05/11/27  礼拝メッセージ  近藤修司 牧師


主  題:福音の業

聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章3−8節


 3節のパウロのことばを見ましょう。「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。」、パウロはコロサイの教会のクリスチャンのことを覚えるたびにいつも感謝が彼の口から出てきたと言うのです。毎日祈っていたかどうか分かりませんが、パウロがこの教会のことを覚える時に口から出てくるのは感謝しかないと言うのです。それほどすばらしい教会でした。感謝に値する教会でした。「私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝をしています」とありますが、パウロはコロサイのクリスチャンたちに、彼らの信仰に関して彼らを絶賛し感謝しているのではありませんでした。神に感謝を捧げているのです。どうしてなのでしょう。私たちはその人に感謝をするかもしれませんが、パウロは人ではなく神に感謝を捧げているのです。それはパウロ自身が、信じる人を救ってくださるのも、信仰者が忠実に歩み続けて行くのを助けてくださるのも神であるということを知っていたからです。パウロは別の箇所でこのように述べています。I コリント3:6−7「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」、成長させてくださったのは神だと言っています。またエペソ2:8には「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とあり、救いは神からの一方的なプレゼントなのです。私たちが一生懸命努力してようやく手に入れるものではなくて、神が求める者に与えてくださるすばらしい最高の贈り物です。また、ローマ6:23では「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあり、神のくださる賜物、贈り物はキリスト・イエスにある永遠のいのちであると言います。彼が繰り返して言っていることは、救いも神からの贈り物であるし、信仰の成長も実は神の成してくださるすばらしいみわざであるということです。だから、コロサイのクリスチャンのことを考えるたびに彼らが救われたことも彼らが成長していることも、神のみわざでゆえに神に感謝しているのです。パウロは救いというものをよく知っていました。クリスチャン生活の鍵を知っていました。人間を誇ることはなかったのです。神を誉めるのです。

3節で「私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています」と神のことが説明されています。神について神への感謝を述べているのですが、そこに神について「私たちの主イエス・キリストの父なる神」であると説明されています。なぜパウロはこんなことを言ったのでしょう?この文章をよく見ると、「神」の前には冠詞が付いているのですが、「父」の前には冠詞が付いていません。どうしてそのような書き方をしたのか、それはパウロ自身、感謝を捧げる神とはイエス・キリストが父として私たちに紹介したお方であることを強調したいからです。つまり、イエスがこの地上におられたとき、何度も「父よ」と神のことを私たちに紹介されました。その中のいくつかを見て行きましょう。

☆父なる神とは?

(1) 完全なお方 マタイ5:16「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」、マタイ5:48「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

(2) 全知のお方 マタイ6:4「あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

(3) 赦しを与えてくださるお方 マタイ6:14「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」

(4) 養ってくださるお方 マタイ6:26「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」

(5) いのちを司っておられるお方 マタイ10:29「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」

(6) 唯一の主権者 マタイ11:25「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」

(7) 真の王 マタイ13:43「そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」

(8) 聖なるお方 ヨハネ17:11「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」

(9) 正しいお方 ヨハネ17:25「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。」

イエスは神とはどういうお方であるかを話されたのです。パウロはそのことをここで言っているのです。イエス・キリストがお話になっていた父なる神はこんなにすばらしいお方であるから間違いなく信じる者を救ってくださり信じる者を成長させてくださる、それは神にとって難しいことではないからです。真実な神であるから約束を守られるお方です。そのことを覚えてパウロはその神に感謝を捧げるのです。ですから、パウロ自身イエスのおことばをよく知っていたのです。

そして、同時にパウロは福音のメッセージのすばらしさを知っていました。そのことをこの後続いて述べて行きますが、福音がどんなにすばらしいか、この3−8節に二つのことが記されています。

☆福音とは?

