主  題:信仰の人ピレモン2、人を許せる人
聖書箇所:ピレモン 8−16節

 獄中で生んだわが子オネシモのことをあなたにお願いしたい、あなたのところから逃げ出した、しかも盗みを働いた奴隷オネシモを赦してあげてほしい、これがパウロがピレモンに望んだことでした。また同時に、パウロはピレモンに彼を兄弟として受け入れて、ともに働くことも望んでいます。このパウロからの願いをピレモンはどのように受け取ったのでしょう?というのは、人を赦すというのは非常に難しいことです。特に人の罪を赦すというのは大変難しいことです。同時に私たちは、それが神のみこころであることを知っています。しかし、なかなかできることではありません。どうすればいいのでしょう?感謝なことにみことばはそのようなことにも答えを与えてくれています。
☆私たちが人にした悪に対して罪に対して、彼らを赦すことができる者になって行くために必要なこと(1)私たち一人ひとりが神の赦しを覚えることです。そこからすべてが始まります。自分が赦されたということを覚えなければいけないのです。パウロはエペソ人への手紙の中でこのように言います。4:32「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と。だから、私がまず神によって赦されたということを覚えることです。もちろん、このことはパウロはコロサイ3:13でも教えています。前回話したとおり、パウロはピレモンのところに、このピレモンへの手紙とコロサイ人への手紙を託しました。というのは、ピレモンはコロサイの町にいたからです。そのコロサイ3:13でこのように言います。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」と。確かに私たちにとって難しい行為、人の罪を赦すということですが、それは決して不可能なことではありません。まず、自分が赦されたことを覚えることです。2番目は、
(2)神の助けをいただかなければならないということです。これはすべてに共通することです。人を愛することは難しいことゆえ、私たちの力でしようとしてもかなわないことはもう私たちが経験してきていることです。しかし、感謝なことはそれが不可能ではなく、神の助けによってできるということです。人の罪を赦し、人を心から愛した人、すべての点で完璧だった人、それは当然イエス・キリストです。イエスはすべての人を神の愛で愛し彼らの罪を赦して来られました。そして、イエス・キリストを信じた者に神は私たちをキリストに似た者に変えようとされます。これは聖霊なる神の働きであると II コリント3:18にあります。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」と、このような働きを神は私たちのうちに為してくださっているのです。ですから、私たちは変えられて行くほどにイエスが愛したように、完璧ではありませんが、人を愛する者に、人を赦すことができる者になるのです。私たちは神の助けを求め、神の助けによって神のみこころを実践することができるのです。パウロがピリピ4:13で「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」というように、神の助けによって神のみこころを行なうことができるのです。
 同時に、人を赦すというのは救われている人の特徴です。マタイ18章でイエスはこんな話をされました。1万タラントの借金のあったしもべが、主人にどうぞご猶予くださいと願います。主人はかわいそうに思って赦してやります。到底返すことのできない借金を主人は帳消しにしてくれたのです。しかし、このしもべは赦されたあと自分が100デナリを貸していた同じしもべ仲間に出会って、彼に借金を返せと言います。仲間がもう少し待ってください、ご猶予ください、必ず返すからと頼みますが、この赦されたしもべはその仲間を赦すことができなかったのです。借金の全部を返すまで彼を牢に投げ入れたのです。しもべの主人はこのことを聞いて「:32 『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。 :33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』と言い、そして、「:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」とイエスは非常に厳しいことを話されました。マタイ18:23−35のみことばです。ここでイエスは私たちが人の罪を赦すなら、その見返りに罪の赦し、救いを与えてくださると、そのようなことを言われたのではありません。それなら、行ないによって罪が赦されることになります。しかし、心から人を赦そうとするのは、その人が赦されているからです。つまり、救われている人は完全でないにしても人を赦そうとするのです。パウロがここでピレモンに願ったことというのは、ピレモン自身がよく分かっていたことです。