06/05/07 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:偽教に惑わされるな2
聖書箇所:コロサイ人への手紙 2章9-10節
「だまされないようにしなさい」とパウロはその書簡の中で繰り返し読者たちに警告しました。彼は6度「だまされないようにしなさい」という命令を与えたのです。というのは、もうすでに私たちが見て来たように、もしあなたが神に救いを求め、救いをいただき、神にあってその信仰が成長し、その信仰が強くなることを願って歩んでいるなら、間違いなく、神はあなたの心の中に働き続けてくださり、あなたはどんどん変えられて行きます。パウロが教えてくれたように、そのように生きる人は感謝があふれ出る人になります。ですから、信仰の状態というのは、その人が本当に感謝にあふれているかどうか、喜びにあふれているかどうか、そのことによって分かるのです。神は私たち一人ひとりイエス・キリストを信じる者たちに、すばらしい祝福をくださった、しかし残念ながら、その祝福を喜んでいない、感謝していないクリスチャンがたくさんいるという現実は非常に悲しいことです。あなたからその喜びを奪おうとするものがいっぱいいるのです。あなたからその祝福を、祝福と感じないようにと惑わすものがいっぱいいるのです。ですから、パウロは偽りの教えに惑わされるなと読者たちを励ますのです。
すでに私たちが学んで来たように、異端で偽りの教師たちであったグノーシス主義の人々は、クリスチャンたちを見て、私たちはあなたたちよりも優れた知恵や知識がある、自分たちは真理をもっていると自負していました。そして、信仰者たちをあざ笑っていたのです。間違った教えをもって、間違った方向へと彼らはクリスチャンたちを、そして、まだ信仰に至っていない人たちを惑わし続けていたのです。そのような状態の中にこのコロサイの教会はあったのです。教会の内側から外側からさまざまな偽りの教えの誘惑がありました。パウロは救われたクリスチャンたちがしっかりと神の真理に立って、決してこの喜びを失うことがないように、祝福を失うことがないように、喜びながら感謝しながら生きて行けるように、そのことを望んだのです。そして、同時に、まだイエスのこのすばらしい祝福に与っていない人々がこの祝福に与れるようにとパウロは願い、しっかり真理に立つようにと教え続けるのです。
すでに8節で「…注意しなさい。」と見ました。パウロはこのような危険が、このような誘惑が、このような惑わしが、現実に今教会に起こっていることを知っていました。この危険が現実のものであることを知っていたゆえに、現在形の命令文を、しかもこの命令形を文章の最初にもってきたのです。将来的に起こるかもしれないというのではありません、今すでにそのことが起こっていることをパウロは確信していたからです。
そして、どのような人々が惑わしを与えるのか、グループの名前を挙げていました。前回私たちが見たのは哲学でした。8-10節に出てきました。つまり、人間の知恵です。そのようなものに頼っていてはいけない、そのようなものを私たちがいくら求めても一番欲している罪の赦しも本当の幸せも得ることはないと、パウロは教えました。なぜなら、彼らは神のおことばである聖書から完全に離れてしまっているだけでなく、その本当の知恵の源である神を否定してしまっているからです。だから、パウロはそんなものに心を奪われてはならないと教えたのです。このようなことをしてはいけないと教えたパウロは、では、このようなことをしなさいと9節から教えるのです。間違った教えに耳を傾けてはいけない、そういうものに惑わされてはならない、かえって、こういうものにしっかり目を留めて置くようにとパウロは言います。9節「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」。なぜ、私たちはキリストに目を留めるべきなのか、その理由がここに記されているのです。
☆イエス・キリストに目を留めて生きて行くこと、その理由
1.キリストが神だから
