06/05/21 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:偽教に惑わされるな3
聖書箇所:コロサイ人への手紙 2章10-23節
イエス・キリストの神性を否定したり、キリストを信じるだけでは救いにおいても信仰生活においても不十分であるという、偽りの惑わす教えが教会に入り込んで来ていました。そこでパウロはそのような間違った教えに惑わされないようにと、再び、人々に何が真理なのかを教えたのです。間違った教え、その一つは哲学でした。人間の知恵でした。そのようなものが教会に入り込んできたのです。そこでパウロは、人間の考えや知恵がいかに愚かなものであるかということを教えてくれたのです。人間の知恵ではなくて、主イエスにしっかり目を向けて歩んで行きなさいと…。なぜ、イエス・キリストに目を向けて歩んで行くことが必要なのか、その理由をパウロは私たちに9,10節で教えてくれました。一つ目に私たちが見たのは、1.イエスが神であるから、この方にしっかり目を向けて行かなければいけないと、それが9節に出て来たことです。そして、10節にパウロは二つ目の理由を挙げるのです。
☆なぜイエス・キリストに目を向けて歩んで行くことが必要なのか、その理由
2.イエス・キリストが満たし主だから 10a節
満たし主、あなたの心を満たしてくださる方だとパウロは教えます。10節には「そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」と記されています。イエス・キリストを救い主と信じたあなたの心を神は満たしてくださるのです。あなたはいかがでしょう?私自身、イエス・キリストを信じる前は自分の好きなことをやっていたように思います。ところが、自分が一人になって考えたときに、どうしても自分の心の中にあるその空しさというものを拭い去ることができなかった、その時は楽しいし、その時は喜んでいるのですが、そのようなものは長続きしなかった、というのは、一人になって自分の心を見つめてみると、そこには常に空しさがあったのです。イエスは、あなたの心をわたしが本当に満たそうと言われるのです。そのことがこの10節で教えられているのです。この10節の最初の部分だけを直訳すると、「あなたたちはいるのです、彼にあって、満ち満ちた」となります。
まずパウロは、このところに二つの動詞を使って大切なことを教えようとしました。これをぜひ覚えてください。
(1)二つの動詞
a.満ち満ちて=この動詞はことば通りです。満ちている、いっぱいにする、完備している、完全にする、十分、不足のない、あふれさす、とこういう意味をもったことばがここで使われているのです。ですから、パウロはあなたは内側から溢れ出てくるような、不足の全くない、満たされた状態になると、そのことを言っているのですが、実は、ここで言われている「満ち満ちている」という動詞の時制を見ると、完了形という時制を使い、しかも、それが受身になっているのです。自分でやることではないのです。私の心が満たされるというのは、自分が一生懸命努力して、その結果満たされるとそのように教えているのではなく、あなたの心はあなた以外によって満たされるということです。つまりパウロは、あなたの心は神が満たしてくださると言っているのです。しかも、完了という時制を使ったのは、それがいつ起こるのか、それはイエスを信じたその瞬間に、あなたの心は満たされるのです。そして、完了形であるのは、あなたは満たされた、そして、その満たされた状態が継続して続いているというのです。そのことは、この後の「いるのです」というもう一つの動詞を見ても分かることです。
b.いるのです=この動詞は現在形です。今話したように、イエスを信じ、神によって救われたその瞬間に、あなたは満たされ、その状態がずっと継続し続ける、そのことをまずパウロがこの10節で読者たちに教えたかったのです。神はずっとあなたを満たし続けていると教えているのです。ですから、私たちは心の空洞を埋めようと一生懸命自分で努力しても、それを得ることはない、神がくれるものだと言います。
