05/12/18 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:こんなキリスト者になってほしい2
聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章10−12節
パウロはコロサイのクリスチャンたちが主にあって成長することを望んでいました。パウロは彼が愛している彼らのために、彼らの成長を主の前にとりなすのです。彼はどのようなことをコロサイの人のためにとりなしたのでしょう?そのことを私たちは前回から学び始めています。9−14節に「パウロの祈り」が六つあると言いました。前回は9節からその第一番目の祈りを見ました。
☆パウロの祈り
神のみこころに従って生きるように
前回、私たちが見たことは、パウロがこのコロサイの人たちが常に神のみこころに従って生きる者になることを望んでいたことでした。これはコロサイの人たちだけに求められたことではなく、私たちに対しても同じように求められていることです。常に神のみこころに従って生きて行くこと、それはもうすでに私たちが見て来たように、そのときに私たちは私たちが生かされている目的である神の栄光を現わすことができるからです。みこころに従って生きるなら、間違いなく神のすばらしさを人々に証して行きます。そういう意味で、パウロがコロサイの人たちがそのように成長することを望んだというのは当然のことです。もし、パウロがこの時代に生きていたなら、私たちにも同じことを祈ったことでしょう。あなたが本当にキリストにあって成長し、すなわち、常にみこころに従って生きる者になりますようにと…。
2.主にかなった歩み(生き方)をするように 10a節
二つ目にパウロはどんなことを祈ったのでしょう?この10節をご覧ください。「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」、それは彼らが主にかなった歩み、生き方をすることです。別の言い方をするなら、コロサイの人たちが救われた者にふさわしい生き方をするようにとパウロは望み、そのことを神の前にとりなしているのです。主にかなった歩みをすること、それに値するように、それらしくふさわしく生きるようにと…。私たちイエス・キリストを信じるクリスチャンは、主イエス・キリストと同様の基準をもつ者です。主がおもちだった基準というのは、私たち、主のあわれみによって救われた者たちがもつ基準です。主ご自身が「きよさ」を愛して行かれるように、私たちもそれを愛する者に生まれ変わったのです。主が「正しさ」を愛して行かれるように、私たちも正しさを追い求めて行く者に生まれ変わったのです。それがクリスチャンです。救われた者です。ですから、10節で教えるように、クリスチャンとしてどのように生きて行くのか、クリスチャンにとってふさわしい生き方とはどういう生き方なのか、ここに記されているように「あらゆる点で主に喜ばれる」生き方です。そういう生き方をしなさいと言うのです。
パウロは II コリント5:9で教えるように「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」と、生きていようと死んでいようと私たちが望んでいること、それは主に喜ばれること、生きているときも主に喜ばれたい、すべてのことを通して主に喜ばれたいと言うのです。皆さんはそのような思いをもって信仰生活を歩んでおられるでしょうか?パウロがコロサイのクリスチャンたちのために祈ったことは、このクリスチャンたち一人ひとりがこのような歩みをすることです。すべての点において主に喜ばれる者へと変えられて行ってほしいと、そのようにパウロは望むのです。このようなコメントを聞きます。「クリスチャンは偽善的だからいやだ」と。何と悲しい批判でしょう。私たちのうちなるものが変えられて行くことによって、私たちは何か信仰ぶる必要はないのです。何かきよい者であるかのようなふるまいをしなければならないわけでもありません。私たちの内側を神が変えて行ってくださるなら、そのように「ふるまう」ことなどいらないのです。神は私たちの内側を変えてくださるからです。信仰生活というのは、内側にあるものが外に出てくるものです。私たちはそのことをみことばを通して教えられてきました。だから、私たちは外側を一生懸命変えようとしても、内側が変わってこなければ何も変化はないのです。一時的に仮面をつけるなら自分自身を隠すことができるかもしれませんが、問題は内側がどのような状況にあるかです。神が見ておられるのはそこです。そして、神が関心をもっておられるのはあなたの内側です。
まず、パウロがここで言うことは、あなた自身が主の前にクリスチャンとしてふさわしい、クリスチャンに値するような、そのような生き方をするように、すなわちそれは、あなたのすることすべてにおいて、考えることすべてにおいて、主を喜ばせるような、そういう人になって行くように、神が望んでおられるキリスト者になって行くようにと、それがここでパウロがとりなしたことです。