この9節のみことばは恐らく新約聖書の中でも、イエス・キリストの神性、イエスが神であるということを最も明確に教えている箇所のひとつです。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が…」、今私たちはイエスがいったいだれなのか、このパウロのみことばを見るのですが、パウロは「神の満ち満ちたご性質が」このキリストのうちにあると言います。非常に大切なことをパウロはここで教えています。神のご性質とパウロは言いました。神であることです。神性、神のご性質です。神格、神の本質です。それがこの「神のご性質」ということばの意味です。そして、このことばは新約聖書の中でこの場所にしか使われていない、非常に強いことばです。なぜなら、パウロはそのことを強調したかったからです。何度も話しているように、間違った教えはイエスが神であることを否定するのです。ですから、パウロはこのイエス・キリストは真の神であると強調したのです。そして、満ち満ちたということば、これは名詞ですが、このことばはもうすでに私たちが学んだことばです。1:19に「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、」と「満ち満ちた」ということばがここにも出てきました。プレローマというギリシャ語が使われています。このことばは「満たす、いっぱいにする、完全にする」という意味をもっています。なぜ、パウロがこのプレローマということばを使ったのか、理由があったのです。というのは、グノーシス派の人たちがこのことばを用いていたからです。そして、彼ら自身が信じる神の説明をしていたのです。彼らは世界の創造主であるユダヤ人の神は至高の存在ではない、劣った存在だと言います。というのは、「絶対者である至高存在は何事にも言い表わせないほどの知られざる言語に絶する偉大なお方である。あまりにも偉大なお方、ことばに表わすこともできないし、そのすべてを知ることもできない、そのような偉大なお方であるゆえに、この世界から完全に無限に離隔して、神の充溢であるプレローマの霊的な光の中にいる。」と言ったのです。霊的な光、このプレローマの中に神はいるとし、それが絶対者なる神であると言うのです。そこで、パウロはそのプレローマ、霊的な光という彼らが用いていたことばを使って、まさに、それがイエスのうちにあるのだと言ったのです。イエスのうちに満ち満ちている、このプレローマだと。だから、パウロがしようとしたことは明らかです。間違った教えが入り込んでいるこの教会の人々に対して、キリストのうちにこそ、神のご性質のすべてが満ちあふれている、つまり、イエス・キリストこそが彼らも言っている絶対者なのだと言わんとするのです。ですから、この9節でパウロが伝えたかったことは、イエスは最も偉大で至高の存在である、つまり、神ご自身であるということをここでも再び彼は訴えたのです。
しかも、そのことを強調するために「すべて」という形容詞をつけています。1:19でも2:9でも「神のご性質のすべてが満ち満ちて宿っている」と言います。敢えてパウロがこの「すべて」ということばをつけた理由は、どこを見てもイエスは神だということです。彼は神の本質の一部だけを備えているのではなくて、神の本質のすべてを備えた存在だというのです。このことは大切なことでしっかり教えなければいけないことでした。というのは、キリストの神性が間違った教師たちの標的だったからです。
2.キリストは人となられた神だから
二つ目にパウロはこのように言いました。9節「形をとって宿っています。」と。「形をとって」ということば、この副詞は「肉体化して」、肉体をもってということです。つまり、この副詞はイエスの人としてのからだを指しているのです。イエスがからだをもったというのです。そして、「宿る」と言いました。これは「そこを家として住む」ということです。しかも、現在形を使ったのです。つまりパウロは、このイエス・キリストの肉体の中に神のご性質が住んでいる、住み続けていると言ったのです。ですからパウロは、イエス・キリストとはだれなのか、その質問に対して、イエスは肉体をもった、人となった神だと言ったのです。では、イエス・キリストは人となった時点で神となったのでしょうか?そうでないことは明らかです。みことばがそのことを私たちにはっきり教えてくれます。ヨハネ1:1には「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。エホバの証人はこれを使ってイエスは神でないと言わんとします。しかし、みことばを正しく見るなら、このみことばは私たちにイエスが神であることをしっかり教えてくれています。このみことばは「初めにことばが存在した、初めからことばがあった」と教えます。では、その「ことば」とは何でしょう?神だと言います。では、「ことば」とはだれなのか?1:14に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあり、明かにイエス・キリストのことを指しています。つまり、このヨハネ1:1が教えることはイエス・キリストは最初から神だ、人となる前からイエスは神だということです。ピリピ2:6-7には「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」と記されています。つまり、パウロがこのピリピ書で教えようとしたことは、イエス・キリストは人となられた、しかし、イエス・キリストは神の御姿であられた、つまり、神ご自身であられたということです。そのようなお方が人となってこの世に来てくださったと。ですから、みことばを見るなら、イエスが肉体をもってこの世に来たときに神になったのではない、イエスはその前から神だったことが明らかです。