罪の赦しがどれほどクリスチャンにとって必要なのか、兄弟姉妹が互いに赦し合って行くことがどれほど大切なことであるかを。そして、パウロは今ここでピレモンに対してそれを実践するようにと勧めるのです。パウロの直筆の手紙はテキコに託され、その手紙を今ピレモンは読んでいるのです。その状況を想像して見てください。そこにテキコが立っている、その横か後ろに盗みを働いて自分のところから逃げていったオネシモがいるのです。ピレモンはこのオネシモを見たとき、いろいろなことを考えたかもしれません。よくここへ戻って来たなと怒りをもって見たかもしれません。前回、お話したように主人は奴隷を捕まえて殺すこともできたのです。そのようにしようと思ったかもしれません。パウロはそのピレモンに対して、オネシモを赦してやってほしいと懇願するのです。
 さて今、8節のところからみことばを見て行くのですが、そこにはパウロがどのようにピレモンにオネシモのことをお願いしているか、その方法を見て行くことができます。そこから、パウロという人がどのような人物であったのかを見ることができます。8節に「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、」とあります。パウロは自分が神からどのような務めをいただいているのかをよく知っていました。パウロは使徒でした。そのような大切な責任を負っている人が、その権威をもってこのようにしなさいとピレモンに命じることもできたのです。「キリストにあって少しもはばからず命じることができる」とある通りです。神から選ばれた特別な使徒です。しかし、彼はそのようにしませんでした。その後に「こういうわけですから、:9 むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。」とあるように、彼は愛によってこれをするのです。8節の最後にある「こういうわけですから」ということばは原語では最初に出て来ます。というのは、これは前のことばに係っているからです。それはピレモン自身の行ないによってパウロが大きな慰めと励ましを受けたということです。そして、そのことはパウロだけでなく、他の兄弟姉妹もそうでした。それほどすばらしい影響を与えるピレモンだったから、パウロはピレモンに対して愛をもって接しているのです。そして、パウロが期待したことはピレモンが他の兄弟姉妹たちを励まし慰めたように、オネシモにもそのようにしてほしいということでした。
(3)そして三つ目にこの願いを彼は個人的にしています。9節の後半「年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、」と、パウロは自身のことをこのように記しています。ピレモンはそのことを知っていました。パウロは自分のことを「年老いて」と言っています。この時パウロは60歳くらいであったろうと言われています。今の60歳とは違います。その当時の60歳は確かに年老いているといっても可笑しくなかったのです。恐らくピレモンも同じような年齢だったのです。なぜなら、アルキポがピレモンの息子であるとするなら、彼は教会で牧師か宣教師をしていたのですから、もう成長した子どもがいたからです。では、なぜここでパウロは同じような年齢のピレモンに「年老いて」と言うのでしょう?パウロが言いたかったことは、実年齢よりも肉体的な年齢、つまり、多くの苦労をしてきたパウロは見かけよりも老けていたようです。IIコリント11:23からパウロが受けた苦しみ迫害の数々が記されています。「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」」とこのようにパウロのからだは恐らく傷だらけだったでしょう。他のだれもが経験したことのないような苦痛を彼は経験してきたのです。今の時代でも様々な苦労によって人は老けると言います。実際の年よりも老いて見えるのです。パウロも人々が見たとき、そのようだったのでしょう。そして更にこう言います。「今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが」と、パウロはここで自分のことをよく知っているピレモンに対して、私はイエスを信じてから神に忠実に生きようとしてきたが、今私は獄中にある、しかし、そのことを後悔していないし逆に感謝し喜んでいると言います。このようなことをもってパウロはこの私があなたにお願いしたいと懇願するのです。この手紙を受け取ったピレモンはどう思ったでしょう?ただでさえパウロからのお願いであればピレモンは聞こうとするのですが、神に忠実に歩んできたパウロが特別にお願いしたいと言うなら、聞かないわけにはいかないでしょう。このように決して権威によってではなく、パウロは心を込めてオネシモのことをお願いするのです。ピレモンだけでなくオネシモのことも愛しているパウロの優しさ、繊細さがうかがえます。
☆なぜパウロはオネシモのことをピレモンに懇願したのでしょう?
