06/03/12 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:主の力によって生きる日々1
聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章24節−2章7節
コロサイ1:24−2:7「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。25私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。:26これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。:27神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。:28私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。:29このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。2:1あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。:2それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。:3このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。:4私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。:5私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。:6あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。:7キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」
福音を信じることによって救われたパウロは、この福音のメッセージを伝えるという大切な務めを主からいただきました。そして、彼はその務めを熱心に果たしました。熱心に福音を伝え、あらゆる機会を用いて福音を語りました。いのちがけでこのメッセージを伝えました。しかし、そのパウロが経験したことは彼が期待したものではありませんでした。パウロは様々な迫害を受けました。 II コリント11:23−25に「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。:24ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、:25むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。」と記されています。パウロのクリスチャンとしての歩みは大変でした。平坦な道ではなかった、信仰を持ってからの彼の人生は様々な迫害と隣り合わせでした。パウロが初めてアジアからヨーロッパに移ったとき、伝道旅行に出かけたとき、ピリピという町を訪問しています。使徒の働き16章にそのときの様子が記されていますが、そのとき、町の中にひとりの占いの霊に憑かれた女性がいました。この女性は占いをして自分の主人にたくさんの利益をもたらしていました。彼女がパウロたちのあとをついて「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けました。何日もこのようなことをするので困り果てたパウロは彼女からその霊を追い出してしまいます。彼女も悪霊に憑かれていたからです。そして、占いの霊がなくなった彼女はもう使い物にはなりません、主人は儲ける望みがなくなったので、パウロたちを訴えて出るのです。そして、長官たちは二人の着物を剥いでむちで打つように命じて、何度もむちで打たせたあと牢に入れて、看守たちに厳重に番をするように命じるのです。いったい、パウロたちが何をしたと言うのでしょう。彼らはキリストの命令に従って、このすばらしい福音のメッセージを伝え続けたに過ぎません。しかし、彼らが経験したことは大変な迫害でした。
実際に、私たちが今学んでいるこのコロサイ人への手紙をパウロが書いたのは、ローマで軟禁状態にあったときです。そのときの様子は使徒の働き28;16、31に記されています。パウロは番兵つきで自分だけの家に住むことを許され、2年間彼はそこで訪ねて来る人たちに神の国を宣べ伝えたとあります。「:16私たちがローマにはいると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。:30こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、:31大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」。このように、パウロは一生懸命神からいただいた使命を果たそうと神のことばを伝えた、その結果、彼には様々な迫害が訪れたのです。
また、パウロのクリスチャンとしての生涯を考えてみたとき、彼はいろいろな落胆や孤独を経験しました。 IIテモテ4:16には「私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。」とあり、一人ぼっちだった、いっしょにいてくれるはずの仲間はいなかった、孤独を経験し、そのような仲間たちの姿を見て落胆もしたでしょう。一生懸命主のために仕えているのに、そのようなことを経験したのです。また、彼は様々な失望も経験しました。というのは、彼は自分の同胞たち、イスラエルの人々に熱心に福音を語り続けた、しかし悲しいことに、イスラエルの人々はそのメッセージに耳を傾けようとしなかったのです。パウロがローマ9:2で言うように「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」と、パウロは愛するイスラエルの人々、ユダヤ人がイエス・キリストを信じないその現実に心を痛めていたのです。熱心に語っても彼らの心はますます頑なにされるのです。使徒の働き22章や28章にそのことが出て来ます。イスラエルの人々、パウロの愛した人々はなかなか神の前に心を開かなかったのです。思うようにいかない人生、一生懸命神に仕えているのに、その彼の人生に訪れたものは迫害、孤独、失望、そして、落胆です。そのような中でパウロはどうしたのでしょう?神の前に「神さま、どうしてなのですか!なぜこのような苦しみばかりが私の生活に訪れるのですか?こんなに願っているのに思い通りにならないのですか?」とこんな愚痴をこぼしていたのでしょうか?