(2)神ご自身の満たしを受けた
次に、この「満たし」は、神が満たしてくれるだけではない、神ご自身の満たしが与えられるのです。神ご自身の満たしが信じた人に与えられるとこの箇所は言っているのです。「キリストにあって」と訳されています。前置詞と代名詞がくっついています。つまり、ここでパウロが言っていることは、クリスチャンに与えられた「満たされた人生」は、すべてにおいて満ち溢れておられるイエスから与えられたものだということです。9節でパウロは、イエスには神のご性質が満ち溢れている神だと言いました。そして、イエスを信じたクリスチャンにはそのイエスがもっておられた満足が満ち溢れるのだというのです。そのことを詳しく見て行きますが、どんなにすばらしい祝福をクリスチャンは与えられているのか、私たちはしっかり覚えなければいけません。ヨハネ1:16にイエスに関してこのように記されています。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」と、そして、この前の1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。つまり、神であることばが人間となった、神が人となってこの世に来られたということです。そして、イエス・キリストは「恵みとまことに満ちておられた」のです。そのお方がイエス・キリストを信じる一人ひとりの上に恵みを与えてくれる、どのように?「恵みの上にさらに恵みを」と、これは祝福につぐ祝福です。祝福の継続です。恵みが次から次に与えられる、そのような特権をクリスチャンはいただいているのです。神の恵みは尽きることがない、神は恵みを与え続けてくださっていると、そのことをこのみことばは私たちに明かにしてくれるのです。私たちの信じる前の状態を思い出してみてください。イザヤがそのことを見事に表現しました。53:6に「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。私たち人間はまさに羊のように自分の好き勝手な生き方をしてきたと言います。そのために私たちには平安がなかったのです。だから、私たちはいつも恐れを抱いていたのです。恐れを拭い去ることができなかったのです。いつも私たちは混乱していました。真理が何か分からなかったからです。だから、死んだ後どうなってしまうのだろう、どうすれば私は本当の満足を得ることができるのか、幸せになることを願っているのになぜならないのか、どうすれば幸せになれるのか、罪の赦しをどのようにして得ることができるのか、感謝をもち続けて歩むことを現実にどうすればできるのか、どうすれば喜びをもって歩み続けることができるのか、どうすれば…、どうすれば…と、私たちはその答えを見い出すことができないで、自分の好き勝手に生きていたのです。しかし、私たちはそれで自分の望んでいるような生活ができたのでしょうか?心からの満足があったでしょうか?答えるまでもありません。イザヤが言ったように、私たちは皆羊のようにさまよって、各々自分勝手な道を歩んでいたのです。しかし、私たちはこのイエス・キリストを信じたとき、神が私たちを救ってくださったとき、私たちは捜していたものを見つけたのです。詩篇107:9に「まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」とあります。私たちの心の中にある渇きを満たしてくれるのは神だと言うのです。どんなに物をもっても、どんなに高い地位を得ても、どんなに人が理想とするような環境を手に入れたとしても、あなたの心の渇きは埋まりません。それを埋めることができるのは神だけだとみことばは私たちに教えてくれるのです。
初めに話したように、クリスチャンはすばらしい祝福をいただいています。どのような祝福をいただいたのでしょう?しばらくそのことを考えたいと思います。
◎神がくださる祝福とは?
