05/11/20 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:恵みと平安があなたに
聖書箇所:コロサイ人への手紙 1章1−2節
今日から私たちは「コロサイ人への手紙」を学んで行きます。この手紙の著者であるパウロとコロサイの教会との関わりはエパフラスによります。エパフラスという人物はコロサイの出身でした。恐らくパウロが2年間エペソで伝道している間に彼は信仰に至ったのでしょう。パウロがエペソで2年間、みことばを語り続けたとき、その様子をみことばはこのように教えています。「アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」(使徒19:10)。アジヤ、今のトルコに当たりますが、そこにいる多くの人々はパウロの語るみことばを聞き、多くの者が信仰に入ったのです。エパフラスもそうでした。恐らく彼はエペソでみことばを聞き、イエス・キリストを信じる信仰に入った後、しばらくエペソに留まってパウロからの訓練を受けたのでしょう。その訓練の後、彼は自分の故郷であるコロサイに戻ります。そして、そのコロサイでイエス・キリストのことを宣べ伝え始めるのです。コロサイの町は現在のトルコにあります。トルコは小アジヤと言われたところですが、その一番西に位置するアジヤ州にこのコロサイの町があります。アジヤ州の州都はエペソでした。エーゲ海に面する非常にきれいな町です。そのエペソから東の方、内陸に150キロ進んだところに渓谷があり、その渓谷の周りに三つの町が点在しています。一つはラオデキヤ、もう一つはヒエラポリス、そしてコロサイです。このエパフラスはコロサイでイエス・キリストを宣べ伝えた後、ラオデキヤにもヒエラポリスにも出かけて、そこでもイエス・キリストを宣べ伝えたようです。
さて、コロサイに戻ったエパフラスが働きを始めるのですが、最初に集会をもったのはピレモンの家でした。その後にそれが教会へと発展して行くのです。コロサイの教会が誕生して約6年してからエパフラスは、当時ローマで幽閉生活を強いられていたパウロのもとへと出向いて行きます。なぜなら、教会に様々な問題が生じて来たからです。それは教会の中に異端が入り込んだからです。異端の教えを説く指導者たちが現われて、彼らが教会の中に混乱をもたらしたのです。というのは、このコロサイの町は商業的にも非常に大切な町でした。東の方からいろいろな東洋の商品が、また東洋の宗教がこの辺りを通ってローマへと向かって行ったのです。ですから、いろいろな教えがこの町に入り込んでいたのです。特に、神秘的な知識を約束する哲学であったり、また、ユダヤ的な伝統主義がコロサイ人の関心を引きました。彼らがその教えを受けたことによって、天使を崇拝する人々やある儀式を重んじる人々が生まれてきました。どのような儀式かというと、ある飲食物の禁止が生まれてきたり、祝祭日の遵守などが人々の間に入り込んできました。このエパフラスの報告を聞いたパウロは、このまちがった教えに対して正しくあるようにと、この手紙を送るのです。パウロはこのコロサイ人への手紙をテキコという人物に託しました。テキコはこの手紙をもってコロサイの教会に来るのです。そして、前回私たちが見て来たように、そのときに同行したのがオネシモでした。オネシモはピレモンのところにピレモンへの手紙を持って行きました。そして、この手紙がコロサイの教会に送られたのです。
この手紙をこれから学んで行くのですが、4章しかないこの手紙の最初の2章は教理を教えています。どのような教理かと言うとキリストについての教えです。敢えて言うならキリスト論というものを1−2章で展開します。パウロが言いたかったこと、それはキリストの卓越性、最も優れたお方であるということと、十分性とでもいう、もうイエスだけで十分、イエス以外に必要なものは存在しないということを、パウロは1−2章を通して教えるのです。たとえば、どんな時代でもイエス・キリストを信じるだけでは救われない、バプテスマを受けなければいけないという、そのような教えが出てきたりします。それは聖書の教えとは違います。イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。キリストだけで十分なのです。また、信仰生活においてもイエスの助けだけで十分なのにそれでは不十分であるかのような、そのような教えがどの時代にもなされてきました。パウロはイエスだけで十分であることを教えるのです。しっかりした信仰者、どのような間違った教えにも惑わされない信仰者になって行くことが各信仰者の責務である、では、どうすればそのような信仰者になって行くことができるのでしょう?それはもう私たちが知っているように、神のみことばをしっかり正しく学ぶこと、そして、みことばが私たちに教えてくれる教理、神についての知識をしっかり持つことが必要です。そうすることによって、私たちは様々な間違った教えに対して自らを守って行くことになるのです。