○神が望んでおられること
どんなことを神があなたに望んでおられるのか、その全部を見ることはできませんが、I テサロニケを見てみましょう。テサロニケのクリスチャンたちがどのような歩みをしていたのか、特に4章にそのことが記されています。4:1に「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」とあります。彼らは神を喜ばせる歩みをしていたのです。どのような歩みか、具体的にパウロが教えてくれます。
(1)きよく歩んで行くこと
2−7節に「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。:3神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、:4各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、:5神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、:6また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。:7神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。」と教えています。メッセージは非常にクリアです。つまり、神が喜ばれることは私たちがきよく歩んで行くことです。救われた私たちは明らかに神を知らない人々とは生き方において異なるのです。同じような生き方をしてはならないのです。神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはいけないのです。ですから、まず、私たちが神に喜ばれる生き方をして行こうとするなら、当然、私たち自身の歩みが神の前にきよいものであるかどうかを吟味することが必要です。
(2)愛し合って行くこと
二つ目に、同じ4:9に「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。」とあり、私たちはきよさを求めて生きて行くだけでなく、愛し合って行くことが大切だということをパウロは教えているのです。しかも、テサロニケのクリスチャンたちはそのように歩んでいました。だから、パウロはテサロニケのクリスチャンたちは神を喜ばせていると言ったのです。兄弟姉妹がいがみ合っていてはいけないのです。教会の中にあの人は好きであの人は嫌いだというような、偏った愛を招き入れてはいけないのです。
(3)愛をもって戒め励ます
同じテサロニケ5:14に続けてパウロはこのように教えています。「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」、気ままな者を戒めなさいと、それも神が喜ばれることです。みことばから外れてしまっている人、みことばに従わない人に対して、愛をもって、あなたは間違っている、あなたの歩みはみことばに従っていないということを教えるのです。恐れる者を励ますのです。信仰的に弱い人を励ますのです。弱い人を助けなさいと、私たちの周りには私たちより信仰の幼い人がたくさんいるから、そのような人を助けることが必要です。すべての人に対して寛容でありなさいと、このようなことを神は喜ばれ望んでおられるのです。なぜなら、5:18の終わりに「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と記されているからです。もちろん、このリストはこのあと見て行くと、皆さんもご存じのように、いつも喜ぶことも、絶えず祈ることも、すべてのことに感謝することも、神が喜んでくださることです。私たちの口から愚痴や不満が出てくるような生き方は神は喜ばれません。もし、そのような悪い思いを抱くことがあっても、神がどういうお方かを覚えるとき、どうぞ、私の思いを変えてください、あなたに感謝する者に変えてください、この状況にあって喜ぶ者に私を変えてくださいと願うはずです。それはパウロがこのコロサイ人への手紙の中で教えて行くことです。
また、私たちが福音を語るときに、I テサロニケ2:3−4に出てくることですが、パウロはこの福音というメッセージを迷いや不純な心から語ったのではないと言います。「:3私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。:4私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」と。ですから、私たちがこのようにいつも喜んだり、絶えず祈り続けたり、すべてのことに感謝することを神は喜んでくださるのです。それだけでなく、私たちがこのすばらしい救いのメッセージを語るとき、人がどう見るかどう思うかではなく、神が喜ばれることを考えて語るのです。パウロはそのように生きました。こんなに罪深い者を神は用いて、一人でも多くの人に福音を語ることができる、そのことを喜ぶのです。そして、神のわざが為され、その人が救われるというすばらしい奇蹟を見ることができる、そのような恵みに与ったことを感謝するのです。