信じる人々に救いをもたらすもの  3−5a節

4−5a「それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。:5 それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。」とあります。福音は信じる人に救いを与えると言います。まず初めに、「信仰」ということばが出てきました。「キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰」とあります。つまり、イエス・キリストを信じるということです。すべてはそこから始まるからです。私たちがイエスを信じるところから救いは始まるのです。また、この「信仰」ということばはエペソ1:1では「忠実」と訳されています。「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。」とあります。ですから、信仰をもった人、イエスを信じた人の特徴は、神に対して忠実になろうとすると言うのです。そして、「キリスト・イエスに対する」ということばがありますが、これは信仰の対象として「対する」ということばを使ったのかというと、どうもそうではなくて、これはイエスの支配の中に入ったという領域を指しているのです。そのことをしっかり覚えておくことが必要です。日本語ではその意味が明確には出てきません。パウロが言っているのは、あなたは信じることによってイエス・キリストの領域に入ったのだということです。なぜなら、私たちは生まれながらにはこのイエス・キリストの領域にはいなかった、サタンの領域にあったからです。サタンの領域を生き続けて神の怒りをサタンとともに受ける運命にあったのです。すべての人間はそうでした。先に見たように、神は完全なお方できよく正しい方であるゆえに、神によって造られた私たちにも当然同じことを要求されますが、私たちが選択したことは神に逆らうことでした。創造主を信じる代わりに被造物を崇拝し、罪を犯し続けてきたのです。このように私たち人間は生まれながらにサタンの領域に属する者でしたが、イエスの恵みによってイエスを信じることによって、その領域からイエス・キリストの領域へと移されたのです。パウロはローマ人への手紙の中でそのことを教え続けています。ローマ6:11,22には:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。:22しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」とあります。私たちイエス・キリストを信じる者は罪に対してはもう死んだ者であり、神に対して

生きている者だと言います。私たちは新しい主人を得てその主人を喜ばせるために生きるのです。ですから、私たちクリスチャンはかつて私たちがもっていた人生の目標、目指してきたものを捨てて、神に喜ばれることは何なのか、神のみこころは何かを考えてそれを求めて生きる者となったのです。パウロはそのことをこのコロサイ1:4で私たちに教えるのです。ですから、私たちクリスチャンは喜ぶのです。生まれ変わったから、神によって救い出され新しくされたからです。

 そして、私たちが自分の救いを考えるときに決して忘れてはならないことは、確かに私たちはイエス・キリストを信じる決心をしたのですが、みことばが教えてくれるように、ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」。私たちの決心は神がわたしたちのうちに働いて私たちがイエスを信じる決心ができるようにしてくださった、だから、私たちは神をほめたたえるのです。私たちができないことを神はしてくださったのです。私たちの心の目を開いてくださった、罪人であることを教えてくださった、救いが必要であることを教えてくださった、そして、イエスを信じようと決心に至らせてくださった、そのすべてに働きを為してくださったのがこの神です。私たちが努力して救いに至ったではなくて神が救ってくださったと繰り返してそのことを言っています。神が救ってくださったその人のうちには変化がもたらされます。救いは神のわざだから、神が人を救えば神はその人を造り替えて行かれるのです。だからその人のうちにいろいろな変化が生まれてくるのです。神に対して忠実に生きて行きたい、従順に生きて行きたいとそういう思いを与えてくださるのです。

