06/04/09 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:主の力によって生きる日々5
聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章24節-2章7節
神に忠実に生きて行こうとすれば必ずいろいろな困難に遭遇します。最近もニュースにあったようにアフガニスタンでひとりの人がキリスト教に改宗することによって裁判を受けているということがあります。様々な困難の中、それでも主のみこころに従い続けたパウロ、どんな時でも彼は主の教えに忠実に歩み続けました。どうしてそのようにできたのか、私たちがもうすでに見て来たように、彼は次のことをしっかり覚えていたからです。これらのことが彼の信仰の支えでした。
1.彼は主の約束を覚えていました。さまざまな困難には原因と目的があると、そのことをしっかり覚えて忘れることがありませんでした。
2.自分は神から大切な務めをいただいていることを覚えていました。神が私を信頼しすばらしい務めを与えてくださったと。皆さん、あなたにも同じように神はすばらしい務めを与えてくださっています。パウロはそのことをしっかり覚えていたゆえに、忠実に歩み続けようとしたのです。
3.自分が語らなければいけないメッセージは、神からいただいたメッセージであることをしっかり覚えていました。自分の語りたいことを語るのではなく、神が託してくださったメッセージを語らなければいけない、だから、彼はみことばを妥協することなく語り続けたのです。
4.このような働きをして行くためには神の力が必要であること、その力が備えられていることを彼はしっかり覚えていました。神の力によって生きるのだと。
5.彼は神の愛を忘れことがありませんでした。
どうして彼は、このコロサイ、ラオデキヤ、ヒエラポリス、その近隣の人たちのために祈り続けてきたのでしょう?それはもう見てきたように、彼らを愛していたからです。神の愛が分かったパウロは人を愛する者になったのです。彼がこの人たちのために祈ったことは彼らの信仰が成長することでした。どんなに場所が離れていようと、彼らに一度も会ったことがなかったとしても、彼はこれらの教会に入り込んできた異端に彼らが惑わされることなく、信仰において成長することを心から願い必死に祈り続けたのです。教会に入り込んできた偽りの教師たちは、イエス以外によって本当の知恵と知識を得ることができると教えました。なぜそのように教えたのかと言うと、彼らはイエスが神であることを信じなかったからです。イエスが神でない以上、イエスは我々の問題に解決をもたらすことができないというのです。神でないから我々を救うこともできないし、神でないから人の意見に耳を傾けるべきだと、そう言って彼らはイエス・キリストに本当の知恵と知識があるということを認めようとはしませんでした。そこでパウロは、このイエス・キリストに本当の知恵と知識が存在するのだということを教えようとするのです。なぜなら、イエスが真の神だからです。パウロが訴えようとしたことはイエスが真の神だからこの方に聞けばいいのだということです。この方は真の神だから、この方に本当の知恵があるのだということを教えようとしたのです。私たちがもうすでに見たように、この2:2に「…神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」と、キリストのことを「神の奥義」だと述べています。つまり、隠されていた神が見える姿をもって現われた、それがこのイエスなのだと言うのです。イエスを見たときに、私たちは神がどのような方かを知ることができるのです。みことばが私たちに教えてくれること、そして、パウロがこの人々に訴えようとしたことは、イエスは神だということです。ゆえに、イエスは私たちに最も必要な罪の赦しをもたらすことができるし、私たちに知恵をもって様々な疑問に答えることができると教えたのです。パウロはこれらの教会に異端が存在する現実をふまえて、そのクリスチャンたちが信仰において成長することを心から願いました。そして、彼はその成長することの大切さを教えているのです。
☆成長の大切さ
1.あやまちに陥って行かないため
見ていただきたい箇所は2:4です。「私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。」と教えます。なぜ、あなたの信仰は成長すべきなのか、パウロはあなたの信仰が成長するなら、あやまちに陥らないからと言います。なぜ、このような警告をパウロは繰り返し発したのでしょう?それはパウロが敵の存在を認めていたからです。そして、ペテロもそのことについてこのように言っています。Ⅰペテロ5:8に「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」、ペテロも言ったように敵がいるというのです。その敵は人々を惑わし人々が真理から外れるように働き続けている、休むことなく熱心にそのわざを成し遂げようとしていると、そのことを警告したのです。私たちもしっかり覚えておかなければいけません。私たちは様々な敵の攻撃を受けているということです。
