06/05/28 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:偽教に惑わされるな4
聖書箇所:コロサイ人への手紙 2章11-23節
イエスを信じるだけでは罪の赦しを得ることはできない、神のみことばである聖書に、また、その知恵に頼るだけでは信仰生活を十分に歩むことはできない、イエスに、また、みことばだけに頼って生きるのでは、信仰の歩みを十分に満足して歩んで行くことはできないと、これがこの当時、この教会を惑わしていた異端の教えでした。哲学、律法主義、神秘主義、禁欲主義、こういったことを信じる人々は、自分たちの間違った教えをもって、教会の人々を混乱させ、間違った道へと導こうとしていたのです。そこでパウロは、イエス・キリストだけで十分である、イエスを信じるだけで救いをいただくことができる、みことばに頼って行けばいいのだということを、人々にしっかりと教えようとするのです。そこで彼は、まず、人間の知恵である哲学というものに対して、それがいかに愚かで空しいものであるかを教えてくれました。そういった人間の知恵に頼って生きるのではなくて、イエス・キリストをしっかり覚えて、目に留めて歩んで行くことが必要だと、パウロは私たちに教えてくれたのです。なぜ、それが必要なのか、すでにパウロが私たちに教えてくれたことは、(1)イエス・キリストは真の神だから、この方にしっかり目を留めて歩むことが必要だということ、そして、(2)イエスが真の満たし主だから、本当に私たちを満たしてくださるお方はこの方だけだと。どんなものを手に入れたとしても、どのように好きな人生を生きたとしても、私たちの心の渇きを癒してくれるのはイエスしかいないのだと教えました。そして、(3)イエスはすべてのもののかしらである、あの天使たちでさえもこのイエス・キリストに従っている、このイエス・キリストこそがすべての主権者であると教えたのです。ですから、そのようなことを通してパウロは、イエスを信じるだけで十分であるとすでに教えてくれたのです。
今日、私たちは11節のところから見て行くのですが、最初に言ったように、偽りの教師たちは間違った教えをもたらしました。その中の一つが律法主義というものでした。彼らは律法を重んじ、それを守ることによって救われると信じたのです。この律法には道徳律法とか、また、祭儀律法という書かれた律法と、父祖たちの言い伝えである教え、その口伝律法の二つが存在したのですが、これらを守らなければいけないと、そのように人々を教えていたのです。モーセが書いた創世記から申命記の五つの本、モーセ5書と言われますが、その中には613のおきてが記されています。聖書全体になると大変な数になります。それに言い伝えられてきた様々な口伝律法を加えると、もっと大変な数になってしまいます。律法主義者たちはそれを守らなければいけない、そして、それを守ることによって救いが与えられると言ったのです。そのような間違った教えに対してパウロはそれは違うと言ったのです。イエス・キリストを信じるだけで十分だと彼は教えようとするのですが、それを教えるために彼はまず、ユダヤ人たちが重んじていた律法の一つ、割礼というものについて教えを始めるのです。
11節のみことばにその割礼のことが記されています。「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」、割礼、つまり、男子の生殖器の全包皮を切り取る行為です。もちろん、ユダヤ人だけでなく他の民族もこういった行為を行なっていたようです。しかし、これは神がイスラエル民族に対して与えられた命令の一つでした。最初に出てくるのは、アブラハムに対して神はそのことを命じておられます。99歳であったアブラハムに対して神は契約を守るようにと命ずるのですが、その中にこんな命令があります。創世記17:10「次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。」と、このような命令がアブラハムに与えられたのです。モーセはレビ記12:3で「――八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない。――」と命じています。ですから、ユダヤ人にとってこれは神との契約のしるしであり、神の民のしるしだったのです。だから、ユダヤ人たちはこれは神聖な行為であり、安息日を守ることとともに、律法の中で重大なものであると彼らは考えたのです。