そして、この地上にお見えになって人として生活されたとき、彼は人間となって神でなくなったのかというと、そのようにはみことばは教えていません。地上に人として来られたときも彼は神でした。先ほど見たヨハネ1:14に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあり、また、1:18にも「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とあります。だから、イエス・キリストはこの地上に来られたとき、神がどのようなお方かを明かにされたと言うのです。「父のふところにおられる」お方、身近な存在ということです。その方が神とはどういうお方なのかを、ことばをもって、その生き様をもって明かにしてくれた、そのお方は「ひとり子の神」だと言うのです。ですから、イエスが地上に人として来られたときに、神でなくなったのではない、地上におられるときも神だったのです。
同じヨハネが書いたヨハネの手紙第一でも、ヨハネはイエス・キリストのことをこのように教えています。1:1-3「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、:2 ――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」、最初から存在している神が人となってこの世に来てくださった、肉体をもってこの世に来てくださった、そして、私たちはその方を見、その方に触れたのだと。そして、私たちの交わりは「御父および御子イエス・キリストとの交わり」だと言い、ヨハネは私たちにここで交わりにおいて父なる神とイエス・キリストとを並列に並べています。同等だからです。もしそうでなければ、これは神に対する冒涜です。神と交わりを持つことができる、そして、キリストとの交わりでもあるとヨハネは言います。なぜなら、イエス・キリストは父なる神と同じ神だからです。みことばを見て行くと、私たちはみことばが繰り返して教えてくれる「イエスは神だ」というメッセージに気付かされます。イエスは昔から神であられ人となってこの世に来られたときも、確かに人として肉体をもたれましたが、彼は人でありそして神であった、そして、これから先も神であることに変わりないのです。それがイエス・キリストであるということを、このみことばが私たちに教えてくれたことです。
このようなことがみことばによって教えられているにも関わらず、間違った教えがいっぱい入り込んできます。それは昔も今も変わりません。偽りの教えが私たちの周りにはあふれています。今私たちが見て来たように、イエス・キリストが真の神であるということを否定する教えは私たちの周りにあふれています。パウロがこの手紙を書いたときも異端は存在していました。ヨハネの手紙第2を見てください。ヨハネはこのような偽りの教師たちについて、次のようなことを教えています。7節「なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」と。ヨハネはここで惑わす者たち、反キリストとはどういう人々なのか、どういう教えを説く人々なのか、どういうことを信じていない人々なのか、そのことを記しています。ここには「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者」とあります。つまり、彼らはイエス・キリストの受肉を信じないのです。救い主が人としてこの世に来てくださった、肉体をもってこの世にお生まれになったということを信じない人々です。これが惑わす者であり、反キリストなのです。Ⅰヨハネ4:2を見てください。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」とあります。先の箇所とよく似ています。Ⅱヨハネ7では、こういうことを信じていない人が惑わす者であり、反キリストだと言いました。Ⅰヨハネ4:2では、こういうことを信じている人がクリスチャンだと言います。