私たちの罪の記録など何もなかったかと思われるほどであった。それは痕跡さえも残らないほど完璧な方法で消し去られた。」。なぜ、このことばが使われたのでしょう?神はあなたがどんな罪を犯してきたのか、また、犯しているのか、犯すのか、知っておられます。でも、神がなさったことは、永遠のさばきがふさわしい私たちに対して、神はそのすべての罪を拭い去ってくださった、ふき取ってくださったのです。ちょうど、スポンジでその羊皮紙の上を拭いてすべてが消えたように、神はあなたのすべての罪をふき取ってくださった、神はあなたにそのようなことをしたのだと、パウロは最初に教えました。

(2)取りのけ

「神はこの証書を取りのけ、」とあります。このことばもその証書を私たちの間から取り除くとか、見えないところに片付けるという意味です。神がされたことは、私たちを訴えている私たちの罪が記されたもの、それを私たちの目の届かないところに片付けてしまわれた、罪の問題が解決したからです。解決していなければ私たちはしっかり覚えなければいけません。借用書が必要なのです。私はこういう負債を負っていると。しかし、それが片付いてしまったら、私たちの前に置いておく必要はないのです。だから、神はそれを私たちの間から取り除かれたのです。これはもう片付いたからです。

(3)釘づけにされた

「十字架に釘づけにされました」とあります。これは文字どおり釘で打ち付けることです。私たちを責め立てていたこの債務証書を、神は私たちに反対する律法とともに拭い去ってくださり、十字架に磔にしたと言うのです。それによって私たちを責めるものはなくなったのです。皆さん、覚えておられますか?イエスが十字架にかかったときに、イエス・キリストにはその罪状書きを記した看板がつけられたこと、ヨハネの福音書19章に出てきます。19:19-20「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。」、十字架にかけられている犯罪人の上には自分の罪状書きが記されていたのです。イエスは何も罪を犯していなかったゆえに、ピラトは「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いたのです。それしか書けなかったのです。20節にはこうあります。「それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。」と、罪状書きが記され、しかも、それは十字架の上に付けられたので、皆、それを見ることができました。つまり、あなたの罪状書き、あなたの債務証書が十字架に磔にされた、それはイエスがあなたの身代わりに死んでくださったからです。イエスには罪がなかった、しかし、私たちには罪がある、その罪を負ってイエスは死んでくださったのです。そこにはあなたのすべての罪が記されているのです。そして、感謝なことに、イエスは十字架の上で最後に何と言われたのでしょう?「完了した」と言われました。あなたのすべての罪の贖いが完了したのです。あなたのすべての罪が完璧にあのイエス・キリストの十字架によって処分された、解決したのです。もう、あなたのすべての罪のためにわたしは、あなたが払うべき罰を受けたと。すばらしいことを神はしてくださったのです。

(4)解除して

 15節に「すべての支配と権威の武装を解除して」とあります。これは、武装を完全にはぎとるという意味をもったことばです。この15節のみことばを見たとき「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」と何か行進の様子が描けます。実際に、ローマはこのようにしたのです。ローマは敵と戦って勝利を得たとき、そのローマ軍の将軍はローマの町を行進することができたのです。その際に、自分が打ち破ったその国の王や家族、部下、民を鎖でつないで捕虜として、その行進に加えて歩かせるのです。見世物にするのです。我々はこうしてこの国を征服したのだと。その様子がここに描かれているのです。では、いったいどんな敵に対して勝利したというのでしょう?サタンに対してです。「すべての支配と権威の」と、神に逆らってきたサタンやその手下である悪霊たちに対して、神は敢然と勝利されたのです。サタンは私たちを大変な苦しみに閉じ込めました。私たちはこの罪に対してどうすることもできないし、罪のさばきに対して私たちは無力です。私たちは死に向かっています。そして、死んだ後は永遠の滅びでしかなかったのです。サタンは自らが永遠の滅びに行くのですが、私たち皆を道ずれにします。しかし、イエス・キリストは十字架にかかって、その死からよみがえることによって、私たちにそのサタンの力を敢然と打ち破って救いを与えてくださった、そのサタンの束縛からの解放を、永遠のさばきからの解放を私たちに与えてくださったのです。だから、私たちも神とともにこの勝利の行進に参加することができるのです。そのことをパウロは言っているのです。「武装を解除して」と、もう私たちクリスチャンにとって永遠の滅び、地獄は恐ろしいところではなくなったのです。問題は解決したからです。私たちはサタンに勝る主をいただいたのです。もちろん、私たちは悲しいことですが誘惑に負け続けますが、もうサタンの奴隷ではないのです。サタンは敗北したのです。私たちは勝利者としてキリストとともにこの行進に加わることができるのです。Ⅱコリント2:14でパウロはこう言います。「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」と、私たちは神とともにこの勝利の行列に加わったのです。