 覚えておられますか?このコロサイ書を学ぶときに、パウロはピレモンのところにオネシモを遣わしたこと、そのとき、ピレモン書もオネシモがテキコとともに持って行ったことを見ました。そのピレモン書の中にも同じようにこの愛、信仰について教えています。特に、信仰についてはかつてピレモン書を学んだときに説明したように、主イエスに対してピレモン自身が抱いている信仰は死んだ信仰、ことばだけの信仰ではないということです。本当に信じている人、本当に救われている人というのは、神に従って行こう、みことばに従って行こうという変化を神がもたらしてくださっています。「抱いている」は現在形ですから、ピレモンはずっと神の前に正しいことを行なって行こうという願いをもっているとパウロは言うのです。ですから、4節でパウロが「信仰」と言ったとき、パウロがこのコロサイの人たちにも言いたいことは、ことばだけの信仰ではないということです。コロサイの人たちがイエス・キリストを信じて新しい領域に入れられた、そのことは8節にも見られるようにパウロはエパフラスの報告によって知るのです。彼らの生き様を聞くことによって彼らが本当に救われたことはパウロの確信となりました。だから、そのすばらしい救いのみわざを為してくださり、その信仰を成長させてくださっている神を、パウロはほめたたえるのです。本物の信仰は必ず神に忠実に生きて行きたいという思いを神が与えてくださるのです。そして、信じた人が神にあって成長して行くのを見るとき、私たちは神に感謝します、心が喜びにあふれます。パウロはまだ会ったことのないコロサイのクリスチャンたちの信仰を聞いて、そのみわざを為してくださった神に感謝を捧げたのです。ですから、この「信仰」が救いが本物であることの証拠でもありました。

 もう一つは4節に「愛」が出て来ます。「すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いた」

と。福音は救いをもたらすものです。本当に救われている証拠というのは、その人たちの生き方です。ここにあるように「愛」がその証拠だと言います。しかも、このみことばは未信者に対する愛ではなく、

「すべての聖徒に対する」愛なのです。つまり、救われていることがどうして分かるのかと質問した場合、返ってくる答えは、その人がクリスチャンを愛しているからだということです。そのことについてみことばは私たちに繰り返し教えてくれています。兄弟姉妹を愛することは神を愛することだと言います。I ヨハネの手紙の中でヨハネは何度も繰り返しています。3:16に「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」、3:23「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」、2:9「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。」、3:14「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」

3:18−19「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。:19 それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。」、4:19−5:1「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。:21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。5:1 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」、非常にはっきりと分かり易く記されています。救われている人の特徴は兄弟姉妹を愛するのです。

ピレモン書の5節にも同じようにこの「愛」が出て来ます。「それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。」と、神の愛アガペーの愛が使われています。人間の好きや嫌いではなく神の愛が記されています。説明したようにそれは感情の愛ではなく意志の愛です。自分から自分を犠牲にしよう、自分からへり下ろう、謙遜になろうという、そのような愛です。それは、神を信じ神にあって成長して行く中で神が教えてくださることです。あなたが神を信じたときに神はあなたを生まれ変わらせてくださった、新しい思いを持つ者とされました。神の家族の一員とされました。そのようにして兄弟姉妹に対して特別の思いをもつようになったのです。そして、お互いのために祈り、具体的に助けようとします。教会の中でクリスチャンたちが特別の関係をもっている、愛し合っていると見られるのは、私たちの努力ではなく神がそのように変えて行ってくださったからです。なぜなら、兄弟姉妹を愛するということは神を愛することであり、神を愛するようになったというのは、私たちが救われたからです。神がそのように造り替えてくださったからです。だから、兄弟姉妹を愛していなければその信仰はおかしいのです。もちろん、私たちが覚えなければいけないことは、兄弟姉妹を愛するからといって、何をしても許すということではありません。間違ったことに対しては間違っていると愛をもって戒めなさいと教えられています。兄弟姉妹を愛するというのは救われた人の特徴です。そのことをパウロは聞いたのです。それで彼は救いをもたらしてくださった神に感謝を捧げたのです。

5節の初めに「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。」とあります。「希望」について書かれています。この「希望」と、すでに見てきた「信仰」「愛」は非常に関連深いものです。パウロがテトスへの手紙の中でこのように言っています。2:11−13「というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、:12 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、:13 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」と非常に大切なことを言っています。「すべての人を救う神の恵みが現われ」と、では、その恵みをいただいた者はどうなったか、「不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し」と生き方が変わっているのです。そして、「祝福された望み」を待つようになったのです。その望みとは「大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われ」です。再臨を待つのです。こんな変化を神は信じる者にもたらしてくださるのです。このように生きて行くのだとパウロは教えます。

