06/04/02 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:主の力によって生きる日々4
聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章24節-2章7節
困難の中にも忠実に神に従い続けたパウロ、その歩みを支えたものは何だったのか、彼は私たちに教え続けてくれています。
☆パウロの歩みを支え続けたもの
1.困難の原因と目的を知っていた。パウロは主の約束を知っていました。だから、パウロは様々な困難の原因と目的を知った上で、そのようなものに怯むことなく忠実に主に従い続けたのです。
2.主からの務めを知っていた。神が特別な務めを私に与えてくださった、神は私のような者を信頼して偉大な務めを託してくださった、そのことを彼は知っていました。
3.主からのメッセージを知っていた。私の語るべきメッセージ、主が託してくださったメッセージ、大切なメッセージ、だから彼はみことばを妥協することなく大胆に正確に伝え続けようとしたのです。このメッセージは神からのメッセージだと。なぜ、それが大切なのか、彼は私たちに教えてくれました。それはクリスチャンが成長するためです。同時に、まだイエスを信じていない人が救いへと導かれて行くためであると、そのことを知っていたからパウロは神のおことばを曲げることなく語り続けたのです。彼は教えてくれました。メッセージを語るときにはしっかりテーマを覚えなさい、あなたの語ることはイエス・キリストについてである、私たちの考えや私たちの思いを伝えるのではない、キリストを伝えるのだと。しかも、そこには大切な目的がある、それは一人ひとりがキリストにあって成長する、キリストに似た者に変えられて行くためである、この目的をもって私たちは神のすばらしいメッセージを語り続けて行くべきであると。実際にパウロはそれをしたのです。
4.主からの力を知っていた。主から与えられた大切な務めを果たして行くために必要なものは、彼自身の力ではなくて、神からの力であると知っていました。キリストの力が私のうちに働き続けているのだと、その力に彼は依存して神からの使命を果たそうとしたのです。「上からの力は神を恐れみことばを尊ぶ者の生活上のすべてのことにおいて、みこころ、すなわち、神に喜ばれることを選択し実践して行くために与えられる力です。」と、彼はその力をいただきながら主の前を正しく歩み続けたのです。五つ目にパウロを支えたものが何であったか、私たちは2:1から見て行きます。
「あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。:2 それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。:4 私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。:5 私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」
5.主からの愛を知っていた。
2:1にあるように、パウロはコロサイの人たちだけでなく、ラオデキヤの人たち、また、実際に顔を見たことのない人たちのために苦闘していたと言うのです。現在のトルコの西側に位置しエペソの町から大体160キロほど内陸に入った町、コロサイから北西に約16キロ行った所にある町がラオデキヤです。この辺りにある町々のそこに点在する教会の人々のことをパウロはいつも心に留めていたのです。パウロはその人々のために様々な苦しみを経験していると言うのです。どのような苦しみでしょう?実際にパウロがこの手紙を書いたとき、パウロはローマにいました。投獄されて軟禁状態でした。ですから、パウロが言ったように彼はコロサイの町を訪問したことがないのですが、彼は何かの苦しみを経験していました。コロサイの4章がそのヒントを与えてくれます。4:12に「あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。」、エパフラスはコロサイの教会を生み出した人です。13節「私はあかしします。彼はあなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。」、エパフラスは何をしていたのか、彼がコロサイやラオデキヤやヒエラポリスの人々に対してしていた働きは「祈り」でした。そして、13節には「非常に苦労しています」とあります。ですから、恐らくパウロ自身もここで人々に伝えようとしたことは、パウロ自身ローマにいてもこのコロサイやラオデキヤやその周りの人々のために祈り続けているということです。この「苦闘している」ということばは1:29でも見ました、「労苦しながら奮闘しています。」と。スポーツ選手が自らを鍛えているその姿、それを比喩的に表わしているとその時に説明しました。パウロ自身、この愛する人々のために祈りによって一生懸命時間を費やしていた、スポーツ選手が自らを鍛えるように、必死になって彼らのために祈り続けていた、そのことをパウロは彼らに伝えようとしたのです。