その理由が10−14節に出て来ます。五つの理由がここに記されています。
(1)オネシモはクリスチャンになったから。「獄中で生んだわが子オネシモのことを」と、パウロ自身が伝道し獄中にあっても途絶えることなく福音は広がっていって、オネシモの心を捉えたのです。救われたのです。だから、彼を受け入れて彼とともに働いてほしいと願うのです。
(2)オネシモはクリスチャンとして成長しているから。11節に「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。」とあります。オネシモはパウロの信頼を得ていました。かつてオネシモはピレモンにとって役に立つ人物ではありませんでした。無益な使い物にならない存在だったのです。しかし、今は違う、主人にとって役に立つ有益な存在であると言います。パウロはここでしゃれを言っています。そんなところからもパウロの人柄を見るのですが、このオネシモという名前は「役に立つ者」という意味なのです。ですから、ここでパウロはあのオネシモが今はパウロにとっても、ピレモンにとっても役に立つ者になったと言うのです。それは彼がイエスを信じ、信仰にあって成長したからです。このオネシモがどれほどの信仰歴があったのか、詳しいことは分かりませんが、信仰をもってからそんなに長くなかった、しかし、はっきりしていることは信仰年数がどれだけであっても、彼は成長していたのです。だから、この大切な使徒にとって役に立つものになったのです。パウロは彼を傍に置いておきたかったのです。あなたはどうでしょう?神にとって役に立つ存在でしょうか?教会にとって役に立つものでしょうか?もしあなたが神を愛し、神に忠実に生きて、神にあって成長しているなら、あなたはそのような存在であるはずです。このことは私たち一人ひとりが自らに問いかけて見なければいけないことです。信仰歴を重ねていながら、まだ幼子であり考えも未熟であり、信仰も弱く神の役に立たないような、そんなものであるのかどうかです。それは私ですと、もし言われる方がおられるなら、その方は次の質問をしなければいけません。そのままでいいのですか?そのままの状態でこれからも歩み続けて行くのですか?それとも、今その自らの怠惰を悔い改めて、神さま、私はもっとあなたのみことばを愛して、みことばに従って、あなたの役に立つものになりたいと決心するかです。そのような人が起こされることを私たちは期待するのです。そのような人物に自分もなって行きたいし、皆さんもそうあって、私たちがいっしょになって、この神が喜ばれる信仰者として、群れとしてキリストの栄光を現わして行くことです。神はあなたに問いかけておられるのです。あなたがどうするのかです。
(3)オネシモは神の前に正しいことをしようとしていたから。つまり、彼は本当に悔い改めていたのです。パウロはそれをしっかりと見たのです。12節「そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。」と言っています。パウロがたとえそのことを望んでもオネシモがそれを嫌がったらどうでしょう?オネシモはまたそこから逃げ出してしまうかもしれません。その前歴があるのです。しかし、この手紙をパウロがピレモンに記して送ったときに、オネシモはそこにいたのです。つまり、オネシモ自身もそのことを望んだのです。オネシモはこの主人のところにまず戻って、自分の罪の清算をしなければいけないと、それをしっかり知っていました。自分の罪を正しく処理しよう、私は主人のところに帰って主人と和解しましょうと、オネシモはそのようにしたのです。これこそ本当の悔い改めです。私たちはだれかに罪を犯したなら、その人のところに行って赦しを求めることが必要なのです。神に赦しを請うだけでは不十分なのです。イエスは山上の説教の中で、マタイ5章ですが、いけにえをささげに行こうとしている人の話をしています。5:23−24に「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」と記されています。
なぜイエスはこんな話をされたのでしょう?それはユダヤ人の一番大きな祭りである贖罪の日のこと、つまり、自分たちの罪が赦されるその日です。人々はいけにえを連れてきます。そのいけにえを祭司の前に連れて行って、自分のすべての罪をそのいけにえの上に乗せるのです。そして、自分の身代わりにそのいけにえを殺してもらうのです。それによって罪の赦しを得るのです。イエスはその光景を見ておられたのでしょう。そして、そこで見たのは、そのような形だけの行為を行なっている人々です。つまり、心が全然伴っていないのです。イエスがいつも教えておられたことは、行為よりも心が問題だということです。どんな働きをするかよりも、どんな思いをもってその働きをしているかの方が大切だと。イエスが言われたことは、神と和解する前にもし兄弟姉妹との間に何かの問題があるなら、清算しなければならない罪があるなら、和解しなければならないことがあるなら、まずそれをしてから神と和解しなさいということです。解決していない兄弟姉妹との関係やわだかまり、憤りをもっているなら、それをまず解決しなければならないと、なぜなら、それは罪だからです。その罪を横において神に向かうことはできないのです。しかし、自分は何もしていないのに人が自分のことを悪く思ったり、憎んだり、怒りをもったりということが現実にあります。私たちはそのような中にあっても、その人と和解できるように最大の努力をするのです。愛を示すことです。解決のために最大の努力をすることは私たちに課せられていることです。その結果、その人は怒りを納めないかもしれない、そうすると私たちはもう神に委ねなければならないのです。オネシモは正しいことをしようとしました。