本当の平安
あなたは神の平安を得たのだと言います。イエスはすごいことを話されました。ヨハネ14:27「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」、イエス・キリストはこんなことを弟子たちに話されたのです。弟子たちに平安を与える、それは世が与えるのとは違う、つまり、この世のいかなるものをもっても得ることができない平安だと言います。「あなたがたにわたしの平安を与えます」と、神が持っておられる平安を私たちに与えてくれるというのです。それが神の約束です。だから、「心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と言います。しかし、悲しいことに、このような平安をいただいていながら、この平安を日々経験しながら歩んでいるクリスチャンがどれだけいるかです。
本当の真理
また、神は私たちに本当の真理を教えると言われました。私たちは神から真理を教えられました。同じヨハネ16:13に「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」とあります。聖霊なる神が来ると私たちに真理を教えてくれると言うのです。神のおことばである聖書は私たちに真理を示してくれます。しかし、それを理解するために助けが必要です。イエスが言われるのは、聖霊なる神がやってくると聖霊なる神が聖書に記されている真理をあなたにしっかり教えてくれる、これはこの聖書の行間に書かれている特別な暗号や教えであるというようなことを言っているのではありません。ここに記されていることを正しく理解することができるように聖霊が助けてくれると言うのです。
本当の喜び
神の喜びです。伝道者の書5:20に「こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」とあります。毎日いろいろなことが私たちの生活に起こってきます。しかし、この人はそのような様々な出来事にくよくよしないと言うのです。それは、物事をポジティブに考えているからと、そんなことを言っているのではありません。その人の心の中には、そのような物事に動じない喜びが与えられているからです。神がそれらに優る喜びをくださっているから、いろいろな出来事に動揺しないのです。ヨハネ15:11に「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」と、イエスはすごいことを言われたのです。イエスを信じたあなたは神の喜びをいただいて歩むことができるのです。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり」と、イエス・キリストを信じる者にはこのような約束が与えられたのです。だから、いつも喜んでいなさいということが可能なのです。
本当の安息
マタイ11:28のみことばは皆さんよくご存じでしょう。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、私たちはこのみことばによって大きな慰めを得たと思います。このみことばを考えるとき、詩篇23:2「主は私を緑の牧場に伏させ、」のみことばを思います。これだけを見ると私たちは何も感じないかもしれませんが、羊という動物がここでたとえに使われていることを考えると、羊の習性を知ることが必要です。伝道者であり牧畜所の開発に従事したフィリップ・ケラーという人がいます。この人は「羊飼いがみた詩篇23篇」という本を書いたのですが、実際に、彼は羊飼いでした。そして、その牧場をいろいろ土壌改良してすばらしい牧場にしたのです。その人が羊が横になるために四つの条件がいると言っています。一つは、羊は非常に臆病な動物であるために、恐れがまったくない状況でなければならないのです。ある人が牧場に小さな犬を連れてきた、その犬が鳴いた瞬間にそこにいた羊が恐れて狂ったように暴れ回るのです。二つ目は、仲間のだれとも摩擦がない状態でなければならないのです。近くになって体が触れ合うようでは横になることができないのです。三つ目は、はえや寄生虫に悩まされていない状況でなければならない、はえの中に羊の鼻に卵を生みつけるようなものがいると、そこから虫がわいて脳にいって死んでしまうことがあるのです。羊ははえが飛んでくると一生懸命頭を振りながらはえを追い払おうとします。そのような状態では羊は横になることができないのです。四つ目、空腹だと横にならないのです。私たち日本人にはなかなか分からないことですが、羊とはこのような動物なのです。そうすると、「主は私を緑の牧場に伏させ」ると言ったとき、よほど羊にとって完璧な条件が整っているということです。羊が横になるということは、羊が安心して、その四つの条件が整っているからです。これがイエスを信じる私たちに神が約束してくださったことです。私たちが横たわれるように、神はすべてのことを整えてくださるのです。でも、どうしてでしょう?神の安息を本当に楽しんでいる人が少ないのか、なぜ私たちはいろいろなことを恐れ、不安を抱くのでしょう?神は私たちに本当の安息を与えると言われます。