正直に言って教会で教理が教えられなくなってきました。ロイドジョーンズ博士の書いた「教会とは何か」という本を訳した方がこのように書いています。「ロイドジョーンズは教会における教理の重要性を強調しています。その理由は言うまでもありません。ここにこそ現代の教会の本質があり、同時に弱さがあることを見抜いているからです。今日の教会において教理を強調するということはほとんどなくなってしまいました。多くの教会は教理を引っ込め、その代わりに家庭的な愛の交わり、カウンセリング、癒し、聖霊の賜物、いきいきとした現代的賛美を売り物にするようになってきました。ロイドジョーンズは初代教会がそのようではなかったことを明らかにしています。」。だんだん人々が聞きたいことを語るようになってきたのです。でも、それでは私たちの信仰は強くなってきません。聞かなければいけないのは神のおことばであり、みことばが教える教理です。教理はけっして難しいものではなく、このみことばが教えてくれるイエスとはだれなのか、聖霊とはだれなのか、父なる神とはだれなのか、聖書とはどういうものなのかと、そのようなことをしっかり身に付けることが必要だということを訴えているのです。彼はこう続けます。「ロイドジョーンズが戦慄と覚えたというすべての聖徒、団体は正反対のものを生み出す傾向がある。福音派の教会でさえもはや例外ではありません。もし私たちが真剣に教会とは何かをみことばの中に求めないなら、教会はいつでも何か正反対な別物へ変身していってしまうのです。」と、言われていることはまさにその通りです。教会が間違った方向に進んでいってしまう危険は常にあります。このコロサイの教会にもそのことがあったのです。彼らはいろいろな間違った教えを取り込んでしまったため、聖書が教えていない信仰生活が始まってしまったのです。ですからパウロはこの手紙によって人々にイエス・キリストの卓越性をしっかり教えようとするのです。
そして、3−4章になると実践的に、それをどのように実生活に生かして行くのかということを教えるのです。パウロ書簡を見て行くと、パウロは常に教理を教えます。それは聖書が教える神とはどういうお方なのかということ、それが私たちの信仰の大きな土台となるからです。
○この手紙の差出人は?
さて、1節を見ると「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、」とあり、まず私たちが最初に気付くのはこの手紙の差出人が記されていることです。パウロの書簡を見るとだれがこの手紙を送っているのかということを記しています。ただ少し他の手紙と違うところがここに見られます。それは「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ」と自分のことをこのように紹介していることです。なぜこのような紹介をコロサイの人々に対してしたのでしょう?それはパウロ自身がコロサイに行ったことがなかったからです。最初にお話したように、この教会はエパフラスによって始まりました。エパフラスはパウロにエペソで出会ったのです。ですから、パウロはコロサイの教会を訪問していないのです。コロサイの人たちはパウロのことを聞いているし、パウロに対する尊敬や愛はあったのですが、実際に顔と顔を合わせて過ごしたことがなかったから、この手紙を送るときまず自分について説明をするのです。コロサイ教会の人たちはコリント教会のようにパウロの使徒職を疑っていたというのではありませんが、パウロは自分が使徒であることを明らかにするのです。ですから「キリスト・イエスの使徒」と自分のことを呼ぶのです。「使徒」とは派遣するとか任務を負わされて派遣された者、また、キリストを証するために派遣された者という意味です。パウロはこのように自分を「使徒」と呼ぶことによって、私はこれからあなたがたにメッセージを語るが、それは私が言いたいことを語るのではなく、神からのメッセージであるということをしっかり彼らに分からせたかったのです。ですから、この1節の最初のところに、自分が使徒であること、しかもこの使徒という務めに就いたのは、自分の選択ではなくて神からの選びであることを伝えようとするのです。「神のみこころによる」と。この「よる」
というのは仲介を表わします。神ご自身のご意志で任命され派遣されたということを言うのです。これらのことを見ると、活字になくてもパウロがどのような気持ちでこの手紙を書いたのかが伺えます。会ったことのない人たちに対して彼は大切なことを教えようとする、そして、この務めは神が託してくださった務めであること、これから私はあなたがたが聞かなければならないことを教えようとしているのだということを言うのです。
パウロ自身の救いの計画というのを見て行くとそのことがよく分かります。パウロが救われたときの様子は使徒の働きの中で私たちはみことばから知ることができますが、パウロがダマスコに行く途中で復活したイエス・キリストに出会うことが9章に書かれています。そして、「主よ。あなたはどなたですか。」