では、なぜ彼がこんなに苦しんだのか、なぜパウロは彼らのためにこれほど一生懸命祈り続けたのか、その目的がこの次に出て来ます。このような町々に住んでいる人たちが信仰において成長するためです。このことはパウロがこの人たちをどれほど愛していたかということを表わすのです。本当に愛する人のためなら、私たちは時間を惜しまずに祈ります。しかも、彼らが非常に危険な目に会っていると知ったならますますそのために祈ります。教会の中にはすでに見て来たように様々な異端が入り込んできて、教会の人々の信仰は乱されていました。それを知っていたパウロは彼らが何とか正しい歩みをしてほしいという願いをもっていたのです。彼らのことを思うがゆえに、彼らのことを愛するがゆえにパウロは必死になって主の前に立ったのです。ジョン・カルビンがこのように言います。「彼が死の真っ只中にあって、すなわち、生命が危険にさらされているときに、彼らのことに気を配っているということは、並々ならぬ愛のしるしである」と。どれほどパウロが彼らのことを愛していたのか、それは彼自身のことばの中に、祈りという行為の中に現わされるものです。これがイエス・キリストの愛です。キリストの愛のすばらしさというのは、その愛を受け入れた人々に留まるのではなく、そこから周りへと出て行くのです。イエスを信じた人は、私はイエスを信じた、私は罪が赦された、神の子どもとされた、その救いをいただいた人はそこに留まらないのです。たとえば、だれかが「私はイエスを信じたけれど誰にも話したくありません、秘密にしておきたいです」ともし言ったとするとどこかおかしいです。なぜなら、そのように神の愛は働かないからです。神の愛を受け入れた人、その愛のすばらしさを味わった人は、その愛を人々に伝えたくなってくるはずです。ヨハネはⅠヨハネ4:19でこのように言います。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」、兄弟姉妹が互いに愛し合うようになったのは、一人ひとりが神によって愛されていることが分かったからです。その神の愛をいただいたことによってその愛が他の人を愛する愛へと私たちを導いて行くのです。同じようにヨハネは、ヨハネの福音書13:34でもイエスのおことばを記しています。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」、イエスがあなたを愛してくれたようにと言います。どうすればそれが可能になるのか、神の愛をいただくことです。神によって救いに至ることです。罪が赦されることです。それによって私たちは「人を愛する」という、生まれながら私たちには不可能なことを実践して行くことができる者へと変えられて行くのです。
彼らのことを本当に愛していたパウロ、パウロが彼らに対して願っていたことは何だったのでしょう?最初に話しましたが、このクリスチャンたちが信仰において成長することだったのです。そのことがこの2-3節に記されています。パウロは彼らがこういうクリスチャンになることを望みました。どのようなクリスチャンでしょう?二つのことがこのみことばの中に記されています。
◎パウロがクリスチャンである彼らのために願ったこと
1.心が常に神に支配されている人になること
2節に「それは、この人たちが心に励ましを受け、」と言いました。心というのは非常に大切です。旧約聖書の中にも、また、新約聖書の中にもこの「心」というのが何度も教えられています。旧約聖書では心は意志、決定、考え、知る、善と悪を判断する、そういう器官として教えます。新約聖書では考えたり、計画したりするところ、その人の行動をコントロールするところ、その心には感情がある、願望がある、熱情がある、心は理解の場である、同時に、意志の座であり決心や決定の源であると、このように使われています。今見て来たように、心というのは非常に大切です。私たちの行動をコントロールするところです。だからパウロは、心がいつもしっかりしているように、その心がいろいろなものに惑わされないようにと望んだのです。心が神に喜ばれないことに満たされているなら、必ず、神への間違った行ないがそこから出て来ます。罪が出て来ます。イエスはマタイ12:34でこのように言われました。