06/01/08  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師


主  題:イエスがだれがご存じですか?

聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章15節


 今日は1:15から学んで行きますが、その前に、パウロはどうしてこのコロサイ人への手紙を書いたのでしょう?その理由がお分かりでしょうか?それは教会の中に異端が入ってきたからです。間違った教えをもった教師たちが教会の中に入り込んで、人々を混乱させたのです。初めに、神秘的な知識を約束する哲学や、ユダヤ的な伝統主義が人々の関心を引いたと話しました。その結果、人々は天使を崇拝したり、様々な儀式、たとえば、このようなものを飲んではならない、食べてはならない、こういう日を遵守しなければいけないという、そのような儀式主義に走ったのです。そうして、神の教えからだんだん離れていってしまったのだということを話しました。そこでパウロは、この混乱した教会に対して、イエスはどういうお方なのかという大切なことを教えようとするのです。

たとえば、救いに関しては、イエス・キリストだけで十分なのだ、信仰生活においてもイエスだけで十分なのだ、イエスはそれほど優れた神であるということを、この教会の人々にパウロは教えようとしたのです。その目的をもってパウロはこの手紙を書いたのです。そのことを私たちはしっかり覚えておくことが必要です。この教会に入り込んで来た異端について、この手紙を学んで行く中で私たちは何度もそれを見るのですが、この教会がどういう状況にあったのかを私たちも知ることが必要です。というのは、これは2000年前のことですが、実は今もそのような影響があるからです。

その異端の中で最も大きな影響を及ぼしたものは、グノーシスと言われた教え、グノーシス主義です。これはギリシャ語で知識ということばからきたものです。2世紀にこの教えは教会に入り込んで来ました。3世紀になると、ローマ帝国のほとんどすべての、比較的知識階級に属するキリスト教の諸団体は著しくこの影響を受けていました。3世紀にはローマ帝国のほとんどがこの影響を受けたと言っても過言ではありません。彼らが言ったことは、「この私たちの教えが、単純で平明なキリスト教会の不足を補ってそれを完全なものにする」ということでした。この教えによって、あなた方はより完全なものになるというわけです。実は、先に言ったように、2000年経った今でもそのように教えている人たちがたくさんいます。たとえば、聖書だけで、イエスだけでは十分でない、あなたは聖書だけで学んでいる、だから、信仰に力がないのだと、聖書だけを信じている、だから、あなたの信仰は浮き沈みが激しいのだと、聖書プラス何かが必要、聖書だけでは不十分だという教えをする人が、今の時代にもいるのです。もし、今パウロが生きていたら同じことを言ったと思います。それは大きな間違いだ、イエスだけで十分であるし、聖書だけで十分だと。そのことをパウロはこのコロサイの人たちに教えるのです。

もう少し補足をします。このグノーシス主義、グノーシス派という人たちが教えたこと、彼らはある仮説に立ちました。それは二元論というものです。つまり、この世界は霊と肉、霊と物質に分かれると言います。そして、霊というのは純粋で神秘なもの、肉や物質は罪悪性をもち堕落したものと考えたのです。もっと簡単に言うと、物質はすべて悪いもの、霊はすべて良いものであると、このように彼らは区別したのです。そこで彼らが考えたのは、神は霊だろう、霊ということは善である、そのような善なる神が本質的に悪である物質を創造するはずはないというのです。この物質、肉は罪に汚れている、善なる神はこんな罪に汚れたものを造るはずはないと。だから、旧約聖書を見てそれが教えることは世界のすべてのものは神によって造られた、神は創造主だと教えている、そこで彼らはその神のことをデミウルゴスと呼んで、この方は至高の存在ではなくて非常に劣った存在であると結論づけたのです。つまり、創造主は神ではないというのです。こんな罪ある世界を造った、それは神の為すことではないと。これが彼らの教えだったのです。それと同時に彼らは、イエスが人であったということ、人としてこの世に来られたということを否定したのです。彼らは物質が悪であることを信じたわけですから、肉が悪なのです。だから、キリストが肉体を持つなどということはあり得ないと言ったのです。私たちと同じように、キリストが肉と血を持つことなどあり得ないと。だから、神が人となってこの世に来られたということを彼らは否定したのです。受肉を否定したのです。だからと言って彼らは、イエス・キリストが神であると認めていたわけではありません。彼らは人のように見えたに過ぎないということを言い出し、可視論という教えも展開して行くのです。彼らは、キリストは天において特別な存在だが神ではないと言います。敢えてこのようのことを話したのは、だからパウロは教えた、これから私たちが学んで行くことを記したのです。パウロは、このようなことを教えている人に影響を受けている人たちに、イエス・キリストは神であることを明確に教えるのです。いったい真理が何なのかということを言います。  