さて、この割礼に関して彼らが間違っていたところはどこだったのでしょう?それは、この割礼によって救いを得ることができるのだ、彼らが考えたことでした。もちろん、例外があったようですが、割礼を受けるなら、普通の人であれば(極端な罪を犯していない)その割礼という行為によって罪の赦し、救いを得ることができると、これが彼らが教えたことだったのです。この割礼が安息日を守ることと並んで重大であったというのは、初代教会の様子からも見て取ることができます。それは使徒の働き15章に出てくるのですが、エルサレムの会議が行なわれるそのきっかけとなった出来事、それは15:1に「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。」と書かれています。ここで見るように、まだこの場に及んでも、割礼を受けることによって救われる、その行為が罪の赦しをもたらすと教えていたのです。同じ15:5には「しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言った。」とあり、このような出来事を見ると、信仰を持ったと言っても、ユダヤ人たちの中にはやはり律法を守らなければいけないと、どこかに信仰だけでは不十分であって、律法を守るという、そういう行為がなければ救いを得ることがないような、そういった考え方が彼らの中に根付いていたことが見て取れます。このようなことが問題だったのです。このような口伝律法の集大成をタルムードと言いますが、ユダヤ人の知恵です。その中には信じられないような教えがあります。一つ紹介しますが、このようなことを言います。「来世ではアブラハムがゲヘナの入り口に座り、割礼を受けたイスラエル人がその中に降りることを許さないであろう。」と、アブラハムが割礼を受けた人が地獄に行かないように留めていると言うのです。「甚だしい罪を犯した者について、彼はどうするのか、割礼を受ける前に死亡した子どもの包皮を取り、それを彼らにつけてゲヘナに送るのである」と、こんな話がタルムードの中に出てくるのです。割礼を受けるということは、ひどい罪人は例外として、普通の人には救いを得ることだったのです。もし、受けていなければ永遠のさばき、地獄に至るのだと、そのように彼らは信じていたのです。
では、割礼を受けることによって、行ないによって、私たちは救いを得ることができるのでしょうか?パウロはそのことについて明確な答えを与えてくれています。一つはアブラハムの例です。これはすばらしい例です。なぜなら、先ほど見た創世記17:10に神が割礼を命じたのはアブラハムにでした。では、なぜアブラハムは割礼を受けたのでしょう?パウロは教えてくれます。ローマ4:11を見てください。「彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。」とみことばは明確に教えています。続いて、「それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、」とあります。ですから、ここでパウロがはっきり教えていることは、割礼という行為によって義と認められる、つまり、罪が赦されてまったく聖くされる、救われるということはあり得ないことだということです。割礼は救われたことの証印、証だったのです。神が自分を救ってくださったことの証としてこのような割礼を受けたのです。そのようにパウロは教えてくれます。実際、アブラハムは救われてから約14年後に割礼を受けています。神の前に義と認められてから
14年後に割礼を受けているのであって、そのことを見ると、割礼という行為は人に救いをもたらさないということは明らかです。また、この肉の行為、割礼は無価値なものだということを、パウロは同じローマ書の中で私たちに教えてくれます。2:25-29「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。:26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。:27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」、もし、あなたが律法のすべてを完璧に守っているならこの割礼には価値がある、この割礼によって救われる、しかし、もし一つでも律法に背いているなら、この割礼は無価値だ、なぜなら、行ないによって救われることはないからと。パウロが言うことは、律法によって救われるとするなら、あなたはすべての点で完璧に律法を守らなければ救いを得ることはないということです。一点でもつまづいたらあなたは救いを得ることはないのです。だから、救いを得るとして受けた割礼は律法の教えです、それだけを守っても他の律法を犯しているなら、そんな不完全な行為が救いをもたらすことなど有り得ないのです。だから、パウロはどのような肉体的な行為であっても、私たちの行ないが神のご好意をいただくことなど有り得ないと言うのです。すべての点で神の律法に従うことのできる人など、イエス以外だれもいません。