「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。」、また、マタイ15:18-19を見ると「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」、心の中にあるものが口から出て来ると言います。だから、もし心が神に喜ばれないことによって満たされているなら、必ず、外側に罪となって出て来るのです。同時に、心が神に喜ばれることに満たされているなら、神への正しい行ないがそこから溢れ出て来ます。たとえば、賛美、感謝、罪の告白などです。それが形となって現われます。ローマ10:10のみことばは皆さんよくご存じです。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」、でも、このみことばは口で告白したから救われると教えていません。「人は心に信じて義と認められ」とあります。「義と認められ」とは救いのことです。つまり、パウロが言っていることは、心でイエス・キリストを信じるなら救いに至るということです。本当に救われたら、心が変えられたら、告白という形でそれが出て来るのです。心が変えられて神に対して感謝しているならそれが「感謝」となって現われるのです。心が救われた喜びに溢れていたらその喜びが賛美となって現われるのです。そのように、心が外に形となって現われるのです。だから、詩篇の作者がこのように言います。詩篇139:23-24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」と。この139篇が非常に興味深いのは、この著者はこのようなことを神に求める前に、神がどのようなお方かを知って告白していることです。1-6節では「神さま、あなたは全知です」と言います。7-12節では「あなたはどこにでもおられる遍在のお方です」と、そして、13-18節では「神さま、あなたは全能のお方です」と。神がどういうお方かをよく知っており、その上で著者は神の前に「どうぞ神さま、私の心を探ってください」と言うのです。彼が望んだことは私は神の前に正しくありたい、神を偽ることはできません、あなたを騙すことはできません、あなたはすべてを見ておられるから、私の中に間違ったことがあれば教えてください、私はそれをあなたに告白しますと、こういう思いが出てくるのは心がそのような状態だからです。心が神によって変えられ、神に喜ばれることをしたいと願っていたからこそ彼はこのように神に求めるのです。あなたもこのように何度も主の前になさったはずです。ですから、心が非常に大切だということはもう十分に分かっていただいたと思います。
パウロはこのことを言うのです。私の関心はあなたがたの心だと。では、その心がどうなることを彼は望んだのでしょう?励ましを受けることだと言います。この「励まし」と訳されていることばは、慰める、力づけるという意味をもったことばです。ここでは、慰めるというより「励ましを受ける」、「力づける」という意味をもってパウロは記しています。なぜなら、4節に見る通りこの教会は様々な偽りの教えによって惑わされていたからです。「私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。」と、ですから、パウロは彼らを励まそうとしたのです。心がしっかり力づけられるように、異端の惑わしに対してしっかり勇気を持って真理に立ち続けて行くようにと、そのことをパウロは望み祈っていたのです。バークレーがこのことばについて興味深いことを言っています。「このことばはある時には慰める、また、ある時には勧めるという意味を持つけれど、その背後にはいつでもだれかをある困難な状況に確信と勇気を持って立ち向かわせる、そういう考えが入っている。ギリシャのある歴史家はこのことばを最も興味深い暗示に富んだ用法で使っている。ここに意気阻喪して勇気を失くし全く絶望的になっていたあるギリシャの兵団があった。将軍は一人の指導者を送って兵団に話をさせた。彼は意気阻喪した一団の人々が勇気を再熱させ、再び雄々しい行為をするのにふさわしい一団となれるのを目指して話した。これこそ、ここで使われていることばだ。」と。弱った人々を励まそうとする、彼らがもう一度勇気を再熱させ主の前に勇気をもって歩み続けて行くように、そのことを望んでパウロはこのことばを用いたと言います。パウロの気持ちが描けます、彼らから遠く離れていたパウロは、いろいろな間違った教えが教会の中に入り込んできたことを聞いて心が痛んだのです。そして、彼が最初に主の前に祈り続けたことは、彼らの心がしっかりとみことばに立って歩んで行くことでした。
◎どうすれば私たちの心が励まされて行くのでしょう?