とパウロが尋ねたとき、イエスが「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答えられ、その後、9:6に「立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」とこのように言われてパウロはダマスコへと行くのです。そして、9:15−16には「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。:16 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」とこのように記されています。アナニヤに主が告げたことはパウロは「わたしの選びの器」だ、わたしはパウロを用いてわたしのことを異邦人、王たち、イスラエルの子孫、すなわちユダヤ人たちに告げるのだということです。もう少し進んで使徒13章を見ると、アンテオケにあった教会で人々が主を礼拝し断食していると、聖霊がこのようなことを彼らに告げるのです。13:2−3「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と。ですから、パウロ自身、神が私を救ってくださった、そして、神が私をこの働きに召してくださったと、その確信を持っていたのです。神のみこころによって私にはそのような大切な務めが与えられたのだというのです。ガラテヤ2:7−8にパウロはこのように告げています。「それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。:8 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。」と、パウロはよく分かっていたのです。ペテロはユダヤ人に対して、私パウロは異邦人に対して神は特別な務めを与えられたと。そこでコロサイ1:1で「神のみこころによって」私は使徒とされ、大切なすばらしい福音のメッセージを人々に伝えて行く者とされたのだとパウロは告げたのです。ですから、まずパウロはコロサイ教会の人たちに、私は神から任命されて使徒になったのだ、だから、私が語るメッセージをしっかり聞きなさいということを諭さなければならなかったのです。
もう一人「および兄弟テモテから」と、テモテの名が記されています。もちろん、テモテがこの手紙を書いたのではありません。パウロ自身が書いたのです。しかし、パウロにとってこのテモテの存在は大きな支えでした。テモテをとても愛しました。パウロの伝道によって救われたテモテ、みことばを見ると彼はパウロのように強靭な肉体をもっていたのではなかったようです。病弱でした。パウロは彼をいたわり、彼を心から愛していることがみことばの中に繰り返し出て来ます。ピリピ2:19−22にパウロはこのように記しています。「しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。:20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。:22 しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」、パウロが非常に愛した弟子テモテ、恐らくコロサイの人はテモテのことを知っていたのでしょう。そこでパウロは彼の名をここに加えることによって、これからのメッセージが非常に大切なものであり、彼らのことを思ってのものであることを読者たちに知らせようとしたのです。
○この手紙の宛先は?
2節に記されています。「コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。」と、パウロはコロサイにいる二つのグループに宛てて書いているのではなく、これは一つのグループです。コロサイにいるきよく、そして、忠実なキリストにある兄弟たち、つまり、パウロはここにクリスチャンの特徴を二つ挙げているのです。原語ではここは「きよく」と「忠実」という二つの形容詞が使われているのですが、ある学者は「これら形容詞は実は名詞であって兄弟たちを説明しているに過ぎない、ですから、聖徒たちと信者たちへとパウロは言っているのだ。」と言います。いずれにせよ、ここでパウロが言っているのは、本当のクリスチャンはどういう人なのかということで、その特徴を二つ挙げています。
(1) 聖徒:きよい、聖別された、特に神に奉仕するために聖別された人々のことです。ホッジという神学者は「この聖徒ということばは、キリストの血によって、また、聖霊の一新によってきよめられた人たちのことである。ゆえに、世から分離され神に対して聖別されたのである。」と言います。ここに記されているギリシャ語のことばは、神に対して分けられた、分けられた者にふさわしい生き方という意味をもっています。しかも、このことばのヘブライ語は、一般的に用いられていたものをある特別な目的や働きに、特に神のために分けるという意味があります。どちらも言わんとしていることは、神はクリスチャンを罪の中から選び救い出してくださった、世と分離したのです。それがこの分ける、聖別するという意味です。きよい者とされたのです。そして、それだけで終わったのではなく、きよい者とされた私たちは、神が選び分けてくださったその目的にふさわしく生きて行くという、新しい責任が生じているのだということを言っているのです。ですから、モールという神学者が言うように「このギリシャ語とヘブライ語のことばが教えることは、ご自分のものとしてくださった神に対するキリスト者の献身と忠誠心とに関係がある」のです。神はあなたを罪の世界から救い出してくださった、きよい者として用いるために、それなら、私たちの責任というのはきよい者として用いていただくということです。