どのようなことを敵は望んでいるのでしょう?彼の狙いは何なのでしょう?そのことについて、マタイ16章でペテロとイエスの会話の中に見ることができます。皆さんもよく覚えておられることでしょう。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」というイエスの質問に弟子の一人のペテロがこう答えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と。その時イエスは「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と言ってすばらしい称賛を与えるのです。ところが、イエス・キリストがこれから十字架にかかって死ぬということを話し始めたときに、ペテロはイエスを引き寄せていさめ始めたのです。マタイ16章に出て来る記事です。そして、マタイ16:23、その時にイエスはペテロにこう言います。「…「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と。これが敵であるサタンの狙いです。ここで使われている「邪魔」ということばは、鳥獣などの捕らえる「わな」の意味があるのです。ですから、人に罪を犯させるとか、罪へ誘惑するものという意味です。ぜひ、覚えていただきたいことは、このような神に用いられた偉大な信仰者ペテロを、サタンは使ったのです。ということは、あなたも使うことができるのです。サタンはペテロを用いてイエスに対してわなを仕掛けたのです。そのことをイエス・キリストは指摘されたのです。もう一度、コロサイに戻って、サタンの策略をここにも見ることができます。「まことしやかな議論…あやまちに導く」と記されています。「まことしやかな議論」とは、「説得力ある」と「ことば」という二つのことばの合成語です。そこから「もっともらしい巧みなことば」という意味をもちます。ですから、偽りの教師たちを支配しているサタンが何をしようとしているのかというと、非常にもっともらしいことをもって人々を惑わそうとするのです。いかにも真理らしいことを言って人々を惑わすのです。また、「あやまちに導く」という動詞が記されていますが、これも「あやまって」と「論ずる」という二つのことばが合成されています。ですから、あやまった議論を行なって人を欺く、騙すということです。こうして、サタンは人々を混乱へと陥れます。キリスト者の信仰が成長しないようにと邪魔するのがサタンの仕業です。あなたの信仰が成長しないことを望んでいるのはサタンです。あなたが幼子であり続けるのを望んでいるのはサタンです。なぜなら、幼子であったならあなたはすぐにいろいろな教えに惑わされる、あなたの信仰はいつも浮き沈みが激しいのです。ある時はしっかりしているがある時はそうでない、ある時は喜んでいるがある時はそうでない、そのように弱い信仰者であり続けることをサタンは願い、そのために様々な働きを為すのです。Ⅰテモテ4:1に「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」とありますが、皆さんがもう気付いておられるように、今の日本の状態、テレビを見ても雑誌を見てもこのサタンの働きを見ることができます。そのようなものがいっぱいです。占いによって運勢を教えようとすることなど、それらすべての背後にあるものはサタンです。神のところに導いて行こうとしないもの、それはすべて神の敵の為すわざです。そういうものが溢れていますから気をつけなければいけないのです。知らず知らずのうちに私たちの周りにそのようなものが入り込んできます。だれが人々を惑わし聖書の真理から外れるようにと働いて行くのでしょう?サタンです。イエスが神であることを否定する教えはすべてサタンの働きです。ですから、異端というものを見たとき、それらに共通していることは、イエスが神であることを認めません。なぜなら、その教えを教えているのは神ではなくサタンだからです。サタンが一番望んでいること、それはあなたがイエス・キリストを信じて救いに与らないことであり、あなたがイエスを信じたのであればあなたの信仰が成長しないことです。ですから、そのために様々なことをもって、まことしやかな、あたかも真理に近いような話をもって、あなたを間違った方向に導いて行くのです。
このサタンの働きを一番明確に記している箇所は創世記3章です。エバの誘惑のところですが、ここにサタンがどのように働くのかをしっかり見ることができます。3:1-7からサタンが行なった三つのことを見ます。(1)みことばに疑いを抱かせる。神の言われたおことばに疑いを抱かせるように働くのです。1節に「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」とあります。エバは神のメッセージを聞いているのです。しかし、「ほんとうに言われたのですか」