(1)神から励ましが来る=間違いなくそれは神によって為されて行くことです。イエスがどこかに行ってしまうと聞いた弟子たちは心に動揺を覚えました。その時にイエスは言われました。ヨハネ14:1「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と。私たちは日々いろいろなことを経験しますが、結局戻ってくるのは神を信頼するかどうかです。私たちの疑い、不安、恐れは、私たちが見るところを間違っていたり、信頼すべき方を信頼しないでいる、そこから来るのです。神から目を離してしまうと私たちの信頼はぐらつきます。弟子たちに対してイエスが言われたことは、私を信じなさい、私を信頼しなさいです。だから、神が私たちの心を励ましてくださるのです。
(2)人によっても励まされる=同時に、私たちは人によっても心が励まされます。パウロは「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」と言いました。Ⅱコリント1:4です。どんなときでも神が慰めてくださる、では、慰められた人はどうするのでしょう?続いて「こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」とあります。ですから、パウロが教えることは、神が一人ひとりを慰めてくれる、神が一人ひとりを励ましてくれる、そして、慰められ励まされた人は同じように苦しんでいる人に慰め励ましを与えようとするのです。大切な務めを私たちは神からいただいているのです。大変なところを通って来た人はその経験をもとに、主に信頼することのすばらしさを証して来た、それによって人々に大きな慰めを与えて来たのです。そのように私たちはお互いを励まし続けて行こうとするのです。
パウロがまず、この愛する兄弟姉妹たちに望んだことは彼らの心が常に神に支配され続ける、そういう人になるようにと、そのことです。二つ目に彼が望んだことは、
2.心が常に神の愛に支配されている人になること
2節に「愛によって結び合わされ」とあります。組み合わすとか編み合わすという意味をもったことばです。パウロは本当にこの人々を愛していた、そして、この心が彼らの心と結び合うことを願っているのです。彼らも同様に人々を愛する人に変えられて行くことを願ったのです。それがどれほど大切なことか、皆さんはご存じでしょう。どんなにすばらしい賜物をもつよりも、どんなにすばらしい働きをするよりも、愛が大切だと言うのです。Ⅰコリント13:Ⅰ-3でパウロはこのように言いました。「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」、特別な賜物をもってその賜物を用いたとしても、愛がないなら空しいというのです。どんなにすばらしい信仰を持っていたとしても、どんなにすばらしい知識を持っていても愛がないなら何の値打ちもないと。どんなに大きな犠牲を払ったとしてもその行為が愛から出ているのでなければ空しいというわけです。非常に責められることをパウロは教えてくれています。すべてのことを愛に基づいてやっているのかというのです。Ⅰコリント13章の最後13節でパウロはこう言います。「こういうわけでいつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番優れているものは愛です。」と。エペソの教会に送った手紙でもパウロは同じことを言います。エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、成長して愛のうちに建てられるのです。」と、教会の中にあって一人ひとりは神から特別な賜物をいただいている働き人です。あなたの責任はその賜物を用いて主に仕えて行くことです。一人ひとりが自らの賜物を用いることによって群全体が成長して行くのです。しかし、肝心なことは愛を忘れてはいけないということです。愛のうちに建て上げて行かないといけないのです。これこそ私たちがしっかりと覚えておかなければならないことです。
パウロはラオデキヤやコロサイの人々に対して、彼らがいつも愛に満たされた者となることを望んだのですが、コロサイ人への手紙の中で具体的に教えてくれています。3:8-9aに「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。:9 互いに偽りを言ってはいけません。」と、つまり、パウロはこういうものは愛ではないと言うのです。「怒り」とは誰かに対していつも怒るというよりも、人に対して心の中でくすぶっている苦味なのです。それは罪です。「憤り」、腹を立てる、怒りを表わすのです。詳しい説明はまたこの箇所でしますが、もう一つ「そしり」と言います。悪口を言ったりその人をけなしてみたり、それは愛の行為ではないと。