05/12/4 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:こんなキリスト者になってほしい
聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章 9節
パウロがコロサイの教会の人々のことを覚えて祈るたびに彼の口には感謝が溢れました。それはコロサイの人々がイエス・キリストを信じて、その信仰が成長していたからです。その喜びの知らせを聞いたパウロの心の中には、もっとコロサイ教会の人々のために祈る思いが強められて行くのです。私たちと同じです。誰か愛する人がイエスを信じて成長し始めたなら、当然喜び、ますます成長のために祈って行こうとするからです。パウロも9節で「私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています」とあるようにコロサイの人たちのために神に祈り求めていたのです。「神様どうか彼らを祝してください」という祈り、これはその人を愛すれば愛するほどその思いが私たちの内から生まれてきます。この「祈り」ということを私たちはしっかりと覚えなければいけません。「自分には祈りしかできない」ということをよく聞きますが、祈りとはすばらしいものであり、クリスチャンに与えられた特権です。私たちは救われる前から祈っていました。でも誰に対して祈っていたのでしょう?「あなたは何に対して手を合わせてきたの?」「何を崇拝してきたの?」と聞かれても分かりませんでした。よく考えてみると創造主でないものに手を合わせてきたのです。そんなものにいったい何を期待しているのでしょう?しかし、私たちクリスチャンは全能なる神の前に立つことが赦され、その方の前にとりなしを為すことができる、こんな特権に与ったわけです。
パウロはコロサイの人たちのために祈っています。その祈りの内容はこの9−14節の中に6つ出てきます。今日は9節だけを見ます。
☆パウロの祈り 9−14節
1.神のみこころに従って生きるように。 9節
パウロはコロサイのクリスチャンたちのことを本当に愛し心に留めて彼らの最善のこと、彼らの成長のことを覚えて祈り続けるのです。その祈りを見る前に皆さんにぜひ覚えておいていただきたいことは、祈りとは神が私たちクリスチャンに与えてくださった特権であることをお話ししましたが、神は「祈りなさい」とクリスチャンに命じておられるということです。聖書の中を見ると「祈り」に関して、「祈る」「祈っている」「祈り」「祈った」などということばが全部で522回も出てきます。旧約聖書でも新約聖書においても「祈り」というものがどれほど大切であるかということです。だから「祈り」をしっかりと覚えなければいけません。どういうものであるのかを理解しなければいけません。「祈り」は私たちの欲しいものを得るための手段ではない、ということを繰り返し学んで来ていますが、では「祈り」とは何でしょう?思い出してみてください。「祈り」とは神を崇める機会です。礼拝です。
だから、私たち祈る者は、
(1)神を信頼して祈ることが必要です。
必ずみこころはなされるという確信をもって祈らなければなりません。
(2)従順の思いをもって祈ることが必要です。
私たちは「主よ、どうぞみこころを為してください。そのみこころに私は従っていきます」という従順な思いをもって祈るのです。
(3)私たち自身が聖さをもって祈ることが必要です。
きよい神の前に立つためにそれは必要なことです。I テモテ2:8では「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」と教えています。主の前に立つ者は聖くなければならないことをしっかりと覚えて神の前に立たなければなりません。旧約でも新約でも信仰の勇者たち、私たちの先輩たちはそのようにして神の前に立ちました。まず罪を告白し、主を心から崇拝し、そして、自分たちの願いを捧げたのです。
さて、この「祈り」を具体的に見ていきましょう。パウロは9節で「絶えずあなたがたのために祈り求めています」と言っていますが、いったい何を祈り求めていたのでしょう?9節に「神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」とありますが、これが彼がコロサイのクリスチャンのために祈ったことでした。どういう意味なのか分解して考えてみましょう。「神のみこころ」とは何でしょう。それは神のご意志です。神がクリスチャンに対して望んでおられることです。私たちクリスチャンの生活における、人生の歩みにおける神の意志、目的です。また、ここに「真の知識に」とありますが、非常に大切なことばです。これはある二つのことばが合成されてできたものです。「向かって」と「理解する」ということばの合成語です。「真の知識」とは、深く完全な知識、厳密で正確な知識、認識という意味をもっています。別の言い方をすると、神のみこころを正確に見分けて判断する力です。それが「真の知識」であり、そういうものをコロサイの人々がしっかりともって行くようにとパウロは願ったのです。
