06/01/29  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師


主  題:イエスがだれかご存じですか 4

聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章19−20節


 パウロはこれまでコロサイの教会の人たちに対して、イエスがいったいだれであるかということを教え続けてきました。パウロは彼らにイエスは神であることを明確に教えようとしました。その理由は、すでに見てきたように、この教会の中に間違った教えを説く教師たちが入り込んで、人々の教理、信仰を惑わしていたからです。彼らはイエス・キリストは神ではない、イエスを信じるだけでは十分ではない、信仰の歩みにおいてもイエス・キリストを信じてその教えに従って行くだけでは十分ではないと、そのようなことを教え始めたのです。そこでパウロは、そのような偽りの教えを説く教師たちに対して、また、そのような教えに惑わされているクリスチャンたちに対して、それが大きな誤りであることを教えました。キリストは神であることを明確に説いたわけです。これまでに見て来たように、

☆イエスの卓越性について

1.イエスは見えない神の見えるかたちである(15節)

2.イエスは永遠の神である(15節)

3.イエスは創造主なる神である(16−17節)

4.イエスは教会のかしらである神である(18節)

5.イエスは死に勝利された神である(18節) 

今日、私たちは最後の2つ、五つ目と六つ目を見て行きます。

6.イエスはご性質において神である  19節

まず19節を見ましょう。「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、」、あまりにも大切なことがたくさん記されている箇所です。しっかり見て行きましょう。6番目にパウロが教えることは、イエスはそのご性質において神であるということです。イエスのご性質を見てごらんなさい、彼のうちには神のご性質が溢れていると、それがこの19節でパウロが教えようとしたことです。特に、19節の中で三つの大切なことばに注目していただきたいと思います。これがパウロが19節で伝えたかったことです。

(1)満ち満ちた神の本質

非常に大切なことばです。この名詞を用いてパウロは大切なことを読者たちに教えようとするのです。このことばは新約聖書の中に17回出てきます。これは「満たす」「いっぱいにする」「完全にする」という意味を持つことばです。コロサイ2:9にもこのことばが出て来ます。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」と、同じギリシャ語がここでも使われています。もう少しこのことばの意味を説明すると、大きく分けて二つあります。1)神の力や属性の全体を指すことば、つまり、神のご性質の全体を指すことばです。それがこの「満ち満ちた神の本質」というギリシャ語のことばです。つまり、パウロはこのことばを使うことによって、イエスのうちにあるご性質は神としてのすべてのご性質が含まれているということです。だから、「満ち満ちた神の本質」と日本語で訳したのです。つまり、イエス・キリストを見たとき、神しかお持ちでないご性質がそこには十分に溢れている、完全に溢れていると、そのことを言いたいわけです。言い換えると、何一つ欠けていない、どこから見てもこの方は神だということです。2)救い主として任命されたお方に属する救いの恵みと力の充満を表わす、これはエスリス・ジョンソンという神学者がここにこういう意味があると説明を加えたものです。だから、性質的に見て、神のすべてのご性質がこのイエス・キリストのうちにあるというだけでなく、同時に、救い主が持つべきすべてのもの、その救いの恵み、その力のすべてがこの方の内にある、そういう意味でこのことばが使われているのです。かなり重要な意味です。ですから、このことばが持っている中心的な意味は、神の本質の充満性、神の本質が満ち溢れているということです。だから、パウロが最初に言いたかったこと、また、ここで用いたこのことばがもっている意味というのは、繰り返しますが、このキリストのうちに神の本質、すなわち、神としてのご性質のすべてが完全なかたちをもって宿っているということ、それがパウロの言いたいことだったのです。

