06/02/05 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:今なら神と和解できる
聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章21−23節
パウロはイエス・キリストが真の神であること、真の救い主であることを、このコロサイの人たちに教え続けてきました。というのは、間違った教師たちが入り込んで人々を混乱に陥れていたからです。それに対してパウロは、イエスは神であり救い主であると繰り返し教え続けて来たのです。私たちはそのことを学んできました。そして、今日私たちはこの21−23節を通して、神から与えられたすばらしい救いの恵みについてごいっしょに見て行くのです。20節でパウロはこう言いました。「十字架の血によって平和をつくり」と。イエス・キリストは神と私たち罪人の間に平和をもたらしてくださった、和解を与えてくださった、その説明をこの21節から加えて行くのです。もう少し細かく、詳しく、神が為してくださったすばらしいみわざについて、そして、あなたに与えられた救いのすばらしいみわざを説明するのです。
☆神から与えられたすばらしいみわざ
パウロはこう言います。最初に、救われる以前のあなたの状態、イエスを信じる前はどうだったのか、そして、イエスを信じたあなたのその救いについて、そして、救われたあなたの責任について、21−23節で教えるのです。
1.救われる前の状態 21節
21節「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、」、ここには二つの救われていない人の特徴が記されています。イエスを信じる前のあなたのその姿がここに二つ描かれています。(1)神から離れていた、(2)心において神の敵であった、と言います。これが救われる前のあなたの状態であり、これが生まれながらの人間の姿そのものです。
(1)神から離れていた
神から遠く距離を置いていた、疎遠であった、疎隔であった、全く縁がなかったと、そのような状態であったと言うのです。パウロはエペソ人への手紙の中でこのように言います。「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」(2:12)、パウロはかつての私たちはこのような状態であったと説明するのです。かつてはキリストから離れ、キリストと距離を置いたものであり、何の望みもなかった、天国の望みもないし、永遠の祝福の望みもない、そのような者だった、なぜなら、あなた自身が神と距離を置いていたからと言います。
(2)心において神の敵であった
神に対して自ら進んで反抗的であった、神に対して敵意を抱き続けて来た、そんな状態だったと言います。私たちはみことばを通して何度も教えられてきたように、ユダヤ人でなくても西洋人でなくても、私たち日本人にも神は、神ご自身の存在というものを明らかに示して来られました。世界のすべての人々に神は神がいることを教え続けて来られた、人間は神がいることを知っています。ローマ1:21を見ると「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」とあります。神がいることは分かっているけれど、その神がどういうお方なのかを人間は求めようとしない、その方を信じて、その方に感謝を捧げようともしない、私たちが神を不必要としたのです。ヨハネ3:19−20でもこのように言っています。「…光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。:20悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」と、光は来たのです。神は私たちに救いの御手を差し伸べてくださった、しかし、私たち人間がそれに対して必要ないとしたのです。私は自分の思い通りに生きて行きます、私は自分の好きなように生きて行きます、神さまあなたなど私の人生に必要ありませんと。だから、人間は自分を造ってくださった神よりも、また、その方のみこころに従って生きるよりも、自分の好きなように生きたいために、好き勝手な生き方を選択したのです。21節のみことばを見たとき、「かつては神を離れ、敵となって」とは記していません。「心において」と記しています。つまり、パウロは私たち人間の大きな問題がどこにあるのかを明確に教えるのです。あなたの問題はあなたの心なのです。心に問題がある、心に神は私にとっては必要ではない、神に従うより自分の思い通りに生きて行きたいという、そういった神に逆らった心を持っているから、それが悪い行ないとなって現われて来るのです。そのことをパウロは21節で言っているのです。罪について私たちは聖書から繰り返し教えられています。私たちはみな罪人だと、確かにそれは的を外した生き方、つまり、神が望んでいる生き方に逆らって生きることであると、私たちはよく知っています。旧約聖書の士師記17:6には「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」
