主  題:信仰の人ピレモン3 愛の人
聖書箇所:ピレモン 17−25節

 ピレモンはパウロからある願いを受けました。それは、あなたのところから逃げていった奴隷オネシモを赦してあげてほしいということでした。それがパウロの願いでした。12節にもう私たちが見たように「そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。」とあります。そして、その後パウロはなぜ彼を送り返すのか、その理由をいくつか挙げてくれました。そして、17節から、もう一度パウロがこのピレモンに望んだこの願いに話が戻ります。17節「ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。」と、これがパウロがピレモンに伝えたかったことです。どうぞ、このオネシモを受け入れてやってほしいと。まさに、私たちは17節から25節を見たときに、パウロという一人の人の人柄というものをここにも見ます。どんな人物だったのか、いろいろな想像がなされます。しかし、このみことばが私たちにパウロの人柄を明確にしてくれます。すでに見たように、パウロは非常に愛に溢れた人でした。ここにもそれが現われています。パウロはここで、私はこの願いを私の愛する、私の非常に親しい親友に対して送りますと、友から友への手紙と、パウロはこのようにピレモンのことを見ていたのです。そのことがここに記されています。「あなたが私を親しい友と思うなら」と記されています。パウロはそのように見ていました。まさに信仰の友です。ここで使われていることばは「パートナー」と訳せることばです。仲間、友人、特にこのことばは共通の関心、感情、働きをもっている人の交わりなのです。だから、パウロはこのピレモンが自分と同じ関心をもっている、自分と同じように物事を見ている、感じている、そして、同じ働きをしたいと願っている、そのような人物であると知っていました。だから親友なのです。「信仰の友」と私たちは言います。確かに聞こえは良いのですが、信仰の友と言いながら私たちはどのような交わりをもっているでしょうか?パウロとピレモンの関係は神に喜ばれる関係でした。彼らは励まし合いながら、自分自身がますます神に喜ばれる者になって行こう、自分自身がもっと変えられて行こうと、そのように互いの霊的成長を目的とした集まりであり、交わりでした。もしかすると、私たちの信仰と友というその交わりは、お茶を飲んで楽しい時間を過ごせばそれでいいという、そのような交わりでないかどうかです。パウロがこのようにピレモンに私の親しい友であると言ったその背後には、パウロ自身が持っていたその願いをピレモンも共有していたこと、だから、パウロが大いに用いられたように、ピレモンも神に大いに用いられた、そのことがあったからです。パウロはここで同じ願いを持ち同じ働きを行なっている者からお願いがあると、それがこの17節でパウロが言っていることです。どうぞ彼を受け入れてほしいと。これまで私たちが見て来たように、パウロはここで恐らくピレモンにとって一番難しいかったことを要求したのです。それは、人の罪を赦すということです。しかしパウロは、この後見て行くと分かるように、必ずピレモンがその選択をし、オネシモを赦すという確信をもっています。というのは、クリスチャンというのはそのような思い、神に喜ばれることをして行きたいという願いをもった人々です。失敗をしてしまったり、言わなくてもいいことを言ってしまったり、しなくてもいいことをしてしまったり、そういうことが私たちの日常茶飯事で残念なことですが、でも、私たちの心の中には神に喜ばれることをして行きたいし、神が喜ばれることを語って行きたいし、そのように生きて行きたいという思いをもっています。だから私たちはクリスチャンなのです。キリストと繋がる者となった、まことの神を受け入れるものとなった、それが証拠に私たちの心は変えられて、今までになかった思いをもって生きる者となったのです。神に喜ばれる生き方をして行きたいと。その歩みをしていたピレモンにパウロが望んだことは当然のことです。私もそうだけれど、あなたもそのように、神のみことばに従っていってくださいと。特にこの、人を赦す、罪を赦すというのは大切なことだから、ピレモンよ、どうぞそれを実践してくださいとパウロは勧めてきたのです。それが、このピレモンへの手紙に記されていた中心的なメッセージですが、パウロはそれを親しい友から友へと個人的な手紙で送るのです。どれほどこの二人の関係がすばらしいものであったかうかがい知ることができます。
○パウロはピレモンに保証を与える