では、なぜパウロがあえてこのことばを用いたのでしょう?パウロは読者たちの置かれている立場がよく分かっていました。どういう教えが入り込んでいるかよく知っていました。そこでパウロがこのことばを用いたわけは、実は偽りの教師たちがこのことばを用いて教えていたからです。グノーシス主義の人たちがいて、その教えが教会の中に入り込んできたことを先に話しました。彼らは、この日本語に訳されている「満ち満ちた神の本質」ということばをこのように使いました。「絶対者である至高存在(神のこと)は、何事にも言い表わせないほどの知られざる言語に絶する偉大なお方である。この方は、世界から無限に離隔し、神の充溢であるプレローマの霊的な光の中におられるお方だ。」と、つまり彼らは、この世界は悪だから、物質はすべて悪だから、気高い神はこの罪に染まった物質、世界から無限に離れていないといけない、そういう存在だというのです。そして、その方は神の充溢、神の満ち溢れているプレローマの霊的な光の中にいるのだというのです。「プレローマ」というのはギリシャ語で、ここでは「満ち満ちた神の本質」と日本語で訳されています。彼らはプレローマの中にいる、つまり、神はきよい方であり、この世の中は汚れたものである、だから、聖い神はこの世から完全に離れていなければいけない、そして、その方は神の充溢の中にいる、神の満ち溢れたその中におられるお方だというのです。この教えの間違っているところに皆さんお気づきのことでしょう。私たちは何度もこの主義について学んできましたが、神は善であり物質は悪であるとする、この考え方が間違っているのです。そのことはパウロがこの後も教えて行きます。ですから、その解答は後で皆さんに説明して行きます。

しかし、今覚えておいていただきたいことは、ここで、グノーシス派の人々、偽りの教師たちが同じことば、この「プレローマ」というギリシャ語を用いていたのです。そして彼らは、神がその神の充溢の中におられると言ったのです。そこで、パウロは言ったのです。あなたたちは確かにそのことばを用いて、「プレローマ」とは神の満ち溢れたところ、そのような領域である、そして、イエスがそこからかけ離れた存在だと言っているが、とんでもない、実はイエス・キリストご自身がその神の満ち溢れた存在そのものだと、そういうことをパウロはここで伝えようとしたのです。なぜなら、神の充溢の領域、「プレローマ」に存在できるのは神しかいないからです。気高い神しかその領域に生きることはできない、そして、その領域にイエス自身がいるのだとパウロは教えるのです。つまり、イエス自身は、その絶対者なる至高の存在である神だということを言ったのです。パウロは見事に、偽りの教師たちが教えているその内容を用いて、実は、事実はこうなんだということを伝えようとするのです。彼らが使っていたそのことばを用いて、あなたたちはプレローマとキリストとの存在とを引き離しているけれど、キリストそのものがプレローマ、神である、その領域に生きるにふさわしい存在だということを言っているのです。

また、そのことを強調するために、この「満ち満ちた神の本質」ということばの前にある形容詞がつけられています。残念ながら、日本語ではこのことばの中に含まれてしまっているのですが、実は、「すべて」という形容詞がつけられているのです。なぜパウロがそのようにつけたかのかというと、彼が強調したかった点、このイエスのうちに神しかお持ちになることのできない本質の全部があるということを言いたかったからです。だから、パウロは敢えてそのようなことばを選んで、彼がしっかり誤解なく伝えたいメッセージを伝えたのです。イエス・キリストは神がお持ちのすべてのご性質を所持しておられるお方、神だと言うのです。

(2)御子のうちに宿らせ

二つ目に私たちがしっかり目を留めなければいけないことばは、19節の最後にある「御子のうちに宿らせ」です。これも大切な動詞です。辞書によるとこれは「定住する」という意味をもったことばです。神学者エスリス・ジョンソンは、このことばは不定過去という時制を使っていると言います。敢えてこの時制を使った理由は、神ご自身がこの御子をご自分の永遠の住まいとなさったということを言わんとするためだと。これは実はとても大切なポイントです。なぜなら、イエス・キリストはみことばによると永遠から永遠に神です。しかし、グノーシス主義の人々は、キリストはもともと人だから、そこに天的キリストが彼を所有し、彼を通して行動したと、このように言うのです。だから、当然、イエス・キリストの神性を否定していたグノーシス派の教えを聞いていた人々に対して、パウロは永遠から永遠に神であること、このご性質は彼のうちに永遠に宿っているのだということを明らかに伝えたかったのです。父なる神の属性と力のすべてがイエス・キリストのうちには宿っていると言うのです。