割礼によって救いを得ることはない、しかし、ある人は、では、なぜパウロはテモテに割礼を施したのですか?と疑問をもつかもしれません。確かに、使徒16章を見ると、パウロはテモテに割礼を受けさせています。なぜでしょう?救いと関係がないのに、何のために?16:3に「パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。」と記されています。救いは行ないによるのではない、信仰によるというのがパウロの信仰でしたから、割礼を受ける受けないは関係ないとしていました。では、なぜテモテに割礼を受けさせたのでしょう?このみことばが教えています。皆、テモテがギリシャ人の父をもっていることを知っていたからです。そのような状態でテモテを連れて行くと、パウロはユダヤ人ですからユダヤ人の会堂に入れましたが、テモテは入れなかった、お父さんが異邦人だからです。だから、伝道して行くために、ユダヤ人の会堂に入って語らなければならなかった、その妨げになるということで、パウロはテモテに割礼を受けさせたのです。救いのためでは決してなかったのです。
では、割礼というものはいったいどういうものなのでしょう?コロサイ2:11に「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」
とあり、ここでは明らかに「人の手による割礼」と「キリストの割礼」を対比しています。「人の手によらない割礼」、つまり、人間が行なうその割礼ではないものを受けたと言うのです。ですから、割礼には人間の手にものと、人間の手によらないものの二つがあるのです。その人間の手によらない割礼を、このみことばは「キリストの割礼」と呼んだのです。二つは大きな違いがあり、まったく違う結果をもたらすと言います。先ほど見たように、人間の行なう割礼は空しいものです。罪の赦しをもたらすものではなかったから。ところが、「キリストの割礼」は救いをもたらすものなのです。そのことがこの11節に記されています。「肉のからだを脱ぎ捨て」とあります。ある人はこれは「死」のことでしょうか?と言います。そうではありません。ここで言われているこの「肉」というのは、罪深い性質のことです。生まれながらに人間は神に反対する者であり、自分の思いのままに生きて行こうとする者です。神のみこころになど従いたくない、自分のしたいことをして行きたいのです。そのようなすべての人間が生まれながらに持っている罪の性質のことを言っているのです。それを「脱ぎ捨て」たと言います。この「脱ぎ捨てる」とうことば、これは名詞ですが、これは非常に大切です。「放棄」という意味がありますが、「放棄」という意味でこのことばが使われているのは、新約聖書にはここだけです。放棄する、また、完全に脱ぎ捨てる、横に置く、完全に何かから分離する、切断するという意味があります。ですから、パウロはここで、キリストの割礼を受けることによって、あなたは生まれながらにもっているその罪の性質から完全に分離する、それを切断してしまうと、そういうことを言っているのです。この「キリストの割礼」は救いをもたらすと言っているのです。生まれながらに私たちは罪に支配され、罪という主人に従って来ました。罪の性質をもって生まれて来た私たちは、罪である主人を喜ばせること、その背後にいるサタンを喜ばせることばかりして来ました。私たちはどんなに頑張っても、この罪の性質から自分自身を解放することはできなかった、罪に罪を重ねてきたのです。ところが、私たちがこのキリストの割礼を受けることによって、私たちはその罪の性質に対して完全に決別したのです。神はその罪の性質を私たちから取り除いてくださったのです。
これが「キリストの割礼」の目的です。あなたを完全に罪から救い出すために、その支配からあなたを救い出すために、その罪のもたらす永遠のさばきからあなたを救い出すために神が与えてくださったもの、それがこの「キリストの割礼」だったのです。この救いは神があなたに与えてくれたすばらしい贈り物だったのです。なぜなら、11節に「あなたがたは人の手によらない割礼を受けました」とあり、この「受けました」ということばは、もう過去に起こった出来事を意味しています。しかも、これは受け身です。あなたがイエス・キリストを信じたその瞬間に、神はあなたをその罪の性質から救い出してくださった、新しく生まれ変わらせてくださった、罪の性質をあなたから除いて新しい性質をくださった、あなたは生まれ変わったのです。これは神のなせるわざです。イエス・キリストを信じる人に神が為してくださるすばらしい救いのわざです。私たちがイエス・キリストに対して、私はあなたに逆らってきた、あなたを無視してあなたを愛することもあなたに従うこともなく、自分の思うままに好き勝手に生きてきました、私はあなたに対して罪を犯した、どうぞ、その罪を赦してください、そして、私は私を救うためにこの世に生まれてくださったイエス・キリストを信じます、イエスを私の神として、私の救い主として、私の主としてついて行きますと、その信仰によって、その瞬間に神はあなたを生まれ変わらせてくださるのです。その瞬間にキリストはあなたに「キリストの割礼」を与えるのです。人の手によらない割礼を与えるのです。あなたは生まれ変わるのです。パウロはその大切なことについて、ローマ2:28,29でこのように言いました。