06/1/22  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師


主  題:イエスが誰かご存じですか 3

聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章18節


 イエスとはいったいだれなのか?造られた被造物なのか、それともすべてを造られた創造主なる神なのか?イエスを信じその教えに従うだけで十分なのか、それとも不十分なのか?とこのような質問に対してパウロは答えてきました。彼は、イエスは神でありイエスを信じるだけで、その教えに従うだけで十分であると教えてきました。イエスは目に見える神の目に見えないかたちである、イエスとは永遠に存在しているお方である、そして、イエスはすべてを造られた創造主であると。だから、イエスに信頼していればいいのだ、イエスだけで十分なのだと教えてきたのです。今日も1:18「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」のみことばから、続けて、イエスがどんなにすばらしい偉大なお方であるのか、彼の卓越性について学びます。今日は第4番目と5番目を18節から見て行きます。

☆イエスの卓越性

4.イエスは教会のかしらである

18節に「また、御子はそのからだである教会のかしらです。」とあります。御子、すなわちイエス・キリストは教会のかしらであると言います。このように、イエス・キリストと教会の関係を「からだ」をもって表現している箇所は他にもあります。パウロ自身がそのように表現しています。エペソ5:23には「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」と教えています。妻と夫の関係について教える時に、パウロはキリストは教会のかしらであると教えています。I コリント12:27には「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」とあります。ですから、これは特に新しい教えではなくて、これまでに彼自身が教えてきたことでした。ではパウロはいったい何を言わんとしているのか、それをもう少し私たちは正しく見ることが必要です。

Iコリント12:13を見てください。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」と、パウロが言わんとしている教会について、かしらについて、大切なことをここで教えています。まず皆さんに気づいていただきたいことは、このパウロが語っている教会の数です。世界中にどれだけ教会が存在するのか、その数について教えています。「ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、」と、つまりその教会、キリストのからだというのは世界にひとつしか存在しないということを言っています。しかも、この教会には人種も国籍も身分の差別もありません。そういったものとは全く無関係だと言うのです。そのような教会が世界にひとつだけ存在することを教えています。また同時に、その教会への入会条件が記されています。どうしたらその教会に属することができるのか?「一つの御霊によってバプテスマを受け、」とあります。これがたったひとつの教会であるキリストのからだに属するための条件です。ここで言われている「一つの御霊によってバプテスマを受ける」とは、聖霊のバプテスマと呼ぶわけです。このバプテスマを受けることによって罪の赦し、救いをいただくことができるのです。水のバプテスマ、私たち日本人は洗礼と呼びますが、それとは違います。聖書的に見ると「バプテスマ」と呼ぶことがふさわしいのですが、この水のバプテスマというのは救われたことの証です。そこを私たちは決して混同してはならないのです。ペンテコステ、つまり聖霊がくだってきたできごとは、今から約2000年前に起こりました。その時以来、イエスを信じた人には、救いをいただいたその瞬間に、その人が救われたことの保証のために聖霊なる神が与えられます。聖霊なる神が内住してくださる、その人の内に住んでくださる、これが聖霊によるバプテスマです。これは一回きりです。なぜなら、この聖霊のバプテスマによってその人はキリストのからだに属するものになるからです。何度も何度も受けることではありません。イエスを信じて救いをいただいたなら、その救いは永遠に保証されたのです。失うことがありません。だから、聖霊のバプテスマを何度も受ける必要はないのです。そして、イエスを信じ救われた人が救われたことを証するのが「水のバプテスマ」です。皆さんがよくご存じのように、水にジャポンとつかるのは、かつての神を無視して逆らって生きてきた自分がキリストとともに死んだことを意味するのです。水につかることは死を意味します。それを象徴しているのです。そして、そこから出てくることは、新しい自分がキリストとともによみがえったことを象徴しているのです。つまり、イエスを信じた時に起こった出来事を、そのようにかたちで現わしているのが水のバプテスマです。ですから、水のバプテスマというのは自分が救われたことを公に証するのです。確かに証なのですが、同時に「水のバプテスマ」はその人が救われたことを証明するものでもあります。イエスを信じた者は生まれ変わり、新しい願いを持ちます。神に従って行きたい、神を喜ばせたい、神の命令には従順に従って行きたいと、それは、その人が生まれ変わったからです。そうすると、イエスを信じた人は神の命令に従おうとするわけであり、水のバプテスマというのは神からの命令です。救いを得るために受けるのではなく、救われたことを公に証するために受けなさいと、その命令が与えられているゆえに、イエスを信じ救われた人はその命令に従って行くことで、自分が救われたことを公にしたいと願うわけです。ですから、「水のバプテスマ」は救われたことを証明する出来事でもあるわけです。同時に、人々の前で自分がイエスを信じたことを証することは勇気のいることです。私たちの教会でしたら、ここに集まっている皆さんの前でバプテスマをしますが、私がグアム島で奉仕をしていた時、私たちの教会では一番有名なビーチでバプテスマ式をするのです。そうすると、そこには観光客がたくさんいるので、その前で式を行なうことは少なからず勇気がいります。しかし、なぜそのことをするのかというと、その人が救われたことを恥じていないからです。救われたことを喜んでいるから、もっと多くの人にこの救いのことを知ってもらいたい。ここに救い主がいること、この方が救い主なのだということを明らかにしたいから喜んでするのです。ですから、水のバプテスマは救いを得るために為すことではありません。しかし悲しいことは、日本人の集まりではどこに行っても洗礼を受けてクリスチャンになると信じている人がたくさんいることです。聖書はそんなことは教えていません。イエス・キリストを信じる信仰によってその人は永遠に完全に救われたのです。そして救われたことを証することが「水のバプテスマ」なのです。