もう一度、コロサイ1:5に戻って、ここに「あなたがたのために天にたくわえられてある」とあります。つまり、イエスを信じる本当のクリスチャンたちにこんな約束が神から与えられているというのです。先のテトス書で見たようにキリストにお会いするという約束です。私たちは私たちのために十字架で死んでよみがえってくださったイエスにお会いするのです。どんなお姿なのかと私たちは想像するかもしれません。しかし、私たちは顔と顔を合わせてこの救い主にお会いする日が近づいています。それは私たちの大きな希望です。もうしばらくするとこのイエスにお会いするのです。その手の傷跡を見て、わき腹のやりの跡を見て、本当に私たちはこの身代わりの死のゆえにこうして神の前に立つことができることを感謝するのです。同時に、私たちはこの罪のからだから解放されるのです。もう罪に悩むことがないのです。I コリント15:52−55にこのように書かれています。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」、もう罪を犯すことのない栄光のからだへと変えられるのです。

そして、私たちには永遠のいのちが与えられます。テトス1:2「それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。」、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださったことは永遠のいのちだと言うのです。イエスを信じる私たちに神はこの永遠のいのちの約束をくださったのです。私たちは死んでも生きるのです。神とともに永遠を生きるのです。それは私たちが慰めに話しているのではありません。うそをつくことのない絶対者なる神が私たちに与えてくださった約束です。罪赦された私たちはこのお方とともに永遠を生きるのです。なんと幸いなことでしょう。なんと感謝なことでしょう。パウロは I テサロニケ4:17でこのように言います。「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」。もちろん、この地上にあってもイエスは私たちをともにいてくださいますが、私たちが罪のからだから解放されてイエスにお会いするとき、栄光のからだをもってイエスとともに永遠を過ごすのです。パウロが言うことは、この当時のクリスチャンたちもこの希望をもって慰め合いながら、励まし合いながら主に忠実に従って行こうとしたことです。だから、パウロはこの手紙の中で、コロサイのクリスチャンたちに対しても、彼らが神に忠実に生きようとしたその動機のひとつは、イエスにお会いするという希望であると言うのです。

しかも、5節には「あなたがたのために天にたくわえられてある」とあります。このように言ってくださるのは感謝なことです。私たちがこの地上にあっていろいろな問題やいろいろな苦しみ、困難を経験しますが、その中で神を信頼して忠実に歩み続けて行くなら、その報いというのは天に保管されていると言うのです。私たちは大切なものは安全なところに置きます。パウロが教えていることは、私たちが主のために忠実に歩んで主のために為すことは、報いとして天にたくわえられていると言うのです。そこは誰も来て盗むことができない、最も安全なところです。だから、そのことを考えたとき、私たちクリスチャンは神に忠実に生き続けることです。すべてを見ておられる神は私たちの信仰に対してふさわしい報いを与えてくださるのです。

モーセを見たとき彼はそのように生きたことが分かります。ヘブル11:24−26「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」、つまり、今の私たちだけではありません。2000年前のパウロだけでもないのです。そのもっと前のモーセも神にお会いするその日を覚えて、今日を正しく生きたのです。神が喜ばれることをして行こうとする、それは必ず神が祝福として、報いとしてほうびをくださるのです。だから、私たちもこの希望を見つめてこの約束をしっかり覚えて今日を生きて行くことです。同じようにパウロは I コリント15:58で「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と言っています。主のために生きることは決して無駄ではないのです。必ずそれに対して神からのごほうびがあるのです。だから、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい」と教えるのです。パウロはコロサイの人たちがそのように生きていることを知って、そのような生き方を励まし導いておられる神に感謝を捧げました。私たちがしっかり覚えることは、私たちの信仰が本当にこのようなものかどうかです。主に対して忠実に歩み続けているかどうか、兄弟姉妹に対して悪い思いをもっていないかどうか、兄弟姉妹を愛するゆえに具体的に何か行動を為しているかどうか、そして、いつも希望をもってイエスにお会いする日が近いことをしっかり覚えながら今日生きているかどうかです。妥協しそうになるとき、しっかり覚えなければいけないことは、私たちに与えられているこの希望です。そのことをパウロはこのコロサイの人たちに感謝とともに記しているのです。