今日のテキストを見てください。コロサイ1:24でパウロはこのように言います。「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」、私は喜んでいますと言います。先ほど見たピリピの獄中にあってパウロたちは何をしていたのでしょう?看守たちに「いったい私たちは何をしたというのか?」と詰め寄って、自分たちの正しさ、無実を主張しようとしたのでしょうか?そのようなことは記されていません。使徒16:25には「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」 とあります。みことばが教えることは、何も悪いことなどしていない、迫害されるような罪を犯したわけでもない、神に喜ばれることをした彼らたちは、むち打たれ血を流しながらも牢の中で神を誉め称えていたのです。最初に見た IIコリント11章の中でも、今読んだ箇所以外でも、パウロの生涯は大変なものでした。強盗にあったことも、難船したことも、寒さの中で凍えたこともあった、しかし、その中のどこを見てもパウロが神に愚痴を言い、神をのろって死のうと考えたことなどありませんでした。彼は喜んでいました。いつも喜んでいなさいと彼が命じたように、彼はそのように生きていたのです。いつもどんなときにも喜びをもって生きていたのです。これがパウロの生き方、人生でした。どんな迫害があっても、どんなに落胆しようとも、どんなに孤独を経験しようとも、どんなに失望しようと、喜びは変わらなかったのです。あなたもイエス・キリストの福音のメッセージを伝えて行くときに様々な問題が生じてくるはずです。一生懸命伝えようとするほどにいろいろな衝突が生まれて来ます。もしかすると、あなたは家族から信仰を反対されたり責められているかもしれない、あなたの親しい友人、職場の同僚からも仲間はずれにされることがあるかもしれない、熱心に祈りながら語り続けても、あなたの家族はその罪を悔い改めようとはしない、イエス・キリストを受け入れようとしない、そういう中にあって、あなたはどうでしょう?失望していませんか?そのような現実を見て落ち込んでいませんか?そのような悲しみの中で喜びを失っていませんか?パウロは私たちが経験する、また、経験してきた如何なる迫害よりももっと厳しい迫害を経験しました。しかし、その中で彼は今見て来たように喜びを失っていなかったのです。それはあなたも、今あなたがどのような状況にいるのか分かりませんが、このパウロたちが持っていた喜びをもって生きることができるのです。このキリストのすばらしい福音を宣べ伝えて行く、また、主に仕えて行くことに関して疲れていませんか?喜びを失っていませんか?教会には来ているけれど、かつてもっていたような主に対してもっと忠実に従って行きたい、主のために何かして行きたいという、そのような思いはどうなっているでしょう?冷え切っていませんか?もしそうなら、間違いなくあなたの中から喜びは消えてしまっているはずです。パウロたちはどんな問題があっても、どんな困難があっても、どんな迫害があっても、どんなに落ち込むような状況になっても、喜びをもってその中を生きたのです。彼らは熱心に歩み続けたのです。神に喜ばれることを行ない続けたのです。
では、彼らとわたしたちの何が違うのでしょう?今からそれを見て行きます。この24節のみことばから、特に、パウロがもっていた喜びに焦点を当ててしっかり見て行きます。なぜ彼はこのような大変な中で喜ぶことができたのか、そのことを見て行きます。それは、あなたも今置かれている状況がどのようであっても、喜びをもって主に従い続けて行くことができること、そのことをしっかり学んで、そのような歩みを今から始めていっていただきたいからです。
☆パウロがもっていた喜びとは? なぜ、彼は困難の中でも喜ぶことができたのか?
1.問題の原因と目的を知っていた
パウロは様々な困難を経験したわけですが、そういった問題の中で、その原因と目的を知っていたのです。なぜ自分には次々と問題が襲ってくるのか、その原因と目的を知っていたのです。それが彼を喜びに溢れた歩みへと駆り立てて行ったし、いつも喜びをもって歩むことができるようにさせたのです。どのような原因を彼は覚えていたのでしょう?