次に「満たされますように」とありますが、この「満たされる」ということばはコロサイ人の手紙の中では非常に大切なことばです。これは「いっぱいにする」「欠けているところを満たす」「完全にする」「完成する」などの意味があります。つまり、私たちクリスチャンは神のことを知っているようでも実はまだまだ知らないということです。神の恵みを語っても恵みのことをよく分かっていないのです。例えば、神学校で10年20年学べば神について全部分かるでしょうか?学べば学ぶほど分かることは、神のことがまだ分かっていないということです。それほど神は余りにも大きすぎて、私たちの頭では理解しがたい存在なのです。だから私たちは、もっとこの方に関して深く完全な知識を得て行こうとする、そういった思いが必要なのです。また同時に、「満たされる」とは聖書の中を見ると「支配される」という意味でも使われています。例えば「怒りに満たされる」とは怒りがその人の心を支配するのです。「悲しみに満たされる」とはその人の心を支配しているのは悲しみです。「喜びに満たされる」とはその人の心を喜びが支配しているのです。「憂いに満たされる」とはその人の心は憂いによって支配されているのです。「聖霊に満たされる」とは、その人の心は聖霊によって支配されているのです。ですから、9節でパウロがコロサイの人々に望んだこと、神の前にとりなしたことは、コロサイの人々が神のみこころに関する真の知識によって支配され続けて行くことです。クリスチャンのすべて、その人の思考・感情・計画・夢・目的、そのすべてにおいて神のみこころが常に支配し続けるように、クリスチャンがすべてにおいて、みこころに従順に従って行くように、ということです。
この「満たされる」ということばがコロサイ人の手紙の中で非常に大切であることの理由は、異端の教えが「イエスだけでは不十分」と言い出したからです。みことばを受け入れるだけでは不十分だと...。2章を見ると、異端の人々や間違った教師は、天使を崇拝することやユダヤ教の伝統や儀式を持ち込んで、それを守り行うことによって満たされて行くのだと教えていました。だからパウロは繰り返し、あなたが満たされるのは特別な経験や体験ではなく、神のみことばによってであり、イエス・キリストによって十分に満たされているのであり、それ以上の必要はないことを伝えているのです。じつは、これは2000年前の初代教会、コロサイの教会だけでなく、今の時代でも同じことが問題となっています。今、日本のキリスト教会では、特別なことを体験しなければいけないという方向へ向かっています。「クリスチャン新聞」や「百万人の福音」や、クリスチャンの本屋で出ているものを見ても、そのような内容を薦める本やセミナーが溢れています。教会にもいろいろなダイレクトメールが届きます。そのようなものをどんどん励まし、そのような集まりに参加するように勧める内容のものです。いろいろな体験をすることが必要だ、いやしが必要だ、奇跡を行うことが必要だ、それを通して私たちは満たされて行くのだと教えるのです。以前ある方が、もう一度聖霊に満たされなければいけないと教えられて、そうだ、自分のクリスチャンとしての生き方に力がないのはこういうところに問題があることに気づき、その教会に移られたということがあります。自分の信仰が弱くぐらつくのは、聖書のことばを信じるだけでは不十分、イエス・キリストを信じるだけでは不十分、何か特別な体験を得ることによって強くなって行く、もしそのように思っておられたらあなたは間違った方向に向いているのです。パウロが教えようとしたのは、イエスだけで十分、みことばだけで十分だということです。コロサイのクリスチャンたちが神のみこころに関していつもそれに支配されて生きて行くようにとパウロは望んだのです。なぜそれが大切なのでしょう。
★いつもすべての点において神のみこころに従って行くことが大切な理由
1)神の栄光がを現わされるから。
クリスチャンは何のために生きているのかと尋ねられたら、おそらく皆さんは「神の栄光のため」と答えられるでしょう。そのように覚えているから知っているけど、どう生きるのかは別問題なのです。神の栄光を現わすには神のみこころに従っていくしかないのです。イエスご自身、人としてこの地上を歩まれた時に何を一番の目標にして生きておられたでしょうか。彼自身のことばを見ましょう。ヨハネ17:4「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」、つまり、イエスが父なる神に祈っていることは、あなたがしなさいと言われることをわたしは成し遂げた、完成したのだということです。つまり、イエスは父なる神のみこころに、そのご意志に対して完璧に従って来られた、だから栄光を現わすことができたのです。だから、私たちは神のみこころに従うことが大切だというのです。なぜなら、そのときにイエスがそうだったように、私たちも神の栄光を現わすことができるからです。