この二つの違いが何かというと、人となって来られたイエス・キリストです、つまり、イエスが人としてこの世にお生まれになったかどうか、そこがこの二つを分けるものだとヨハネは言うのです。Ⅰヨハネ4:2で「人となって来た」と書かれていますが、この「来た」という動詞は完了形を使いました。Ⅱヨハネ7に「人として来られた」とある「来られた」は現在形です。ヨハネ自身が教えたかったこと、伝えたかったことがこの時制を見ても分かります。すなわち、4:2ではイエス・キリストが人となってこの世に来られたというのは歴史的な事実である、そのことを明らかにするために完了形を使ったのです。そして、Ⅱヨハネ7でイエス・キリストが人としてこの世に来られたというのを現在形にしたのは、その事実は時間が経った今も何も揺らいでいない、その歴史的事実は今も事実であり続けるというのです。ですから、このヨハネにしても、またパウロにしても、彼らが私たちに教えることは、イエスはこの世に人としてお生まれになった、神である方がすべての点において完璧に神である方が、人間となってこの世に来てくれた、イエスは神だというのが、このパウロのメッセージなのです。そのことを彼はコロサイの人々にしっかり分かっているように、それから動かされてはならないということを願って教えたのです。
先ほどから言っているように、このことを否定する人々、また、そのような教えは私たちの周りにあふれています。「エホバの証人」はキリストの神性を否定しています。彼らはイエスが神であることを信じません。彼らの神学によればイエスは最高の天使であり、その大天使が受肉したのであって、神が人となったのではないと言うのです。メリー・ベーカー・エリという人が始めた宗教です。イエスは神でないと。でも、この教えは昨日今日に始まったのではないのです。実は、4世紀にそのようなことを教えた人がいたのです。アリウスという人でこの人の教えをアリウス主義と言います。紀元325年、コンスタンティノスがニカイヤ会議を招集しました。その時に、このアリウスが教えたアリウス主義は異端であるとの宣告を受けました。つまり、ニカイヤ会議において「イエスは神である」ことが再認識されたのです。というのは、その時代にイエスが神でないという教えが入り込んできたため、そこで、イエスは間違いなく神であるという結論が出たのです。この後、このアリウス主義は紀元650年頃に消滅したと言われています。ところが、今私たちが見ているエホバの証人は彼らと同じことを教えているのです。アリウスの教義はエホバの証人の教義と同じです。また、このアリウスは現在エホバの証人が用いる同じ議論の多くを用いたと言われています。ということは、サタンはどんな時代でも同じように人々を惑わし続けようとするのです。その一つの教えが終わったとしても、サタンはそれで攻撃を止めるのではない、必ず、彼はいろいろな方法で人々を惑わし続けようとします。
先ほど325年のニカイヤ会議のことを話しました。今また、私たちは大変な局面を迎えようとしています。このニカイヤ会議に関連した小説、また、その映画が全世界的に話題になっています。「ダヴィンチコード」と言います。ダン・ブラウンの書いた小説です。それが映画化され、来週、全世界で同時に放映されます。2003年の発売以来、これまで42ヶ国語に翻訳され、世界で2000万部以上の売り上げを記録しています。日本でもベストセラーになっています。でも、アメリカ・シカゴのムーディー教会の牧師、アーウィン・ルーツァーはこう言います。「キリスト教に対してこれほど危険な攻撃は、私の30年の働きにおいても記憶にない」と、彼はこのように言ってこの小説、映画化に警鐘を鳴らしているのです。なぜかというと、二つの大きな問題があるのです。一つは、この小説、映画の問題は、イエス・キリストの神性を否定するのです。彼らはイエスの神性は紀元325年のニカイヤ会議において、コンスタンティノス帝によって初めて布告されたと言うのです。それまではイエスは普通の人間だったと言います。そして、コンスタンティノスが政治的な目的によってイエスを神としたと言うのです。二つ目の大きな問題は福音書の否定です。ダヴィンチコードはグノーシス福音書は新約聖書よりも信頼のおけるものであると言います。このグノーシス福音書については後で説明します。彼らが言っていることは、今私たちが手にしているマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書は信頼に値しないということです。だから、彼らはイエスが十字架にかかったことも否定します。皆さん、私たちが今注意しておかなければいけないことは、このような小説がベストセラーになり、これが映画化され、全世界に流れることです。話題性が大きいから日本でも多くの人が映画を見に行くでしょう。それによって、彼らはイエスは神でない、福音書は信頼するに値しないというメッセージを受けるのです。