神さま、どうぞ私を用いてください、私はあなたに忠実に従って行きたいし、自分のすべてを捧げてあなたについて行きたいと、それが聖別された者のあるべき姿なのです。そのことはこのみことばが私たちに教えます。神の目的に沿って生きるために罪から選び出された私たちは、本当に神の目的に沿って生きようとしています。I ヨハネ5:3に「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」とヨハネは教えています。この「守る」は現在形で、これはクリスチャンの特徴です。失敗を繰り返すけれど神の命令に従って行きたい、それは決して重荷ではないというのです。旧約聖書の中でも詩篇40:8に「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」とあります。神の恵みによって救われた人々というのは、ある新しい特徴をもつのです。きよくされた人々、聖別された人々は、救われた喜びに留まらないで、神に従って行こう、神のみこころに従って行こう、神の命令に忠実に従い続けて行こうとする、そのような特徴をもった人々です。
(2) 忠実:二つ目は「忠実な」と記されている「忠実」ということばです。このことばを受動的に訳すと、信用できる、信頼できる、忠実です。能動的には、信じる、信じている、信仰していると訳すことができます。特に II コリント6:15でこのことばは信者と訳されています。「キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」と、この「信者」がここで使われていることばです。「忠実」と訳されていることばです。ですから、先に見たように「聖徒たち」と「信者たち」へパウロが教えようとしたと言うのはこの意味からです。また、別の神学者も「聖徒へ、すなわちキリストにあって信じている兄弟たちへとパウロは言っている」と言います。このようにパウロがここで言っている「キリストにある忠実な兄弟たちへ」の説明をするのですが、本当に救われた人というのは、創造主なる神を信じる人々であり、また同時に、その神に信頼して忠実に歩み続けている人々のことです。
ですから、この「聖徒」ということばは救われた者に神から与えられた新しい身分を指しています。そして、この「忠実」というのは救われた者であることの証拠を指しているのです。I ヨハネ2:5を見ましょう。「しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。」と、このようにみことばは明確に教えています。「みことばを守っている者なら」は現在形です。つまり、みことばを守り続けているということです。どうしてそのようになるのか、続いて「神の愛が全うされている」とあり、これは完了形です。つまり、この出来事はその人の内にもうすでに起こったことで、それが確実に起こったことはその人の日々の生活に明らかになるというのです。ですから、「神の愛が全うされている」、救われていることが明らかであり、それはその人がみことばを守ろうとしているから、それがその人の特徴だということです。同じように、I ヨハネ3:6には「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」とあり、「キリストのうちにとどまる者は」は現在形でとどまり続ける者たち、そして「罪のうちを歩みません」とこれも現在形です。つまり、本当のクリスチャンは罪のうちを歩み続けることはできないのです。「キリストを見てもいない」、「知ってもいない」と両方とも完了形です。実に明確にヨハネは私たちに教えてくれています。イエス・キリストを信じたと言いながら罪のうちを平気で歩み続けて、それに対して何の後悔もなくそれを悔い改めようとしないなら、その人は口で信仰があると言ってもその信仰はおかしいのです。神がくださった信仰はその人のうちに変化をもたらし、救われる前と同じように罪の中を歩み続けることはできないのです。これがこのみことばが私たちに教えてくれていることです。神によって救われた人は必ずその生き方に変化が生まれ、神に従って行こうとするのです。もちろん、失敗を繰り返しますが、私たちはそれを神に告白しきよめていただいて、また正しく歩んで行こうします。私たちの心の中には神の前に正しく生きて行きたい、神のみことばに従って行きたいという思いがあるのです。ですから、パウロはコロサイのクリスチャンたちに「聖徒」であり「忠実」な人、それがクリスチャンであるから、あなたたちはそういう人たちだと言ったのです。パウロははっきり救われた人の特徴を表わしています。