こういうものは教会に一致をもたらさない、神の栄光をもたらさない、教会の中に分裂をもたらすのです。では、どうすればいいのか、パウロは教えてくれます。3:12からを見ると「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」とあります。先ほどは否定的なものを見ましたが、今度は肯定的なものをパウロは記しているのです。「同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し」、これが必要だ、これが神が喜ぶことだと言い、そして、これらすべての上に愛を着けなさいと言います。なぜなら、愛を無視してこういう行為だけやろうとするなら、それはあなたにとって重荷になるからです。愛がなければこれらの行為はできないのです。だから、パウロは愛を着けなさいと言ったのです。愛がこのような行為の動機でなければならないと。なぜなら、愛をもってこれらのことを行なって行こうとするなら、それが喜びになるからです。アメリカ・シカゴのムーディー教会の牧師であったW・ワーズビーはこのように言います。「霊的に成長したキリスト者は兄弟を愛し、また、問題を作り出す者ではなく、平和を作り出す者となることを求める」と。なぜなら、そのように皆が愛し合って行くときに、神のすばらしいみわざが為されるからです。イエスはこのように言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)、つまり、クリスチャンが愛し合っているなら、神を知らない人々はその集まりの中にすばらしい神を見るというのです。イエスを知らない人が教会に来たとき、彼らの目は非常にシビアです。私たちが気付かないことに気付きます。私たちの群の間に愛があるかないか彼らは見通します。そして、その愛が表面的なものか、本質的なものかそれも見ます。パウロはこのクリスチャンたち個人々々に求めたのです。あなたたちの心がいつも主の愛によって支配され続けるように、愛の人になりなさいと。その願いは今の私たちにも同じことです。神があなたに求めて行かれることはあなた自身がそういう人に変えられて行くことです。
もう一度コロサイ2章に戻って、この二つのことをパウロは教えました。パウロが祈ったこと、彼らに求めたことは、人々の心が常に主によって支配され続けることであり、この人たちの心が常に神の愛によって支配され続けること、では、そのような歩みをして行くと私たちはどうなって行くのでしょう?そのことをパウロは2節の後半に記すのです。
神に支配され神の愛に支配されて行くとその結果はどのようになるのか?
(1)あなたは理解を得る=2節に「理解をもって」と記されています。2節のこの部分は非常に難しくてきれいな日本語にはならないのですが、直訳するとこのようになります。「理解による全き確信のあらゆる富をもつ者となる」と。説明すると、この理解ということばはすでに1:9に出てきました。そこでは理解力と訳されています。どういう意味だったのか思い出してください、それは生活の中で生じる可能性のあるどのような状況に対しても、最も基本的な知識を適用する能力なのです。私たちはその箇所ですでに学んだことです。日常生活において経験する様々な問題の中にあって、何が正しいのかを見極め、判断し、そして、正しい選択をして行くこと、それがこの理解力であり理解なのです。ですから、理解と訳されていることばは、賢さとも訳せるのです。つまり、神の前に賢い人にあなたはなって行くということです。そのような人に変えられて行くと、結果のことです。そして、理解が成長することによって、つまり、あなたがますます賢い人になって行くことによって、
(2)あなたは確信を得る=全き確信のあらゆる富をもつ者となると言うのです。確信、ここに全き確信と訳されていますが、Ⅰテサロニケ1:5に出て来ることばです。「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」と。では、何を確信するのでしょう?二つのことを確信すると言います。(a)神のくださったあらゆる富、その恵みのすばらしさをあなたはもっともっと確信する者となって行くのです。すばらしい祝福を神がくださったなら、神の恵みの豊かさをより強く確信する者になるのです。「豊かな」と記されていることばは、豊かな神の恩恵であったり賜物と訳せることばです。つまり、私たちがそのように神の前を正しく歩んで行くなら、私たちクリスチャンはどんなにすばらしい祝福を神からいただいているのか、神がくださったその贈り物、賜物がどんなにすばらしいものなのかがますます分かって行くと言うのです。何度も繰り返しますが、悲しいことはクリスチャンである私たちが神からいただいている祝福を理解していないことです。だから、いつまでたっても暗い顔で希望のない生き方をするのです。