さて、パウロが I コリント12章で教えていることとは、聖霊のバプテスマ、ひとつのバプテスマを受けることによってキリストのからだに属するのだということです。ですから、ここで言われている「教会」とは、今私たちが目で見ている教会のことではなく、目に見えない教会のことであることは明らかです。世界にひとつの教会です。そして、この教会に属している人はクリスチャンしかいません。本当に救われた人だけです。目に見えない教会のメンバーはすべてクリスチャンです。目に見える教会のメンバーはすべてがクリスチャンとは言えないのです。クリスチャンだと言っていてもそうでない人もいます。水のバプテスマを受けていても救われていない人がいます。それは、あなたと神がご存じです。信仰の確信がなければ、みことばに沿って信仰を心から受け入れることです。

私たちがキリストに従って生きる理由

(1)イエス・キリストが主人だから

コロサイ1:18に戻って、「教会のかしらです」とイエスが言われた教会とはどういうものか今見てきました。1:18でパウロが言わんとしていることは、これまでの1章の学びの中でイエス・キリストは創造主であるということを学んできました。被造物の主であると。そしてパウロは、イエス・キリストが優れている点は、被造物の主であるだけでなく、教会の主でもあると言います。つまり、言い方を変えれば、イエスを信じているすべての人の主であるのだと、それが18節でパウロがまず言わんとしていることです。エペソ1:22で「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」と、今私たちが見ていることをパウロはここで教えているのです。つまり、すべての被造物の主である、そのような偉大なお方を神は教会に与えたのです。だから、教会の主だということをパウロは教えているのです。

ここで「かしら」ということについて学んでいるのですが、「かしら」と「からだ」の関係について見て行きたいと思います。「かしら」「あたま」「脳」について、ある医学書はこのような説明をしています。「脳の機能はとても神秘的で驚異的です。脳は考える場所であり、からだのその他、すべての部分をコントロールしている司令塔です。脳はまた、運動、触覚、嗅覚、味覚、聴覚、視覚の調整を行っています。脳は内臓、からだの表面、目、耳、鼻、口から送られてくるすべての刺激を検討します。そして、からだの位置、手足の動き、内臓の働きを正しく調整するよう命令を出します。脳は気分、意識、覚醒のレベルの調整も行ないます。」。ここで言われているように、脳はからだのすべての部分の司令塔であると、まさにそのことを私たちはパウロの教えからも見るわけです。脳はからだ全体に指令を送るのです。そして、からだがその指令に従順に従うからからだは調和を保ち秩序正しく機能しているのです。もし、からだが脳の言うことを聞かなければどうなるでしょう?説明しなくてもお分かりのことでしょう。たとえば、脳が熱湯の中に突っ込んだ手に「早く手を出しなさい」と指令を出しても、手がそれに従わなかったら大火傷します。脳の指令に逆らって右足が右に、左足が左に進みたいとしたらからだはいったいどうなってしまうでしょう?しかし、分かっていることはからだは脳、頭の指令に対して従順です。そのことをパウロは踏まえた上で、イエスを信じているあなたに話します、あなたのかしら、あなたの主人であるイエス・キリストに対して、彼の出される指令、命令に対してあなたは従順かどうかと。彼の命令は私たちが手にしているこのみことばの中に記されているわけです。この聖書の中には、神が望んでおられること、私たちがどのように生きていくべきなのか、そのことを記してくれています。神があなたにどのようなことを望んでおられるか、みことばが明らかに教えてくれています。

