06/03/19 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:主の力によって生きる日々2
聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章24節−2章7節
「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。:25私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。:26これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。:27神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。:28私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。:29このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。2:1あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。:2それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。:3このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。:4私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。:5私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。:6あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。:7キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」
前回から私たちは1:24からみことばを学んでいます。数々の試練の中で私は主に仕えた、これがパウロの証でした。いろいろな試練の中で彼は忠実に神に従い続けました。いかなる問題、苦しみ、困難があろうと彼は主に従い続けて行くことを願い、神の恵みによってそのように生き続けたのです。なぜ、そのような生き方ができたのか、それを私たちはこのテキストを通して学んできているのです。前回私たちが見たのは、パウロは困難の原因と目的を知っていたからだと、そのことをパウロは24節で教えてくれました。彼は様々な困難の中、決して困難だけを見て主を忘れるということはなかったのです。彼はその中にあって主の約束を覚え主に信頼を置いて歩み続けたのです。主に対して忠実に生き続けたパウロ、彼のこの信仰の歩みを支えたものはいったい何だったのか、そのことについて私たちは続けて25節からみことばを学んで行きます。
☆パウロの信仰の歩みを支えたものとは?
1.主から務めをいただいた 25節
そのことをパウロはしっかり覚えていました。私は神から特別の務めをいただいたと、そのことが分かっていたのです。25節に「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました」とあります。同じ1:23の後半に「…この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。」とあります。23節ではパウロは福音に仕える者だと教え、25節では「教会に仕える者」だと自分のことを語るのです。彼が言いたいことは、イエス・キリストを信じた私は神に仕える者になった、そして、その私には様々な務めが与えられていると、そのことを伝えたかったのです。パウロはダマスコに行く途中でイエス・キリストを信じ受け入れました。彼はクリスチャンたちを迫害しようと出かけて行ったのですが、その途中で復活のイエス・キリストに出会うのです。使徒の働き9章にそのことが記されています。主が弟子であったアナニヤに対してこのように言います。使徒9:15「しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」と、パウロはわたしの選びの器である、わたしが彼を選んだのだ、大切な務めを彼に与えると。パウロ自身も Iコリント9章で私には務めが委ねられていると17節の中で語っています。「:17もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。」と。ですから、主ご自身もそのことを教えられたし、パウロ自身も私は神から特別の務めが与えられていると、そのことを知っていたのです。
では、どのような務めがパウロに与えられていたのでしょう?25節に「神のことばを余すところなく伝えるためです。」とその目的が記されています。彼が神から選ばれ、そして、いただいた務めというのは、神のことばを余すところなく伝えるためだと。この「余すところなく」ということばは、満たす、完全に、十分にという意味をもったことばです。ある人々はこのことばからパウロがここで言いたいことは、パウロが様々な地域に出て行って福音を伝えなさいと神から命じられたのだと考えます。確かに、パウロはそうでした。神が門戸を開いてくださるところに出て行ってキリストの福音を伝えました。しかし、どうもここでパウロが言いたかったことは、そのようなこの世界のどこに行くかいう地域的なことを言っているのではなく、別のことを言っているようです。それは、パウロは神の真理を妥協することなく人々の前に明らかにし続けた、そのことです。使徒の働き20:27でパウロはこのように言います。