(4)オネシモはパウロにとって愛する者となっています。この12節に「彼は私の心そのものです。」
とあります。心ということばは前回も見たように、7節、20節に出てきますがこれは内臓のことです。感情が内側から出てくるのです。つまり、パウロはこのオネシモは私と同じ心、同じ気持ちを共有していると言っているのです。パウロが愛することを愛し、パウロが憎むことを憎み、パウロと同じ考えをもち、同じ思いをもち、同じ願いをもって歩んでいる、そのような人物だと。だから、彼はオネシモを愛したのです。そして、その愛する者を今あなたのところに送るから受け入れてほしいというのです。
(5)オネシモの奉仕に関してピレモンの承諾を得るため。13−14節「私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、14: あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。」、こんなことをパウロは言いました。ここにもパウロのピレモンに対する優しい思いやりというものを見ることができます。13節に「あなたに代わって私のために仕えてもらいたい」
とあります。パウロはよくピレモンの心というものを知っていたのです。パウロはピレモンがコロサイの町からローマにやって来て、軟禁されているパウロに仕えたいという思いをもっていることを知っていました。でも、それはかなわなかった、そこで、パウロは言うのです。ピレモン、あなたのやりたいことをあなたに代わってあなたのしもべがしてくれていると、そうしてピレモンへの感謝を現わすのです。14節を見ると「あなたがしてくれる親切は」とありますが、ピレモンはパウロに対していろいろな機会を用いて親切にしたのでしょう。しかし、パウロが一つ分かっていたことは、このオネシモをパウロのもとに送って彼のもとで彼に仕えさせるというこの現実、今起こっていることはピレモンがしたことではなかった、ピレモンがオネシモを送ったのではなかったということです。主人であるピレモンの承諾を得ていないことです。この親切な行為をいただくためにも、まずは主人であるピレモンの承諾を得なければいけないと。なぜなら、親切というのは強制されてするものではなく、その人が自主的にするものだからです。だから、パウロはまずオネシモをあなたのところに送ります、そして、あなたがこれまでにずっと親切だったように、これからも親切であり続けてください、そして、このオネシモに関してもどうぞあなたの考え、意志に基づいて最善と思うことをしてくださいと、そのように言い、パウロはオネシモを送り返したのです。私たちは何となくパウロというと非常に頑固で強情な人と思ってしまうのですが、非常に優しい面をもって思いやりに満ちた人です。このような配慮をもってピレモンへ手紙を送っているのです。パウロが霊的な人物であったことは私たちはよく知っています。というのは、彼自身のことばを見ても、彼自身の選択を通してもそのことを知ることができます。このように言います。
「彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えました」と、つまり、パウロは自分の願いを言うなら、オネシモを自分のところに置いておきたかった、いてもらいたかった、でも、パウロは自分の願いではなくて、何が神の前に最善かを考えて、それを実践する勇気をもっていたのです。知恵があったのです。霊的におとなである人は、どのような状況にあっても、何が神の前に正しくて、何が神に喜ばれることかを考えて、それを選択してそれを行なえる人たちです。それが神が私たちに望んでおられることです。
 パウロはこれら五つのことをもって、だからこのオネシモを受け入れてほしいと願ったのです。15−16節にはその懇願の内容が書かれています。パウロのとりなしです。
☆パウロの懇願の内容
「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。:16 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。」と、このようなことをパウロは願ったのです。パウロがピレモンに望んだことは、オネシモを赦すだけでなく、愛する兄弟として彼とともに働いてくださいということでした。というのは彼は言います、もうあなたたちは新しい関係になったんだと。16節に「もはや奴隷としてではなく」とあります。パウロはここでピレモンにオネシモを奴隷から解放してあげなさい、もう奴隷ではなくなったのだと、そのようなことをここで教えているのではありません。というのは、このみことばを見たとき「奴隷としてではなく、奴隷以上の者」とあり、そのように接するようにと言うのです。