(4)神の前に謙遜に生きること
イエスご自身が私たちに見せてくださった生き様がまさにその通りでした。神でありながら、すべての人によって仕えられるべきお方が、人に仕える者になったのです。ローマ12:10「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」、このような生き方を神は喜ばれるのです。私たちはどうでしょう?どれだけ自分が人より優っているかと自慢したがる、自分の持ち物、仕事、学歴…、そのような空しい生き方はもう終わったのです。私たちが誇らなければいけないのはただ一つだけです。パウロが教えてくれるように、ガラテヤ6:14「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」と、私たちの誇りはキリストの十字架です。このイエスだけが私たちの誇りです。なぜなら、私のような者を救い出してくださったからです。
(5)主を信頼して生きて行くこと
どんなときにも主を信頼して生きて行くことを主は喜んでくださいます。II コリント5:7に「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」とある通りです。見るところによって生きるとき、私たちの心はいつも騒ぎます。今の世は心騒ぐことばかりです。不安に満ちています。かつて私たちの国は安全であると言っていたのに、今は子どもたちに知らない人は不審者だと教えなければいけないのです。このような現実があっても、私たちは主への信頼を失いません。すべてのことはこの方が支配しておられる、そんな信頼をもって生きて行くことができるし、それを神は喜ばれるのです。
(6)どんなときも忠実に歩んで行くこと
ピリピ3:13−14を見ましょう。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、:14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」、パウロが望み実践した生き方は、前を見て、神が約束してくださった栄冠を得るために一心に走り続けている、イエスにお会いする日をしっかり覚えて、その日が今日かもしれないという緊迫感をもちながら、この一日を大切に主の前に忠実に歩んでいる、それがパウロの生き様でした。
(7)さんびを捧げて行くこと、喜んでささげものをする、
初めに言ったように、このリストは挙げるときりがないほどです。子どもたちが心から両親を愛して両親に従って行くことも神が喜んでくださることです。大切なことは、私たちがどんなことをするときでもしっかり考えるべきことは、私が今考えていることを見ておられる神を、私は喜ばせているかどうかです。私がやっていることを神が見られて、それを喜ばれるかどうかです。いつも私たちが物差しとして用いるべき基準というのは、人が喜ぶかどうか、人がどう見るかどうかではない、主が喜んでくださっているかどうかです。そのことを考えながら、私たちはものごとを選択して行くことです。そのことを考えながら生きて行くことです。そのことをパウロはここでコロサイの人たちのために祈ったのです。コロサイのクリスチャンたちがあらゆる点において主に喜ばれるように、考えにおいても、想像においても、行動においても、もちろん、ことばにおいても、すべての点において神に喜ばれる者になること、それを願っていると祈ったのです。皆さんも考えてみてください。私の今の生き様を神はごらんになって喜んでくださっているでしょうか?まず、すべての点において神に喜ばれる者になりたいと願っているかどうかです。もし、あなたがそう願っているなら、神はそんな人にあなたを変えていってくださる、パウロはこのあともこのことを私たちに教えて行きます。
3.実を結ぶ者になること 10b節