 さて、18−19節でパウロはピレモンに対してある保証をします。言い方を変えると、約束を与えるのです。どのようなことでしょう?18節「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」、パウロがした保証は、オネシモがあなたに対してしたその悪事に対する負債は私が支払いますというものです。まさにここにパウロ自身の愛を見ます。自分自身が犠牲を払ってこのオネシモを愛している、それほど私にとってオネシモは愛する存在であると、私たちはここにもパウロの愛を見るのです。パウロがオネシモのために喜んで犠牲を払うという決心をしていたこと、そこまでオネシモのことを愛していたのです。オネシモがあなたに与えた損害は私が賠償すると言うのです。18節に「請求は私にしてください」とありますが、「請求」ということばは「うちに」という前置詞と「勘定」とか「借りを払う」ということばが合成されてできたことばです。ですからそこから、罪をだれかに帰する、その罪をある人の罪とする、そういう意味として使われるのです。また、別の言い方をするなら、だれかの口座に請求するという意味です。本来ならオネシモにしなければ請求を私にしてほしい、私が代わって払うからとパウロは言うのです。パウロはそのようにオネシモのために喜んで犠牲を払うと言います。このような犠牲的な愛を考えるとき、私たちが思うのは神の愛です。私たちはそのような犠牲を伴った愛で愛されているのです。ローマ5:8に「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあります。私たちがまだ神に逆らい続けていたとき、神のご好意を受けるような資格のないとき、神が一方的に私たちのことを愛してくださったのです。しかも、その愛というのはイエス・キリストのいのちという尊い犠牲が伴ったものだとパウロは教えているのです。私たちが払い切れない罪の代価を代わりに払ってくれたというのです。エペソ2:3に「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」とあります。人間はだれでも例外なく生まれながらに神の怒りを受けるものです。なぜなら、私たちは神に逆らい続けているからです。神が喜ばれることを私たちはしないで、神が憎まれることを選択して行なってきたのです。だれ一人救われる資格はありません。神のご好意をいただくような価値のある人間はどこにもいません。人類の歴史の中で例外はありません。滅んで然るべき私たち、のろわれてしかるべき私たちを、神は愛してそののろいから永遠のさばきから救い出そうとしてくださった、ここに神の愛があるのです。しかも、その愛にはひとり子イエス・キリストのいのちという犠牲が伴ったものだというのです。ですからパウロは、ガラテヤ人への手紙3:13でこのように言います。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」、私たちは神の前にのろわれたもの、永遠の滅びに至る存在なのです。しかし、神はそんな私たちに代わって、きよい方が、罪のない方が私たちの代わりに神の前にのろわれたものとなってくださったのです。ここまで私たちは神に愛されているというのです。ですから、このパウロのオネシモに対する愛を見るとき、私たちはそこに神の愛を見るのです。あのマルチン・ルターはこんなことを言っています。「キリストが父なる神とともに私たちのために為してくださったことは、使徒パウロがピレモンとともにオネシモに為したことである」と。
皆さん、考えてみてください。なぜパウロはオネシモに対してここまで愛したのでしょう?オネシモが行なったその行為、この負債は私が払いますとそんな犠牲を彼はオネシモのために喜んで払おうとする、なぜなのでしょう?パウロのうちにいったい何が起こったのでしょう?私たちが分かっていることは、皆さんもご存じのように、神が変えたからです。今私たちが見ているこのパウロの愛はまさに神の愛です。つまり、パウロもこれまでは人間の愛で人を愛したでしょう。しかし、イエス・キリストを信じたことによって神の愛をもって人を愛せるものになったのです。そのような変化を、神は私たちイエス・キリストを信じるもののうちに為してくださるのです。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」( I ヨハネ4:19)とヨハネは言っています。つまり、神によって愛されたことが分かったときに、その愛によって人を愛することができるのです。神が変えてくださるのです。もし、私たちが自らの努力で神が愛するように人を愛しなさいと言われたなら、こんな重い負いきれないものはありません。人を赦すことは難しいことで不可能なことです。自分が好きな人ならまだしも、そうでない人の罪を赦すことは大変です。だから、残念ながら人間の間にはいがみ合いや憎しみが溢れているのです。人間関係は一番大きな問題で、それで悩んでいる人は溢れています。あの人をどうしても赦せない、この人をどうしても受け入れられないと悩むのです。皆さん、残念なことは私たちクリスチャンも同じことで悩んでいるということです。もし、そうだったら私たちはもう一度原点に戻らなければならないのです。つまり、なぜパウロがこのように神の愛をもってこのオネシモを愛せたのか、そこに戻らなければいけないのです。