同時に、このグノーシス派の人々は救いにおいてもむちゃくちゃなことを教えたのです。なぜなら、彼らは肉体のみを罪悪視し、心を全然重視しませんでした。だから、彼らが言う救いは肉体的な部分の救いでした。聖書が教えているのは心の救いです。なぜ、私たちが罪を犯すかというと心が罪に染まっているからです。神が赦してくださるのは、何を犯したかというその行為ではなくて、私たちの罪に染まった心です、それを洗いきよめてくださるのです。でも、彼らは心はどうでもよかった、肉だけが問題だったのです。そこで、彼らは当然ながら、様々な禁欲主義や戒律主義に走って行くのです。人間というのはそのようなことが好きです。こういうことをしてはいけない、このようにして徳を積みなさいとこういうふうに言われると嬉しくなって、よし頑張ってみようと皆思うのです。彼らはそのように教えたのです。一生懸命努力することによって、頑張ることによってあなたは救いを得ると、まさに恵みによる救いではなくて、行ないによる救いです。このような教えが教会の中に入ってきていたのです。私たちはそのことをしっかり頭に入れながらパウロのメッセージを見て行くことが必要です。このようなことに惑わされた人たちに対して、パウロは次のようなメッセージを送るのです。

これから私たちは15−20節までを見て行くのですが、その中で教えていることはキリストがどんなにすばらしいお方なのか、キリストとはいったい誰なのかということです。

☆イエス・キリストの卓越性

1.イエスは神のかたちである  15a節

 15節に「御子は、見えない神のかたちであり、」とあります。パウロがここで何を言っているのか、その結論を言ってしまうなら、イエスは神であるということです。まずパウロは、神とはどういうお方であるかを説明しています。その方は「目に見えない方」であると言うのです。ヨハネ1:18に「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とあります。神は目に見ることはできない、形のないお方であるから、霊だから見ることはできないと言います。確かに、聖書を見ると、イザヤ6:1でも主を見たということが記されています。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」。それは神の本質を見たのではありません。神の栄光が現われた、その一部を見たに過ぎないのです。誰も神の本質を見ることなどできないのです。だから、神は目に見えるお方ではないというのです。そうすると、私たちが日本人として崇拝してきた様々な神と名のつくものをよく見ると、目に見えるものではありませんか。手で触れるものではありませんか。聖書はそれは神ではないというのです。本当の神は私たちの目で見ることができない存在だと言います。こんな罪ある私たちの目できよい正しい神を見ることはできない、そのようなお方だと聖書はまず私たちに教えてくれます。

そのことを教えた後、パウロはではイエスはだれなのかということに入って行きます。「見えない神のかたち」と言います。このことばはパウロは II コリント4:4でも使っています。「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」と、ここでもパウロは「神のかたちであるキリスト」と言っています。この「かたち」とはどういう意味なのでしょう?これは「肖像」という意味があります。私たちはコインを見たとき、そこにいろいろな人の顔が刻まれています。そのことです。キリストは神の全く正確な肖像であるというのです。また同時に、鏡に映った自分の姿というそのような意味でもキリストは神のかたちであると言うのです。ヘブル1:2−3でもこのように言っています。「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。:3御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」、「神の本質の完全な現われである」と。「完全な現われ」とは刻印であると、わたしたちはヘブル書を学んだときに見てきました。文字とか像が図案どおりに打ち出されるように、正確な複製ということです。だから、パウロはここで、このイエスの特性というのは神の本質である、つまり、神がどのようなお方であるというのはイエスのうちに見ることができると言うのです。イエスを見たときに私たちは神がどういうお方であるかが分かるということです。だから、イエスはヨハネの福音書14章の中でこう言ったのです。14:9わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」とピリポに対してこのように言われたのです。