2.福音は信じる人を働き人に造り替えて行く  5b−8節

 5節の後半からこうあります。「あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。:7 これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、:8 私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。」、パウロが「福音の真理」ということばをここで敢えて使っているのは、このコロサイの教会の中に間違った教えが入り込んできたからです。「真理」ということばをもって、コロサイのクリスチャンたちがエパフラスから学んできたこと、その真理のことばにしっかり立つようにと教えるのです。福音の真理は信じる人に変化をもたらします。彼らは新しく生まれ変わります。6節に「それをほんとうに理解したとき」とありますが、これは聞いたメッセージを理解するということです。そこから変化が生まれます。大切なところです。多くの人は聞いているだけです。この「理解」とは分かることですが、それだけでなく真理やその意味をつかむ、信じるということです。ですから、この変化というのはイエス・キリストの正しい福音のメッセージを信じ受け入れるところから始まるのです。

 では、福音の真理とは何でしょう?神が教えてくださる福音のメッセージとはどのようなメッセージでしょう?それは、神への悔い改めと従順のメッセージです。悔い改めるとは心を変えることですが、それだけではありません。新約聖書においてこの「悔い改める」というのは目的を変える、特に罪を止める、これまでの罪の生き方を捨てて神に救いを求めるということです。イエスに対して間違った思いを正しくする、それだけでは不十分なのです。悔い改めは生き方を変えることです。だから、I テサロニケ1:9で「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、」とあるとおり、これが悔い改めなのです。今まで信じてきた偽りの神々から離れて真の神を信じその方に仕えて行く者になったということです。残念ながらキリスト教の歴史の中で、この日本においても福音のメッセージが変わってきました。特に70年代、福音のメッセージからこの「悔い改め」がなくなったのです。新約聖書の中には「安っぽい恵み」についてこのように教えているとある牧師が言います。すなわち、空しい態度で神の恵みを受け入れることで、悔い改めのない赦し、行ないのない信仰、これは福音のメッセージを聞いていても心から受け入れていない証拠だと言います。悔い改めたくない、自分の生き方を継続したいのです。その生き方を止めて神に従う生き方はしたくないのです。でも、信じてほしい、どうしますか?大切な部分を抜いてしまうのです。日本人には都合がいいのです。今までのものを捨ててこれだけにしなさいと言われると困るけど、今までのものはそのままでイエスを加えたらいいですよ、と言われると多神教の人間には難しくないのです。でも、それは神のメッセージではありません。神が言われたのは「悔い改めなさい」、あなたの生きる目的を変えなさい、神に逆らってきたその生き方を止めて神に従う生き方に変わりなさいです。それがパウロ自身が語ったメッセージでした。使徒の働き20:21には「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」とあります。ユダヤ人もギリシャ人も関係ない、罪人に語るべきメッセージは神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰だと言うのです。これが福音のメッセージであり、パウロはそれを語ったのです。ところが、人間が一人でも多くの人が救われてほしいという願いだったのかもしれません、この福音を安っぽいものに変えてしまったのです。だから、イエスを信じますと言う人がたくさんいても、イエスに従って行く決心などないのです。イエスが主人でないならその人の主人はサタンです。サタンを主人としている人がどうしてクリスチャンだと言えるでしょう?イエス・キリストは私たちが信じようと信じまいとすべての主権者であり主人です。この方が王であり神であり救い主です。私たちはこのイエス・キリストを自らの救い主、神、主人と信じてこの方に従って行こうという選択をしたのです。「従う」ということばを辞書で引くと「人が神に従うときその人は心に神を信じているという唯一可能な証拠を見せているのである」と説明があります。つまり、人が神に従うというのはこれほど確かな救われていることの証拠はないということです。