ルカの福音書の中でイエスがこのように話しておられます。7:40−43「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。つまり、自分がどれほど大きな負債を赦してもらったのか、そのことが分かっていたら余計そのことを主人に感謝するのです。パウロはこんなことを言いました。「私は罪人のかしらです」と。彼は本心からそう言ったのです。つまり、パウロほど神がどのような方かを知っていた人物はいないでしょう。神を知れば知るほど、私たちが神さま、お父さまと言って神と交わることがどれほど想像を絶することかを彼は知っていました。きよい正しい神の前に私たちは立てないのです。それほど私たちの心は汚れているし罪に染まっているのです。闇は光の前に出ることはできないのです。だから彼は恐れたのです。もちろん、パウロは自分自身がしてきた行動を覚えるときに、その罪を覚えるときに、自分は神に愛される資格はないと思ったでしょう。神を愛しているクリスチャンを迫害した、そのクリスチャンが殺されることに賛成したと。しかし、パウロはこんな者に及んだ神の恵みを覚えるとき、神さま、なぜこんな者をここまで愛してくださるのですか?こんな者のためにご自分のいのちを犠牲にされるのですか?と言います。同時に、神の目に自分がどのように映っているのか、そのことも知っていました。人がどう見るかではなく、神がどう自分を見ておられるのか、それを覚えたとき、彼は心の底からこう言ったのです、「私は罪人のかしらです」と。これほど罪に汚れた者は他にはいないとそのことを知り、そんな者を神は赦してくださったことを知っていたから、彼は他の人より余計に神を愛したのです。パウロはローマ8:32でこう言います。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」と。パウロは分かっていたのです。私たちすべての人間のために神はご自分の御子、イエス・キリストを惜しまずに自ら進んで十字架で殺してくださった、私たちの身代わりとして。ここまで愛されていることが分かっていたのです。だから、パウロはその愛をもって神を愛そうとしたのです。そして、その愛は人にも及んだのです。
 神の愛を受け入れたクリスチャンは神に愛されていることをしっかり覚えなければいけません。私も兄弟姉妹も、大きな犠牲を伴った愛で愛されていると。自分がどんなに罪人であり、自分がどれほどの犠牲でもって赦されたのかということを覚えていると、私たちは完璧にすべての人を愛せなくても、少なくとも神に対して、神さま、どうぞ彼を愛することができるように、彼女を愛することができるように助けてくださいと、そのような祈りを始めるのではないでしょうか?私たちは分かっています。私たちの力ですべての人を愛することができないことを。だから、神の助けがいるのです。そのことはパウロが結論として話しています。しかし、少なくとも私たちは、自分が赦されていることが分かっているなら、愛されていることが分かっているなら、神さま、どうぞあなたが愛しておられる人を愛することができるように助けてくださいと言うはずです。
 以前に聞いたことがあります。まだイエスを信じておられない人たちが教会に来られたときのことです。彼らは言うのです。ここには愛がないですねと。どれほどそれは私たちクリスチャンにとって悲しいことでしょう。教会の中でもいろいろな分裂や分派がある、いろいろなグループがある、好きな人嫌いな人がはっきりしていて、好きな人とは交わるがそうでない人とは交わらない、もし教会がそのような場所になっているなら、私たちが言えることは、神の栄光など現われないということです。なぜなら、それは世の中の集まりと変わらないからです。人間が集まったら問題が生じることは明らかです。しかし、神はそれを一つにしてくださるのです。つまり、救われた者の特徴は、神が赦してくださったようにお互いに赦し合うのです。そのような個人として、集まりとして、神は用いようとしておられるのです。つまり、兄弟姉妹が赦し合って行く、兄弟姉妹が愛し合って行く、そのような人間には不可能なことを神が為してくださることによって、そのみわざを為しておられる神の働きが外に向かって明らかにされて行くのです。だから、私たちは変えられて行かなければいけないのです。私たちがますます神の愛に感動し、心から喜びと感謝が溢れて、その愛を人々に示すような者に変えられて行かなければいけないのです。神はそのような働きを為してくださっている、しかし、その働きを阻止しようとするなら、神は働かれないのです。私たちがあなたのみわざは完全でどんなことでもできることを知っているから、私を変えてくださいと神に願い神に委ねるとき、神は働かれみわざを為されます。そのようにして長い教会の歴史において、多くの教会はキリストの栄光を現わして来たのです。そのカギを握るのは私たちです。
 同時に、パウロの神から与えられた愛は、兄弟姉妹だけではない、そうでない人たちにも及ぶのです。パウロの気持ち、パウロがもっていたユダヤ人に対する思いというものは考えさせられます。ローマ9章に記されています。彼は心に痛みを負っていたのです。どのような痛みでしょう?ユダヤ人たちがこのすばらしい救い主を受け入れていないという現実に対して、彼の心は痛んでいたのです。9:2「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」と、そして3節ではこのように言っています。