原因
問題の原因、彼はこのように分かっていました。なぜ迫害されるのか、なぜ困難に会うのか、それはクリスチャンだからだと。クリスチャンだから苦しみに会うのです、クリスチャンだから問題に遭遇するのです。覚えておられますか?ヨハネの福音書15:20でイエスが「しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。…」と言われたことを。イエスは人々にこのように警告を発しておられたのです。人々がわたしに様々な迫害をなした、だから、あなたがたも同じように迫害を受ける、なぜか、あなたがたはクリスチャンだからと言うのです。この1:24でパウロはこのように言います。「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と。非常に大切なことをパウロは言うのです。「キリストの苦しみの欠けたところ」と、ここは様々な議論を呼ぶ箇所です。ある人々はこの箇所でパウロはイエス・キリストが為された救いのみわざは不十分だったと教えていると言います。キリストの贖い、救いのみわざが欠けている、そのようにパウロが言っていると主張する人がいるのです。もちろん、コロサイの教会の中にいろいろな間違った教えをもたらす異端が入り込んでいました。彼らはイエスを信じるだけでは十分でない、行ないが必要だと言いました。信仰生活においてみことばに頼って行く、それだけでは不十分だ、もっと特別な体験が必要だ、イエス+何か、みことば+何か、ということを教えたのです。それに対して、パウロが今までに教えてきたことは、イエスだけで十分だ、イエスが為してくださったあの十字架と復活はどんな罪人の罪も赦すことができると、そのことをパウロは何度も教え続けてきたのです。ですから、もしパウロがここでイエスの救いのみわざが罪を赦すのに不完全だとするなら、彼の他の教えと矛盾します。ですから、間違いなくパウロはそんなことを言ったのではありません。そのようなことを教える異端たちに対して、偽りの教師たちに対して、それは間違いだということを明らかにしたのです。
もうひとつ、これがイエスの贖いのみわざが不完全であると、そのように言っていない証拠として挙げられるのは「苦しみ」ということばの意味です。19世紀の神学者、J・Bライトフッドは「この『苦しみ』ということばは十字架上でのキリストの苦しみとして新約聖書の中では使われているところがない」と言います。つまり、この「苦しみ」はイエスの十字架のあの贖いの苦しみを表わしているのではないと言うのです。では、パウロは何を教えているのでしょう?ライトフッドはこのように言います。「このことばは人生において、また働きにおいて、我々の主が耐えられた苦しみを表わす」と。贖いの十字架のことではない、しかし、イエスの生涯を見たとき、イエスはいろいろな苦しみ、迫害を経験された、そのことを指しているのだと言います。だから、イエスが経験されたその苦しみというのを、イエスを信じている私たちクリスチャンも経験するのだということです。思い出してください、イエスがこの地上におられたとき、人々はイエス・キリストを迫害しました。そして、イエスが天にお帰りになった後、今度はイエスのすばらしいかおりを放っているクリスチャンたちにその矛先が向けられたのです。私たちクリスチャンはイエス・キリストのすばらしさを世に明かにして行きます。イエスを信じたその瞬間から聖霊なる神が私たちのうちに与えられて、聖霊なる神は私たちをキリストに似た者に変えようとしています。ですから、私たちは私たちの人生の歩みを通して、私たちのうちにおられる救い主イエス・キリストが私の主である、イエス・キリストがどんなにすばらしいお方であるかということを明かにして行くのです。そうすると、人々は私たちを見るときにイエス・キリストを見るのです。神はこのようなことを為してくださっているのです。だから、みことばにみこころに従って行くことが必要なのです。そうすると、イエスを憎んだ人々は変わっていないのです、時代がどのように移り変わろうと…。神を憎む人々はその矛先を神を愛しているあなたに向けるのです。パウロはそのことを言っているのです。