恵み
どのような恵みでしょう?神は私たちを罪から解放してくださった、イエスを信じる者に、永遠の完全な罪の赦しをくださったのです。詩篇103:12には「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」とあり、何という慰めのことばでしょう。東と西とは絶対にいっしょにならない、手を結ぶことはできない、つまり、神が言われているのは、イエスを信じたあなたの罪を完全にあなたから引き離される、もうあなたは罪のさばきを受けることがない、あなたは救いをいただいた、罪の赦しをいただいたということです。
私たちを変えてくださる
同時に、神は私たちのうちに働いて、あなたや私を神に喜ばれる者へと変えて行こうとされました。Ⅱコリント12:9で「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」とパウロは言いました。パウロがこのことを言ったとき、恐らく肉体的に何かの病気があったのでしょう。彼はこの病を取り除いてくださったなら、元気になったら私はあなたのために仕えます、あなたのためにもっと何かをしますと言ったのですが、神が答えられたのは、病の中にあってもあなたはわたしに仕えることができる、なぜなら、わたしはあなたがその状況の中で、わたしに仕えるために必要なものはすべて備えているということでした。私たちはいろいろなことを言います。神さま、私はもう少し若かったらできますとか、健康だったらできますとか、こうだったらああだったらといろいろな理由をつけるのです。皆思うのです、こういう障害があるからできないと。パウロもそうでした、これが取り除かれたらと。ところが神の答えは、そのような状況の中にあって、そのような問題を抱えていても、なおもあなたはわたしに仕えることができる、それはあなたが仕えるために必要なことはすべてわたしが備えたからと言われるのです。神はそうして私たちを変えようとしてくださったのです。そして、そのために必要なものを神は備えてくださったのです。
永遠の備えができた
神はイエスを信じる者に永遠の約束をくださいました。ヨハネ10:28に「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」と、イエス・キリストを信じたときに、神は私たちに永遠のいのちをくださった、そして、その神がくださった救いは決して私たちから奪い取られることはないと言うのです。一度救われたなら永遠に救われたのです。神があなたを救ったらそれは永遠のものです。そのような約束を神はくださったのです。何度も何度も救われるために祈る必要はないのです。何度も救われるためにイエスを信じる必要はないのです。だから、パウロが言ったように私たちの国籍は天にあるのです。罪が赦されたからこのようなことができるのです。
本当の満足
イエスを信じた者にイエスは本当の満足を与えてくれました。実は、そのことを私たちは今日見てきたのです。パウロはⅡコリント9:8でこのように言いました。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」と。パウロはすべてのことに常に満ち足りる者になると言うのです。「常に」とは365日です。「すべてのことに」とは例外があるのでしょうか?神の約束というのは、どんなときでも常にすべてのことにおいて、神があなたを満たしてくれるというのです。
先ほど私たちは詩篇23:2のみことばを見ました。その1節に「私は、乏しいことがありません。」とダビデは言いました。なぜ、私は乏しいことがないのか、なぜ、私は満たされているのか、ダビデがそのように言えたのはどうしてでしょう?それは彼が言うように「主は私の羊飼い」だからです。神が私の羊飼いだから、しかも、この羊飼いは最高の羊飼いであるゆえに、羊に必要な食べ物を十分与えてくれるし、水を与えてくれるし、外敵から守ってくれるし、いつも私たちが病気でないか、元気であるかどうかを見てくれているのです。羊飼いはそのようにするからです。ダビデ自身羊飼いでした。羊を愛して羊のために一生懸命した。でも、ダビデが分かっていたことは、この私よりも完璧な羊飼いが私の羊飼いだということです。私がしたくてもすべてのことを完璧にはできない、けれど、神は私のために常にすべてのことを完璧にしてくださるというのです。そのことを知っていたから、ダビデは「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と言えたのです。彼は神がどんなにすばらしいお方かを知っていたから、私は乏しいことがない、この方が私の世話をしてくれている、この方が私の必要を全部知ってくれている、そして、その必要を必ず与えてくれると、そのような確信がこのような告白に至らせたのです。