パウロはエペソ人への手紙の中でこう言います。「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるため」(4:15)と。4:11のところから見てください。パウロはここで教会について教えています。教会とはどういう組織なのでしょう?まず最初に彼が言っているのは、キリスト自身が教会に牧師をお立てになると、そのことが11節にあります。教会がどのように誕生してきたのか、そして、今なお、神がどのように教会を導いておられるのか、そのことが記されています。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」と。では、牧師は何をするのでしょう?12節に「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」とあります。これが牧師たちの働きです。みことばを伝えることによってクリスチャンたちが成長するのです。成長して彼らが奉仕の働きをして行くのです。

そして、15節に「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」と、つまり、神があなたに望んでいること、主なる神があなたに期待していることは、あなたが成長してイエス・キリストのようになることです。あなたがかしらなるキリストに似た者に変えられて行くことを神はあなたに望んでおられるのです。そのために、神はすべてのことをしてくださいました。教会を備え、学ぶべきみことばを与え、みことばを理解するために聖霊なる神も与えてくださいました。私たちはだんだん年齢を重ねるにつれて思わないでしょうか?いろいろなものを読み、勉強し、知識を蓄える、それはもちろん大切なことですが、そんなことよりも神のおことばをしっかり勉強すればそれでいいのではないか、そこに一番価値がある、他のことよりもっと聖書を通して神のことを知っていきたいと、そのように思いませんか?なぜなら、どんなにたくさんの知識を持っていても、一番大切なこと、一番神が望んでおられることは、私たちがこの神のことを知ることだからです。そして、それによって私たちの信仰は成長するからです。神が私たちに聖書を与えてくださった目的は、私たちがみことばを通して神を知り、キリストに似た者に変えられて行くためです。それなら、あなたが問いかけなければいけないのは、この神のおことばを規則正しく読んでいるかどうかです。みことばを読みますか?みことばを読んで、覚えようとしますか?私たちはよく「聖書は読んでも難しいから分からない」と言いますが、もし子どもが国語の教科書を「難しいから分からない」と言えば、「そうだね、もう読まなくてもいいよ」と言いますか?でも、私たちは聖書に関しては難しいから読まなくても構わない、教会に来て牧師の話を聞いておけばそれでいいとしていませんか?それではあなたの信仰は成長しないのです。みことばを覚えますか?多くの人は「若ければ」と言いますが、それは言い訳です。神が問いかけることは「あなたはみことばを覚えようとしていますか」ということです。なぜなら、こういうことはすべて私たちにとって必要なのです。私たちがいろいろな人と話をする時に、神はあなたの内に蓄えられているみことばを使って語られるからです。その際に、どこに書いてあるのか分からなくなり捜している間に無駄な時間が過ぎて行き結局話が続かないと、そのようなことにならないために、しっかり私たちの内にみことばを蓄えなければいけません。このように祈ったことがありますか?「神さま、このみことばを覚えたいから助けてください」と。なぜそのようなことが必要なのでしょう?それはあなたが成長するためです。それが神があなたに望んでおられることです。