でも、私たちが神からいただいたそのすばらしい祝福がどんなにすごいのかが分かれば分かるほど、私たちは確信をもって生きるのです。この約束は私のもの、こんなすばらしい約束を神は私にくださったと、そのように確信に満ち溢れて生きて行くのです。パウロは教えたのです、そういう人になると。もう一つは(b)キリストがどんなお方であるかという確信を強めて行きます。2節の後半に「神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」とありますが、この「真に知る」ということばも1:9に出て来たことばです。そこでは「真の知識」と訳されていました。厳密で正確な知識、つまり、パウロはあなたはイエスがどのようなお方であるかという厳密で正しい知識をもつことによって確信を増して行くと言うのです。しかも、パウロはここでイエスがだれであるかということを明確にしています。「神の奥義であるキリストを」と、キリストがだれであるかということを教えたのです。なぜなら、これが異端の人たちが教えた偽りの教え、誤った教えと明らかに違う点だからです。彼らが教えたことはキリストは神ではなかったのです。ところが、みことばを通してパウロが言わんとすることはそれは違う、イエス・キリストは神であると、だから、「神の奥義であるキリスト」と言ったのです。隠されていた神がキリストによって明かにされたのです。ですから、イエス・キリストを見たときに、私たちはよく分かっていなかった神のことをはっきり知るのです。だから、パウロはイエス・キリストは神であるとここで教えようとしたのです。私たちがキリストを知れば知るほど、様々な異端に惑わされることがなくなるのです。彼らはキリストは神ではないと言いますが、みことばを見るとキリストが神であるということは明確に教えられます。
今まで私もいろいろな人に出会って話をして、キリストが神でないという人にみことばがこう言っているではないですかと説明したとき、彼らが言ったことはもう少し勉強します、また来てもいいですか、と言うので、いつでも来てくださいと言いますが、だれも来たことがありません。彼らはみことばを正しく見るならキリストはその神であるという結論に至るはずです。私たちに必要なことはその確信を強めることです。それがみことばが教えていることだからです。そのことをパウロはこのコロサイやラオデキヤの人たちに望んだのです。3節に「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」とあります。「隠されている」ということば、これはギリシャ語でアポクリトスと言いますが、パウロは敢えてこのことばをここで使って、つまり、これは日本語に訳すと「隠されている」という意味ですが、そのことばを使ったのです。なぜなら、グノーシス派の人々は救いに必要な特別な知識を書物に書きとめたものをアポクリトスと呼んだのです。ここで「隠されている」と訳されていることばのギリシャ語です。そこでパウロはその同じことばを使って、いいえ違う、あなたたちが言っている救いに必要な知恵や知識はそのように勝手に書いた書物にあるのではない、キリストのうちに書かれていると言うのです。彼らは私たちだけが特別だと言ったのです。一般の人には救いが分からない、特別な神秘的な知恵が必要だと言ったのです。しかし、パウロはキリストのうちにそれがあると反論したのです。だから、本当の知恵を得ようとするなら、そのような特別な体験をする必要はない、キリストを見ればいいのです。パウロはキリストが神であると教えただけでなく、キリストが神の知恵だと言ったのです。私たちが真理を知りたければキリストのところに行けばいいのです。キリストが教えてくれます。それが記されているのがこのみことばなのです。
パウロはこうして彼らを励まそうとしました。それは彼らが様々な間違いによって惑わされることなくしっかり真理に立って歩み続けるためです。兄弟姉妹の皆さん、あなたにも同じことが言えます。神があなたに望んでおられることは、あなたの心がいつも神によって支配され続けることです。主の前にあなた自身がいつも、主よどうぞ私を支配して、私の語ること私のすることすべてにおいてあなたに喜ばれるように助けてくださいと支配し続けていただくことが必要です。同時に、主よ私の心をあなたの愛で満たし続けてくださいと、そのようにしてみことばを実践することによってあなたは変わって行くのです。あなたは益々理解を得て行きます。賢い人として歩んで行きます。なぜなら、みことばに従ってみこころを行ない続けるからです。そして、それを通してあなたはより強い確信を得ます。私は感謝です!神によって救われた、こんな祝福をいただいた、感謝です!そして、イエス・キリストは真の神であり、私の人生にとって最も大切なのはこのお方だとその確信をもつのです。それがパウロが望んだことでした。そして、それがあなたにも神が望んでいることです。