確かに、身分は奴隷かもしれないけれど、彼はイエス・キリストを信じ、イエス・キリストを愛し、イエスに愛されているあなたの兄弟だから、そのように扱いなさいと。なぜなら、ここに神の摂理のことをパウロは教えるのです。「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。」と、「しばらくの間」と「永久に」というこの時間を対比しています。しかも、この「離された」ということばは受身なのです。パウロは面白いことばをここで使っているのです。確かに、自分で選択をして出て行ったのはオネシモでした。でも、あえてパウロはそれも神のうちにあると言うのです。というのは、オネシモはピレモンのところから逃げて行って、その結果、彼は救いを得、パウロにとって役に立つ者になったからです。ですから、パウロはこの一連の出来事のすべてを見たときに、神が働いておられる、神のわざがそこにあると、そのように言うのです。もちろん、私たちはすべての出来事に対して、どのような計画があるのかを考える必要はありません。分からないから…。パウロも分かりません。だから15節でこう言うのです、「たぶん」と。そう思えるけれど、そうでないかも知れない、なぜなら、私たち人間はだれがいったい神のすべての計画を知ることができるでしょう?だれもできません。しかし、パウロは考えるほどそう思えてならなかったのです。
 さて、もう一つ付け加えておきたいことは、オネシモは罪を犯して主人から逃げて行った、そのような罪の行為を神がさせたというのではないのです。あくまで、私たちがどのような選択をするか、私たちの責任でそれをしているのです。だから、責任は自分にあるのです。誰かのせいにしたいのが私たちです。こんな罪を犯したのはだれだれが何かをしたからと、人のせいにしたいのですが、それは私の責任です。しかし、すごいことは私たちの失敗も私たちの罪も、神はそれを使ってすばらしい祝福に変えることができるということです。それほどあわれみ深い神なのです。そのことを私たちはここで同時に覚えておかなければいけません。
 さて、神の摂理を話すだけでなく新しい関係が始まったと言います。16節「私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。」、パウロにとってはこのオネシモが救われたことによって兄弟としての付き合いが始まりました。これはすばらしい喜ばしいことです。でもパウロは言います。私にとってもすばらしいけれど、あなたにとってはもっとそうでしょうと。なぜかというと、ローマに来る前、オネシモはコロサイに居たのです。ピレモンのところに居たのです。お互いよく知っているのです。その良く知っている人物が今救われて神にとって役に立つ者になって、パウロにとって役に立つ者になって、ピレモンにとっても役に立つ者になって帰って来ている、だから、あなたにとってその喜びはひとしおでしょうと、そのようにパウロは話すのです。だから、このオネシモを赦してやってほしい、オネシモとともに働いてほしいと願うのです。この願いというのは、今の私たちにはさほど大きな願いであると思いません。しかし、この当時、奴隷制度が存在していた時代に、主人にあなたの奴隷を兄弟として扱いなさいということは大変なことでした。蔑まれていた奴隷をあなたの愛する兄弟として扱うようにと、大変なことをパウロはピレモンにお願いしたのです。でも、これが神の救いがなせるわざです。パウロは言います。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)と、神の前には人種も性別も関係ありません。しかし、このことがユダヤ人には分からなかったのです。自分たちは特別だと思っていた、しかし、イエス・キリストはその垣根を打ち壊してユダヤ人も異邦人も主にあって一つになると、これが救いです。ですから、私たち救われた者は国籍、人種、身分、地位がどうであるかなどは関係ないのです。私たちは皆神の家族に属する者になったのです。私たちは愛する兄弟姉妹となったのです。救われる前は違ったかもしれない、もしかすると、私たちの国は、国の人々は違う扱いをするかもしれない、しかし、私たちクリスチャンはその人がどんな人であっても、その人がイエス・キリストを信じ受け入れているなら私たちの家族の一員だと、そのように接しなさい、そのように扱いなさいと言うのです。
そして同時に、あなたに対してだれかが罪を犯す場合、赦してあげなさい、和解してともに働いて行きなさいと、まさに、パウロがピレモンにオネシモのことをお願いしたことです。これは私たちにとっても大切なメッセージです。平等に分け隔てなく愛する家族の一員としてすべての人を扱っているかどうか、人の犯した罪に対して赦さないという間違った思いをもって歩んでいないかどうか、そのようなことは止めて、愛する兄弟として、姉妹として、ともに主を崇めて行きなさいと、それが神の望んでおられることです。このことをパウロはピレモンに願いました。ピレモンは間違いなくこのパウロの願いに対して、心を開いてオネシモを受け入れたでしょう。私たちに必要なことは同じことです。主よ、あなたが教えてくださったように私は歩んで行きたい、どうぞ私を助けてくださいと決心をもって新しい歩みを始めてください。