さて、ここにある「かたち」ということばですが、これはこういう意味があると神学者のトーレー博士はこのように言います。「このことばは目に見える肉体的なかたちを意味するものではなくて、知的、道徳的の類似を意味するものである。つまり、知識と真の義ときよさという意味のかたちである。」と、まさにそのことがここで教えられていることです。神のかたちであると聞くと、では神はイエスのような姿をしているのか、イエス、イコール私たちですから、私たちのようなこの肉体をもつかたちをしているのかと、そのようなことを教えているのではありません。だから、肉体のことを言っているのではありません。では何を言っているのでしょう?イエスご自身の中にあるその知識においても道徳面においても、神はどういうお方であるかということをイエスは完全に現わされたのです。イエス・キリストの知識、知恵を聞いたとき人々は驚嘆しました。この人はこのような知恵をどこから得たのでしょう?と。それを通して神は完全な知恵をおもちだということを明らかにしたのです。イエスはすべての点でまったく正しく罪のないお方でした、道徳的に完全にきよかった。それを通して神は道徳的に100%きよく正しいお方だということを教えたのです。そういう意味でキリストは神のかたちだと言ったのです。神の本質と属性、すなわち、神の完全な知恵、本物の義、完全なきよさがキリストのうちに完全に現わされたのです。私たちが外に出て神が造られた被造物を見るとき、その被造物はいくつかのことを私たちに教えてくれます。きれいな木や花、雪など自然界を見るとき私たちはそれを造った創造主がいることに気付きます。同時に私たちは、その創造主には大変な力があるということが分かります。また、知恵があることも分かります。でも、被造物が私たちに教えてくれる神がこんなお方だということには限界があります。イエスは被造物が教えることができない、神とはどういうお方であるかということを

明らかにしてくれたのです。ですから、こう言います。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)と、今話していることはまさにそのみことば通りです。宗教改革を行なったジョン・カルビンはこう言うのです。「神は神自体においては、すなわち、その威厳においては見えない。肉の目に対してのみならず、人間の理解に対しても不可知である。しかし、鏡で見るごとくに神を見るように神はキリストにおいてのみ我々に現わされた。神はキリストにおいてその義、その恵み、その知恵と力、要するに神自体全部を我々に示すからである。」。神はこのキリストを通して私たち人間に神とはどういうお方であるかということを明らかに示そうとされたのです。それがこの「かたち」ということばの意味なのです。

イエス・キリストはいつこの神のかたち、すなわち、神となったのか

イエスが人としてこの世にお生まれになったときに、イエス・キリストは神のかたち、すなわち、神になったと、決してそうではありません。みことばはそんなことは教えていません。イエスが父なる神の前にお祈りをささげたときに、ヨハネ17:5に出てきますが、「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」と教えています。つまり、世界を創造する前にイエスご自身が父なる神といっしょに持っていた栄光で輝かせてくださいというのです。ですから、このみことばが教えることは世界を造るその前から、キリストは神であったということです。彼は永遠に神であるというのです。この地上にお見えになったとき、そのことに関してパウロはピリピ人への手紙2章でこのように教えます。2:6−8「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、:7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。:8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」、パウロがここで教えていることは、キリストは人としてこの世に来られたときに、神でなくなったと言っているのではない、人としてお見えになったときも神として、ご自身のその力をご自分のためにお使いになることを止めて、父なる神のみこころに従おうとされたということです。当然のことです。永遠から永遠に神である方が神でなくなるということなどあり得ないのです。ですから、人となる前も人となった後もキリストは永遠から永遠に神であるということを聖書は私たちに教えてくれるのです。さて、これがこの15節で「見えない神のかたち」であるとパウロが言ったその意味です。パウロはこのことを通してキリストが神であるということ、永遠から永遠に彼が神であることを明らかにしたのです。