とあり、まさに人間の生き様が見事に描かれています。神に従うのではなく私たちは自分のしたいことをして来た、自分の心が欲することをして来たのです。そのように神を無視して神のみこころに反して私たちは生きて来たと言うのです。だから、エペソ4:18で言うように「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。」と、永遠のいのちをいただかないと言います。なぜなら、それはあなたが神に対して心を頑なにしているからです。どんなに知恵を得ても、どんなに学歴を積んでも、大切なことはあなたの心が神に対して開くかどうかです。神に心を閉ざし続けて行くなら、当然、あなたには自分の行なった罪の報いが訪れます。自分の罪の清算しなければならない日がやって来ます。神があなたにいのちを与えまいと拒んでいるのではないのです。あなたがそのいのちを必要としないと拒み続けているのです。神があなたを救いたくないと言ってあなたに救いを与えませんと言っているのではなくて、あなたが備えられた救いに対して私はそのようなものは必要ありませんと拒み続けているのです。そこに問題があると言うのです。
パウロはまずそのことを教えてくれるのです。かつてのあなた、イエスを信じる前のあなたはどうだったのか、それはこんなにすばらしい救いが備えられているのにそれを自らの意志で拒み続けていると。神がおられることが分かっているのにその神を求めようとしなかったのです。もし、あなたが心から神を求めているなら、神はあなたに働かれます。問題は私たち人間が神を求めないことです。私たちは誰一人としてこのような神の救いをいただく資格、神から愛される資格などありません。そのような存在であったと、そのことをあなたはしっかり覚えていなければいけないとパウロは言います。
2.救いについて教える 22節
これらのことを教えた上でパウロは今度は救いについて教えます。今見て来たように、私たち人間の問題は心であると、そのようにみことばは教えています。だから、心が変わることが必要なのです。生まれながらの私たちは神を必要としません。そのような間違った心だから間違った行ないが出て来るのです。世の中の宗教は行ないを変えましょうと言いますが、心を変えることはできません。イエス・キリストだけがあなたの心を変えることができる、だから、間違った心をもって生きて来た私たちはその心を神の前に悔い改めることが必要なのです。22節のみことばもそのことを教えています。「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」、初めに「今は神は」、とあり、この「今」が強調されています。なぜなら、かつての私たちはこれほど神に逆らい続けまったく救われる資格のない者であった、でも、今は変えられたと言うのです。この22節のみことばの中には、神の救いの目的が二つ記されています。
○救いの目的
(1)神との和解=「御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」、このことは私たちはもう20節で見てきました。神に逆らってきた私たちが神と和解することができるのです。ローマ5:8に「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」と教えています。同じ5:10には「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」とあります。神の敵として神に逆らい続けた私たちを神は一方的に愛して私たちを救い出してくださったのです。神と和解するために。
(2)神の御前に立つことができるようにされた=「それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」と、これが二つ目の目的です。この「立たせる」と訳されていることばは、ローマ12:1では「ささげなさい」と訳されています。「…あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と。ですから、コロサイ1:22で言われていることは神へのささげものということでこのことばが記されているのです。つまり、神はあなたを罪から救おうとなさった、、それはあなたと神が和解するためであり、同時にあなたが神の前に受け入れられる、聖い、正しい供え物となるためだと言うのです。なぜなら、聖い神は聖いものしかお受けにならないからです。ささげものを神にささげるとき条件がありました。傷のない聖いものであること。神があなたを救ってくださったその目的は、あなたが聖い神へのささげものとなることです。
22節には三つの大切な形容詞が出て来ます。パウロはこの聖いささげ物について詳しい説明を加えるのです。「聖く、傷なく、非難されるところのない」という形容詞を見て行きましょう。(a)聖く=これはコロサイ1:2で「聖徒」と訳されていることばです。つまり、あなたは神によって聖別されたというのです。神があなたを罪の中から召してくださったのは、神のために、また、神に奉仕するために、神はあなたを聖別したのです。聖徒ということば、聖くと記されているこのことばが私たちに教えることは、神があなたを罪から救い出してくださった、でも、それで終わったのではない、今度は神の目的のためにあなたを使うというのです。それが救いの目的です。そのことを私は忘れてはならないのです。救われるまではサタンに仕えてきた私たちは救われたときから神に仕える者になったのです。二つ目に(b)傷なく=欠点がない、無傷の、という意味をもったことばです。エペソ1:4にも「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とあります。