しかももうひとつ、24節に「満たしている」ということばが記されています。これは「お返しに」と「満たす」ということばの合成語です。辞書では「恩返しに満たす」という説明を加えているものもあります。ある神学者は野球のたとえでこのように説明しています。バッターボックスに入って打ち自分の打順が終わると次の人が打席に入ります。そういうことだと言います。イエスの打順が終わって次はパウロの打順だと。イエスがこの地上にあって様々な苦しみを経験された、神に忠実に生きるがゆえにいろいろな苦しみを経験された、そして、今度は打席に入ったパウロがその苦しみを経験するのだと言っているのです。だからパウロは、私はイエス・キリストを信じたゆえに苦しみを受けるのだ、私の主人であるイエスが苦しみを受けられたように、私もそのしもべとして苦しみを受けるのだと言います。皆さんもそれを経験しておられるでしょう?イエスを信じて神に従おうとするといろいろな問題、摩擦が生じます。特に、この異教の国に住んでいる私たちはいろいろな仏式の儀式があったりして、その中で私はイエスを信じているからと、キリストに忠実に歩もうとするなら、いろいろな衝突を経験します。クリスチャンでなければそういうことはありません。クリスチャンでない人、教会に来てしばらく居てその雰囲気を楽しんでいる人たちは、迫害が来るとその信仰が本物だったかどうかが明らかになります。マタイ13章でイエスが警告されたように…。いろいろな迫害が来ると離れていってしまうと。しかし、様々な迫害の中にあっても、神を見上げて歩もうとする、それはその人が救われているからです。
パウロは大変な苦しみを経験したのですが、この24節で教えるように「私は…喜びとしています」と言います。今見てきたように、私はイエスを信じた、人々がイエスを迫害するように私も迫害を受ける、そのことを彼は私たちに教えたのですが、それだけですべての困難に喜びをもって勝利できたかというと、どうもそうではなかったようです。パウロがそのような問題の中で喜ぶことができたのは、実はこのようなことがあったからだと、みことばは教えてくれます。ピリピ1:29でパウロは「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」と言っています。非常に興味深いことをパウロはここで語っています。イエスを信じたときに必ず様々な苦しみがついて来ると言いますが、気付いていただきたいことは、ここで苦しみをいただいた、苦しみがついて来るとそのように言わないで「苦しみをも賜わった」と言っていることです。「賜った」ということばは「恵み」とか「好意」という意味をもったことばです。そうすると、パウロは神からすばらしい救いという賜物をいただいた、神は私のような者を愛してくださり、私のような者を救ってくださった、この救いも神のすばらしい贈り物だけれど、同時に、信仰者として神に従って行くときに経験するいろいろな困難も、いろいろな問題も、神から同じようにいただいた贈り物だということを言っているのです。このようにパウロは見たのです。パウロにとって苦しみを受けることは名誉なことだと言うのです。そのようなことを私たちは言えるでしょうか?使徒の働き5章で、弟子たちが迫害を受ける記事があります。弟子たちはむちを打たれてイエスの名によって語ってはならないと脅され言い渡された上で釈放されます。5:40−42「使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。:41そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。:42そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」と、むち打たれ脅されたが、彼らは「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜んだ」のです。なぜでしょう?私たちは逆です。問題が起こると「なぜ神さまこんなことが起こるのですか」と神に文句を言ってしまいます。愚痴を言うかもしれません。それを神に感謝しますと言えないでしょう?病気になったことを感謝しますとはなかなか言えません。会社が倒産したことを感謝しますと言えるでしょうか?私たちが感謝するのは自分の思い通りになったときです。しかし、パウロたちが私たちと違ったことは、そのような困難を感謝したのです。なぜでしょう?大切なところです。それは彼らが神を知っているからです。彼らが神は愛なるお方だ、愛に基づいてすべてのことをなさる、それ以外のことはできない、そのことをよく知っていたのです。だから、私たちが経験する様々な困難や苦しみや迫害や問題は、もちろん、神の懲らしめとして私たちが正しく信仰生活に戻って行くように神がなさる場合もあります、それも愛の行為ですが、神が私たちに与えられる様々なことは愛の神から愛のゆえになされた行為です。