 6−8節を見ると、救われた人を神は働き人にしようとされていることが分かります。「あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。」と、アジアだけではなかった、世界中に神のみわざが為されていると言います。神はどのような方法でこの救いのメッセージを世界中に広げて行こうとされているのでしょう?それは救われた人々を用いてです。なぜなら、福音はそのようにしてあなたがたのところに届いた、信じた人はだれかにそれを伝えて行く、それによってあなたがたのところに届いたとパウロは言います。エパフラスがあなたたちに福音を伝えた、そして、あなたたちは彼からそれを聞いた、彼はエペソで信じた後、福音のメッセージを携えて出て行ったのです。だから7節で言います。「彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって」と、神はこのような働き人を造ろうとされているのです。だから、イエスを信じた私たちはキリストに仕える者です。福音宣教のために神は私たちを用いようとしておられるのです。そのことは皆さんご存じのことです。神はエゼキエルという預言者に、あなたは「見張り人」だと言われました。見張り人とはその当時城壁の上に立って敵が来るかどうかを見張っている人です。また、よく周りが見える丘の上に立って敵が来るかどうかを見ているのです。ある時には見張りの塔を作ってそこに立って見ていたのです。敵が来たら城壁の中にいる仲間に知らせたのです。そのような見張り人がいたのですが、神はエゼキエルに対してあなたは人々のたましいに関する見張り人だと言われたのです。エゼキエル3:16−19「七日目の終わりになって、私に次のような主のことばがあった。:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。:18 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。:19 もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。」と、神を信じていない人に対しても神のさばきがあるということを告げることなく、彼が肉体的に滅んでしまったなら、彼は永遠の滅びに至るのですが、その血の責任は見張り人であるあなたにある、なぜなら、あなたが語らなかったから、しかし、あなたが語って彼がそれを聞いてその警告に従わないなら、その責任はあなたには問わないと言うのです。ということは、見張り人の大きな責任が語られているのです。それなら、私たちクリスチャンも神に仕える者です、人々に警告を発する者です。なぜなら、その警告のメッセージこそみことばの中に記されているメッセージだからです。救われている私たちは永遠のさばきが来るということを人々に伝えなければならないのです。もし私たちが語らなかったなら、その責任は私たちに問われるのです。それによって私たちが救いを失うことはありませんが、間違いなく神の祝福はないでしょう。語ることは神が私たちに与えられた大きな責任だからです。

 最後に8節私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。」、会ったことがなくてもキリストにある者どうしの愛をパウロは聞いたのです。兄弟姉妹が愛し合っていたのです。私たちの教会にあっても私たちが覚えなければいけないことは、人種も国籍もからだのハンディも地位も学歴も身分も財産もまったく関係なく、私たちはキリストにある家族、兄弟姉妹であるゆえに愛し合うこと、そのことを神は望んでおられるのです。そして、私たちがそれを実践して行くために必要なことは、このみことばが教えるように御霊によるあなたがたの愛、神の助けです。

皆さん今日、神さま、どうぞ私を変えてください、もっともっとあなたに忠実に歩む者に、兄弟姉妹を心から愛する者に変えてください、そして、いつもイエスにお会いするその時を待望しながら今日を生きて行くことができるように、私は大切な務めをあなたが与えてくださったことを覚えて、見張り人として人々に愛をもって、祈りをもって、このすばらしい救いを伝えて行きたい、どうぞ私を遣わしてくださいと、そのような願いをもって祈りをもってこの場を出てください。神が遣わされるところに期待をもって出てください。