今、私たちはクリスチャンに与えられた数々の祝福を見てきたのですが、その祝福を本当に喜んで楽しんでいるクリスチャンが少ないという、この現実はどうしたものでしょう?先ほど話したフィリップ・ケラー、羊飼いであり伝道者ですが、彼はおもしろいことを言っています。彼が羊を世話していたとき、一頭のとても美しい、毛並みも立派で体格もすばらしい、そして、輝いた目をした一頭の羊がいたことを記していました。その羊がいた彼の牧場は最上の草やきれいな水があるすばらしい牧草地だったのです。周りのどの環境よりも整ったものでした。ところが、その中にいたこの美しい羊には欠点がありました。彼女は不満だったと、羊飼いは言います。ですから、この羊はいつもフェンスの所にいって穴を掘るのです。何とかそこから抜け出して隣へ行こうとするのです。この牧草地は海岸線に近い所だったので、羊は賢くて塩の満ち引きをよく覚えていて、引いたときに垣根を通って隣へ行こうとしたのです。彼女は草のない褐色の焼けた牧草地でいつもえさをあさることになってしまうのです。なぜそんな所に行くのか、ここにこんなすばらしい祝福があるのに、ここには草がありきれいな水があるのに、なぜ、草のない汚い水しかない所に行こうとするのか、不満だったからです。悲しいことに、彼女は何度もそのことを繰り返しているのに、いつまで経ってもそれを学ばなかったというのです。自分が今置かれている環境がすばらしいということに気付かなかったのです。そして、彼女に子どもが生まれるのですが、その子どもたちはみなお母さんのまねをして穴を掘るというのです。今度は周りのみなもその通りにするようになったと言います。それを読んでいて思ったことは、どうして聖書の中で人間のことを羊にたとえているのかがよく分かりました。私たちもいつも不満を覚えています。そして、自分が不満であると、それは周りに影響を及ぼして行きます。不平不満をもっている人がだれかと話しているうちに、信仰の強い人ならその人のために一生懸命祈ろうとするかもしれません、また、その人に対してそれは間違っていると言うかもしれません。でも、弱い人だったら、クリスチャンもそうして行けば良いのだ、それは仕方がないと、そのような悪影響を及ぼして行くかもしれません。あなたは不満を抱いておられませんか?先ほどから見て来ているように、神がすばらしい祝福を与えてくださっているにも拘わらず、私たちは隣を見てしまうのです。確かに土は褐色だし草はあまり見えないし、水も汚そうだけれど、向こうに行ったら何かあるにちがいないと。そうして、偽りの教師たちは見事に人々を誘惑するのです。グノーシス派の人たちがしたことはそうでした。あなたはイエスを信じている、でも、それだけでは不完全だ、もっと特別なものがある、もっとすばらしいものがあると、そうして、人々を惑わしたのです。では、私たち信仰者がしっかりと、この神がくださった祝福を感謝しながら歩んで行くためには、どうすればよいのでしょう?
◎どうすれば神がくださる祝福を感謝して歩んで行けるのか?
ピリピ4:11でパウロはこのように言います。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」と。パウロは学んだのです。神から与えられたその祝福のすばらしさをしっかり理解して行くために、そして、いつも本当に満たされた人として生きて行くために、彼は学んだと言うのです。どのようにそれを学んだのでしょう?
私たちに与えられている祝福をしっかり覚えること
今私たちが見て来たような、神があなたに与えてくださったその祝福を忘れてはならないのです。なぜなら、このような祝福を人々は求めているのです。私たちもかつてそういうものを求めていた、どうすれば心が満たされるのか、どうすれば恐れを抱くことがなく平安のうちに喜びをもって歩んで行けるのか、神しかその答えを与えることができない、そして、私たちはイエス・キリストのところに来たときに、求めていたものを得たのです。だから、神が与えてくれたものをしっかり覚えることです。どんなに大きな祝福をあなたに約束してくださっているのか、そのことを覚えなければいけません。
主に対する信頼が必要
このようなすごい恵みを与えてくださった主に対して信頼をおいて行かなければいけません。Ⅰテモテ6:6を見てください。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」とパウロは記しています。「大きな利益」とあります。この後、パウロが教えるのですが、どんなにお金を得たとしても、そのようなお金や物質が与えてくれる喜びなんてはかないものだ、それに遥かに優る本当の喜びをどうすれば手に入れることができるのか、そのことをパウロはここで教えるのです。本当の心からの喜びを得るために必要なのは、お金ではない、物質でもない、「満ち足りる心を伴う敬虔」だとパウロは教えてくれます。これによって、私たちはこの世のいかなるものをもっても得ることができない喜びや満足をもって生きて行けるのです。「敬虔」ということばは、神を敬う、畏敬、信心、忠誠という意味で、Ⅰテモテ3:16を見ると「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