「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」と、ここに、25節と同じことば「余すところなく」が使われています。ですから、地域的なことではなく、神の真理を妥協せずに正しく語り続けてきたと、そのことを教えていると思われます。パウロに大切な務めが与えられた、何のために与えられたのか、その目的までもこのみことばが教えてくれます。25節に戻って「教会に仕える者になった」とパウロは言っています。つまり、パウロは神から大切な務めをいただき大切な賜物をいただいた、それは教会のために使う、神のために使うと、そのことを言うのです。実は、神が与えてくださる賜物はみなそうです。みな神のために人々のために使おうとします。悲しいことは、私たちクリスチャンも自分のことを優先してしまう、つまり、私たちが救われる前と同じような生き方をしている、それではその人の信仰生活から喜びがなくなります。
もう30数年前になりますが、私が浜寺に初めて来たときのことを思い出すのですが、古い建物の2階の隅に高校生たちの部屋がありました。屋根裏部屋のような狭いところでしたが、覚えているのはその壁にJOYと書いてありました。そこからJOYクラブ、JOYクラスという名が付けられたのですが、JOY、JはイエスのJです、第一にしなければいけないのはイエスだと言います。Oは他の人々、others、そして、三つ目がY、あなた自身、yourselfでした。神を第一に、そして人々のために、あなた以上に優先するならあなたには喜びがあるというわけです。私はそれを初めて聞いたときなるほどと思いました。でも、確かに、それは真理です。なぜなら、私たちが生まれながらに歩んできた生き方はYOJだったからです。自分が一番でその次が他の人で最後が神だったのです。でも、私たちは生まれ変わったのです。神によって救われたのです。優先順位が変わったのです。神のために、人々のために、自分のことは後回しにしようと、そのときに喜びがあるのです。そのような生き方を神は望んでおられるのです。パウロも神から与えられたその大切な務めを自分のために使おうなどと言っていないのです。教会のために、人々のために使って行こう、人々のために生きて行こうとするのです。 Iコリント12:7でこのように言っています。「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」と、いろいろな賜物が与えられているが、それはみなの益のためだと言うのです。パウロが自分のためではなく、神のため人々のために生きたように、私たちも神からいただく賜物を同じように神のため人々のために用いて行くのです。そのことは後でもう少し触れます。
このような歩みをして来たパウロには、主からいただいた務めは重荷だったでしょうか? Iコリント9:16−17を見てください。「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。:17もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。」、どうしてもしなければならないこと、しなかったらわざわいに会うとまで言っています。また、使徒20:24では「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」と、神からいただいたその任務を果たし終えることができるなら、私は死んでもかまわないというのがパウロの証だったのです。どんな思いをもってパウロはこのように言ったのでしょう?想像力を働かせてください。本当はしたくないけれど、人々が見ているから、教会のリーダーだからしなければならないと、そのようには思っていなかったことは明らかです。なぜ、パウロがこの務めを重荷ではなく喜んでいたのか、その理由がコロサイ1:25に記されているのです。「…あなたがたのために神からゆだねられた…」とその次のことばを見てください。「務め」ということばが記されています。ここで使われていることばは「家」と「法律、律法、おきて」という二つのことばが合成してできたことばです。ですから、「家のおきて」と訳すことができるのです。つまり、パウロはここで「務め」ということばを使うことによって、家のしもべに与えられた責任、義務を指している、その家のおきてに従って家を管理する、そういう責任が自分には与えられているということを言いたかったのです。ここで皆さんに考えていただきたいことは、主人がしもべに財産の全部を預けるというのは、よほど信頼していなければできない行為です。しもべは主人に代わって財産を管理します。そうすると、主人はしもべがよほど信頼できる人物でなければ、財産を託すことなどできません。そこには当然、主人としもべの信頼関係があるのです。パウロはそのことを言いたかったのです。何とこの全能なる創造主である神が私のような者を信頼してくれている、そして、ルールに沿って主人に代わってこの責任を果たすようにと務めをくれたと言うのです。神が私のような者を信頼してくれている、パウロは大切な真実を理解していたのです。だから、彼にとって主から与えられた務めを忠実に果たして行くことは重荷ではなかったのです。覚えておられますか?イエスが「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われたことを…。その後マタイ11:30で「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と言われました。