だから、パウロはそのことを神から賜ったもの、神からのギフトだと言うのです。このように言えたのは、パウロが自分の神がどんなお方かを知っていたからです。もし、あなたがそのように言えなかったなら、頭では分かっているけれど、まだしっかり悟っていないからかもしれません。そこに私たちの信仰生活の問題があるのです。頭でたくさん分かっていても本当に悟りきっていないとそれが生きて来ないのです。パウロにしてもペテロにしても彼らは神さま感謝しますと言ったのです。彼らはそのような問題に飲まれることはなかった、問題の中で神を見上げ神に信頼を置き神に感謝をすることができたのです。クリスチャンだから迫害されるのです。クリスチャンだからいろいろな摩擦を経験するのです。しかし、覚えてください、神はあなたを愛するゆえにそのような状況に置かれることをよしとされているのです。
パウロがしていたこと、パウロは原因を知っていました。私はクリスチャンだからイエスが経験された苦しみと同じことを経験するのだと、そして、彼はそのような問題に飲まれることはなかったのです。
(2)目的
(a)神の恵みを分かち合うため=24節でパウロは「私は…苦しみを喜びとしています」と言っていますが、説明が加えられています。「あなたがたのために受ける」と「キリストのからだのために」と。何のためにこんな苦しみがあるのか、その目的を知っていたのです。それはこのような苦しみの中で、問題の中で、迫害の中で、私が正しくみことばを伝えて行くことによって神のすばらしい恵みが、多くの人たちに分け与えられて行くから、イエスを信じていない人はこれを通してみことばを聞くのです、福音を聞き信仰へと導かれて行くのです。だからパウロは、いろいろな問題があってもその中にあって正しく伝え続けようとしたのです。問題があってもそれに怯むことがなかった、止めようとしなかったのです。皆から好かれるような福音を語ろうとはしなかったのです。正直に言って、今私はいろいろな所を訪問して、いろいろな話を聞いて、語られている福音というメッセージに心から憂いを感じます。なぜなら、福音が語られていないのです。みことばの福音ではないのです。まさにパウロが警告したように、そのメッセージにはさばきがないのです、地獄がないのです。そのメッセージは天国に行きたければ行けますよ、イエスを信じなさいという聖書が教えるメッセージではないのです。そのようなメッセージが語られ続けているのです。私は先日アトランタで一人の青年に会いました、西海岸であった日本人の集まりでイエスを信じたと言います。どのように信じたのか、聞いて驚きました。イエス・キリストが十字架で死によみがえられた、このイエス・キリストを自分の救い主、主と信じて罪を悔い改めてイエスに従って行こうという、そういう決心ではありません。何となくイエス・キリストを信じているのです。そういう福音が広がっているのです。罪を悔い改めてイエス・キリストを信じるというメッセージがなくなって来ているのです。イエス・キリストを信じない人に神が約束された永遠のさばき、地獄というメッセージがなくなってきているのです。なぜなら、そういうメッセージを語ると人々は嫌がるからです。そんなこわい話はいや、もっと楽しいことをと、天国の話を聞くのは楽しいでしょう、しかし、私たちが語らなければならないメッセージは神が言われているメッセージです。パウロはそのようにしたのです。人々がどう思うかではなく神がどう思うかであり、神から託された福音のメッセージを曲げることなく正しく語ろうとしたのです。大胆に真実を語って行こうとしたのです。それによって人々が救われるから、すばらしい神の恵みが人々に分け与えられて行くのです。
同時に、このような様々な戦い、試練を経験するとき、まずあなた自身の信仰が成長して行きます。私もいろいろな所でいろいろな人々が戦っていることを聞き知っています。私は礼拝をどうしても守りたいからこういう仕事はできないとか、職場においてもこれは神の前に間違っているからできませんとか、言うことは勇気がいります。でも、そのようにして公にキリストにある信仰者として証をしている方は私たちの群れの中にもいます。でもおもしろいことに、そうしてキリストを証することによって自分の信仰が強められて行きます。ペテロはこのように言います。 Iペテロ4:12「愛する者たち。あなたがたを試みるために…」と、様々な試練は実はあなたがたを試みるためだと言います。それによって何が起こるのでしょう?この後このように続きます。「あなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、」と、精錬する火、つまり神は、あなたに様々な火の試練をもたらすことによって、あなた自身がますます信仰者として成長して行くために、そのことをよしとされると言うのです。ですから、あなたが信仰者としてしっかりキリストに立って、大変なことがあってもその中で主を見上げて行くなら、神はあなたの信仰を成長させて行きます。なぜなら、そのために神は試練を与えておられるからです。