(3)神はみこころによって

三つ目は19節の最初に戻るのですが、「神はみこころによって」ということばが出て来ます。この動詞も非常に大切なことばです。このことばは「良く」ということばと「思う」ということばが合成されてできているギリシャ語です。「よく思う」というのです。残念ながら、日本語の聖書では「神はみこころによって」としか訳せませんでした。直訳すると日本語としてきれいにならないからです。でも、この「神はみこころによって」と訳されていることばは、「喜びとする」とか「意にかなう」という意味です。また、辞書ではこのように訳しているところもあります。「神は御子のうちに満ち満ちた神のすべての本質が宿ることを喜ばれた」と、直訳するとこのようになるのです。とても大切なことをパウロは言っています。つまり、イエス・キリストのうちに神としてのすべてのご性質が宿ることを父なる神が喜ばれたのです。そうすると、聖書を見たとき神はひとりだと教えています。「わたし以外に偶像をつくってはならない」と神は旧約聖書、新約聖書で共通して教えています。律法の中にも出てくるし、申命記の新しい律法の中にも出て来ます。おかしいと思われませんか?なぜなら、父なる神は、イエス・キリストのうちに神としてのすべてのご性質が宿ることを喜ばれたなんて。神はご自分の栄光を他のものに分け与えることを良しとされるのでしょうか?もっと直接的に言うなら、神は偶像を造ることを良しとされるのでしょうか?あり得ないことです。では、なぜ、そのようなことを神は喜ばれたのでしょう?答えは簡単です。イエスが神だからです。父なる神、そして、子なる神イエス・キリストは永遠に存在する真の神だからです。だから、この方が神としてのすべてのご性質を持っていても何もおかしくないのです。神であるゆえに、神としてのご性質が宿ることが当然であるゆえに、そのことを喜ばれたのです。

この19節のみことばを見たときに、こうして三つのことばを用いることによって、パウロが教えたかったことは、間違った教えに惑わされている人々に対して、キリストが神だということを明確にしたのです。そのご性質において、彼には神のすべてのご性質が宿っているのだと。神しかお持ちでないご性質、どんなことでも知っておられる全知であることや、どんなことでもおできになる全能であるとか、どこにでもいらっしゃる遍在であるとか、神しか絶対に持つことのできないご性質がキリストのうちに見られるのです。そのことを用いてパウロは、だから、キリストが神だということを説明したのです。

7.イエスは和解者なる神である  20節

神はすべての者の和解者であると言います。20節を見ましょう。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」。このみことばの中でも二つの動詞を覚えてください。大切な意味があるからです。

(1)平和をつくり

平和を作ること、つまり、関係の回復を意味することばです。人間と神との間に介在する敵意というものを取り除き、神と人との平和関係を回復する方です。まだイエスを信じておられない方、ご存じでしたか?あなたは神と敵対関係にあるということを。そのことはもう少し後で見て行きますが、ローマ5:1でパウロはこのように言います。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」と、イエスを信じた私たちは神と平和をもっているのです。私たちの間に介在した敵意が完全に取り除かれて、私たちは神と平和の関係におかれているのです。