と神が言われたことに疑いを抱かせるのです。みことばを信じて信頼して生きるのではなく、そのようなことを疑うようにサタンは働きます。みことばを愛するよりもこの世の知恵を重んじるように働きます。(2)神に対して疑いを抱かせます。4-5節を見ると「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」とサタンはこのように言います。つまり、このサタンはエバに対して神はうそつきだと言うのです。神は意地悪だと。実は、神はその善悪の知識の木の実を取って食べるとあなたの目が開かれてあなたは神のようになる、それを知ってそれを望まないから神は取って食べてはならないと言われると言うのです。だから、神はあなたの最善を望んでいるのではなくて意地悪だと言うのです。だから、サタンはあなたの心の中に働いて、神は本当に私のことを愛してくれているのだろうかと疑いを抱かせるのです。常に最善を為されると言われたけれど本当だろうかと疑いを抱かせます。なぜ、神はこんなことを許されるのだろう、などと疑いを抱くようにサタンは働くのです。そして、(3)自分の考えを優先するよう働きます。6節を見ると「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。つまり、彼らがしたこと、また、サタンの誘惑で彼らが実際に行なったことは、神のみことばは聞いていました、神の命令は聞いていました、しかし、彼らは自分の考えを優先したのです。神に聞き従うよりも、自分の願いや自分の思いを優先したのです。私たちの中でも、神のみことばに基づいた考え方よりもこの世の考え方を重んじようと、もし、そのような思いをあなたがもっておられるなら、すでにあなた自身惑わされています。この世のいかなる知恵をもっても神を知ることはないのです。神はこの世の知恵を愚かなものとしたのです。神を知らない人たちに、どのようにすれば神の祝福をいただくことができると教えることができるでしょうか?この人はノーベル賞をもらった、こんな賞をもらった、すばらしい知恵がある人だから、その知恵をいただいてと思うかもしれませんが、みことばが私たちに教えることはあなたに必要なものは神の知恵だということです。しかし、サタンが働くのは神の知恵よりもこの世の知恵も捨てたものではない、神の知恵よりももっとこの世のこんなに立派に生きた人々の知恵、多くの尊敬を受けた人の知恵、それに耳を傾けるべきだと、そのように私たちは徐々に信仰から外れて行くのです。
このように、創世記3章のみことばから私たちはサタンがどのように働くのかを見ることができます。だから、ペテロもこのように言います。Ⅰペテロ5:9「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」、先輩たちも同じことをして来たと、様々なサタンの誘惑に対して彼らはしっかりとみことばに立ち、信仰を堅くして忠実に歩み続けた、だから、あなたがたもそうしなさいと言うのです。パウロもペテロもそのように歩みました。そして、私たちにもそのようにチャレンジされているのですが、コロサイの人たちはどうだったのでしょう?2:5を見てください。「私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。」、パウロは4節で話した後、このコロサイの人たちが神の前に正しく生きている、信仰者として正しく歩んでいることを聞いて喜んでいるのです。ここに「秩序」ということばと「堅い信仰」ということばが出て来ます。この二つの名詞はまさにコロサイの人たちの信仰の様子を私たちに教えてくれることばです。「秩序」というのは軍隊用語です。兵士の整列が乱れないことです。言語学者のロバートソン博士はこう言います。「間違った教えに惑わされた人たちが起こっても、パニックを起こして列を乱したりしない」、これが「秩序」という意味です。コロサイの人たちはいろいろな教えに惑わされることなくしっかりみことばに立とうとしていたと言うのです。そして、「堅い信仰」とは、しっかりしているということです。みことばにしっかり立った信仰者であったと、そのことを聞いてパウロは喜んでいると言うのです。
そのことを話した後、6-7節でパウロは奨励に入るのです。励ましを与えるのです。6節に「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。」と記されています。パウロはここで「クリスチャンとは何を信じた人なのか」そのことを教えているのです。「受け入れた」
ということばがあります。このことばは様々ところで使われています。例えば、パウロが福音について話をしたⅠコリント15:1に出て来ます。「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。」、また、同じ3節には「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。…」とあります。何のことでしょう?私たちには想像がつきます。パウロは「信じる」ということを言わんとしていると…。Ⅰテサロニケ2:13でも「…あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」とあり、これは「信じる」ということです。ガラテヤ1:9でも「私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」と、パウロが明かに言っていることは「信じる」ということです。