とあり、ここでは「宗教」と訳されています。「満ち足りる心」、実はこれが大切です。パウロはここで心の満足のことを言っているのです。心が本当に満たされることを言っているのですが、バークレーという神学者はこのことばについて、このように説明をしています。「ここに出て来る『足る』ということばは、ストア哲学者の間では合言葉になっていて、それは完全な自己充足を意味したのです。それは外的なものから完全に独立した、それ自体のうちに幸福の秘密をもっている精神状態がそれである」と。つまり、ここで言われていることは、心の中に満足の源があるために、周りの様々な出来事によってそれが流されることはないと言うのです。私たちはいろいろな状況に遭遇します。うれしい状況もそうでない状況も…、そして、物がなくて貧しい状況にあることもあります。でも、そのような様々な状況にあっても、心の中に満足の源があるからいつも満ち足りている、感謝にあふれているというのです。クリスチャンにはそれが可能なのです。どうすればいいのか、パウロがこのⅠテモテ6:6で言っているように、もし、あなたが主に対して敬虔に忠実に歩み続けて行くなら、あなたの心は満足で満たされて行きますと言うのです。そして、その本当の満足をもってより敬虔に主に従い続けて行くことによって、ますます心が満足で満たされて続けて行くと言うのです。ある神学者は「パウロは人は神にあってのみ満足を得ることができるということを知っていた。そのため、神への献身、忠誠はこの本当の満足の第一条件である。」と言っています。ということは、満足というのは神がくれるものです。私たちの問題は神を無視して生きたから満足がないのです。クリスチャンだといっても、神がせっかく満足を与えてくれたのに、神のところに行かないで他のところに満足を求めて行こうとするから、いつまで経っても満たされて来ないのです。だから、パウロが教えることは、神が満足をくれるのだから神に対して忠実に歩んで行きなさい、そうするなら、あなたに与えられたその満足は益々大きなものになって行く、どんな状況でもあなたは動かされることのない満足をもって生きて行くことになるということです。パウロは言います。そのように生きて行きなさいと。そのために哲学は必要ない、そのために必要なことは神があなたにどんな恵みをくださったのか、その祝福をしっかり覚えて、神に忠実に歩んで行きなさい、神に信頼をおいて歩んで行きなさい、そうすれば、あなた自身が変えられて行くと言うのです。
もう一度コロサイ書に戻って、なぜ、私たちがどんなときでもイエスをしっかり見て歩んで行かなければいけないのか、パウロが二つ目に教えてくれた理由は、この神があなたを満たしてくれるからだということでした。三つ目の理由がこの10節の後半に出てきます。
3.イエス・キリストはすべてのもののかしらだから 10b節
「キリストとはすべての支配と権威のかしらです。」と、つまり、パウロはここで、現在のイエスの役割とか任務を強調して教えているのです。イエスが何をしておられるのか、イエスはすべてのもののかしらだと言います。そして、2:19のみことばを見ると「かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」
とあり、ここで教えていることは、このキリストがすべての力やいのちの源であるということです。そのようなお方であり、あらゆる支配と権威の上に立っておられるお方、そういう主権者であるということを言っているのです。もうすでに1:16で見て来たように、「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」、この権威というのは天使たちのことです。だから、イエスとは神であるだけでなく、天使たちすべての上に君臨なさる主権者だと言うのです。Ⅰペテロ3:22でペテロは「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」と、キリストがすべてのものの支配者だと言っています。イエスが神だというなら、私たちはそれ以外のだれを求める必要があるのでしょう?イエス・キリストだけが私たちの心を本当に満たしてくださるお方なら、それ以外のどこに私たちは本当の満足を求めて行こうとするのでしょう?イエスはすべての主権者だと言います。この方以外にどうして私たちは目を向ける必要があるのでしょう?パウロは、このお方をしっかり見ていなさいと言いました。この方こそが唯一の神であり、あなたを本当に満たしてくださる満たし主であり、そして、すべてのものの上に立っておられる主権者であると、この方だけでいいのです。あなたの救いにも、あなたの信仰生活にも、このお方だけが私たちにとって必要な唯一のお方なのです。それがパウロがこの箇所を通して私たちに教えてくれている大切な真理です。