主  題:信仰の人ピレモン1、人に祝福をもたらす人
聖書箇所:ピレモンへの手紙 1−7節

 パウロは彼が愛する者に信仰の実践を行ないなさいと勧めを与えました。それが私たちがこれから学ぼうとしているピレモンへの手紙です。パウロはコロサイの町から逃げてきた一人の奴隷に出会いました。伝道の結果、この奴隷は主イエスを信じ受け入れました。そして、彼はパウロにとってとても役に立つ働き人となりました。パウロは彼を自分の許に置いてともに伝道することもできたのですが、パウロは彼をその逃亡してきた主人の許に送り返して、まずその主人との関係を修復するようにと彼に勧めるのです。この当時、逃亡した奴隷が主人の許に戻ることは容易なことではありませんでした。というのは、その当時の奴隷は人間としての扱いを受けていませんでした。主人は奴隷を自分の道具のひとつとして扱っていたのです。主人は奴隷に対して絶対的な権力をもち、生殺与奪、生かすのも殺すもの自分の思いのままでした。その当時、ローマ帝国には6000万人の奴隷がいたと言われています。奴隷は主人に反対するなら殺されました。また、逃亡した場合は一番良くても、逃亡者という名前の頭文字であるFという文字を額に焼印を焼き付けられます。最悪の場合は十字架にかけられて殺されたのです。パウロはこういうことをよく知っていました。ですから、彼がこの一人の奴隷を主人のところに送り返すことには、大きな危険が伴っていたこと承知していました。そこでパウロはこの奴隷とともにテキコという愛する弟子をコロサイの町へと送ったのです。そして、この奴隷はテキコとともに「コロサイ人への手紙」と今私たちが見ようとしているこの「ピレモンへの手紙」を持ってコロサイの町へ戻って行きます。そして、主人にその手紙を渡すのです。彼の主人はピレモン、彼の名前はオネシモです。コロサイ4:7−9にその様子が記されています。「私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。:8 私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。:9 また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。」と、このようにパウロはオネシモだけでなくテキコを彼とともにコロサイの町へと送ったのです。
この手紙は「ピレモンへの手紙」と記されています。ピレモンというオネシモの主人に対してこの手紙は記されたのです。まず、1−3節を見るとパウロのあいさつが書かれています。私たちの手紙と同じであいさつから手紙は始まります。だれがこの手紙を送ったのか、差出人があり、この手紙を受け取る受取人の宛名がここには記されています。見て行きましょう。1節「キリスト・イエスの囚人であるパウロ」ということばで始まります。パウロはなぜこのように自分のことを記したのでしょう?パウロは自分が使徒であることを記さないで、囚人であると言っています。というのは、これはピレモンという自分の愛する弟子に対して、愛する兄弟に対する手紙だからです。使徒という権威をもってピレモンに何かの教えをしようとしたのではなく、愛する兄弟として大切なことを彼に教えようとしたのです。しかも、私たちが覚えておかなければいけないことは、パウロがこの手紙を記したときパウロは恐らくローマにいたことです。ローマで2年間軟禁生活を強いられていました。第一回のパウロの幽閉生活です。使徒の働き28章にそのことが書かれています。28:30−31「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」とあります。確かに軟禁状態にあったのですが、みことばを伝え続けていた、そのことを私たちは知ることができます。この間にパウロが記した手紙を獄中書簡と呼んで、それらはエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙であり、そして、今見ようとしているこのピレモンへの手紙です。パウロがなぜローマでそのような形で軟禁状態にあるのか、そのことを十分に知っているこのピレモンに対して、再び、ここで自分はキリストの囚人であることを明らかにします。パウロはピレモンに対して「どうぞこれからも続けて主に対して忠実であるように」と望んだのでしょう。そのことを今一度彼に教えて励ましたかったのでしょう。というのは、パウロは確かに軟禁状態にありましたが、それは何か法律に対して罪を犯したからではなくて、キリストに従う結果であることをここで言うのです。神のみこころに従って生きて来た、その結果彼は、ローマでこのように閉じ込められるような目に会っているのだと。どうでしょう?このように語ったパウロは2年間の軟禁生活にあって、そのことを嘆き不平不満を言っているでしょうか?彼はその状態にあることで自分の運命をのろっていたでしょうか?そうでないことは明らかです。あのピリピにいた時でもパウロは牢屋の中で喜んでいました。つまり、私たちが本当に神の祝福をいただきながら、喜びをもって感謝をもって生きて行こうとするなら、決して忘れてはならないことは、神のみこころに忠実に従って行くことです。それしか方法はないのです。パウロは確かに囚われの身でしたが、それを嘆いたのではなく、みこころに従って行くときに、結果として自分たちの期待しないことが起こったとしても、そこにこそ本当に神の祝福があることをパウロは今一度教えるのです。パウロは自分の投獄の理由を明らかにすることによって、ピレモン自身がパウロと同じように忠実に歩み続けて行くことを期待したのでしょう。