またパウロは、ピリピ2:15で「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、」と言っています。そのような者に神はあなたをしようと、そのためにあなたを救い出してくださったのです。三つ目は(c)非難されるところがない=訴える、非難の打ち所がない、ということばですが、I コリント1:8で「主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。」とパウロは言っています。救いはすばらしいものです。なぜなら、ここにすばらしい約束が記されています。私たちがイエス・キリストの前に立つときに、そこで神のさばきを受けるときに、責められるところのない者として神がしっかりあなたを守ってくれると言うのです。もう一箇所ローマ8:33を見ましょう。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」とすごい約束です。この約束を見て私たちの心は喜びに踊らないでしょうか?ここでパウロが言っていることをしっかり見ましょう。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」とサタンは日夜神の前に私たちを訴えているのです。黙示録12:10に「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」とある通りです。あなたが罪を犯すたびにサタンは訴えるのです。そのときにイエスは、「わたしはその罪のためにも十字架で死にました」と私たちを弁護してくださるのです。だれもあなたを訴えることはできない、なぜなら、あなたは神が義と認めた、もう神はあなたを義なるものとしたからです、聖いものとされたのです。ですから、神があなたをご覧になるとき、逐一あなたの罪を責めるなどということはない、それらはもうすべて解決ずみです。神はあなたのすべての罪を赦してくださって、義なる者、聖い者としてくださったのです。イエス・キリストが私たちのすべての罪をその身に負って十字架上で死んでくださったから、イエスを信じたその瞬間にすべての罪が解決され、私たちは神によって聖いと宣言されたのです。これが救いです。だから、私たちはこの救いを覚えるたびに喜び、感謝するのです。人はあなたを非難するかもしれない、しかし、最後の審判者である神はあなたを非難しません。
クリスチャンである皆さん、このことを忘れてはいけないのです。このような恵みをもうすでにいただいていることを忘れてはいけないのです。神がもう私たちを義なる者と呼んでくださっていることを忘れてはいけないのです。パウロはこの三つの形容詞によって、「救い」を強調するのです。そして、パウロは私たちがこのすばらしい救いのみわざを忘れることがないようにと、22節でその説明を加えています。どのようにしてこの救いに与ったのか、救いの手段です。
○救いの手段
22節の初めに「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、」とあります。日本語の聖書では「しかも」ということばがあります。このことばを見ると「御子の肉のからだにおいて」と「その死によって、」と二つのことを話しているように取れるのですが、原語はそのようには言っていません。
原語では「からだにおいてその死によって」と言います。つまり、ここでパウロが言いたかったことは、あなたにこんなすばらしい救いが与えられたのは、イエス・キリストが十字架の上で死んでくださった、その死のゆえだということです。イエス・キリストの身代わりの死ゆえに、信じるあなたにこのような祝福が与えられたのだということです。つまり、神はあなたが自分でできないことをあなたに代わってしてくださったのです。新約聖書のうしろの方、ユダの手紙24節に「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、」とあります。これらのことをしてくださるのは誰でしょう?神です。神はあなたをきよめることができ栄光の御前に立たせることができるというのです。その方が何をなさったのか、あなたのために救いを用意してくださったのです。ローマ8:3に「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」とあります。私たちは自分の努力で救いを得ることなどできないのです。しかも、神が与えた律法によって救いを得ることは不可能だと言います。律法は私たちがいかに神の基準から離れているかを明らかにするのです。だから、神が救いを備えてくださったのです。そのことをパウロはこの箇所で言っているのです。神が私たちに代わって私たちの罪の解決をもたらしてくれたのです。ですから、救いをもたらすことのできる神が、私たち人間には到底できないこと、罪の赦しを私たちのために備えてくれたと言うのです。ヘブル9:14には「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」とあります。イエス・キリストの身代わりの死によって私たちは生まれ変わることができる、救われると言います。ペテロはこう言います。I ペテロ1:18−19「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、:19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」、私たちが救い出されたのは「銀や金のような朽ちる物にはよらず、:19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によった」と、そのことをパウロは教えるのです。