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」、「心の割礼」と言います。人の手による割礼というのは、からだの一部のその包皮を切り離したのです。それだけでした。しかし、神があなたの心に割礼を与えてくれたら、神はあなたの罪をあなたから切り離してくれるのです。あなたを救ってくれるのです。もちろん、このことは旧約聖書のみことばも実は教えてきたことです。旧約聖書では、この「割礼」を比喩的に使っているところがあります。たとえば、レビ記26:41では「しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。」、「無割礼の心」と言い、また、エレミヤ6:10には「私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。」とありますが、この「耳は閉じたまま」というのは、実は「耳に割礼がない」ということです。心にも耳にも割礼がないと言うのです。このように「割礼」ということばを比喩的に使うことによって、旧約聖書では何を教えて来たのでしょう?割礼を受けていないというのはきよめられていないということです。「無割礼の心」とは心がきよめられていないということ、耳が割礼を受けていないというのは、耳がきよめられていないということです。生まれながらの人間はみな、割礼が必要だったのです。私たちの心が、私たちのすべてが罪に染まっているゆえに、それは神によってきよめられることが必要だったのです。そして、私たちはすべてのものを神にささげることが必要だったのです。ですから、割礼を受ける必要があるということは、自分はきよめを必要としていることを悟らせるためだったのです。なぜ、神はそのように教えられたのでしょう?それによって私はきよめられなければならない、私は罪に汚れていると悟らせるためです。ですから、本当の割礼というのは、神に逆らうすべての部分を捨て去ることです。この割礼は神への献身の行為です。だから、神が喜ばれる割礼は、喜んで神に従って行こうとする、そのような歩みをしようとすることです。
割礼という行為は人を救いません。しかし、アブラハムは神を信じて義とされました、救われたのです。そして、彼はすべてを神にささげたゆえに、彼は喜んで割礼を受けるのです。そして、律法がなぜ人間に与えられたのか、私たちが神の基準に到達していない罪深い存在であることを悟らせるためでした。そのことが分かっていなかったのは私たち人間です。神は分かっていました。私たちがどれほど神の基準から外れてしまっているか。割礼も同じでした。私たちがいかに神が要求されているきよい正しい完全な基準から外れてしまっているかを悟らせるためでした。この人の手によらない割礼、キリストの割礼はイエス・キリストを信じたときに起こったことです。その時に私たちは、神の一方的な恵みによって生まれ変わったのです。祭司は肉の割礼を施すことができましたが、それしかできなかった、神は心の割礼を与えることがおできになります。今、私たちが見て来たように、イエス・キリストを救い主と受け入れたときに、私たちはこの心にキリストの割礼を受けました。私たちはきよめられたのです。
そのことを今パウロは教えてくれたのですが、同時に、私たちには、私から罪の性質が除かれたのに、なぜ私は罪を犯すのでしょう?という疑問が起こって来ます。クリスチャンである皆さんは少なくとも一度は通って来たことです。神によって罪赦され、罪の性質が取り除かれた、それなのになぜ、私は罪を犯すのだろう…と。そのようなことは何度もあったことでしょう?イエスを信じたのになぜそれまでと同じように罪を犯してしまうのだろう?なぜこんな悪い思いを抱いてしまうのか?なぜこのように人に対して妬みや怒りを覚えてしまうのだろう?なぜこんなことを言ってしまうのか?と。私もイエスを信じたとき、もう罪を犯さない者になると思ったけれど、ならなかった、そして、今までと違ったことは、罪に対する責めがやってきました。あなたは神に対して罪を犯しているという責めです。それまでは、良心の呵責を覚えたことはあっても、神に対して罪を犯している、神の前にその罪を告白しなければいけないと、そのようには思いませんでした。そう思うというのは、その人が神によって救われたからです。でも、正直に言って、罪の性質が私たちから取り除かれたなら、なぜ、私たちは罪を犯すのでしょう?ローマ人への手紙7章を見てください。18節のみことば、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」、また、20節から「もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」と、つまりパウロは、確かに、私たちから罪の性質は除かれて新しい神の性質をいただいた、生まれ変わった、しかし、残念なことに、私たちは罪のからだ、この肉をもっています。それがパウロがここで用いたことばです。救われた私たちにも肉があるのです。罪のからだがあるのです。ですから、次のページ、8:23を見てください。「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」と、罪あるこのからだが贖われる、栄光のからだに変えられると教えるのです。それはまで先のことです。ですから、それまでは肉を持っているゆえに、私たちはその罪に誘惑されて行くのです。新しく生まれ変わっていながらも、この肉があるゆえに、悲しいことに罪を犯してしまうのです。