 同時に、ここに「および兄弟テモテから」と記されています。テモテがこの手紙を書いたということはあり得ません。パウロが書いたのです。しかし、ご存じのようにテモテはパウロの一人の後継者としてこの後活躍して行きます。パウロはテモテを愛して彼とともに働きをしました。恐らく、ピレモンがイエス・キリストの話を聞いたのは、エペソの町であったでしょう。というのは、パウロはコロサイの町を訪問したことがありません。パウロがエペソに住んでいたときにピレモンはそこでイエス・キリストの話を聞き、そして、信仰に至ったと私たちはそのように確信します。その際に、当然ピレモンはテモテにも出会っているのです。ですから、この二人がこの手紙を送りますと、このようにパウロは記しているのです。
 そして、この宛名を見ると、まず最初に出てくるのが「私たちの愛する同労者ピレモン」です。この「同労者」ということばですが、これはパウロと同じように福音を伝える者に対してパウロはこのようなことばを使っているのです。恐らくピレモンは牧師でも宣教師でもなかったでしょう。しかし、とても裕福な人物だったようです。というのは、彼の家に多くの人々が集まっていたから、そのような大きな家を所有していたところからそう言えるのです。そして、大切なこの福音を伝えるという働きをともに為してきた、今もしている「同労者」であると、ピレモンのことを言うのです。そのことを考えるとき、私たちイエス・キリストを信じた一人ひとりは、皆パウロの同労者であるわけです。つまり、このキリストのすばらしい救いのメッセージを伝えるという大切な務めを神からいただいた、私たちは同労者としてその務めをなしているかどうか?つまり、熱心にこの救いのメッセージを伝えて続けているかどうかを考えることが必要です。パウロが今私たちのこの真ん中にいるとしたら、あなたのことを「私の同労者」と呼ばれるでしょうか?あなたは信仰をもってからこれまで、信仰者として歩んで来られましたが、どうでしょう?あなたは霊的な人物として教会の中心的な働き人として成長して来られたでしょうか?悲しいことは、ただ年数だけを重ねて来てまだまだ霊的に幼子であれば残念なことです。なぜなら、私たちはキリストにあって成長することを神から期待されているからです。ある者によれば、このピレモンは信仰をもってからそれほど長くなかっただろうと言われています。しかし、もう教会の中心人物として働いている、彼は立派に成長していたのです。そして、パウロはこのピレモンを非常に愛し彼のことを神に感謝しています。要は、私たちはクリスチャンとしてそのように成長しているかどうか、そのことを考えてみる必要があるのです。
 次に出てくる人物は2節に「姉妹アピヤ」とありますが、間違いなくこれはピレモンの妻です。では、なぜ彼女の名前がここに記されているのでしょう?それは彼女自身にもこの手紙をしっかり読んで、クリスチャンとして正しいことに従ってほしかったからです。というのは、これから私たちはこの手紙の内容を見て行くのですが、パウロがピレモンに願ったことはオネシモという逃亡奴隷を赦すことですが、それに関して妻のアピヤも深く関わっていたからです。彼女は家庭を守る大きな責任を負っていました。みことばを見るとオネシモは盗みを働いたのです。彼女はそのことをよく知っており、それによって彼女の気持ちが揺れていたでしょう。怒りをもっていたかもしれません。これだけよくしたのに…とそのような思いを抱いていたかもしれません。ですから、パウロはピレモンだけでなく妻のアピヤも、罪を赦すというこの大切なことをしっかり学ぶことが必要であったゆえに、ここに彼女の名を記したのです。
 そして、三つ目に「私たちの戦友アルキポ」とあります。いろいろな説がありますが、アルキポは彼らの息子でした。彼は宣教師か牧師の働きをしていた人物のようです。なぜなら、パウロはここで彼のことを「戦友」と呼んでいるからです。パウロと同じ目的をもって戦っている者です。コロサイ4:17にこのように記されています。「アルキポに、『主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。』と言ってください。」とアルキポへの伝言がありますが、その前の15節に「ラオデキヤの兄弟たちに」ということばがあります。16節にこの手紙(つまりコロサイの手紙)が「あなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回ってくる手紙を読んでください。」、そして「アルキポに」と続くのです。ですから、アルキポはコロサイの教会だけでなくラオデキヤの教会でも大切な務めをもっていたことが分かります。このラオデキヤもコロサイも今のトルコにあたります。あのエペソという海に面した町から内陸部に大体150キロほど入ったところにある町です。
そして、最後に「ならびにあなたの家にある教会へ」とあります。ピレモンの家の教会に集まっていた