もう一度、コロサイに戻って2:6「このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、」、もう一つ付け加えるとするなら、この「受け入れる」ということばは「口頭で伝えられたものを心に受け入れる」という意味があります。パウロはそのことを言った上で、クリスチャンとは何を信じているのかを教えているのです。6節「主キリスト・イエスを受け入れた」と、つまり、何を信じたのか、その対象を教えています。「主キリスト・イエス」だと言います。この部分のギリシャ語は非常におもしろいことばの並び方がなされています。三つの名詞が並ぶのです。それは「キリスト、イエス、主」です。しかも、こういう並び方をしているのは新約聖書ではこの箇所とエペソ3:11だけです。なぜ、このような並べ方をパウロがしたのか、当然、パウロには考えがあってこのように書いたのです。私たちはこのギリシャ語の文法がよく分かっていないのですが、このような並べ方をした大切な意味があるのです。最初の「キリスト」ということばと後の「主」という二つの名詞には定冠詞が付いています。でも、真ん中の「イエス」には定冠詞が付いていないのです。なぜでしょう?パウロはイエスの身元、イエスがだれであるかを明確にしたのです。その一例をご紹介します。マタイの福音書2章にヘロデ王のことが出て来ます。2:3「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。…」と「ヘロデ王」とありますが、これもギリシャ語では「王、ヘロデ」と二つの名詞を並べているのです。しかも、「王」の前に定冠詞が付いているのです。定冠詞を付けることによって何を明かにしたかったのでしょう?それは、ヘロデが王であり他にはいないということです。これがギリシャ語の文法なのです。このようにこのギリシャ語は文法的に成り立っているのです。そこで、もう一度コロサイ2:6に戻って、このようにここでパウロが言いたかったことは「イエスはキリストで他にはいない」「イエスは主であり他にはいない」ということです。つまり、コロサイの人たちに、あなたがたはイエスを信じた、イエスは救い主キリストであり主である、その方を受け入れたのだと言うのです。ですから、キリスト教会の中に出てきたように、人々はイエス・キリストを救い主と信じて後にいつかイエスを主とする、などという教えは聖書の中には出て来ないのです。みことばが私たちに教えてくれていること、パウロが言いたかったことは、私たちはイエスのすべてを受け入れるか、部分的に受け入れるかということです。部分的に受け入れることはどう見ても神が教えている信仰ではありません。パウロがこのコロサイの実際に会ったことがない人たちに教えたことは、あなたたちはイエスがだれであるかを信じた、イエスはキリストであり、イエスは主だと、そして、その方をあなたたちは受け入れた、信じたと、これがクリスチャンです。だから、クリスチャンは私の罪の赦しはイエス・キリストによってのみ与えられるのだと、キリストに救いを求めるのです。同時に、私たちはキリストがすべての主であるとして、キリストを主と信じて従って行こうとするのです。それがクリスチャンだと。そのことをパウロはこの6節で教えるのです。
なぜ、このことを強調しているかというと、このことに関して異端たちは疑問を投げかけたからです。グノーシス派の人たちが教会に入り込んできて、キリストは神ではないと言いました。だから、パウロはコロサイの人たちに、彼らの教えていることは全く真理から外れている、キリストは神だ、イエスは神であり、イエスはキリストであり、イエスは主であると、そのことをパウロはここではっきり教えようとしているのです。これがクリスチャンである、あなたたちはこのようにイエス・キリストを受け入れたのだと言います。そして、この後パウロは6節の後半から、では、イエス・キリストを信じたあなたはどのように生きて行くべきなのか、そのことを教えるのです。6節後半に「…彼にあって歩みなさい。」
という命令が出て来ます。ふるまう、生活する、日を過ごすという意味です。ですから、パウロが望んだことは、イエスを本当に受け入れた人々はキリストにすべてをゆだねて従順に生きて行きなさいということです。このことはパウロは他の箇所でも教えています。私たちクリスチャンはすべてを神にゆだねてみこころに従って行こうとします。しかし、同時に、パウロがこのときに考えていたことは、様々な間違った教えが入り込んできた、そのような状況にあって、パウロは当然、偽りの教師たちが惑わすことばによってではなく、パウロが語った真理に沿って生きることを命令しているのです。
そして、7節ではクリスチャンが祝された生活を送って行くためのアドバイスを与えるのです。「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」と、三つの動詞に気付きます。「根ざし」「建てられ」「堅くし」とあります。パウロが教えることは、
◎あなたが本当に神の祝福をいただこうとするなら
(1)「キリストの中に根ざし」=キリストを「信じること」です。彼は比喩的に「木」のことを話します。木が成長するためにはその「根」がしっかり根ざしていなければいけないと言うのです。あなたが神の祝福をいただいて歩んで行くために必要なこと、あなたがすばらしい罪の赦しをいただいて神の祝福をいただきながら生きるために必要なことは、まず、キリストの中に根ざすことです。イエス・キリストを受け入れて信じて歩み出す決心をすることです。だから、使われている時制は完了形です。つまり、イエスを信じておられる皆さん、あなたはもうすでにその決心をしたのです。そして、その現実、結果が今も継続しているのです。つまり、あなたは救われ、今も救われ続けているのです。神が救ってくださったなら、あなたはその救いを決して失うことはありません。この救いは永遠のものです。そのことをパウロはここでも教えているのです。