イエスは何を言わんとされたのでしょう?自分の力で救いを得ようと努力する場合、その人の上にはだんだん重荷が乗ってきますよと言うのです。なぜなら、どんなに頑張っても心を入れ替えようと努力しても私たちは変わらない、もし、行ないによって救われるとするなら私たちにはそれは非常な重荷となります。私たちにはできないことです。だから、イエスは「…わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われたのです。イエス・キリストの贖いによって救われた私たちが主に従って行くその信仰生活は決して負担にはならない、重荷ではないのです。パウロはみこころを行なって行くこと、主に従うことが重荷ではない、喜びであるとよく分かっていたのです。
では、喜びを感じないときは何が問題なのでしょう?喜びを奪う罪があるのです。私たちがしっかり神のみことばを見るときに、神のメッセージを聞くときに覚えなければいけないことは、神は私たちに不可能なことを言っていないということです。神はこのように歩んで行きなさいと方向を示してくださいます。しかも、このコロサイ1章でもパウロが教えていますが、そのような神があなたに対して望んでいることを神の助けによってあなたはできるのだと言っています。だから、重荷ではないのです。重荷と感じるのは私たちの力で、努力でしなければならないと言われるからです。旧約の律法は重荷でした。なぜなら、律法を守ることによって救われると言ったからです。誰にもできなかったのです。しかし、私たちがイエス・キリストのところに行くなら、約束された救いをくださるだけでなく、私たちの信仰生活においても神は私たちをその重荷から解放し続けてくださるのです。恵みによって生きることは幸いなことです。パウロは神からいただいたその大切な務めを見たときに、彼は当然、私はこんなすごい務めをいただく資格はない、もちろん、もっと遡れば、私は神によって救われる資格などありませんと、何度もそのことをパウロは繰り返します。救われる資格のない罪人であり、こんな大切な神からの務めをいただく資格のない者だと知っていたのです。しかし、事実は、そのことを知った上で神はパウロにすばらしい務めを与えたのです。だから、パウロはこんな者を神は信頼してくださった、神さま感謝しますと、その務めを忠実に果たしたのです。
皆さん、あなたにも賜物、務めが与えられていることをご存じですか? Iペテロ4:10で「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」とペテロは教えています。あなたには賜物がある、イエス・キリストを信じたときに神はあなたにすばらしい賜物を与えてくださっていると、そのことを教えるのです。また、パウロも Iコリント12:11で「しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」と教えています。ですから、いろいろな賜物があるけれど、神はご自身のみこころに沿ってあなたに特別な賜物を与えてくださっている、イエスを信じたときに神はあなたにそれを与えてくださったのです。あなたがもっているその賜物はこの世界中のどこを捜してももっている人は他にいないのです。それはあなたが特別に神によって扱われているからです。神はあなたを信頼しているのです。では、どうでしょう?あなたは与えられている賜物や神からいただいた務めを人々のために用いているでしょうか?自分ばかり見ていませんか?もっと人からこれもあれもしてもらいたいと期待しながら生きていませんか?そういう人はその願いが叶わないと必ず誰かを責め始めます。教会を責めるかもしれません、愛がない、冷たいと。でも、考えなければいけないことは、周りのクリスチャンがあなたに何をしてくれるかよりも、あなたが周りのクリスチャンたちのために何をするかです。先ほども見たように、イエスがいてその次にいるのは自分ではないのです、人々です。神が賜物をくださったならそれを自分のために用いなさいと教えていない、人々のために用いなさい、彼らの成長のために用いなさいです。礼拝に来たくてもからだが悪くて来ることができない、あなたは何をしますか?少なくても自分が学んだことをその人と分かち合うこと、神をいっしょに崇めることができるかもしれません。また、必要のある人と物を分かち合うこともできる、罪の中を歩んでいる人にその罪を悔い改めなさいと勧めることもできる、救われていない人に福音を伝えることができる、なぜ、そのようなことをするのでしょう?それは神が喜んでくださることだからです。そうして私たちは人々のために生きようとするのです。人々を励まし、助け、慰め、彼らの信仰が成長するように仕えて行こうとするのです。どうでしょう?あなたは人々のために自分に与えられた賜物を用いていますか?喜んで仕えていますか?実は、このことは前回パウロが私たちにチャレンジしてくれました。神に仕えて行くことに喜びがあるか、与えられた務めを果たして行くことにあなたは喜びをもっているかどうかです。あなたは教会で様々な奉仕をしている、それを喜びをもってしているでしょうか?家においてあなたは大切な務めがある、喜んでしているかどうか、職場では?学校では?神はいろいろな務めをくださった、主のために喜んでやっているかどうかです。
パウロがまず私たちに教えてくれたことは、主からの務めを私はいただいたということです。そして、あなたも覚えなければいけないことは、あなたにも同じように主は務めを与えてくれているのです。
2.主からのメッセージがある 25b−28節