さて、もう一度コロサイ2章に戻って、この人の手によらないキリストの割礼、すなわち、この救いというものをいつ私たちは受けるのでしょう?先ほどから、信じたとき、救われたときと見てきましたが、そのことについて、12節で詳しい説明を与えてくれるのです。12節のみことばは、私たちに救いとはどういうものかを教えてくれます。「 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」、非常に大切なことをパウロはここで教えたのです。パウロは、救いというのは新しく生まれ変わること、新生だと教えました。そのことをパウロはこのように教えます。つまり、「あなたはキリストとともに葬られ、あなたはキリストとともによみがえらされた」と。これが、新しく生まれ変わること、これが救いです。救いとは、これまで神に逆らってきた罪深い自分が死んで、新しい自分がキリストとともによみがえったというのです。信じた瞬間に、救われた瞬間にその人は死んだのです。キリストとともに死んだのです。あなたがイエス・キリストを信じますと決心したとき、これまで神に逆らい自分勝手に生きて来たあなたは、イエスとともに十字架に自らを磔にしたのです。そして、葬られたのです。神に逆らってきた私はもう死んだのです。そして、キリストがよみがえったときに、新しい私がキリストとともに生き返って来たのです。感謝なことに皆さん、罪が私たち罪人に要求するものは死です。罪を犯したなら必ず死ぬと言われた、ですから、罪を犯した私たちは死ぬ者となったのです。イエスが言われるのは、あなたがイエスを信じたときに、もうあなたは死んだということです。だから、罪はそれ以上あなたに要求するものはないのです。要求できないのです。死という問題が解決したからです。確かに、私たちのうちにある罪は私たちを責め、罪悪感を抱かせます。しかし私たちは、もう私は死んだ、そして、キリストとともに新しくよみがえったと言えるのです。もう罪は私は責めることはできない、罪の問題は解決したのです。これが神のくださった救いなのです。悲しいことに、多くのクリスチャンが自分の罪深さがよく分かるゆえに、自分を責めるのです。こんな私が救われているのだろうか?こんな私が…と。私たちクリスチャンがしっかり覚えるべきことは、私はキリストとともに死んだ、そして、キリストとともによみがえった、新しく生まれ変わった、罪が私を責めることはできない、罪の問題は永遠に解決したということです。そのことをしっかり覚えているなら、私たちはこの神が為してくださった救いに対して心から感謝するのです。もう私はさばきから完全に解放された、地獄は私の行くところではなくなった、永遠のさばきが私を待っているのではない、私を待っているのは永遠のいのちであり、天国であり、神のすばらしい祝福なのです。かつての私はもう十字架で死んだのです。そして、新しい自分がキリストとともによみがえったのです。これが神がくださったすばらしい救いです。生まれ変わるというのはこういうことです。新生とはこういうことです。こんな恵みを、こんな救いを神はくださったのです。すごいことです。イエスを信じて救われた人はこの恵みに今与っているのです。
そして、パウロは「バプテスマによってキリストとともに葬られ」と言いました。このことばを見て、ある人はこれは水のバプテスマだ、私たちが一般的に洗礼というもの、それによって救われるのだと言います。しかし、みことばはそんなことを教えていません。Ⅰコリント12:13でパウロはこのように言います。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」、一つの御霊によってバプテスマを受けたというのです。その結果、すべての者が一つの御霊を飲む者、一つのからだに属する者になったのです。救いのことです。人種も身分も関係ない、イエスを信じて罪赦されることによって、みな一つにされるのです。このバプテスマは水のバプテスマを指していません。御霊によるバプテスマ、聖霊のバプテスマのことです。ですから、聖書が教えることは、水のバプテスマ、洗礼によって人の罪は赦されないこと、割礼が赦さなかったように、どのような行為もあなたの罪を赦す行為ではない、あなたの罪が赦されるのは、キリストを信じる信仰によってのみということです。この聖霊のバプテスマは人生で一回だけのことです。キリストのからだに招き入れられる、救いに招き入れられるのは一回だけのことです。