2)宣教(伝道)のために必要
私たちが従順にみこころに従って行くなら大きな伝道になるのです。ヨハネ17:18に「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」とあります。父なる神が子なる神であるわたしを遣わしたように、わたしも弟子たち(クリスチャンたち)を世に遣わしたと言うのです。同じことをヨハネ20:21で繰り返します。「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」。イエスはこの地上で何をなさったのでしょう。父なる神のことを世に明らかにしたのです。神がどういうお方かということを明らかにされたのです。それを完璧にされました。ですから、私たちもこの世にあって遣わされた者として、人々に対して神がどのようなお方かを伝えて行くのです。どうすればより良く伝わるのでしょう。神のみこころに従うことです。その生き方を通して私たちは明確に神がどういうお方かを明らかにして行くのです。イエスが地上に来られた時、最初は人々はイエスの方に来ました。けれどイエスが神のメッセージを語り続けていくことによって人々は彼から遠ざかるようになりました。彼を迫害し、後には彼を十字架につけて殺したのです。なぜでしょう?人間は自分の好きなように生きて行きたいからです。イエスが語ったのは神のメッセージ、神の正しさでした。神がどのような方か、神が私たちに望んでおられることを明らかにされました。これを聞いた群衆は困ったのです。そんなものに従ったら自由がなくなる、好きなように生きていけない、また、そんな話を聞いているとだんだん心が責められ苦しくなる、すると選択が生まれます。この人から遠ざかるか私を苦しめる人を私から遠ざけてしまうか…、ある人はイエスから離れていきました。自分の好きな生き方をしたいために、自分を苦しめる、重荷を与えるイエスから遠ざかろうとしたのです。ある人々は「この人をのぞけ」「この人を殺せ」とこんな厄介な人物は我々の中に欲しくないと言ったのです。罪が責められるからです。このように考えると、私たちもこの地上にあってそのような働きをするために神から遣わされたのです。皆さんの周りの人にとって、皆さんは煙たい存在でしょうか?神の前に正しく生きて行こうとしたら、神の前に正しく生きたくない人にとって、その人物は煙たくなるのです。イエスに対して人々が感じたように、あなたに対して周りの人々はそのように思うようになるのです。私たちがキリストについて話し始めていくと私たちは人々にとって煙たい存在になるのです。宣教のみわざを成していくために必要なことは、私たちがみこころに従って行くことです。なぜなら、そうすることによって父なる神を世の人に明らかにするからです。
3)神の祝福をいただくため
イエスの地上の生涯を見るとき、イエスほど完全な平安や喜びをもって生きた人はいません。十字架にかかる時もかかっている時でさえ、人々のために祈られた、ののしりのことばなどひとつも出てこなかった、その平安や喜びがイエスを信じる私たちに与えられたのです。私たちも完全な平安や喜びをもって生きていくことができるのです。イエスが歩まれたように父なる神のみこころに従って生きることです。それによってその約束を日々の生活の中で経験しつつ生きて行くことができるのです。神が私たちを祝してくださるからです。同時に、私たちが天に上がった時に、そのようにみこころに従順に従った者に対する主のほうび、報いがあります。すばらしい祝福を後にもいただくことになるのです。
4)それがクリスチャンだから
みこころに従って行くのはクリスチャン、救われた者の特徴だからです。エペソ5:17に「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」とあります。イエスを信じる前は自分の好きなように生きようとしたけど、イエスを信じた私たちは、神に喜ばれるように神のみこころに従って行こうとするのです。そんな変化が生まれたのです。なぜなら、救われたから、生まれ変わったからです。神は私たちにできないことを言われてのではありません。神は私たちを造り替えてくださった、つまり、みこころを行うことを喜びとするようにです。信仰生活の中で私たちが本当に喜んでいるときは、神の教えに対して忠実に歩んでいるときです。だから、私たちはみこころに従って行くことが大切だとパウロは教えてくれたのです。
★みこころに関する真の知識を得るためにどうすればいいのでしょう?