パウロが様々な困難の中にあっても忠実に神の前に喜ばれることをして行こうとした、そういう歩みを彼が歩み続けたそのカギとなっていること、それは私には神からのメッセージが与えられたということ、そのことを彼が知っていたからです。何が神から託されたメッセージなのか、何を語れと神が言われているのか、そのことを知っていたから彼は大胆に語り続けたのです。25節の後半に「神のことばを余すところなく伝えるためです。」とありますが、これが神から託された大切な務めでした。その説明を彼は26節から加えて行くのです。パウロはどんなメッセージを神から託されたのでしょう?それは、神の真理を伝え続ける、神の真理を語るということです。26節に「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。」とあります。ここにも27節にも「奥義」ということばが出て来ます。この当時、コロサイの教会に持ち込まれた異端のこと、神秘的な体験のことではありません。この「奥義」というのは、旧約の時代、また、旧約の人々には知らされていなかったことが、新約の時代に明かにされたすばらしい神の恵み、真理を指しているのです。たとえば、旧約の人々はイエスの再臨に関しても、そのときのよみがえりに関しても知りませんでした。そのことは Iコリント15:51に「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。」と書かれています。イエス・キリストのことについても彼らは知らなかった、コロサイ2:2の最後に「…神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」とある通りです。彼らは救世主が来ることは知っていましたが、私たちが知っているようには知らなかったのです。他にもいくつかの例を挙げることができます。新約聖書にはこの「奥義」ということばは28回も出て来ます。もう一つ挙げるなら、それは異邦人とイスラエル人とがイエス・キリストによって一つとされるということ、これは旧約の人々は知らなかった、想像もしなかったことです。エペソ3:3−6を見てください。6節に「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」とあります。イエスを信じることによってユダヤ人も異邦人も一つにされる、キリストのからだに連なると言うのです。このことは「奥義」だったのです。旧約の人々は知らなかったのです。ところが5節に「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」とある通り、旧約の人々には知らされなかったけれど、今のこの新約の時代になって聖霊なる神によって、その神の真理が明らかにされたのだというのです。ですから、「奥義」は新約の時代においてすべての信者に明かにされた神の真理なのです。とすると、アブラハムが知らなかったことを私たちは知っているのです。モーセが知らなかったことを私たちは知っているのです。彼らにはたくさんのことが隠されていたのです。しかし、今新約の時代になって、この新約聖書を通して神はそのような旧約の人々が知らなかったことを私たちの前に明かにされたのです。ですから、パウロはこの神によって明かにされた真理というものを、妥協することなく、曲げることなく、忠実に正しく伝え続けて行こうとしたのです。
では、なぜパウロはこのような神からのメッセージを託されたのでしょう?そのことが27節から記されています。「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。」と、なぜこのメッセージをパウロに語りなさいと神が言われたのか、それは異邦人や救われた人が心から神の恵みを喜び、感謝するためです。どんなにすばらしい恵みによって救いに与ったのかということを人々がしっかりと悟るために、パウロにこの真理を語りなさいと神が彼に命じられたのです。なぜなら、私たちはみことばを通して真理を知るのです。その真理は私たちのうちに力となって行きます。イエスを知らない人が神の真理を知ることによって救いへと導かれて行きます。イエスを信じる私たちは真理によってその信仰が成長して行きます。私たちは強められて行き、励まされて行きます。だから、真理を語ることは大切なのです。パウロは27節後半に「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」と付け加えるのです。奥義の中で特に驚くべき奥義をここに挙げているのです。それは、神がイエスを信じる信者の中に内住するというその奥義のことです。「あなたがたの中におられるキリスト」とあります。イエスを信じたあなたのうちに神が住んでくださっているということです。その説明をパウロは与えてくれています。それを聞くことによって私たちは励まされます。ローマ8:9でこのように言います。「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」、つまり、パウロが教えていることは、神があなたの中に内住しているということは、あなたが救われているということの証拠だということです。そして、内住していないのは救われていない証拠だと。覚えておられるでしょう? Iコリント6:19に「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、…」と、聖霊なる神があなたのうちに住んでくださっている、それはあなたが救われているからです。ですから、この説明を聞くことによって、何と神が私のうちにいてくれる、それは私が救われたからだと、このことは私たちに大きな励ましを与えます。