もし、それを疑うのなら私たちは神の救いを疑っていることになります。神は一回で完璧なことをされます。神のされることは常に完璧です。救いも完璧です。イエスを信じたならあなたは完全に永遠に間違いなく救われたのです。聖霊のバプテスマによってあなたはキリストとともに葬られ、キリストとともによみがえって生まれ変わったのです。では、水のバプテスマとは何でしょう?それは、神があなたの心の中に為してくださったその救いのみわざの証です。形をもってそれを示した型なのです。水にどっぷり浸かるのは、あなたはキリストとともに死んだことを意味します。そこから上がってくるのは、キリストとともにあなたはよみがえったこと、イエスを信じたときに神があなたの心に為してくださった、その救いのみわざを形をもって現わしたのが水のバプテスマなのです。ですから、水のバプテスマは人を救うものではないのです。
もう一度この12節を見てください。大切なところをぜひ見ておいてください。パウロはこの12節でこの救い、新生について教えてくれました。そして、彼はこう言います。「…神の力を信じる信仰によって、」と。何を信じるのでしょう?「キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰…」と、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、葬られ、そして、神はそのイエス・キリストを死から敢然とよみがえらせてくださった、そのことを信じるのです。キリストをよみがえらせた神を信じるのです。このイエス・キリストが私の罪を赦してくれる救い主だと、そのことを信じるのです。そのことによってあなたにはこの救いが与えられ、新しく生まれ変わるのです。感謝なことに、イエスは十字架であなたの身代わりとなって死んでくださった、でも、それで終わったのではありませんでした。神は敢然とイエスをその死よりよみがえらせてくださった、このキリストの復活はキリストが救い主であることの証です。キリストが神であることの証です。ここに私たちの希望があるのです。この死からよみがえって来られたイエス、そして、このイエスをよみがえらされた神、この方を私たちは私たちの神として、救い主として受け入れるのです。
そして、この救いというのは、新生であり、信仰によって与えられるものであり、同時に、神の恵みであると言います。「…キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされた」とあります。何を信じたらよいのかを今見ました。そして、パウロが教えてくれるのは、キリストを死からよみがえらせたその神の力が、実は、同じように罪の中に死んでいたあなたを救い出してくれるのだということです。今見て来たように、私たちはイエスを信じたとときに、私たちはキリストとともに死んだのです。そして、キリストともによみがえって来ました。キリストをよみがえらせたのは父なる神です。その力によって、罪の中に死んでいたあなたをよみがえらせてくれるのです。新しいいのちを与えてくれるのです。この「神の力」という、ここで使われている「力」はエネルギーの語源になっていることばです。この神の全能の力によって、キリストが死からよみがえってきたように、罪の中に死んでいたあなたを神は生かされると、そのようなことを神はしてくださる、これが神の恵みだと言うのです。私たちは何もできなかった、神のメッセージを聞いても何も分からなかった、しかし、神は私たちのうちに働き、このすばらしいメッセージを理解させてくださっただけでなく、神さま、私はあなたを信じたいです、あなたに従って行きたいです、今までの罪を赦してくださいと、そのように悔い改めて、主に従って行こうというこの信仰までも神はくださった、このようにして、神は私たちを救ってくれたのです。神はすごいわざを為してくれたのです。こんなことを神は私たちのためにしてくださったのです。あなたは救われて感謝だと言いますが、もしかすると、私たちが感謝する以上に感謝しなければいけないのかもしれません。というのは、よく分からずに感謝していたのかもしれないからです。これが神の為してくださった救いです。パウロは私たちに言います。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)と、私はキリストとともに死んだ、今私が生きているのは「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっている」、それによって私は生まれ変わった、新しいものにされたと、そのようにパウロは喜びながら生きたのです。
あなたは喜んでおられますか?救われたことを、神の子とされたことを喜んでいますか?こんな大きな犠牲のゆえに、こんな大きな恵みのゆえに、この救いは与えられたのです。この恵みを感謝する者にならなければいけない、この神を心から誇る者に私たちはならなければいけません。