兄弟姉妹たちへとパウロは言います。私たちが覚えておくことは、1世紀の時代には今の私たちがもっているような教会の建物はなかったということです。紀元200年頃まで、人々は家に集まって礼拝をもっていました。家以外のところに集まるのは紀元3世紀以降のことです。ですから、この当時のようにここでも「あなたの家にある教会へ」と記されているのです。これは、この手紙はピレモンへの手紙ですが、同時に、彼の妻にも息子にも教会の人たちもオネシモのことを知っていたから、皆がオネシモを赦すこと、兄弟姉妹を赦すということを学ばなければならなかったのです。
 さて、3節のところから「あいさつ」が記されています。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」、パウロは目的をもってこのことばを使っています。パウロが意図することを見てみましょう。初めに「恵みがありますように」とありますが、すべてはこの「恵み」に始まるからです。神からの一方的なご好意です。私たち、神からの罪の赦しを受けるのにふさわしくない者に対して神が一方的に私たちを愛して、私たちを憐れんで救いを備えてくださったのです。この神が私たちのために備えてくださったすばらしい恵みを受け入れることによって、私たちは神の平安を受け入れることができるのです。私たちの問題は、私たちが神以外のところに祝福を求めようとすることです。物質や学問など、それらに本当の平安がないことは明らかです。パウロが教えてくれているように、私たちが平安をいただくために必要なことは、神の恵みをいただくことです。神との関係が修復されたときにこの祝福を得ることができます。まだ、イエス・キリストを信じていない人が覚えなければいけないことは、神の祝福が備えられそれをいただくことができるのに、その祝福を拒んでいるのはあなた自身だということです。あなたの罪が、あなたの心の頑なさが、この神のすばらしい祝福を拒み続けてしまっているのです。神があなたを愛していないのではないのです。
 3節には「私たちの父なる神と主イエス・キリスト」と二つが並列になっています。パウロはここで主イエス・キリストがだれであるかを明らかにするのです。イエス・キリストは神だからです。もし、神でなければ、父なる神と並列に並べることによって神を冒涜することになります。しかし、パウロは並列にすることによって、イエス・キリストこそが唯一の創造主なる真の神であることをここで明言するのです。私たちはこのあいさつを通して、一体祝福がどこにあるのか、どうすればそれを得ることができるのかをしっかり見ることができるのです。それは神にあり、神との関係が修復されることによって、つまり、この創造主なる真の神を信じ受け入れることによって、この祝福を自分のものとすることができるのです。そこにしか本当の祝福はありません。パウロのこのあいさつはそのことを私たちに教えているのです。
 4−7節にはパウロの称賛が記されています。4節「私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。」、なぜパウロはピレモンのことをいつも神に感謝していたのでしょう?5節にその理由が記されています。「それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。」と、パウロはピレモンの信仰と彼の愛について聞いたと言います。恐らくパウロはエパフラスという人物からそのことを聞いたようです。このピレモンの手紙の23節に「キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。」と、エパフラスはコロサイの人でパウロの同労者です。コロサイからローマのパウロのところにやって来たのでしょう。この人物の訪問によってコロサイのことがいろいろと分かったのです。そして、ピレモンのことも耳にしたのでしょう。それを聞いたパウロは喜びました。そして、彼の許にいたオネシモからも奴隷のとき自分の主人であるピレモンがどのようなことを口にして来たのか、そのことも聞かされていたでしょう。ピレモンはパウロによって信仰を得ました。そのこともオネシモを通して耳にしていたのでしょう。
私たちが特に注目したいのは、パウロが5節で語っているその内容です。二つのことをここでパウロは覚えて神に感謝しています。一つはピレモンの信仰であり、もう一つはピレモンの愛です。5節に「主イエスに対してあなたが抱いている信仰」とあります。どのような信仰を聞いて感謝したのでしょう?それは、このピレモンの信仰が生きた本物の信仰であることです。ことばだけの信仰ではなかったのです。すなわち、私は信じていると口で言いながら主に従っていない、みことばに従っていないような信仰ではなかったのです。生きている信仰、その人の内に神が働いているのです。ですから、それを聞いてパウロは喜んだのです。「抱いている」ということばがあります。現在形のことばです。つまり、このピレモンの心の中には、神の前に常に正しいことを継続して行なって行きたいという思いがあったということです。そのような思いでピレモンは生きていたのです。そして、彼は実際にその通りに行なっていたのです。私たちクリスチャンに神によってすばらしいわざがなされ、私たちのうちを変えてくださったのです。神に喜ばれること、正しいことをして行こうという思いをくださったのです。残念ながら、私たちは神の前に罪を重ねています。正しいことをしたいとどんなに願っても、すぐに罪を犯してしまいます。しかし、救われる前と違うところは、私たちはそのような願いをもって生きているということです。そのような変化を神は私たちのうちにもたらしてくださった、ピレモンのうちにもそれがなされていたのです。