同時に、この事実は私たちに大きな祝福をもたらしてくれます。祝福の証でもあるのです。神があなたのうちに内住しているということは、あなたが救われていることを証するだけでない、あなたが救われているゆえに天国に行くことができるということを証明するのです。エペソ1章にそのことが記されています。1:13−14を見てください。「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。:14聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」と、聖霊があなたに内在しているというのは、あなたは天国に行くことができる者に変えられたのだということの証拠だと言っているのです。これが私たちのメッセージなのです。コロサイ1:27に「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」とある通りです。私たちクリスチャンはこうして神の真理によって、確信をもって生きることができるのです。私たちがこの世において語れるメッセージは「私は死んでも生きる」というものです。肉体は日々衰えて行きます。しかし、私たちが人々に語ることができるのは「私は死んでも神とともに永遠を過ごす」というものです。ただ私たちはそのように教えられて気休めで信じているのでしょうか?違います!みことばが私たちに、キリストが私たちのために十字架で死に死後三日後に死から敢然とよみがえってきたという、復活を明らかにし、この復活が私たち信じる者に同じように死んでも生きるという約束が与えられることを確信させるのです。ですから、クリスチャンはこの地上にあって、からだが衰えて行くという現実の中にあっても希望をもって生きるのです、死んでも生きると。私たちは地上の様々な問題を見るのではなく先を見ます。すばらしい祝福が神によって備えられている、その希望を持って、その希望に確信を置いて生きて行くのです。それが栄光の望みなのです。すばらしい祝福に満ち溢れた栄光の希望なのです。それを神は私たちにくださったのです。だから、真理に立つこと、神のおことばに立つことが大切なのです。人間のいろいろなことばによって一時的に心が和み励ましを受け喜びをもつかもしれませんが、しかし、あなたの信仰がしっかりみことばに根付いていなければ、あなたの信仰はぐらつきます。そして、悲しいことに、今私たちの国において、日本人の集まりにおいて、みことばの真理から外れかけている、また、外れてしまった教会があることを知っているのです。私たちが戻らなければいけないのはみことばです。あのルターたちはいのちがけで何をやったのでしょう?みことばに帰ろうとしたのです。これが私たちが信じるものであり、これが私たちが立つものであり、これに私たちはしっかりと信頼を置いて生きて行くのです。神のことばだからです。真理によって私たちは成長して行きます。真理によって私たちは救いをいただいて行きます。だから、真理を語りなさいと言われるのです。
パウロは救いのメッセージに関してこのようなメッセージを語りました。これはまた次回に詳しく見たいと思いますが、パウロが語ったメッセージはどんなメッセージだったでしょう?いろいろな人がいろいろな福音を今伝えています。私たちはどうすればいいのでしょう?聖書に戻ればいいのです。どんな立派な先生がお書きになったものでも、私たちが信頼するのは神のおことばです。神が何を言われているのか、それが私たちの信頼、信仰です。では、救いに関してパウロは何を言ったのでしょう?使徒の働き14章でこのように言っています。ルステラというところにパウロがいたときに、人々はパウロたちの奇蹟を見て彼らを崇拝しようとします。そのときに「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」(14:15)と言ったのです。彼のメッセージは「生ける神に立ち返りなさい」でした。偽りの神々を捨ててまことの神に立ち返りなさいと。使徒20:20−21で、今度はミレトというところにやって来たとき、パウロはエペソに使いをやってエペソから人を集めます。そして話をするのですが、それが20−21節にあります。いろいろな苦しみの中で私は主に仕え続けたとこのように言っています。「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、:21ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」と、パウロはどんな人にも同じメッセージを語ったのです。そのメッセージは「神に対する悔い改めと、…主イエスに対する信仰」です。同じ使徒の働き26:20を見ると、今度はパウロはカイザリヤにいました。そこでアグリッパ王に弁明する機会が与えられています。「ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。」、これがパウロのメッセージでした。罪を悔い改めて救い主イエス・キリストを信じ従って行きなさいと。悲しいことに、最近は悔い改めのメッセージが語られていないのです。ある人々は、イエス・キリストを救い主と信じて後に主人にしましょうと言います。おかしいメッセージです。なぜなら、イエス・キリストは永遠に変わらず主であり神であられる、彼が人類に与えられた唯一の救い主です。その一部だけ信じてあとの一部は信じないでおこうなどと、そんな信仰を神が喜ばれるでしょうか?そういった福音が福音として語られているのです。もちろん、神はどんな福音でも人を救うことができます。しかし、私たちに与えられた責任は、このパウロが神からいただいた責任と同じです。私たちは不完全で失敗もします。しかし、私たちに課せられた責任は、神の示された真理を語りなさい、神のおことばである聖書のみことばを語り続けて行きなさい、このみことばが人に救いを与えるから、このみことばが人を成長させるからです。その務めはあなたにも与えられているのです。
どうぞ皆さん、出て行って語ってください、あなたの考えではない、神の真理です、そして、その真理は聖書に書かれているのです。この聖書のことばが私たちのメッセージです。