「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と、パウロは自分の罪は赦されて神ののろいから解放されて、神の祝福をいただく者へと変えられた、しかし、私は再びのろいのもとに入っても構わない、地獄に行っても構わない、もしその代わりに私の愛するユダヤ人が救われるならばと、そのような愛をもってパウロは同国人を愛したのです。これが彼の心からの叫びだったのです。皆さんどうでしょう?私たちはこの日本に神によって生まれさせられ、この国の国籍をもっています。この国が世界で一番クリスチャンが少ないと聞いたとき、あなたの心はどのように感じるでしょう?パウロは自分が滅びてもいいから私の愛する人を救ってくださいと願いました。あなたはそのような思いをもって、まだこの救いを受け入れていない人に接しておられますか?そのような思いをもって今日生きていますか?感謝なことに、家族の救いのために祈ってほしいと表示してくださる方々がいます。祈りを共有できることはすばらしいことです。パウロもそのようにしているのです。私たちは愛する者の救いのために祈り、語り、いっしょに主の前にとりなすことができます。一人でも多くの方がイエスのことを知ってこの救いを受けていただくために私たちは働きます。神が私を愛してくださったから、その愛が私たちを押し出してくれるのです。
 パウロはそのように人々を愛し、人々にキリストの福音を語り続けたのです。では、私たちが今自分に問いかけなければいけないことは、私はこの神の恵みに感謝しているかどうか、キリストの犠牲によって救われたことを神に心から感謝しているかどうかです。大きな犠牲のもとに今の私はいるのです。永遠を感謝し天国に行けることを喜んでいる、しかし、それは私の行なった功績ではなくて神が為してくださったみわざであり、救いの恵みのみわざゆえです。そのことを感謝しそのために生きているかどうかです。私たちはこのすばらしい主を伝えるために今日を神から与えられています。神が今日あなたにこの日をくださったのです。このすばらしい救いをまだ知らない人に語るためです。神さま、何かさせてくださいと求めて、神が示してくださることを実践することができます。何かを始めることです。何も始めなければ何も起こらないのです。パウロはユダヤ人に対して、実はあの旧約聖書のモーセもそうでした、イスラエルの民を愛するゆえに同じことを言っています、自分が滅んでも構わない、私の愛する同胞の罪を赦してくださいと。神の愛、それがパウロのうちで働き、兄弟姉妹を心から愛する愛となったのです。
 そして、パウロは19節で「この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。」と言います。この手紙を自筆で書いている、私の保証つきです、私の約束つきです、私が言ったこの約束を守りますと、こんなことを彼は言うのです。そして、その後で「あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。」と、親しい間柄だからこのように言ったのかもしれません。ピレモンに思い出させるのです。どんな祝福を得たのかということを。もうすでに見て来たように、ピレモンが信仰に導かれたのはパウロの働きゆえでした。もちろん、救ってくださった神に感謝するのですが、同時に、私たちは福音のメッセージを語ってくれた人々にも感謝することです。だれかが喜んで自主的にそのような働きをしようとしたからです。私たちは恵みに感謝するべきです。そして、パウロはピレモンに言います。すばらしい霊的祝福は救いをいただいたこと、しかし、それだけではない、こうしてオネシモがあなたのところに帰ってきたではありませんか、そんな祝福も神はくださっているでしょうと。前にも見たように、この当時、奴隷を買うためには高額なお金を払わなければならなかったから、ピレモンはお金を払ってこの奴隷を買ったのです。その奴隷が盗みを働いて逃げて行った、非常な損害をもたらした、しかし、その奴隷が戻ってきたのです。それだけでも感謝ですが、もっと感謝するべきことはこの奴隷が救われて自分の兄弟となって帰ってきた、こんなにすごい祝福をあなたは神からいただいた、そのことを忘れてはいけないとパウロはピレモンに伝えるのです。神の恵みを覚えるようにと言います。
 そして、20節にはパウロの期待が出て来ます。パウロは手紙を書きながらピレモンがオネシモを赦して受け入れてくれることを願っていました。そのことを強く期待していたと20節にあります。「そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください。」、パウロはここで喜びを得たいと言っているのです。心が喜びで満たされることを彼は期待したのです。どこからその喜びは来るのでしょう?みことばは教えます。「あなたから益を受けたい」と、ピレモンから私は喜びを受けたいと言うのです。これは日本語の訳を見ても意味は明確です。この喜びをもたらす、益をもたらす源というのは、ピレモンです。ピレモンの行為、ピレモンが何をするか、それが自分に喜びをもたらすと言うのです。しかも、同時にこれは文法的に見てもその通り、喜びの源がピレモンであることを教えています。もしも、ピレモンがみことばが教えることを実践して、神が赦してくださったように、兄弟姉妹を心から赦すことを行なうなら、それを聞いたパウロは益を受ける、大きな喜びをいただくということを言っているのです。