その信仰が「すべての聖徒に対するあなたの愛」とあるように、信仰が「愛」となって現われていったのです。この「愛」はアガペーということばが使われています。自己犠牲の愛、自分の意志であり自分の選択です。自分で愛して行こうと選択するのです。これが本物の信仰です。それはみことばが何度も教えることです。たとえば、ヨハネがそのことを教えています。I ヨハネ4:19−5:1を見てください。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。:21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。5:1 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」、明確です。これが救われた者の特徴です。同じように、I ヨハネ2:9を見てください。「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。」、救われていると言いながら兄弟を憎んでいるなら、救われていないと言います。今度は3:14を見ましょう。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」と、兄弟を愛さない者は救われていないと言っています。ガラテヤ5:6でもパウロはこのように言います。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」、本当の信仰は愛という行為のうちに現われて行くと。ピレモンの信仰が本物だったからパウロは感謝したのです。生きた働きの伴った信仰だったからです。
そして、6節にはパウロがピレモンのために祈りを捧げています。「私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。」、パウロはここに二つのことを祈ります。ひとつは信仰の実践です。つまり、ピレモンがこれからも続けて信仰を実践して行くようにと、そのことを祈ったのです。もう一つはピレモン自身が神の恩恵を、神の恵みをより深く知るようにと祈りました。信仰の実践について、「あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように」とあります。この「生きて働く」ということばは、活発になるようにという意味があるのですが、実はこれは行為において実証されるということです。「信仰の交わり」とあるこの「交わり」はギリシャ語のコイノニアということばが使われています。寛大な行為とか参与、参加するという意味もあります。そして、ここでパウロがこのことばを使って言いたかったことは、神との親しい交わりを通して、パウロ自身がその信仰を愛の行動に写して行くように、愛の行動で現わして行くようにと、そのことを祈ったのです。だから信仰の実践なのです。そのことはもう為されていたのですが、それがもっともっと為されて行くようにとパウロは祈ったのです。そして、ピレモンがもっと神の恩恵をより深く知って行くようにと望みました。「私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって」、これは神を信じたときに神がその人のうちに為してくださることです。ですから「私たちの間で」と言っています。ピレモンだけではないのです。私たちイエス・キリストを信じた者のうちに神は全く同じことをしてくださるのです。私たちを新しく生まれ変わらせてくださるのです。そして、どのようなことを神は私たちに与えてくださったのか、そのようなことをよく知ることによってと言います。この「よく知る」というのもただの知識を言っているのではありません。自分の経験を通してより深く知って行くということです。これはコロサイ1:9にも記されています。「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」と、パウロがコロサイの人々に望んだことは、コロサイの兄弟姉妹たちがより深く神を知って行くようにということです。それはこういうことです。みことばによって私たちは神のみこころを知って行くことができます。神がどのように働かれどんなことを望んでおられるのか、私たちの信仰の先輩たちたちに神はどのように働かれたのか、そのようなことを通して私たちは神を知り、神の働きを知ります。そして、それらを知ることによって私たち自身もそのように生きようとするのです。つまり、私たちの信仰が成長して行くために必要なことは、私たちが学んだことを実践して行くことです。神はこんなお方だといくら学んでも、それを実践しなければそれは確信とはならないのです。どんなに知識を蓄えてもそれが私たちのうちで生かされて、実際の経験を通して本当にそうだという確信に到達していなければ、私たちの信仰は弱いものです。ですから、私たちにとって必要なことはもっとたくさんの新しい知識を得ることよりも、知っていること、聞いたこと、学んだことを実践することです。そうすることによって、本当に神はすごいお方であり、聖書が約束されたお方であるという確信が強まって行きます。そして、ますます神に信頼して生きようとし、そうして成長して行くのです。もしかすると、私たちの信仰生活で最も弱いところはここかもしれません。