(2)和解させてくださった

この動詞の一つ目の意味は、これは「変化」を意味することばです。敵から友へ変化すること、敵対を友情と交換するなど、「変化する」という意味をもったことばです。ローマ5:10を見てください。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」とあります。神と和解された者は永遠のいのちにあずかるのだと言うのです。また、パウロは別のところでこのように言います。IIコリント5:18「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」、また、皆さんもよくご存じのエペソ書2章には、かつての私たちと救われた私たちとの比較がされています。2:3には「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」と記されています。パウロは大切なことを言っています。かつての私たちは不従順の子らの中にあって、自分のやりたいことを行なってきた、神を全く無視して神に逆らいサタンに従って生きてきたのだと。そういう生き方に進化論は好都合です。私たちが偶然に誕生したのなら好きなように生きて行けばいいのです。でも、造られたとなれば別問題です。造られたのなら造ってくれた人に対する責任が生じるからです。あなたは造られました。神はあなたに対してすばらしい計画をもっておられる、神はあなたにこのように生きなさいと言われた、ところが残念ながら、私たちは神に従うよりも自分の好きなように生きて行きたいのです。自分の肉のままに、自分のやりたいことをやって行きたい、自分さえ満足ならそれでいいと、そういう生き方を選択して来たのです。だから、神は「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」と言われるのです。神のさばきを受けるべき存在だと言うのです。それはあなたがことごとく神に逆らい続けているからだと。このエペソ2:4ではこう言います。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、——あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。——と、感謝なことに、あなたの罪を知っておられる神は、それでもあなたを愛して、その罪からあなたを救い出そうとしてくださったのです。神に逆らい神のさばきを受けて当然のあなたを、神は見捨てたのではなく、神はあなたと和解しようと救いの御手を差し伸べてくださったのです。憐れみ豊かな神は、あなたを愛してくださり、その大きな愛のゆえに、罪の中を歩み、永遠の滅びに向かっていたあなたを、そこから救い出そうとされたのです。ですから、この和解ということばを見たとき、それは変化である、神に逆らっていた敵から、神の友と私たちを変えてくださるということです。

 そして、もう一つ、このことばについて覚えておかなければいけないことは、このことばは合成語だということです。「もとへ」「後ろへ」という前置詞と「和解する」ということばが合成してできているのです。つまり、このことばには「前の状態に戻す」という意味があるのです。堕落した状態から元の状態に戻してくれるということです。コロサイ1:22を見てください。「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」と、和解させてくださった、そのことによって元の状態に戻してくれた、罪に汚れていた私たちを「聖く、傷なく、非難されるところのない者」へと、神は元の状態へと戻してくださったのです。パウロはこのように言っています。ローマ5:19「ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」。イエス・キリストを信じたその時に、神はあなたと和解し、あなたを元の状態に戻してくださるのです。元の状態とはどんな状態なのでしょう?簡単に、神の創造の目的を思い出してみたいと思います。

神の創造の目的

神は何のためにあなたを造ったのでしょう?ここにおられるすべての人を神は最高の者として造られた、その創造の目的は何だったのでしょうか?みことばを見ると、神は私たちを神のかたちに似せて造られたとあります。創世記1:26に「そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」とあります。何を教えているのでしょう?神には頭があり手があり耳がありというような「かたち」を持っているということではありません。神と同じように、私たち人間を理性を持つ存在としてお造りになったということです。ですから、人間は他の動物と違って理性を持っています。知性、感情、意志をもっています。それゆえに、私たちは考えることも感じることも選択することができるのです。そして、神が人間を造られたとき、そこには罪がなく人間は死ぬこともなかったのです。神の栄光を現わす者として造られ生きていたのです。それが神が人間を造った目的です。

 神が人間を造ったのは神がすばらしい方であるというその神の栄光を人間が現わすためです。ところが人は罪によってそのすべてを失いました。神の栄光を現わすべき人間が、神の栄光より自分の栄光を選択したのです。死ぬことがなかった人間は肉体的な死を味わう者になりました。常に神がともにいる存在が、神から離れた状態、これを「霊的な死」と言いますが、そのような者になったのです。ですから、神は私たちを再創造される、新しく造り変えられるのです。イエスを信じた人のうちには、神は新しい働きを始められるのです。完全に罪がなく死ぬことのないものへとこの主が変えてくださるのです。もちろん、死ぬことがないというのは肉体的に死ぬことがないと言っているのではないことは皆さんお分かりと思います。神から引き離された、霊的に死ぬ、そのような存在ではなくなるということです。つまり、いつも神とともにいることができる、しかも、永遠に神とともに過せるという、そういう存在へともう一度私たちを造り変えてくださるということです。だから、イエスを信じたことによって元にもどるのです。罪がなく、神と交わり、神とともに永遠を過ごしていたその状態に戻されるということです。しかし残念ながら、私たちはこの地上にいる間は、まだ罪のからだを持っています。まだすべての点において完全にされたわけではありません。しかし、私たちは栄光のからだをいただく時、神が創造されたその目的に沿った者へと、再び私たちは完全に変えられるのです。だから、新しく生まれ変わった者、神を信じ救われた者は、神があなたを造られた目的である神の栄光を現わすために生きて行きたいという思いを持って生きる者に変えられるのです。私たちはそのように生まれ変わったのです。神の前に喜ばれることをして行こう、神のすばらしさを証しして行きましょう、どうしてそのような思いが与えられたのでしょう?神が私たちを造り変えて、元の状態に戻してくださったからです。それがこの「和解」ということばの持つ意味なのです。