 パウロはそのことを強く確信していました。21節「私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。」、パウロはピレモンが必ずオネシモを赦すということを知っていました。ピレモンは神のみこころに対して、みことばに対して従順に従うことを望んでいた、それを知っていたパウロは疑うことがなかったのです。いやいやではなく心からこのオネシモのことを赦す、何が神の前に正しいのかを考えてそれを実践してくれるとパウロは確信していたのです。お互いの間に信頼と非常に親しい関係があったことを私たちは見て取ることができます。
 そして、22節を見るとパウロのもう一つの確信が出て来ます。「それにまた、私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところに行けることと思っています。」と、パウロは自分もこのピレモンのところに行けると思っています。コロサイの町です。だから、宿の用意を依頼したのです。この「用意もしておいてください」というのは現在形なのです。つまり、いつそれが起こるか分からないけれど、今すぐ起こるかもしれないと、そのような思いをもってこの手紙を記しているのです。また、「あなたがたの祈りによって」とあります。パウロは祈ってもらっていたのです。しかも、「あなたがた」と複数で書いているのは、ピレモンと妻のアピヤ、息子のアルキポ、そして教会にいるすべての人々が、どうぞ私のために祈り続けてくださいと彼らの祈りをパウロは期待しています。そして、「行けることと思っています。」とこのことばも「恵み」ということばから来ています。つまり、このような訪問は神から恩恵としていただくこと、神から賜るものである、神があなたがたの祈りに対して、あわれみをもってそれを聞き入れてくださる、そして、私にそのようなすばらしい贈り物、訪問するという恵みを与えてくださると言うのです。そのことを彼は期待しているのです。これがパウロのピレモンに送った手紙でした。
 そして、最後23−25節を見たとき、結びのことばがあります。6名の人物の名前が挙がっています。この6名ともピレモンは良く知っていた人物、コロサイの教会にとってよく知られていた人物です。
「キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。」
と、エパフラスとピレモンは親交があったのです。エパフラスはどんな人だったでしょう?コロサイ人への手紙の中にそのヒントが出てくるのですが、1:7に「これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。」とあるように、コロサイの人たちは何かをエパフラスから学んだのです。何を学んだのでしょう?実はこのみことばの前、1:5−6を見てみると福音の話がされています。つまり、このエパフラスがコロサイの人たちに福音を語ったのです。救いのメッセージを宣べ伝えたのです。言い方を変えると、コロサイの教会を開拓した人物でした。もしかすると彼は牧師だったかもしれません。コロサイ4:12には「あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。」とこのように記されています。ですから、エパフラスはコロサイの人たちのためによく祈っていたのです。コロサイのクリスチャンたちが成長するように、信仰において成長するようにと祈っていたのです。次の13節を見ると「私はあかしします。彼はあなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。」
と彼は「ラオデキヤとヒエラポリス」においても働きを為していたのです。コロサイだけでなくその近隣の町々にも出かけて行って福音を宣べ伝えたのです。そして、23節に「キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっている」と書かれているように、もしかすると彼もパウロといっしょに捕らえられていたのかもしれません。
 24節には「私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。」