イエス・キリストが神であることをどのように証明するか

少し補足したいのです。なぜなら、私もいろいろなクリスチャンに会って来ました、クリスチャンと自称する人にも会って来ましたが、その人たちにあなたは何を信じているのですか?どうしてあなたはイエス・キリストが神だと言えるのですか?という質問をしたときに、答えられない自称クリスチャンがたくさんいるのです。敢えて自称クリスチャンと言ったのは、何を信じているのか、どうして信じているのか分かっていなければ、どうしてその信仰が本物と言い切れますか?私たちはイエス・キリストが真の神だと確信をもったのです。イエスは真の神であり唯一の救い主であるということを私たちは信じたのです。私たちは自らに問いかけなければいけません。なぜ、そう信じられるのか、なぜ、そう言い切れるのかと。だれかがあなたにそのように質問したときあなたはどうしますか?牧師に答えてもらうことではありません。これはあなたのいのちに関すること、あなたの救いに関すること、あなたの永遠に関することです。あなた自身は自分が信じていることだから聖書がこう言っていると答えなければいけません。今の15節のみことばも私たちにイエスが神であることを明確に教えています。あと、いくつかのことを皆さんに補足してお教えしたいと思います。大切なことですから。皆さんクリスマスのときに、私たちは主の使いがヨセフに現われて語ったことを覚えておられるでしょう?というのは、ヨセフはマリヤと離縁しようと思っていました、その時に主の使いが現われて言ったことは、男の子が生まれる、そして、その名はインマヌエルと呼ばれると預言しました。インマヌエルとは神は私たちとともにおられるという意味です。すなわち、全能の神、創造主なる神、真の神が私たち人間の間に住んでくださるということです。私たち人間の間に人として生まれてくださるということです。だから、人々はそれを祝ったのです。そのように預言されていて、その預言が成就したのです。神が私たち人間の間に人として来てくださった、この方はインマヌエル、神が私たちとともにおられる。天使の預言は人として生まれた方が誰であるかを明らかにしたのです、この方は神だと。そして、イエス・キリストご自身もご自分が神であるということを明確に人々に教えたのです。異端はなかなかそれを信じません。皆さんの家にもそういう人が来るでしょう?彼らが言うことはイエスは神ではありません、聖書にこう書いてありますと、残念ながら彼らがいう聖書は私たちが信じるものではありません、しかも彼らの理解は聖書が教えていることと全く違うものです、見事に巧妙に皆さんに疑問を抱かせて、皆さんが真理から外れるようにと、ちょうど、サタンがエデンの園で誘惑を与えたように、神に対して疑いをもたせたように、巧妙に働きます。イエス・キリストは明確に自分が神であることを言われました。それを見てみましょう。ヨハネ5:18です。「このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」。イエス・キリストがベテスダの池で38年間もの間病気にかかっている人に出会い、その人を癒したのが安息日でした。それでユダヤ人たちはイエスを責めたのです。その様子がこのヨハネ5章に出て来ます。ところが、ユダヤ人たちは「ますますイエスを殺そうとするようになった」と18節にあります。それは、彼らがイエス・キリストのメッセージを聞き、イエス・キリストの言っていることを理解したからです。その理由がこの18節に記されています。「イエスが安息日を破っておられただけでなく」と、他にも理由があったのです。それはイエスが「ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである」と、イエスは明らかに自分が神であるということを人々の前で証言したのです。それでそのことを聞いていた人々はイエスを殺そうとしたのです。お前は神を冒涜していると。同じように、このヨハネの福音書10章を見てください。31−33節「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。:32イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。:33ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」と、ここに大切なメッセージが記されています。ユダヤ人たちはイエスを殺そうとしました、なぜなら、イエスが人間でありながら自分を神としている、だから彼は神を冒涜している、死に値すると、つまり、彼らはイエス・キリストのメッセージを明確に理解したのです。イエスはご自分が神であることをはっきり証言されました。だから、それを聞いていたユダヤ人たちはイエスを殺そうとしたのです。だから、先に見たみことばだけではありません、天使も証し、イエスご自身も自分が神だと明らかにしたのです。この「イエスが神だ」ということは、これから私たちがみことばを学んで行くときに、繰り返しパウロが教えてくれることです。

 ですからまず、この15節の最初のところで、イエスは神のかたちである、目に見えない神がどういうお方であるのか、その本質というものをイエスは明らかにしてされたのだということパウロは教えたのです。

2.すべてのものより先に生まれた方  15b節

15節に続いて「造られたすべてのものより先に生まれた方です。」とあります。これがパウロがイエス・キリストに関して教えた二つ目のことです。このことばを聞くと、先ほどから話しているように、イエス・キリストの神性を否定したい人々は、イエス・キリストも神によって創造されたではないかと、そのように彼らはこのみことばを用いるのです。でも、結論から言うと、そのようなことを聖書は教えていません。では、何を教えているのでしょう?まず、この「先に生まれた」ということばの意味です。私たちがこのことばを聞くと「造られた」と思ってしまいますが、聖書はそのように言っているのかどうか知る必要があります。

(1)時間的に先であるということを確かに表わしたことばです。どちらが早いかという、その時間の中において、あるものよりも先に起こった、先に何かが為された、時間的に先である、そういうことを確かに教えるのですが、ここで言っていることは、イエスが創造されたということではなくて、すべての被造物が存在する前からこのお方は存在していたということを言っているのです。すべての被造物を造る前に造られたと私たちは思ってしまいます。そして、人々はそのように私たちを惑わそうとします。被造物の前に造られたのではなく、被造物の前に存在していたということを言っているのです。

(2)身分や地位において至高であるということを指すことばです。最も重要、最高の地位という意味があるのです。というのは、神はイスラエルの国を「わたしの初子」と呼んでいます。出エジプト4:22に「そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。』」とこのように神は言われています。神はイスラエルの国を特別に選ばれたのです。様々な国の中から、神はイスラエルを第一とし最も愛する民としたのです。だからといって、他の民を愛していないというのではありません。神ご自身のみ栄えを現わすために神はそのようなことを選択なさったのです。だから、よく「選民」と言います。そういう意味でこの「初子」ということばが使われているのです。また、黙示録1:5を見ると「また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、」とあります。「死者の中から最初によみがえられた方」とはイエス・キリストのことです。これも、イエスが人類の中で一番最初に死からよみがえられたのかというと、そうではありません。イエスはラザロをよみがえらせ、旧約の時代にも神は死人をよみがえらせることをなさったのです。ここで言われていることは、死からよみがえられた人々の中で、最も優れた最も重要な方であるということです。