もう一度、コロサイ1:22を見ると、最初のところに「今は神は、御子の肉のからだにおいて」ということばがあります。「肉」と「からだ」ということばをパウロはここでくっつけています。それは、もう繰り返し私たちが学んでいるように、コロサイの教会は異端の教えに惑わされていました。グノーシス主義の人たちはキリストの神性を否定し、キリストが人になったことも否定します。ですから、パウロはここでイエス・キリストは神であり、イエス・キリストは敢然と人となってこの世に来られた、彼が人となって肉とからだをもってくださったゆえに、彼は私たちの身代わりとなって十字架で死ぬことができたと、パウロはその間違った教えに対して明確に真理が何であるかを教えるのです。このようにみことばを見て行くと、そこで使われている一つ一つのことばには目的があることが分かります。ここでも、パウロは間違った教えに惑わされていたコロサイ教会の人々に対して、真理を明らかにし、動揺している人々を正そうとするのです。キリストは完全に神であり完全に人であった、そして、このキリストの死によってあなたは神と和解させられ、あなたは神の前に聖いささげ物として立つことができる者になった、こんなすばらしい救いを神はあなたに与えてくださったのだということを言うのです。
3.救われた者の責任について教える 23節
23節「ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。」、パウロは三つの責任を言います。
(1)信頼を失ってはならない
「しっかりとした土台の上に堅く立」ちなさいとあります。エペソ2:20を見るとその土台がイエス・キリストであることは明らかです。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」、つまり、イエス・キリストを信じたあなたは、このイエス・キリストという土台の上に立っているのです。「堅く立つ」ということばは I コリント15:58にも出て来ます。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と、このことばは比喩的に「椅子に座る」という意味があります。立っているとぐらつくけれど椅子に座ると安定します。その意味です。
ですから、パウロが言っていることは、いろいろな教えが入ってきて惑わされるかもしれないけれど、しっかりイエス・キリストの上に立ちなさい、しっかりイエス・キリストを信頼して行きなさいということです。
(2)希望を失わない
「すでに聞いた福音の望みからはずれることなく」と言います。希望から離れ去ってしまう、移り去るようなことのないようにと。神は福音を通して私たちにすばらしい希望をくださった、イエスを信じた私たちの希望は、イエス・キリストが帰って来られるという希望です。今の世の動きを見るとそのことがよく分かります。今私たちは世の終わりにいるということは明らかです。私たちクリスチャンはもう一度しっかりこの希望に立つことです。キリストは私を迎えに来てくださる、遅くなることはないと。この希望をしっかり抱いて私たちは歩むことができますし、また、歩むべきです。そして同時に、私たちはこのキリストとともに永遠を過ごすのです。パウロは I テサロニケ4:16−17でそのことを教えます。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、:17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」、イエスが私たちを迎えに来てくださると、私たちはキリストのもとに引き上げられ、そして、私たちはキリストとともに永遠を過ごすのです。これが私たちの希望です。地上の人生などあっという間に終わります。その後には永遠があるのです。しかも、私たちのすばらしい希望はこの救い主なるイエス・キリストとともに永遠を過ごすのです。だから、希望を失うなと言います。いろいろな教えが入ってきて惑わされて希望を失ってしまうようなことになってはならない、しっかりとこの与えられた希望を覚えていなさいと言います。
(3)信仰を失わない
「信仰に踏みとどまらなければなりません」、努力を続けなさいと言います。このことばは、たとえば、ヨハネ8章で姦淫の女の話があります、パリサイ人たちは彼女をイエスの元に連れてきた、モーセの律法によるならこういう人は石打にせよと書いてあるが、あなたは何と言われますかと問い続けたのです。この「問い続ける」ということばです。また、ペテロが投獄されていたとき、天使がペテロをその牢から解放しました。彼はマルコの母マリヤのところに行って、その扉を叩き続けました。そういう意味なのです。継続して信仰に踏みとどまっていなさいと。