パウロが望んだことは、私たちの生活を通して神が与えてくださったもの、それがどれほどすばらしいものかを私たち一人ひとりがしっかりと経験して行くことです。確かに、私たちは日々の生活を通していろいろな悲しみに、辛いことに遭遇します。なぜ?と思うことがたくさんあります。私たちが覚えるべきことは、恐らく私たちがこの地上にいる間にはその答えを聞くことはできないかもしれないけれど、神がどのようなお方かを知れば、私にはどうしても分からないけれど、神に信頼します、あなただけが神だからと、そうなるはずだということです。私たちはどうしても自分の物差しでこれがベストである、これが最善だとする土台を捨てられないのです。神の最善より自分の考える最善の方が優っていると思うのです。そのような高慢な態度は神の前に砕かれて行かなければならないのです。分からないことはたくさんあります。しかし、分かっていることがあるのです。それは、この世界にはこのすべてのものをお造りになった唯一の創造主が存在するということです。この方は明日のこともその先のことも、永遠のことを知っておられ、この方には悪がないゆえに正しいことしか行なえないのです。ご自身の最高の知恵によって完璧なことを為しておられるのです。そのことをなかなか受け入れられない私たちに問題があります。いろいろなことを通して私たちは神の前に砕かれて行きます。分からないことがあってもあなたは神だからあなたを信頼しますと、謙虚にされて行くのです。
 パウロはこのピレモンにそのことを望みました。ピレモンがもっとこの神のすばらしさを知って行くように、そして、ピレモンの信仰がますます成長し良い実を実らせて行くことを望んだのです。そして、神について知れば知るほど、確信が増せば増すほど、この神のことを人々に伝えようとするし、人々に伝えて行くとき、私たちの信仰はより成長して行くのです。パウロが望んだこの二つのことは切り離すことができません。
そして最後に、7節に「私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。」と、パウロはもう一度ピレモンへの称賛の理由をここに記しています。なぜパウロは彼のことを神に感謝したのでしょう?それはパウロにすばらしい祝福、喜びをもたらしたからです。パウロはこのピレモンの愛について聞いたときに、大きな喜び、励ましを得ました。そして、このピレモンは聖徒たちの心を力づけたのです。ここに出てくる「心」というのは内臓という意味です。愛情とか憐れみなど感情の座として考えられていました。つまり、パウロはピレモンのことを聞いたとき、ただうれしいだけでなく心の内側から喜びが湧き上がってきたということです。しかも、「力づけられた」とあります。これはイエスによってマタイ11:28に用いられているのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、ここにある「休ませ(る)」ということばがこの「力づける」ということばなのです。その人のことを気にかけていたけれど、そのニュースがほんとうに肩の荷を取り除いてくれた、心の底からほんとうによかったという、そのような祝福をこのピレモンの信仰の歩みがパウロにもたらしたのです。すばらしい祝福をピレモンはパウロに与えたのです。そして、その祝福はピレモンを通してパウロだけでなく、周りの聖徒たち、兄弟たちのうちにも与えられて行ったのです。ピレモンはパウロにも、多くの兄弟たちにも大きな祝福をもたらす者でした。
 そして、そのことは神が私たちクリスチャン一人ひとりに望んでおられることです。I ペテロ3:9に「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあるように、私たちは人々に祝福を与えるために救われたのです。だから、パウロがピレモンに望んだことは、神が私たちにも望んでおられることです。あなたは人々にとって祝福となりなさいと。それは、あなたが主に忠実に生きて行くことによって、あなたがみことばを実践することによって、あなたを通して神が働かれるからです。あなたが神に対して忠実に歩んで行くなら、間違いなくあなたは神から大きな慰めを受け、それゆえに人を慰めることができる、また、励ましを受け、人々を励ますことができるし、喜びが与えられることによって人々と喜びを分かつことができ、与えられる希望を分かち合うことによって、ともに期待をもって生きて行く者となります。そして、神の知恵が与えられその知恵を私たちは人々に分け与えて行くのです。そして、私たちが神に忠実に歩んで行くなら、神の愛がだんだん分かってきます。そして、その愛を人々に分け与えて行くのです。どうぞ、祝福を与える者になり続けてくださいとパウロはこのピレモンに期待し、それがパウロの祈りでもありました。皆さん、そのことは実は神があなたに望んでおられることです。
最後に7節に「兄弟よ」ということばがありますが、原語ではこれは一番最後に出て来ます。パウロのピレモンに対する愛を感じ取ることができます。パウロはピレモンに命じたのではない、愛する者よ、私もそうありたいし、あなたもそうあり続けてくださいと言います。神の恵みをしっかり理解して、みことばを実践することによって、祝福を与える人になってください。どうぞ皆さん、神はそのような人にあなたが変えられて行くことを望んでおられます。神は変えて行ってくださる、感謝なことです。