学びに関してはどうですか?熱心に、貪欲に学ぼうとしていますか?「難しいから、分からないから、もういいです」と放棄していませんか?みことばを理解することは出来るのです。問題はそれをあなたが望むかどうかです。みことばをもっと知りたい、もっと学びたい、もっと理解したいと願うかどうかです。学ぶ機会は教会にもいろいろあります。個人でも教会においても、そのような機会を生かして、みことばを通して神を知ろうとしておられますか?同時にもう一つ聞かなければいけないことは、学んだみことばを実践しようとしておられますか?それがなければあなたの信仰は成長しないのです。聞くだけの人であってはならないと言います。ヤコブ1:22「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」と。その時にはじめて信仰が成長し始め、あなた自身が変わり始めるのです。「私はなかなか変わらないのです」と言われるのなら、あなたが信仰者としてどのように歩んでいるのかよく振り返ってみてください。今言った点において、もしあなたに欠けている点があれば、間違いなくあなたの信仰の成長は神が期待しているものに比べてかなり遅いです。教会においてはどうですか?今、エペソ4章で見たように、あなたの信仰の成長を望んでおられる神は、あなたに特別な賜物を与えてくださいました。あなたはその賜物を用いて教会の中で主に仕え、教会に仕えて行くのです。働き人になるとあります。ということは、あなたの信仰が成長するためにはあなたは働かなければいけないのです。あなたにできる働きをして行くのです。そうして、あなたも成長し、周りも成長すると言うのです。そのために神はあなたに賜物を与え、その賜物を用いて、あなたが働けるように必要な助け、聖霊なる神を与えてくださったのです。また、この群れの中にあって兄弟姉妹を心から愛しているかどうかです。教会の中を見渡して、弱っておられる方、苦しんでおられる方、離れている方、そのような方に対して、何とか彼らに仕え、励まし、彼らが成長するように努めようと努力されていますか?このようなことが皆、あなたの成長のために必要なのです。学びをただ受けるだけではないのです。そこから一歩、二歩と進んで行かなければいけません。もちろん、私たちは日々の歩みにおいて、神のみこころを常に行って行くために、神に助けを求めなければいけません。私たちはいつも神の臨在を覚えて生きて行かなければいけません。私たちはこんなすばらしい救いがあることを人々に語り続けなければならないし、同時に、私たちは罪から離れなければなりません。そして、私たちは人々のためにとりなして行く、まだまだこのようなリストは続きますが、パウロが言っていることは、神が教えてくださっていることをあなたが実践するまでは、あなたには成長がないということです。そして、あなたが救われたのなら、あなたの心の中にはこのようなことを行なって行きたいという、新しい思いが与えられているはずです。それなら、その神の導きに従ってみこころを為して行くことです。そうすれば、あなたも成長するし、あなたは人々にとって祝福をもたらす人になって行きます。なぜなら、神があなたを見て喜んでおられるからです。

パウロがこのコロサイ人の手紙の中で、イエス・キリストがあなたのかしらである、あなたの主人であると言ったのです。それなら当然、あなたの責任は自分の主人である主イエス・キリストに従って行くことです。主人のみこころに、その命令に従って行こうとします。そのことをパウロは言うのです。なぜなら、人々はいろいろな教えによって、イエス以外の方に目を向けようとした、イエスの教え以外のところに心が奪われつつあった、だからパウロはイエスだけで十分だと言ったのです。イエス・キリストこそあなたの主であり、この主の教えに従って行くことがあなたの責任だからです。それだけではないのです。

(2)イエス・キリストは教会を造られたお方だから

18節に「御子は初めであり、」と続きます。このイエス・キリストは教会を造られたお方だから、あなたはこの方に従順に従って行くことが必要だというのです。「御子は初めであり」の「初め」ということばはとても大切なことばです。これは起源、何かが生じてくる源、という意味をもったことばです。始まりです。何かが生じてくるその源のことです。黙示録3:14には「根源」と訳されています。「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。』。つまり、パウロが言っていることは、教会を生んだのは誰か、教会をお造りになったのは誰か、それはこのイエス・キリストだということです。別の言い方をすると、イエス・キリストを信じているあなたを、このすばらしい教会の一員にしてくれたのは、あなたを救いに導いてくれたのは、この主イエス・キリストだというのです。確かに、そのことはイエスご自身がヨハネの福音書の中で言われました。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と。確かに、あなたが私はイエス・キリストを信じますと決心をしたのですが、その決心は実は、神のみわざ、神の恵みだったのです。なぜなら、神のことが全く分からない私たちの内に神が働いて、私が罪人であり、私は救いが必要であり、自分では救いを得ることができない愚かな罪深い者であることが分かって、神さま、どうぞ私を救ってくださいと祈り、イエス・キリストを信じ受け入れた、それは神が私のうちに働いてくださったからそのような選択ができたのです。だから「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、」と、神があなたを選んだと言われるのです。