今、私たちはこれら三つのことを見てきましたが、これをするなら救われるということを教えているのではありません。救われている人はこのように生きるということです。救われている人は、信頼を失いそうになる大変なときでも神を信頼しようと、希望がまったく見えなくなったそんな絶望の中にあっても、神を見上げて信頼しようと、信仰がぐらつくときでもこの神を信じて従って行こうとするのです。イエスはヨハネ8:31でこのように言われました。「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」と。また、同じように、I ヨハネ2:19には「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」と、このように教えています。多くの人々が私はクリスチャンだと言って教会に属して活動しているかもしれない、しかし、ある人はその中から出て行ってしまって、罪の生活の中を歩んで平気でその罪の中を歩み続けている、神に対しての関心も思いもありません。そのようなとき、私たちが考えなければならないことは、確かに、私たちの中にいたのだけれど出て行ってしまった、その人はもともと仲間でなかった、つまり、ヨハネが言っていることは、本当は救われてなかったと言うのです。そういう人がいるというのです。ですから、みことばの中で最も恐ろしい箇所とある神学者が言う、そのマタイ7:23を見ると「しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」、神の前に立つとき神ご自身が言われるのです。「わたしはあなたを知らない、不法をなす者、わたしから離れて行け」と、でも、神さま私はいろいろなことをいっぱいしました、こんなわざもあれもこれもと…、しかし、神は「わたしはあなたを知らない」と言われるのです。つまり皆さん、救われていると言っても救われていない人がいるということです。教会にいてバプテスマを受けて教会で活躍しているかもしれない、しかし、その信仰が本物かどうかは神とその人にしか分からないのです。そういうことがあると警告するのです。だから、本当に救われている人はどうでしょう?もちろん、完璧ではありませんから、信仰が弱るときがあるし、ある時は一時的に神から離れるときがあるかもしれない、しかし、救われている人は神のもとに帰ってきます。神を離れたままではおれないのです。神は渇きを与えてくださるからです。
このように話すと、皆さんの中には私の救いはどうだろうと自分の救いを疑問視する人が出て来るかもしれませんが、もしそうなら、簡単です、自分の救いをはっきりさせることです。それは、私がどのように感じるか、どのように思うかではないのです、聖書が何をいっているかに立てばいいのです。聖書がどうすれば私の罪が赦されるのかを教えてくれている、それを私が心から受け入れたかどうかです。それを自らに問いかけたらいいのです。イエス・キリストが私の罪の身代わりとなって十字架で死によみがえってくださった、イエスが唯一の希望であり救い主である、私はこの方を私の主人としてこの方に従って行こうと、心からその決心をしたのであれば、あなたはこの神の約束によって救われているのです。はっきり自分自身の救いを吟味して確信をもって生きなければいけないのです。救われているのかどうか分からないと思いながら、そのような状態で長くいることは恐ろしいことです。もしそのように思ったらその瞬間にその答えを見つけることです。聖書に書いてあるのですから。
本当のクリスチャンたちは完璧でないにしても、このような歩みをする人々だ、そんな変化を神は信じた人たちのうちにもたらしたと、これが神のすばらしいみわざです。W・ウォズビーというシカゴ・ムーディー教会の牧師がかつてこのようなことを言っています。「信仰に踏みとどまることによって救われるのではない。しかし、信仰に踏みとどまることは救われたことを証明する。」と。これが、神のすばらしい福音がなすみわざです。彼はこのように付け加えます。「この福音は天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている。」と。パウロ自身はいろいろな所に、特にローマ帝国内に出て行って福音を伝えました。この福音によって人々は変えられて行くのです。パウロ自身も福音を聞き、パウロ自身も変えられました。福音に敵対する者が福音を伝える者になったのです。その福音に私は今仕えているのだと彼は言います。そして、このコロサイの人々もエパフラスからメッセージを聞きました。そして、パウロが言うのは、彼が伝えた福音のメッセージは私が信じたものであり、私が伝えたものだ、この福音のメッセージでいいのだ、この福音のメッセージが神のメッセージなのだということです。なぜなら、他の福音があるかのようなことになったからです。イエスの十字架と復活を信じるだけでは不十分だ、福音を信じるだけでは不十分だ、もっと特別な体験や経験がいるのだと、そのように言う人々に対して、とんでもない、この福音だけで十分だとパウロは言うのです。私たちクリスチャンはこのメッセージを聞いて神に感謝しなければいけません。このような恵みに神はあなたを一方的に選んで入れてくれたのです。この祝福はあなたのものです。だから、私たちはこんな恵みをくださった神を愛してこの方を誇って生きて行くのです。もし、まだこのすばらしい罪の赦しを受けていない方がおられるなら、神は今、あなたと和解してくださいます、あなたの罪を赦してくださいます、なぜなら、もうすべてのことは神によって為されたからです。救いは備えられました。そのように招いておられる神のもとに、今救いを求めて出て行ってください。神は今、その救いをあなたに喜んで与えてくださるから、今日があなたにとっての救いの日となるように心から願います。