 もう一つ、この15節で「先に生まれた方です」と訳されているこのギリシャ語は、新約聖書の中で3箇所「長子」とも訳されています。長男のことですが、長男は必ずしもその家で最初に生まれた子どもとは限りません。女性が生まれているなら姉がいるわけです。でも、この長男には独占的な相続の権利と特権が与えられています。その家を相続するその権利、それは旧約の時代からずっと教えられてきたことです。彼は父の代理でもあり代表でもあり相続人でもあり後継人でもあります。父のものを管理監督するという責任、命令が与えられています。だから、この「長子」ということばを使うのは、イエスが神の長子であり、神の家、すなわち、すべての被造物を治めるという責任をもっている方だということを教えているのです。ですから、この「先に生まれた方」ということばが教えていないことは、他の被造物よりも前に造られたということです。「先に生まれた方」というのは、被造物が造られる前から存在していたということであり、同時に、この方は身分や地位において最高の方である、重要な方であると、そのことを教えているのです。

今、これらのことを説明したのですが、新約聖書はこのことを私たちに繰り返し教えています。神がこの御子に関して、すべてのものより先に生まれた方に関して、長子であるキリストに関して、どのようなことを教えているでしょう?ヘブル1:6に「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。『神の御使いはみな、彼を拝め。』」と、ここに「長子」ということばが出て来ます。これは、今私たちが見ているコロサイ1:15の「先に生まれた方」ということばが訳されたものです。そこで私たちが考えなければいけないことは、この『』の中のことばは誰が言われたのかということです。1:5を見るとそこにその答えがあります。「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

つまり、この『』の中のことばは神ご自身が言われたのです。神はその長子に関して『神の御使いはみな、彼を拝め。』と言われたのです。そうすると、聖書には一貫して偶像崇拝をしてはならないと教えていることと矛盾しないかという疑問が出て来ます。神はこの長子をどのように見ておられたのでしょう?それはこの方は礼拝に値するお方、すなわち、神だと言われているのです。礼拝を受けるのにふさわしいお方です。このように、神ご自身がこの「長子」に関して言われていることを見ると、この方が誰であるかということは明らかです。

(3)「先に生まれた」のギリシャ語は二つのことばが合成されています。「第一の」と「生む」という二つのことばが合成されて「先に生まれた」、「長子」と訳されることばが出てきたのです。そのことばがここで使われているのです。パウロはここで「第一の創造されたもの」ということばを使いませんでした。「創造された」ということばは、ローマ1:20や1:25に出て来ることばです。もしパウロが、この御子イエス・キリストが他のすべての被造物と同じように、時期は違うけれど、神によって造られたのだと信じていたなら、つまり、異端が言うように信じていたら、パウロはここで違うことばを使ったはずです。それは「第一の創造されたもの」ということばです。でもパウロは、そのことばを使いませんでした。なぜでしょう?それは、この異端が言うように、キリストは造られたものだということに対して、それは間違っている、キリストは造られたものではない、キリストは被造物ではない、キリストは永遠に神だということを、パウロ自身がはっきり信じており、それが彼のメッセージだったからです。これだけ見たならもうパウロが言いたいことははっきりしています。私たちもイエスが誰かという質問に対して、この方は神です、この方はすべてのものをお造りになった神ですと答えます。確かに、グノーシス派の人たちが言うように、神は霊であり神は善です。しかし、彼らが間違ったのは物質が悪だとするところです。なぜなら、最初に神がこの天地万物、宇宙をお造りになったときに、それはご自身のご性質を反映して完全できよかったのです。それがなぜ罪に汚染されたでしょう?人間の罪です。それによって呪われてしまったのです。そして、呪われて罪の滅びの束縛から私たちを救い出すために、キリストが人となって、約束どおりにこの世に来てくださったのです。創造の神は真実な神です。そして、イエス・キリストはこのようにあなたを救うために、あなたの罪から救うために、人となって来てくださった唯一の救い主です。これが聖書のメッセージです。これが神のメッセージです。だから、私たちはそこにしっかりと立つことです。これと違う教えをするならそれはみことばに反するものです。どうぞ、あなたの信仰がこのみことばにしっかりと立って、この神を高らかに誇る者になってください。このイエス・キリストはまことの神です。まことの救い主です。