(2)「建てられ」=つまり、成長するということです。何によって成長するのか、パウロが使徒の働き20:32でこう言います。「…みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」と、神のことばがあなたがたを成長させるのです。もっと分かり易い話をしましょう。イエスがヨハネ15章でぶどうの木と枝の話をされました。皆さんよくご存じです。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」と、とてもよく分かる話をしました。実を結ぶためには枝は幹とつながっていなければいけません。そうでないなら実を結ぶことはできないのです。あなたも神の祝福をいただくために必要なことは、しっかり神とつながらないといけないし、神とともに歩み続けなければいけない、神のすばらしい栄養分をいただかなければいけない、そうすることによって、あなたは実を結んで行くのだと。だから、イエス・キリストを信じることから始まるのです。その時点から私たちはキリストとともに歩み始めるのです。みことばによって私たちは成長するのです。そして、私たちは変えられて行くのです。この「建てられる」ということばは現在形です。というのは、この「成長する」ということは継続した行為だからです。
(3)信仰を堅くし=もし、あなたがイエスを信じみことばにあって成長しているなら、結果として、あなたには揺るがない信仰が与えられると言うのです。
この三つの動詞、これらは全部受身です。パウロが言いたかったことは、救いも神が与えてくれること、信仰の成長も神が与えてくれること、信仰が強固にされて行くのも神のなせるわざだということです。では、私たちクリスチャンはどうすればいいのでしょう?私たちは主の前に救いを求めます。救われた私たちはみことばを学び、もっと成長したいと願います。神はそれらを与えてくれるのです。
そして、大切なこと、7節の終わりです。もし、あなたがそのように生きて行くなら、どういうことがあなたに起こるのか、パウロは最後に教えてくれます。イエスとともに歩み信仰が成長して行くなら、
「あふれるばかり感謝しなさい。」と、つまり、パウロがここで言うことは、そういう歩みをして行くなら、あなたは感謝にあふれる人になるということです。それが結果なのです。ちょうど、堤防から水があふれ出て来るように、そのような信仰者に神は変えて行ってくれるのです。すごいことをパウロは教えていると思いませんか?私たちクリスチャンにとってその信仰生活にとってとても大切なことをパウロは言っているのです。あなたの信仰が成長すればあなたは感謝にあふれた人になるのです。なぜなら、それはあなたはあなたの救いが神から与えられたすばらしい贈り物だということを知っているし、同時に、あなたの信仰の成長も神の豊かな恵みだということが分かっているからです。だから、神を称えるのです。そのように神が言われそのように生きた人々は、あなたの言われたことは真実だと言って神を称えるのです。だから、結果としてその人はあふれるばかり感謝をささげる人になると、そのことをパウロは教えたのです。
多くの皆さんが愛しておられる「アメイジング・グレイス」というジョン・ニュートンが書いた曲ですが、奴隷船の船乗りとして彼は奴隷の売買に携わってきました。しかし、彼はイエス・キリストを信じるのです。そして、驚くばかりの恵み、神のすばらしい救いというものを感謝し、喜びを神にささげるのです。日本語には表わされていない歌詞があります。ジョン・ニュートンはこのように書いています。「多くの危険、労苦、誘惑を私は通って来た、ここまで私を無事に導いてくれたのは恵み、そして、恵みは私を天国に導いてくれる」と、彼はよく分かっていました。救われたことは神の豊かな恵みだと神に感謝しまし。しかし、同時に、彼はクリスチャンとしての日々の生活において経験する危険や労苦、誘惑の中、自分を守ってくれたのは神の恵みだと、その恵みを称えるのです。4番でこのように言います。「主は私に良きものを約束された、神のみことばが私の希望の保証だ、人生の続く限り、神は私の盾であり私の分け前である」と、しっかりみことばに立っていたのです。いろいろなことがあっても、彼の心に保証として、確信としてもたらしたのはみことばだったのです。ここに、パウロの教えてくれたことをしっかり理解して生きた信仰の先輩がいるのです。彼は神の恵みによって救われたことを覚え、そのことを感謝し、神の恵みによって信仰生活を歩めたことを神に感謝したのです。最後に、彼が死の床にあるとき彼はそのことを感謝したのです。そして、パウロが私たちに望んでいることも同じことです。コロサイの人々に、ラオデキヤの人々に、ヒエラポリスの人々に求めたことと同じことです。キリストの力によって、神の力によって生きることです。罪の赦しをいただくためにも、主に喜ばれる生活を送るためにも必要なものは神の力です。そして、彼は今日神が与えてくれる力によって生きて行きなさい、神は助けてくれるからと言います。どうぞ、そのように歩んでください、それが神が私たちに望んでおられること、期待しておられることです。