 15節に「キリストにおいて」というところに*印があるのは、別訳では「十字架」と欄外に記されています。確かに、ここで使われているのは「彼」と訳せることばです。人称代名詞の三人称単数の男性が使われています。そこで日本語の訳者は「男性」ということで「キリスト」としたのです。確かに、文脈を見ると、十字架の話をしてきたので「十字架によって勝利を得た」と言っても当然間違いではありません。同じことを言っているのです。キリストの十字架によって勝利を得ることができたのだと。

さて、神がどんなにあなたをあわれんでくださったのか、お分かりになったでしょうか?神はあなたのすべての罪を知った上でそれを完全に拭い取ってくださった、ふき取ってくださった、神はそれをあなたの前から取り除いて、あなたの目の届かないところに置いてくださった、もうこれは終わったからと片付けてくださった、あなたを訴えていたその罪をキリストは十字架に磔にして、これはもうすべて完了した、私がその負債のすべてを払ったと、そう言ってくださった、そして、イエスを信じた私たちはこの勝利の行進に加わることができるようにしてくださったのです。サタンはもう私たちの主人ではないのです。私たちは彼の奴隷ではないのです。私たちはもうそこから解放されて神のものとされたのです。これが救いなのです。これが神のくださったすばらしい恵みなのです。だから、私たちはパウロが言ったように「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)と言えるのです。これほど完璧なあわれみ、これほど完璧な救いによって私たちは救われたのです。だから、私たちはそのように言えるのです。私がどう思うかではありません。この救いが完璧だから、この救いによって救われた私は確かに救われているのです。私の救いは永遠のものです。永遠にこの救いを失うことはないのです。神がくださったものは永遠のものだからです。神があなたを救ってくださったのなら、その救いは絶対に失われることはない、絶対にあなたは滅びることがない、絶対にあなたの罪はさばかれることはない、なぜなら、罪は解決したからです。だから、私たちはそのことを神に感謝するのです。そのことを喜んで生きるのです。まさに、ペテロがⅠペテロ2:24で言うように「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」と、イエスは自分から進んで十字架に架かってくださった、私の罪をその身に負って、「それは、」と目的が記されています。「私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」と、救われた私たちができることは、こんな私を救ってくださった神のみこころに従って行くことです。この方のみことばに従って行くのです。そうすることによって、このすばらしい救い主なる神の栄光が現わされるからです。それが、私たち救われた者に神が望んでおられることです。このすばらしい神を伝えて行くことです。そして、私たち一人ひとり、神の前に正しく歩んで行くことです。そうすれば、こんな私たちをあわれみ、救ってくださった神のすばらしさが、人々によって誉め称えられて行くからです。

すばらしい恵みによって私たちは贖われました。感謝する理由がここにあります。誉め称える理由がここにあります。こんなすばらしい恵みによって今の私たちがあるからです。主を崇める者になってください、このすばらしい恵みを感謝する者として、この一日一日を歩んでください。このお方はその称賛に値するすばらしい救い主です。

Hamadera Bible Church © 2006