2節の後半にはパウロ自身の願いが記されています。「どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」と、すばらしい祈りであり願いでありメッセージです。この「恵み」というあいさつはギリシャ人がよく用いたことばであり、「平安」はユダヤ人が使ったのです。シャロームと言います。パウロはこのようなあいさつをよく使いましたが、確かに、このコロサイの町はローマ総督の管理化にあったのです。そして、ここに住んでいた人の多くはギリシャ系のフルギヤ人でした。ですからパウロは、このようにギリシャ人のあいさつもユダヤ人のあいさつも使うのです。「恵み…があなたがたの上にありますように。」とは大きな慰めのことばであり、励ましのことばです。もうご存じのように「恵み」とは私たちが受けるにふさわしくない神からのご好意です。神に敵対していた私たちを神があわれんでくださること、それ自体が私たちには理解し難いこと、奇蹟です。しかし、神はそのように決められて私たちを愛し、私たちと和解してくださり、私たちを神ご自身の子どもとしてくださる、そのように私たちは救いに至りました。神のことは何も分からなかった私たちに神が働いてくださり、大切な真理を悟らせてくださり、そして、イエス・キリストを信じあなたに従って行きますと選択をさせてくださったのです。それも神の恵みです。私たちは神の恵みによって信仰の告白ができたのです。だから、私たちは神に感謝するのです。そして、「恵み」は同時に、救われてからの信仰生活においても大きな力です。神の命令に従って行くことの力です。その力をいただきながら私たちは日々生きるのです。自分の力で神の命令に従って行くことは不可能だからです。神の恵みによって生きることは神が崇められて行くことです。パウロはその恵みが彼らの上に豊かに与えられて行くように、彼らが恵みによって成長して行くようにと望んだのです。単なるあいさつのことばではなく、この「恵み」を考えるとき、私たちクリスチャンがお互いに「どうぞ、恵みによって成長しますように」と祈りあって行けばどんなに大きな励ましになることでしょう。私たちの信仰生活に必要なのは恵みだからです。
もう一つ「平安があなたがたの上にありますように」と言います。神との平和を得た者に、すなわち、本当のクリスチャンに神はご自身の平安を約束してくださいました。神に逆らってきた私たちのその罪が赦されることによって、神との平和を持つことになりました。ローマ5:1に「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。すごい約束です。神の敵であった私たちが神と和解してこの神が私の神となり、私のお父さんとなり、親しい交わりをもつことができる、そのような関係に回復されたのです。ですから、この神の平安をいただくためには神と和解していなければなりません。すなわち、信じていなければなりません。そのようなクリスチャンたちに対してイエスが教えてくださったこと、よく皆さんのご存じのところ、ヨハネ14:27「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と、神の約束はこの世の中が与える平安とは違うと言います。どのような約束、平安でしょう?神ご自身がお持ちの平安です。そのようなものをいただいていながら私たちはどうでしょう?それを喜んでいるでしょうか?確かに、私たちが置かれている境遇は厳しい状況です。不安がいっぱいあり将来を考えるときいろいろなことで心が騒ぎます。しかし、神の約束は「恐れてはならない、心を騒がしてはならない」です。なぜなら、あなたは神ご自身の平安をもってその中で生きて行けるからです。そのように私たちは生きているでしょうか?どんなときでも、神さま感謝します、あなたが私の神であることを感謝します、どうぞ私の心をあなたの平安で満たしてくださいと。私たちが神が約束されたこの平安をもって生きて行くなら、私たちではない、神がほめられ崇められ、そして、人々の前にこの神が明らかにされて行くのです。私たちが自慢できるのはただ一人、私たちのような者を救ってくださり、私たちにこの神の平安を約束してくださった神ご自身です。その方を明らかにして行くために、私たちがこの平安をいただきながら生活して行くことが必要です。私たちはそうでしょうか?いろいろな状況で心を騒がせたり、将来を見て恐れをいだいたりと、そのようなことがあってはならないのです。パウロはだからこのコロサイの兄弟たちに対して、神の豊かな平安があるようにと願いました。父なる神からその平安が豊かに与えられて行くようにと…。このように祈られているならとてもうれしくなります。この平安が私たちにも必要だからです。特にこのような大変な世の中に今生きているから、もっとこの平安が必要です。そして、私たちはこの平安を持って今生きて行けるのです。
これがパウロがコロサイの兄弟たちに送ったあいさつです。あなたたちの上に父なる神から恵みと平安があるようにと。皆さんはどのように日々歩んでおられますか?本当にあなたは神の助けをいただきながら、神のみこころに従い続けようとしておられますか?それが私たちの生き方です。神が示してくださるそのみこころに対して従順に従って行くことです。そして感謝なことに、神はそれを為して行く力を備えてくださっています。私たちには恵みが与えられています。私たちに必要なことは、私はそのように生きて行きたいから、どうぞ私をあわれみ、私に恵みを与え続けてくださいと願うことです。そして同時に、私たちは神の平安をいただきながら生きて行くことができます。世の中の人が神以外のところでは決して見出すことのない神からの本当の平安です。それをもって私たちが生きて行くなら、このすばらしい主の証が為されて行きます。これが今、私たちに必要なことです。