パウロはエペソ1:4でもそのことを教えます。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」と、神は私たちイエス・キリストを信じる者、神はあなたを世界の基の置く前、世界を創造する前からこの救いの中に招き入れましょうと選んでいてくれたというのです。パウロがここで言っていることは、イエス・キリストは偉大なお方だ、イエス・キリストはすばらしいお方だ、なぜなら、彼はクリスチャンの主であり、クリスチャンを救いへと導いてくださった、そんなお方だと。あなたを救いへと導き、そして、あなたの新しい主人となられた方、それがこのイエス・キリストだと言います。だから、あなたはこの方を愛し、この方に従って行くことが必要だと言うのです。18節でパウロがまず教えたこと、キリストは教会のかしら、私たちの主人である、私たちをこのすばらしい救いへと導いてくださった方であるということです。

5.イエスは死に勝利された方である

イエスの偉大さ、イエスの卓越性について、これまで見てきたことを復習しましょう。1番目はイエス・キリストは神である、見えない神の見えるかたちである、2番目はイエス・キリストは永遠に存在しておられる方、3番目はこの方は創造主である、4番目にこの方は教会のかしら、主である、教会をお造りになった方だと。そして、第5番目に教えてくれることは、イエス・キリストは死に勝利されたお方だと言います。18節「死者の中から最初に生まれた方です。」と、だから彼は偉大だと言います。この「死者の中から最初に生まれた」というのは、人々の中で彼が最初によみがえったということを教えていないこと、それはもう皆さんご存じです。旧約聖書の中には、神が人々を生き返らせたことがありました。エリヤも一人のやもめの子どもを生き返らせています。I 列王記の中に出てきます。では、何を言っているのでしょう?これはイエス・キリストの復活というのは、よみがえられた人々の中で最も優れた、最も重要なものである、よみがえった人々の中でイエスが最も重要なお方であることを教えているのです。なぜなら、彼のよみがえりは他の人々とまったく違ったからです。

イエスのよみがえりが重要な理由、その復活が証明したこと

(1)イエス・キリストが神であることを明らかにした

ローマ1:4に「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」とあります。パウロがはっきりと教えています。イエス・キリストはその死からの復活によって、ご自分が神の御子であることを公にされた、ご自分が誰であるのかをこの復活が証明したと言うのです。神だということです。イエス・キリストはいのちの君、いのちの源だと言います。だから、死からよみがえって来たのです。いのちをもっていなければ死んで終わりです。しかし、彼はいのちの君だったゆえに、いのちの源だったゆえに、死から敢然とよみがえって来たのです。死に留まり続けることなどいのちの源には不可能なことです。ありえないことです。だから、ヨハネ5:26でこう言います。「父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」と、父なる神はご自分のうちにいのちをもっておられる、父なる神はいのちの源である、同じように、子なるイエス・キリストにもいのちを与えた、いのちを持つようにした、つまり、父なる神と子なる神は同じだということです。神、いのちの君、いのちの源です。