では、彼らが信頼するグノーシス福音書とはどんなものでしょう?1945年12月にエジプトで発見されたナグハマディ文書という、その中に含まれていた巻物です。トマス、ピリポ、エジプト人、そして、真理の福音書と言われているのです。どんなことが書かれているのか?これらは外典と言われます。私たちが手にしている聖書は正典と言われますが、これ以外の書物は外典で、グノーシス福音書のほとんどは日本語に訳されています。本屋で見付けることができます。まず、トマスによる福音書ですが、イエスがお語りになったことをデドモ・ユダ・トマスが書き記したと言います。このような箇所があります。「イエスが彼の弟子たちに言った。わたしをだれかに比べて見なさい。そして、わたしがだれと同じであるか言って見なさい。」、マタイの福音書に出て来るイエスと弟子たちとの会話によく似ています。でも内容はすごいです。「シモン・ペテロが彼に言った。あなたは義なる御使いと同じです。マタイがイエスに言います。あなたは哲学者、賢者と同じです。」と。他の箇所を読むと、当時の教会、すなわち初代教会があたかも女性蔑視をしていたように取れます。「シモン・ペテロが彼らに言った。マリファム(恐らくマグダラのマリヤのことでしょう)は私たちのもとから去ったほうが良い。女たちはいのちに値しないからである。イエスが言った。見よ、わたしは彼女を連れて行くであろう、わたしが彼女を男性にするために、彼女もまたあなたがた男たちと同じ生きる霊の者になるために。なぜなら、どの女たちも彼女らが自分を男性にするなら天国に入るであろうから。」、このようなことが記されていて、このようなことを人々は受け入れようとしているのです。ピリポによる福音書、ここにはマグダラのマリヤのことが書かれています。「三人の婦人がいつも主とともに歩いた。彼の母マリヤとその姉妹と人々が彼の伴侶と呼ぶマグダラのマリヤである。なぜなら、マリヤは彼の姉妹で彼の母で彼の伴侶である」とこれによるとイエスはマグダラのマリヤと結婚し子どもが生まれているのです。また、「不妊と呼ばれるソフィア、彼女は天使たちの母である。そして、キリストの伴侶はマグダラのマリヤである。主はマリヤをどの弟子よりも愛した。彼は彼女にしばしば口づけした。彼の弟子たちが彼女を非難して彼に言った。『なぜあなたは私たちすべてよりも彼女を愛するのですか?』、主は彼らに答えて言った。『なぜわたしは彼女のようにあなたがたを愛さないのであろう』」と。読んでいると頭が痛くなってきます。でも、もっと頭が痛いことは、これが聖書に代わるものだという嘘に人々はだまされつつあるということです。恐ろしいことです。また、福音書の中には入っていませんが、マリヤの福音書というのがあります。これはマグダラのマリヤの福音書です。「マグダラのマリヤがイエスの最も信頼のおける後継者だったことを示唆している。イエスはマリヤに特別な啓示を与えた。しかし、アンドレもペテロも反発した。」とあります。確かに、福音書のいろいろな部分は失われていますから、断片的にしか分からないのですが、少なくともそのような記述は残っているのです。しかし、このダヴィンチコードの小説、映画においてはイエスは教会をマリヤの上に建てようとされたのです。しかし、権力を欲していた人たちはそれを聞いて怒り、そして、それを彼女から奪い取り、ペテロの上に教会を建てたと言っています。皆さん、このダヴィンチコードは教会がこれらの真実を何世紀にも渡って隠し続けてきたと言っています。どうして、ダヴィンチコードと呼ぶのか、ダヴィンチの暗号です。というのは、実はあのレオナルド・ダヴィンチは真理を知っていた、ところが、その真理を公にすると超保守的ローマカトリックの一派からいのちを狙われるために、秘密の暗号として、彼が描いた「最後の晩餐」の絵にそれを隠したというのです。このダヴィンチコードの著者ダン・ブラウンは歴史上の記述はすべて事実に基づくものであると主張して、こう言います。「ダヴィンチコードを特異なものにしている特色のひとつは、物語が事実に基づいた性格のものであるということです。小説のすべての歴史、芸術、古文書と秘密の儀式など、小説に登場するものはどれも正確です。」と、こんなことを言うものですから、人々は「本当かな?」と思うのです。グノーシス福音書も言います。これは皆さんに神秘的みことばを提供しますと。神秘的みことばとは何でしょう?