同じ10節に「あらゆる善行のうちに実を結び、」とあります。「実を結ぶ」と聞いたとき何を連想するでしょう?「実」と聞くとガラテヤ5:22−23に出て来る御霊の実を思い出します。私たちがイエス・キリストを信じたら、神は私たちのうちに何を為そうとしておられるでしょう?神が私たちを救ってくださったその時点から、神が私たちのうちに為し始められた働きは、私たちをイエス・キリストに似た者へと変えて行くことです。II コリント3:18が教えるように「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と、栄光から栄光へと私たちを変えて行ってくださるのです。主と同じ姿に変えて行く、イエスに似た者に変えて行かれるのです。ガラテヤ5:22−23で教えられているその御霊の実において、その実が完璧だったお方、イエスご自身に似た者に、神は私たちを変えようとしておられるのです。ですから、パウロがここでコロサイの人たちに望んだことは、彼らがますます変えられて行くことです、彼らがますます実を結ぶ者になって行くことです、ますますキリストに似た者に変えられて行くことです。
同時に、もう一つ付け加えるとしたら、私たちが「実」と聞くときにガラテヤ5章のみことばだけでなく、みことばの中では何度も、イエスを信じる人々のことを「実」と表現しています。パウロはローマの人々に対して「あなたがたの中にいくらかの実を…」という表現を使っています。ローマ1:13「兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。」、すなわち、救われる人々のことです。つまり、ローマにいる人々の中でも救われる人が起こってほしいと言っているのです。コロサイのクリスチャンがますます神に用いられて、たくさんの実をもたらすような、そのようなすばらしい福音の働き人としてそれぞれが成長して行くようにとパウロは願うのです。神が何のために私たちを救ってくださったのかを考えたとき、それは私たちがこのすばらしいキリストを伝えるためです。それなら、ますます私たちがそのような働きに用いられて行くように願うべきです。
そして、この実に関して、ヨハネ15章で「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(15:5)と言われたことを思い出します。今見たように、私たちが変えられて行くためには、私たちがますます熱心にこのすばらしいキリストの救いを伝えて行くためには、私たち自身がしっかりイエスとつながっていなければいけないのです。そのときに私たちは変えられ用いられて行くのです。
4.神を知る知識を増し加えられて行くこと 10c節
「神を知る知識を増し加えられますように。」とあります。みな関連しています。10節の最後に言われていることは霊的な成長です。こうして見て行くとパウロは非常に大切なことを教えてくれていることが分かります。私たちは神の知恵によって神のみこころを見い出して行きます。そのために、私たちはみことばを一生懸命学びます。しかし、それだけでは決して成長しないのです。その学んだことを私たちは実践して行かなければいけないのです。だから、主にかなった行ない、生き方をして行くのです。そのようにして私たちは成長して行くのです。食べて寝ているだけでは成長しないのです。食べて動かなければいけない、そうすることによって筋力がつきます。信仰の筋力をつけて行くためには、私たちは学んだことを実践しなければいけない、そうすることによって私たちは成長して行くのです。だから10節の中で、確かに、パウロは関連したことを祈るのですが、神を知る知識が増し加わって行くように、彼が霊的に成長するようにと…。では、神をどのように知って行くのでしょう?みことばを通して私たちは神に関する知識を得ます。そして、その知識を実践することによって確信が生まれて来ます。それによって私たちは、頭の知識から心から確信した知識へと変わって行くのです。そう思う…という信仰から、私は信じている、確信しているという信仰者へと変わって行くのです。
余りにも頭だけの信仰者が多すぎます。だから、質問に答えることはできても、確信をもっているかと問われると分からないのです。その証拠に、いろいろな問題に遭遇したとき、私たちはすぐに神以外のところに答えを求めて行こうとするのです。皆、神は全能だと知っています、すべてのことを働かせて益とすると知っています、必要を与えると知っています。しかし、いざとなったとき、神のところに行かないで他のところに行ってしまうというのは、その信仰が、その知識が確信に基づいていないからです。私たちがほんとうに神を心から確信し、この神に信頼を置いて生きて行くために必要なことは、みことばを聞くだけでなく、聞いたみことばを実践することです。それによって確信が増すのです。