(2)イエスが救い主であることを明らかにした

I コリント15:17を見ましょう。「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」と、もし、イエス・キリストがよみがえらなかったら、あなたに罪の赦しはないと言っているのです。つまり、イエスがよみがえったことによって、このイエスによって、イエスを信じるすべての人の罪が赦されて救いが与えられるということです。イエスが救い主であることを教えているのです。だから、イエス・キリストのよみがえりは、彼の十字架の上における身代わりの死が、あなたの罪を完全に赦すために十分であることの証拠なのです。イエスがあなたの身代わりとなって十字架で死んでくださった、その身代わりの死が、あなたの罪を完全に永遠に赦すことができるのだということを神が証明された、キリストを死からよみがえらせることによって証明されたのです。言い方を変えるなら、イエス・キリストをよみがえらせることによって、父なる神は彼が救い主であることを明らかにしたのです。死んでそのままだったら、たとえイエス・キリストが何と言ったとしても、父なる神は彼が言っていたことは事実ではない、偽りだったと明らかにするでしょう。しかし、父なる神はイエスを敢然とよみがえらせることによって、確かに彼が言っていたように、イエス・キリストはすべての罪を赦すことのできる救い主であることを明らかにしたのです。だから、他の人々のよみがえりとは意味が違うのです。

(3)私たちにも復活があること、よみがえりがあることを明らかにした

もう一つは、I コリント15:21を見ると「死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」「死者の復活」ということばが出てきます。また、15:23を見ると「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」と、つまり、キリストの復活が教えることは、あなたも私もよみがえるということです。あなたが死を迎えた後、必ずよみがえるというのです。そして、例外なくすべての人々、ここに集まった皆さんだけでなく、世界中のすべての人間は皆、その造り主の前に立ちます。そしてさばきを受けます。例外なく。だから、あなたは神に会う備えをしていなければいけません。その日が来るのですから。

 こういう意味で、イエス・キリストの復活は他の人の復活とは違ったのです。こういう意味で、イエス・キリストの復活は最も大切だったのです。なぜならそれは、イエスの復活が、イエスがまことの神であることを明らかにし、まことの救い主であることを明らかにし、イエス・キリストの復活によって、あなたは必ずよみがえることを教えているからです。

もう一度、このコロサイ1:18を見てください。イエス・キリストは死からよみがえってきた、だから、彼は偉大であると教えた後、「こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」と言います。これは、第一の位を持つとか、第一の位を保つという意味をもっていることばです。つまり、このようなお方だからこそ、父なる神は彼に最高の賞賛を与えたと言うのです。覚えておられますか?ピリピ2:9−11、イエス・キリストが神でありながら、この世界にやって来られた、それはあなたを救うためです。そして、彼はあなたの身代わりとなって十字架の上で死んでくださった、その後神は、「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とある通り、イエス・キリストを最も高く上げて、最高の賞賛を与えたのです。それにふさわしいお方だからです。そのことをパウロは18節で言うのです。「すべてのことにおいて、第一のものとなられた」と、すべてのことによって、最高の賞賛、栄誉を受けるにふさわしいお方だということを明らかにしたと。だから、パウロが繰り返して言っていることは、イエス・キリストはどんなにすばらしいお方か、どれほど偉大なお方かということです。そのことを教え続けてきたのです。そして、すべてのものの上に臨在するにふさわしいお方だと教えるのです。

イエスは神であり、永遠に存在されるお方であり、すべての創造主であり、教会の主であり、教会の造り主であり、そして死に打ち勝たれることで、信じる一人ひとりに永遠の希望を与えてくださったお方、だから、最高の栄誉を受けるにふさわしいお方だと言うのです。こんなお方を私たちは信じることができる、この恵みにあずかった、こんなすばらしい祝福の中に神は私たちを招き入れてくださった、イエス・キリストを信じる皆さん、私たちはイエスを心から愛し、心から崇め、彼のすばらしい恵みを宣べ伝え、彼に服従して心から喜んで仕えて行く、なぜそのような生き方をするのでしょう?それは、この偉大なお方があなたの主人だからです。そして、こんな偉大な神によってあなたは救いへと招き入れられたのです。あなたはこの偉大な神の子どもとなったのです。だから、私たちはこの方の栄光のために生きて行こうとするのです。イエス・キリストだけで十分だと、それが当然だとパウロは言います。こんな偉大なお方が他にどこにいるでしょうと。その偉大なお方を私たちも信じることができたのです。この主を誇りながら、この主を証しし続けることです。この主のすばらしい教えに従い続けることです。その時に神は、あなたを通して、この方の偉大さを、栄光を示してくださいます。そのように生きることです。それが救われた私たちにふさわしい生き方です。