もちろん、あなただけが成長するのではありません。パウロが言うように「キリストのからだ、教会のために」です。そういう戦っている人たちを見ることによって、周りのクリスチャンたちも励ましを受けるのです。だから、証し合うときが必要なのです。証によって励まされることはいっぱいあります。みことばもいろいろな証にあふれています。多くの信仰者たちが信仰の戦いを一生懸命走っている、それはお互いに励ましになります。個人を成長させるだけでなく、全体を成長させる、そのことをパウロは言っているのです。だから、いろいろな困難がやってくるときに、それは神の恵みを人々が分かち合って行くためだから、この目的を覚えてしっかり忠実に歩んで行きなさいと言うのです。
(b)主の報いを得るため=主の報い、ごほうびを得るために忠実に歩みなさいと言うのです。 Iペテロ4:13−14を見てください。「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。:14もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」、ここには条件が書かれています。イエスのために受ける苦しみ、それにはすばらしい神の祝福があるということです。でも、あなたが罪を犯したからその報いとしていろいろな苦しみを経験した、それには報い、ほうびはないのです。でも、もしあなたがイエスのために忠実に生きようとする、神に従って行こうとする、神が喜ばれることをしようとする、そのゆえにいろいろな苦しみを受けるなら、間違いなくあなたにはすばらしい祝福、ほうびが約束されているというのです。しかも、ペテロは13節で「キリストの栄光が現われるときにも」と言っています。つまり、イエスにお会いするときに私たちは喜びをいただくのですが、「…ときにも」と言うのはそれ以外のときにも喜ぶのです。今も私たちは同じように喜びをもって生きて行くことができるのです。だから、パウロたちは喜びをもって生きていたのです。みことばが私たちに繰り返し教えてくれることは、どんな問題があってもあなたがキリストとともに歩んでいるなら、その中であなたは喜びをもって生きて行くことができるということです。ですから、今いろいろな迫害を受けている人がいるなら、いろいろな困難を味わっている人がいるなら、どうぞ覚えてください、あなたがキリストのために受ける様々な困難、問題は神が覚えて、それにふさわしい報い、ほうびが与えられます。だから、怯んではいけないのです、クリスチャンの皆さん!足を止めてはいけないのです、私たちは歩み続けて行くのです。主に従い続けて行くのです。そして、感謝なことに、そのような歩みを為すときに、神は私たちの心に約束された喜びを与え続けてくれます。
(c)主に喜んでいただくため=なぜパウロたちがここまで一生懸命やったのでしょう?自分たちの望むような結果が現われなくても一生懸命神に従い続けた理由は、このような生き方が主に喜ばれる生き方だからです。神に喜んでいただいたらそれでいいのです。ほうびなどどうでもいいのです。なぜなら、私たちは神を喜ばせる者として生まれ変わったからです。あなたがイエス・キリストを信じてクリスチャンと言われるなら、あなたはかつて自分を喜ばせていた者でしたが、神はそこからあなたを救い出して神を喜ばせる者へと変えてくださった、だから、私たちの一番の喜びは神が喜んでくださることです。パウロはだから、どんな苦しみがあってもどんな迫害があっても問題があっても摩擦があっても、神が喜んでくださることをやり続けようとしたのです。そのときに彼はこう言うことができたのです、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」と。大変だけれど喜んでいる、大変だけれど感謝していると言います。神がそのようにさせてくださるからと。