今、私たち日本のクリスチャンに必要なことはそこかもしれません。頭でわかっているけれど実生活においてはみことばを実践しようとしないからです。教会でみことばを聞いても家に帰るまでにそのみことばをどこかに落としているのかもしれません。家に帰ると今までと同じ生活を始めようと…。みことばが私たちに教え続けていることは「あなたは変わる」ということです。ほんとうにあなたが救われているなら、神はあなたを変えてくれると言います。しかし、あなたが変わって行くためには、学んだことをあなた自身が実践して行かなければあなたは成長しないのです。どんなに信仰生活が長くても、ただみことばを聞くだけならいつまで経っても成長しないのです。クリスチャンであるあなたに神が望んでおられることは、信仰の大人になって行くことです。あなたは信仰の大人ですか?物事を判断するときに、みことばに基づいて判断していますか?あなたの信仰者としての行動や物の考え方など、すべてその規範は聖書にありますか?聖書がこう言っているから私はこう生きる、神がこう言っているから私はこうすると、それがあなたの生き様ですか?それとも、そういったことは横に置いて世の中の常識をもとに生きているのかどうかです。そのようなクリスチャンが多すぎるのです。だから、その人の生活は変わらないし、神が用いることはできないし、クリスチャンは偽善的だからいやだというような悲しい証しかできなくなってしまうのです。
パウロが私たちにこのコロサイ人への手紙を通して明確に教えてくれているのは、私たちは成長して行かなければいけないし、成長することを神が望んでいることです。そして、どうすれば成長するのかまで教えてくれています。でも、私は弱いからなかなかできないと言われるかもしれません。11節を見てください。
5.あらゆる力をもって強くされるように 11節
「また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし」と、これが五つ目の祈りです。「あらゆる力をもって強くされる」ようにとパウロは祈るのです。つまり、パウロは私たち人間がいかに弱いかを知っているのです。パウロは「あなたは強くされる」と言います。あらゆる力をもって強くされ続けるのです。神はあなたに力を継続して与え続けてくださるのです。パウロはエペソ人への手紙1:19でこのように言います。「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」、すごいことをパウロは教えてくれました。私たちイエスを信じる者に働いている神の力がどんなにすごいものか、全能の力が働いていると言うのです。私たちに力があるのではない、神の力が私たちに与えられていると言うのです。ですから、「神の栄光ある権能に従い」とあるのです。「権能」ということばは私たちはあまり使わないと思います。辞書を見ると、その事柄をすることが認められている資格だとか、権利を主張・行使する能力とあります。このことばは力、行動における力です。つまり、神というのはどんなことでも行なえる力をもっておられる、行動をさせることができる力をもっている、しかも、神の栄光に基づいている力です。今までに私たちが旧約聖書の中を通して見てきた神の力を思い出してください。神がどんなにすばらしいみわざをなさったのか、この天地万物、宇宙をことばをもって造られたその力、紅海を真っ二つに裂くことのできるあの力、太陽を留めておくことのできるその力、神はどんなことでもおできになると私たちは繰り返し教えられてきました。そして、死人を生かすこともできる、私たち罪人の罪を赦すことができる、この栄光に満ち溢れた全能の神の力、この力によって私たちは生きることができるのです。もし、私たちが私は弱くてできませんと言うのは、自分の力でやろうとしているのであって、神から与えられているこの力のすばらしさが分かっていないのです。信仰生活は私たち自身の力で、知恵でやらなければいけないと思っているのです。大きな間違いです。信仰生活の基礎というのは神の全能の力に私たちが拠り頼んで生きて行くことです。その力は私たちにもうすでに与えられているのです。
しかも、11節の後半にこう記されています、「忍耐と寛容を尽くし」と。「忍耐」はその状況において耐える力です。「寛容」は人に対してのことです。どちらも様々な困難に関連しているのです。つまり、ここで言われている「力」というのは、様々な困難の中にあって、神を正しくまた、よく知っている者たちは喜びをもって、問題に対処することができるということです。初代教会のクリスチャンたちを思い出してください。彼らはイエスを信じたゆえにいろいろな迫害を受けました。クリスチャンは迫害の歴史です。しかし、彼らはそのような迫害を経験したときに、救われたことを後悔し、自分がクリスチャンであることを嘆き、神に愚痴を言ったでしょうか?初代教会のクリスチャンたちは「御名のためにはずかしめられるに値する者にされたことを喜びながら、議会から出て行った。」(使徒5:41)と、キリストの名のゆえに迫害を受けたときに、彼らはそれを喜んだのです。パウロやシラスは明日処刑されるかも分からない状況の中で神に祈りつつ賛美の歌を歌っていたのです。どこからその力が来たのでしょう?神の力です。そのことをパウロは確信していたのです。