敢えて、この時間に皆さんにこんな話をしたというのは、私たちは今現実に目を向けなければいけないからです。こういったことが今世の中に起こってきているのです。こういったことをもってサタンは見事に人々を間違った道へと惑わそうとしているのです。実際に、このダヴィンチコードを読んで、世界中で多くのクリスチャンたちが信仰に疑問をもち始めたと言います。なぜなら、土台とした福音書が偽りであり、キリスト教会はこの真実をずっと隠していたなどと言われると、しっかり真理に立っていなければぐらつきます。しかも、これは歴史的事実だと言われたなら、多くの場合防御のしようがありません。また、未信者の人たちも、教会は嘘を伝えているから行かないと言う人が出てきていると言います。世界的に大変な影響を及ぼしているし、これからも映画が封切られると間違いなく及ぼして行きます。インターネットを見るとたくさんの書き込みがあり、その人たちは小説に感銘を覚えて、教会に対して疑問を投げかけています。今、このような敵を私たちは目の当たりにしています。時代がどう移り変わろうとサタンは巧妙です。惑わし続けることを決して止めようとしません。このダヴィンチコードでは、先ほどから話しているニカイヤ会議において、現在の4福音書が正典と認められ、グノーシス福音書は加えられなかったのだと彼は言います。しかし、ニカイヤ会議を勉強すると、そのような話は会議ではされていません。先にも言ったとおり、キリストの神性を否定するものが出てきたので、それについての話がなされました。三位一体のことが話されました。しかし、この四つの福音書が果たして正典がどうかなどは話されていないのです。しかし、そのようなことを知らない人々には、この話はあたかも真実のように取れるのです。こうして見事にサタンは彼らの心を捕らえて行きます。
今日見て来たように、ヨハネはイエス・キリストの受肉を信じないものは異端だと言いました。それを信じない人は私たちの周りにあふれています。どの時代であっても。そして、皆さん、この神は全能です。全能の神ならご自分のメッセージをそのような過ちから守ることができます。なぜ、嘘を信じることを神はよしとされるでしょう?なぜ、嘘によって私たちの人生が変わって行くのですか?私たちはこの神が全能のお方であるゆえに、このお方に信頼するし、この神が与え守り続けてくださったみことばに信頼を置くことができるのです。私たちが手にしているこの聖書こそが神のみことばです。これこそが神の真理です。人々はこのためにいのちをかけてきました。ですから、あなたもそのような惑わしの教えに対してしっかり心を守らなければいけないのです。真理に立たなければいけないのです。このみことばに…。クリスチャンである皆さん、確かに、このようなことが私たちの周りに起こっています。
でも、私たちはこのような様々な攻撃に対して、その中でも期待をもちます。どんなふうに神はこの機会を用いられるのかと。神はその悪魔の攻撃に対してどうしようなどと思いません。最善がなされて行きます。私たちクリスチャンはこのようなことで惑わされている人に対して、みことばをもってしっかり真理を語り続けて行くことです。希望をもって、主のみこころがなされ、主の栄光が現わされて行くことを信じながらです。そして、同時に、私たちの敵の攻撃を知ることも必要です。主がどんなことをなしてくださるのか、そして、主がどのように私たちを用いてくださるのか期待しながら、神の真理を正しく伝えて行きましょう。それが私たちの責任です。