 ですから、この「平和をつくり、」「和解させてくださった」という二つのことばが表わしたことは、救いのこと、罪の赦しのことです。そのことをここで教えるのです。しかも、それが神の恵みであることをパウロは言います。この20節をもう少し細かく見たいと思います。大切なことが記されているからです。こんなわずかな箇所にパウロが言いたいメッセージが溢れているのです。パウロは神のなさったすばらしい救いのみわざは恵みであると教えたいのです。

パウロはどのように「救いのみわざは恵みである」ことを伝えようとするのでしょう?

20節に「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。」とあります。

(1)神の救い、神が救ってくださるということ

「ご自分と和解」、神との和解です。罪人であるあなたが神と和解するのです。神があなたと和解するのではありません。神は罪を犯しておられないからです。罪を犯したあなたに対して神は和解するチャンスを与えてくださったのです。「わたしのところに帰っておいで、わたしが赦してあげる、わたしが元の関係に、元の状態に戻してあげる、あなたの罪を赦してあげる」と言ってくださるのです。人間が神と和解させられるのであって、神が人間と和解させられるのではないのです。間違ってはならないのです。神には救いは必要ないのです。でも、あなたには必要なのです。

(2)救いは一度きりのこと

なぜなら、今見てきた大切な「平和」「和解」という動詞はどちらも不定過去が使われているのです。一度きりのことなのです。何度も何度も繰り返して神と平和をもたなければいけない、和解しなければいけないと言うのではありません。救いは一度きりのことです。イエスを信じたそのときに、罪はすべて解決されます、永遠に。

(3)ご自分の十字架の血によって

和解の方法まで記されています。「十字架の血によって平和をつくり」と。十字架の血、キリストの血、キリストのいのちです。それによって、あなたは神と和解できると言うのです。使徒4:12に「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」」とあります。なぜ、イエスだけが救い主なのか、それはイエスだけがあなたの身代わりに十字架で死んでくれたからです。イエス・キリストだけがあなたの代わりに十字架で自分のいのちを捨ててくれたからです。宗教家はいっぱいいます。立派な人々は溢れています。しかし、救い主はただ一人なのです。あなたの罪を完全に赦して、あなたを永遠の滅びから救い出して永遠のいのちに入れてくださる方は一人しかいないのです。なぜなら、イエスだけがあなたの身代わりとなって十字架で死んでくださったからです。使徒4:12で教えるみことばの通りです。神があなたと和解しようといわれた、そして、その神があなたのために和解する方法として与えられたのがイエス・キリストなのです。