私たちクリスチャンに与えられている力とはどのようなものでしょう?それは私たちがどんなひどいことを経験しようと、それが状況から来ようと、人から来ようと、私たちはその中にあって喜びをもって歩んで行くことができる、その問題に押しつぶされることはない、逆にその中にあって勝利することができる、そのような力です。バークレーが面白いことを説明しています。「忍耐、腰をおろして何かに耐えただ頭をうなだれて事件の潮時が過ぎ去って行くのを待つという意味の忍耐ではない。これはあることに耐える能力と言うばかりではなく、それに耐えてそれを栄光あるものに変える能力を意味する。それは勝利の忍耐である。これは人生の境遇が何であろうとも決して打ち負かすことのできない精神であり、どんな事件にも征服されない精神である。これは人生が私たちに与えるいかなるものにも勝利の心で関わり合うことのできる能力である。また、この寛容の根本的意味は人々に対する忍耐である。人々に対して非常に我慢強いので、不愉快やいじわるや残忍が彼が苦痛をもたらさず、愚かさが彼に決して失望を与えず、愚劣が彼を苛立たせず、醜さが決して愛を変化させないようにする特質をもった心と思いである。これは人に対する忍耐心と信頼と希望とを決して失わない精神である。」と、どんな状況にあっても、たとえ人がどのようなことを私たちに言ったとしても、したとしても、それによって動かされることのない、喜びや平安をもって私たちは生きて行くことができるのです。こんなことは偽善者にはできないことです。神がそのことをさせてくださるのです。だから私たちクリスチャンは、もっともっとこの神から与えられたすばらしい恵みを覚えて感謝する者にならなければなりません。なぜなら、これだけ私たちの弱さを知ってくださっている神は、私たちに必要なものは備えてくださって、どんな境遇にあっても、どんな状況にあっても、あなたはその中で勝利することができると言われるのです。それは困難な状況が訪れないような日々をもつことができるという約束ではありません。たとえ、どのような苦しみ、悲しみ、問題が来ようと、その中にあって喜びをもって歩んで行くことができる、そんな力を神はあなたに備えてくださっているのです。私たちがあまりに強いことを言うと神は大変な苦しみ、悲しみを私に与えるのではないかと危惧することなどいりません。みことばは言います。耐えられない試練に会わすことはないとあります。そこにしっかり目を留めることです。悲しみ、苦しみの連続かもしれない、でも、まもなくこの地上の生活は終わること、それは永遠に続くものではないから、私たちは神の約束をしっかり覚えて生きることです。パウロは私たちに不可能なことを言ったのではありません。なぜなら、私たちのうちにイエス・キリストが住んでおられ、その方が私たちを内側から強めていってくださるからです。エペソ3:16が教えるように「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」と。また、ピリピ4:13でも「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と、神が強めてくださることによってどんなことも可能だと言うのです。私たちの力、意志は無力です。これが神のメッセージです。
6.神に喜びをもって感謝をささげるものになること 12節
最後にパウロが祈ったことです。12節「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」、神は私たちにどんなものを相続させてくださったのでしょう?私たちの永遠のいのちです。この神とともに私たちは永遠を過ごすことができます。千年王国のときに私たちはイエス・キリストとともに地上を治めることになります。同時に、神は私たちにこのみことばを通して約束をくださったのです。このみことばが約束していることは私たちのものなのです。すごいことです。神の約束は私たちのものです。だから、私たちは神の約束を見てそこに確信をもつのです。信仰の勇者たちは神の約束を見て信仰を全うしました。神は必ず約束を守られるということを信じて彼らは歩み続けました。私たちもそのように生きて行くことができます。
さて、私たちは今日、パウロがコロサイの人々のために祈ったことを見てきました。パウロが望んだこと、いつも彼らがみこころに従って生きることでした、彼らがいつも神の前に喜ばれることをして行くこと、そして、彼らがますます成長したくさんの実を結び、力によって強められ、この神から与えられたすばらしい相続を喜ぶ者として歩んで行くようにと。次回、私たちは神が私たちクリスチャンに与えられた相続について、約束について、私たちがほんとうに感謝しなければいけないものは何なのか、そのことについて学びます。どうぞ、お一人ひとり今日からどのように主の前を歩んで行くのか、決心して新しい歩みを始めてください。パウロはこのようなことをコロサイのクリスチャンたちに望んだ、そして、このみことばを記された神はあなたにこのことを望んでおられるのです。