とあります。マルコはマルコの福音書を書いた人です。かつてパウロが宣教に行こうとしたときに、行動をともにしていたバルナバが、自分のいとこであるこのマルコを連れて行こうとします。使徒15:36−39「幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」:37 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。:38 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。:39 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。」、激しい反目とあります。しかし、後にパウロはこう言っています。「マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」( II テモテ4:11)と、マルコは成長したのです。そして、アリスタルコという人物については使徒の働きに出て来ます。使徒27:2「……テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した。」、使徒19:29「そして、町中が大騒ぎになり、人々はパウロの同行者であるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕え、一団となって劇場へなだれ込んだ。」コロサイ4:10「私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。」
彼はテサロニケというギリシャの町の出身でパウロとともにローマへと向かって行ったのです。そして、パウロとともに投獄されていた一人の人物です。4人目はデマスです。パウロはコロサイ4:14で 「愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。」と書いています。このピレモンの手紙がコロサイの手紙と同時に送られたときに、デマスはまだパウロにとって喜ばれる、パウロが愛するすばらしい兄弟でした。ところが、パウロの第2回投獄の際、デマスがこの世を愛して離れていったことをパウロが悲しんでいる様子が、II テモテ4:10に記されています。「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、」とあります。そして、最後にルカです。パウロの愛する医者です。異邦人であってユダヤ人ではありませんでしたが、異邦人でイエスを信じた人物です。II テモテ4:11を見ると「ルカだけは私とともにおります。」とあります。ですから、このルカはパウロとかなり行動をともにしたのでしょう。ルカの福音書を書いたルカです。彼は医者だったから、恐らくパウロの健康面をいろいろ配慮したのでしょう。
 このようにピレモンがよく知る兄弟たちからのあいさつをパウロはピレモンに送ったのです。
 そして最後に、25節「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。」と、この祝祷をもってこの手紙は終わるのです。パウロは最後に何を言ったのでしょう?この「恵み」はすべてのクリスチャンに与えられたものです。イエスを信じたときに神が私たちにくださったものです。そして、私たちクリスチャンはこの恵みで生きるのです。どういうことでしょう?神が私たちにみことばを通して教えてくださることを、実践して行くことのできる力です。みことばが私たちに教えることは、私たちにとって不可能なことではありません。それは実行可能なのです。そのために神が備えてくれたのが「神の恵み」なのです。ですから、私たちはみことばを見るとき、どの方向に進んで行ったらよいのかを教えられます。そして、私たちは実践するために、神さま、どうぞ私をあなたの恵みでもって助けてください、あなたが望んでおられること、あなたのみこころを行なって行けるように助けてくださいと、そのように生きること、それを「恵みによって生きる」と言います。パウロが最後にこのことを言ったのは、それはパウロがもうピレモンという人物を知って、ピレモンが間違いなくオネシモを赦すことを知っていました。同時に、人を赦すということは難しいことゆえに、神の恵みによってあなたがこのみこころを実践できるように私は祈っていると言うのです。ピレモンよ、難しいことは分かっているけれど、神の恵みによってそれは可能だ、だから、私はこの恵みがあなたがたの霊とともに、つまり、あなたがたのうちを、あなたがたの心を、あなたがたの信仰を強めてくださるように祈っていますと、こうしてこの手紙は終わるのです。私たちも人間には不可能なことを神の助けによって為すことができるのです。私たちもこの恵みにおいて成長することが必要なのです。感謝なことに恵みはもう与えられているのです。大切なことは、主よ、このように私は生きて行きたい、助けてくださいと主の恵みをいただきながら生きることです。
 兄弟姉妹と愛し合うこと、赦し合うこと、それは必要なのです。なぜなら、それを私たちが神の恵みによって実践するときに、それを可能にしてくださっている神のみ栄えが現わされて行くからです。どうぞ、兄弟姉妹を愛する者になってください。兄弟姉妹を赦す者になってください。そして、キリストのすばらしい栄光が現わされることを期待しながら歩んで行きましょう。