9節を通してパウロが教えています。「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって」と記されています。この「知恵」と「理解力」ということばを区別するのは難しいことです。意味がよく似ている同意語です。実際的な知恵、実用的な知恵、明確な認識、洞察力、識別力のことであって、違うもののことではなく同じひとつのことについて話していると説明する言語学者もいます。でも、ここに二つ記されているので敢えて区別してみると、「知恵」とは霊的なことに関する知恵です。具体的に言うと、聖書の中にある神のメッセージを正しく知る知恵です。だから、みことばを学びみことばが教える正しいメッセージをしっかり理解する力です。そして、「理解力」とは、字の通り理解する力です。これに対して神学者バークレーは「ギリシャ人が時々批判的能力と言い表わすものである。それによってギリシャ人は生活の中で生じる可能性のあるどのような状況に対しても、最も基本的な知識を適用する能力、そのような意味がある」と言うのです。つまり、私たちクリスチャンが日々の生活で経験するいろいろなこと、悲しみ苦しみ喜び、数々の問題など、ありとあらゆる私たちが経験する可能性のあるものや状況の中にあって、どのように歩んだらいいのかを私たちに教える力であるということです。つまり、みことばをこの状況の中でどのように適用して行くのかという、その力です。私たちが日常経験するいろいろな問題の中で、何が神に喜ばれ正しいのかを見分け判断し、それを選択して生きて行くことを教えているのです。もっと簡潔に言うなら、みことばを正しく理解し生活に適用するその力です。
申命記4:5−6に「見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。」とあります。神のみこころに忠実に従えば、周りの人々はこの人に「悟りがある」と言うと。だから、パウロがこのコロサイ人への手紙で教えていること、これも今私たちが見てきているように、私たちが経験する様々な状況で私たちが学んだ真理のみことばをどのように生かして行くのかということです。それが大切なのです。そうすることで私たちはみこころに関する真の知識に満たされて行くのです。つまり、その神のみこころが常に私たちのすべてを支配するようになって行くのです。だから、パウロはこのために祈りました。真の知識に満たされるように、みこころがいつも私たちの考え、思い、行動などすべてを支配するようにと。でも、そのためには私たちクリスチャンには責任があるのです。それは、みことばを正しく学んで、その学んだことを日々の生活に適用し実践して行くことです。そうすることによって、私たちは真の知識によってますます満たされて行くというのです。パウロは決して祈ってさえいればあなたは成長するとは言っていません。そのようなことは起こらないからです。私たちの信仰が成長するために、そして、パウロが望んだように、いつもみこころに関する真の知識に私たちが支配されて、神の前を正しく生きて行くために必要なことは、私たちがみことばを正しく学んでそれを実践することです。それしかありません。そのことをパウロはここで教えるのです。私たちの成長には大切な責任があるということです。そのために注意事項をパウロはあげています。
★成長して行くための注意事項
1)成長して行くことをまず神に求めること
神の前に成長したい、変えられたい、正しく歩んで生きたいと求めることです。9節の最後に「満たされますように」とあり、この「満たされ」は受動態、受身です。私たちが支配されるように一生懸命頑張って学んで行きましょうと、そうではありません。神の助けによってそれが成されるのです。ですから、私たち信仰者に必要なことは「私を変えて行ってください」と神に願うことです。ヤコブ1:5に「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」とあります。ですから、私たちに必要なことは神に求めるということです。「神さま、私はいつもあなたのみこころを行なえるような人になりたいのです、助けてください」と。
2)私たちを変えて行くことを妨げるものを取り除くこと
信仰の歩みにおいて常にある戦いは、イエスを信じたクリスチャンがもっている神のみこころに従っていきたいという新しい思いと、同時に、生まれながらにもっている自分の好きなように生きて行きたいという自我、それの葛藤です。それをいつも経験します。神の望んでいることが分かっていても自分のしたいことを選択してしまい、その結果、私たちは神がくださる平安や喜びを失って行くのです。この9節の中での「知恵と理解力」は霊的なものであると言っています。「あらゆる霊的な知恵と理解力によって」と、つまり、神の知恵をいただきながら生きて行くことが必要なのです。でも、私たちが神の知恵よりこの世の知恵を求めようとするところに問題があるのです。 I コリント1:20に「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」とあります。