クリスチャンの皆さん、先ほども伺いました。あなたの信仰の歩みはどうでしょうか?イエスを信じたときと同じように、いや、それ以上に、主に対してますます熱心にこの福音のみわざを伝えて行こう、イエスのすばらしい救いを伝えて行こうと、その思いにおいて成長しておられますか?みことばに従って行こう、神に喜ばれることをもっとして行こう、そういう思いをもって今日歩んでおられますか?あなたは様々な困難にあってその困難を喜んでおられますか?なぜなら、あなたの信じている神は全能のお方であり、主権者であり、愛のお方であるから、その神に対する信頼があなたに強い平安と確信をもたらしているからです。
一人の牧師がこのような話をされたことを聞きました。これはオランダのアムステルダムで行なわれた宣教会議でのできごとです。いつのことか分かりませんが、ヨセフというアフリカのマサイ族の青年のことです。ヨセフがある日、アフリカの暑い日差しの中、荒れた道を歩いていたとき出会った人からイエス・キリストの福音を聞きました。その場で彼はイエス・キリストを彼の主、救い主と信じました。聖霊なる神は彼のうちを変え始められました。興奮と喜びに満たされていた彼は、最初に自分の村に帰って自分の部族の人々にこの良き知らせを伝えようと決心したのです。それで彼は自分の村に戻って、家を一軒ずつ回って出会うすべての人に、十字架にかけられたイエスのこと、そして、備えられた救いについて話し始めたのです。村人が自分と同じようにその顔が喜びに輝くことに期待して話をしました。しかし、彼にとって驚きだったのは、村人は関心を示さなかっただけでなく暴力的になったことでした。村の男たちは彼を捕らえ、女たちが彼を束ねた有刺鉄線で打ち続ける間、彼を押さえ付けていたのです。彼はその後村から引きずり出され、藪の中に放られ死を待つだけの身でした。しかし、ヨセフは何とか水たまりまで行って、数日間意識のある日ない日を繰り返しながら、体力を回復させたのです。彼は考えたのです。どうして幼いときから知っている人々からあのような酷い仕打ちを受けたのか、不思議でなりませんでした。そこで彼はきっと自分のことばが足らなかったか、イエスの話を正しく語らなかったからだと確信したのです。そして、彼は最初に聞いたメッセージを何度も練習した後、もう一度人々に彼の信仰を証しようと決心しました。ヨセフは足を引きずりながら村に入りイエスを宣べ伝え始めました。イエスはあなたのために死なれました、それはあなたが罪の赦しをいただき生きておられる神を知るためですと彼は嘆願したのです。すると再び彼は村の男たちに捕まえられ女たちがむちで叩き続ける間押さえ付けられました。やっと治り始めた傷口から再び血が流れ始めました。意識を失った彼を人々は村の外へ引きずり出して放っておいたのです。最初のむち打ちで死ななかったのは驚きでした。二度目のむち打ちを受けて生き続けることは奇蹟でした。数日後、あざと傷だらけのヨセフは荒野で目を覚ましました。そのとき彼は、再び村へ戻ることを決心したのです。彼は小さな村へ戻りました。しかし、今度は彼がメッセージを語る前に襲われてしまいました。人々が三度目の恐らく最後のむち打ちを彼に浴びせているとき、彼は再び人々にイエス・キリスト、主について語ったのです。彼が意識を失う前に彼が見た最後のことは、彼をむち打っていた女が涙を流し始めたことでした。今回彼は、自分のベッドで目を覚ましました。彼をむち打って痛めつけていた人物が今度は彼のいのちを助けるために努め看病に当たっていたのです。そして、その村全体がイエス・キリストを受け入れたと言います。こういう人がいたのです。こういう人によってキリストの福音は広がっていったのです。すばらしかったのは彼よりも、彼を使った神です。皆さん、私たちが考えなければいけないことは、では、私は救ってくださった主に対してどのように生きているかです。私は救われたときよりも熱心にイエス・キリストのことを伝えているかどうかです。このみことばに忠実に従おうとしているかどうかです。主に喜ばれることを心から願ってそのために最善を尽くしているかどうかです。
今日、皆さんにチャレンジしたいことは、あなたは残ったわずかの人生をどのように生きているかです。無駄に時間を過ごすのか、それとも、主に喜ばれることのために生きて行くのか、主に喜ばれることのために生きるとき、この地上にあってあなたは喜び、そして、キリストにお会いしたとき、あなたは主から大きな祝福をいただいて喜びあふれる者になります。そのような歩みをもってますます主に喜んでいただきましょう。この方は私たちのためにいのちを捨ててくださったのですから。