(4)万物を和解させて

20節に「御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったから」とあります。人だけではないのです。被造物のすべても含まれるのです。神は罪を犯した人間との関係を回復しようとしておられます。イエスを信じたその関係は回復されます。平和をもち和解されるのです。しかし、それは人間だけのことではなく被造物も含まれていると、20節でパウロは言うのです。なぜなら、ローマ8:19−21にこのように記されているからです。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」と、ここでパウロが言っているのは、人間が罪を犯すことによって被造物全体が罪に犯されたということです。だから、神がお造りになったその時の様子と違うのは人間だけではない、神が造られた被造物の中にも死が入ったのです。動物も死にます、植物も死んでしまいます。死が入り込んだのです。動物も病に倒れ衰える、殺し合う、これは神が創造された世界ではなかったのです。だから、イエスが帰って来られた後築かれる千年王国の様子が、イザヤ書の中に記されていますが、11:6に「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。」とあり、殺し合うことがないというのです。残念ながら、人間の罪によって被造物も呪われてしまったのです。そこにも罪が入ったのです。それゆえに、先に話したようなことが私たちの目の前で現実に起こっているのです。イザヤ65:17には「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」と、神が新しい天と地を創造することを教えています。ですから、神が人間と同じように被造物にも大きな希望を与えられた、だから、被造物はその日を待っていると言うのです。

ただ、どうしてもこのことだけは付け加えておきたいこと、それは、ここでは万人救済説を教えているのではないということです。万民救済説とは、すべての人は究極的に救われるということです。イエスを信じていても信じていなくても、神は究極的にすべての人を救うというのです。だから、今イエスを信じていなくても、万物を、ご自分と和解させて」と、神のあわれみによって救いへと入れてくださると、そのようなことを教えているのではないのです。なぜなら、今私たちが見て来たように、これらのみことばはクリスチャンに対するものでした。しかも、21節を見ると「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、とあり、かつては神に逆らっていた罪人だった、しかし、あなたは救われたということを言っているのです。ですから、ここで言われている「万物」というのはイエスを信じて救われた人のことです。そして、そこに天使たちは含まれません。サタンもサタンに従った悪霊たちも、彼らには救いはありません、彼らは救いも欲していません。聖書のどこを見ても彼らに救いがあることは教えていません。彼らは永遠に地獄で過ごすのです。そして、人間に関しても同じです。神はあわれみ深いお方であって、神はあなたと和解しようとしてくださっています。しかし、あなたがその救いを拒み続けるなら、あなたに救いがないことも教えています。ヨハネ3:36でこのように教えています。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」。みことばの教えははっきりしています。神は確かにあなたのすべての罪を赦して神と和解しよう、わたしとの間に平和をもう一度構築しよう、と言ってくださっている、しかし残念ながら、私たち人間がそれを拒み続けるならあなたに救いはありません。あなたにあるのは、あなたが受けるにふさわしいさばきでしかないと言うのです。御子を信じる者は永遠のいのちを持ちます、しかし、聞き従わない者は、信じない者は、永遠のいのちをもつことがなく、神の怒りが永遠にその上にとどまるのです。

このことをパウロはここで教えてきました。これらのことを通して、イエスは完全な救いをもたらすことのできるお方である、すなわち、神であることを教えたのです。なぜなら、この方は100%神のご性質を持っておられる神であり、しかも、あなたを神と和解させてくださるお方、あなたの罪を完全に赦してくださるお方です。それは神にしかできないことです。罪の赦しは神しか与えることはできません。この方は罪の赦しをあなたに与えるという、この恵みの行為をもって、ご自身が神であることを明らかにされたのです。異端は、イエスの卓越性と十分性を否定しました。救いにおいて、また主に喜ばれる信仰生活を送ることにおいても、イエスだけでは不十分だと教えて、教会を混乱へと招き入れました。しかし、パウロはイエスだけで十分であることを証明したのです。信仰生活においても、このお方の教えに従うことが私たちの責任であること、それが主が命じておられることとパウロは教えたのです。イエス・キリストは神だから、あなたの罪を完全に赦すことができます。イエスは神だから、あなたの人生を変えることができます。イエスは神だから、あなたの人生がこの地上にあっても満ち溢れた、喜びに溢れたものに変えることができます。私たちの問題は、この方以外のところに、答えを求めようとすることです。他にはないのです、イエスにしか。私たちに必要なことは、救いにおいても、信仰生活において、この方のところに戻って来ることです。この方だけで十分なのです。それがパウロが伝えようとしたメッセージなのです。そこに立つことです。