この後コロサイの1章を通してパウロが繰り返し教えることは、世の中の知恵をどんなに駆使しても私たちがそれによって神を知ることはないし、それによって神を喜ばせることもできないということです。この世の知恵によって神を知ることはできません。何千年にも渡って人間が繰り返して来たことは「神はいない」と言い続けていること、これほど科学が発達していても科学者たちが言うことは「この世界は偶然できたのだ」と。知恵があると言っている人が言うことは「創造主など存在しない」です。進化論など科学的ではないのに、彼らはそれがあたかも科学的であるように述べ、そして、彼らは神はいない、人は偶然生まれてきたのだと言います。それは愚かなことです。私たちに必要なのは神の知恵なのです。価値のないものをもっていても意味がないのです。偽物をいくら貯めても価値がありません。この世の知恵をいくら蓄えても神の前には虚しいのです。熱心に雑学を身につけるよりもっと大切な神のことばを蓄えることです。その方が生活に役立ち、祝福につながるからです。パウロが望んだことは、私たちはまだまだ神について分かっていない、だから、もっと神のことを学んで行かなければいけない、もっと神を知らなければいけないということです。そのために必要なことは神が与えてくださったみことばです。ローマ12:2で教えるように「この世と調子を合わせてはいけません。」ということです。そんな戦いの中を私たちは生きています。
私たちがみこころに従って生きて行くために必要なのは神のおことばです。それで十分なのです。私たちがしっかり求めて行かなければいけないことは、この世の知恵でなく神の知恵です。神をより深く知って行くことです。みことばをしっかり正しく理解するとともに、それを実際の生活に生かして行くことです。そうすれば私たちは変わってきます。そのためにはそれを邪魔するこの世的な考え、この世的な知恵を捨てて行かなければいけません。
3)神のみことばを学ぶこと
II テモテ3:15に「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」と、聖書はあなたに知恵を与えると言います。神の知恵をくださるからみことばが必要なのです。エペソ5:18で「御霊に満たされなさい。」とパウロは教えました。私たちが御霊に満たされているかどうか、神が私たちを支配しているかどうかというのは分かります。どうしたら分かるのでしょう?私たちの心がどんな状態にあるかです。喜びや感謝に溢れているか、心の中に従順の思いがあるか、喜んで主に、人々に従って行きましょうと、そういう思いがあるかどうかです。しかし、パウロはコロサイ3章の中で、あなたの心が喜びにあなたの心が感謝に、またあなた自身の歩みが従順なものになって行くということを話します。しかし、それは聖霊があなたを支配したとは言わないのです。それは、みことばがあなたの心を支配したというのです。だから、私たちはみことばをしっかりと内に蓄えて行くことが必要です。みことばを通して神を知って行くことが必要です。みことばの教えをしっかりと学んで行くことが必要です。そうすることによって私たちは神の前を正しく歩むことが可能になるからです。
今日私たちが学んだことは、パウロがコロサイの人たちのために祈ったとりなしの祈りでした。パウロは彼らが本当に真の知識に満たされた、みこころにいつも従順に従う者になってほしいと願い、そのことを神の前にとりなしました。そのような人物になるためにお互いがお互いのために祈り合って行くことが必要なのです。同時に、私たちは一人ひとりがみことばを正しく学びそれを実践して生かして行くこと、実生活において実践して行くことが必要なのです。そうすることによって私たちは変えられて行くからです。どうでしょう、皆さん、あなたは神に従って行きたいという思いをもっておられますか?残されたこの地上の人生がどれだけのものか分かりませんが、私はそのために救われたのだからそのように生きて行きたい、神のみこころに従って生きて行きたいと、それなら今教えられたパウロの教えに従って行くことです。今日からそのように生きて行きたいから助けてください、そのことを忘れていました、見るべき方向を見ないで他の方向を見始めていたから赦してください、今日から正しく歩ませてくださいと、そして、みことばをしっかり正しく学んでください、そして、そのみことばを神の助けによって実践してください。そうすればあなたは変わってくるのです。
まだイエスを信じておられない方へ、あなたへの神のみこころは何でしょうか?あなたが真の神に逆うことを止めることです。今日、神に背を向けた生き方を止めて、あなたを造りあなたを愛し、あなたをその罪から完全に救ってくださる救い主の前に、救いを求めて出て来ることです。「神さま、私の罪を赦してください、私はもうあなたに逆らうことを止めます、私のような者を愛してくださって、イエスさまが十字架で死んでよみがえってくださったことを感謝します、信じます」と神の前にあなたが出て行くなら、神はそのときあなたに救いをくださる、それが神のあなたに対するみこころです。どうぞみこころに従う者になってください。