礼拝メッセージ要約
2009/12/06 礼拝メッセージ
メッセージを聴く
Messenger: 近藤修司
Passage: ローマ7:21-25
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09/12/06 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:罪と私4
聖書箇所:ローマ人への手紙 7章21-25節
パウロはかつてこのようなことを言いました。「私は…ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ人への手紙3:13-14)、前のものに向かってただ一心に走っている、栄冠を得るために走っている、まさにこれが信仰者、イエス・キリストを信じる者たちの生き方です。私たちはこのようにして生きるのです。目標を目指して栄冠を得るために前進し続けて行くのです。このように語ったパウロ自身、彼の信仰生活においてはまだまだ変えられなくてはいけない、彼自身もっともっと変えられて行かなければいけないと言います。というのは、彼はまだ完全でないことを知っていたからです。だから、神にあってもっと変えられて行きたい、もっと神が喜んでくださる者になって行きたいと、私たちもそのように生きるのです。パウロはこのようにも言っています。「私は…完全にされているのでもありません。」(ピリピ3:12)と。私はまだ完全にされていない、だから、少しでも変えられて少しでも主が喜んでくださる者となるために、私はもっともっと主に従って行きたいと言うのです。
信仰者の皆さん、そのように私たちも生きていますが、悲しいことに、この地上にあって罪との戦いは継続しています。もういやになるほど私たちは罪に対して敗北に敗北を重ね、ときに自分自身が情けなく落ち込みそうになることもあります。自分のその愚かな歩みを見て、自分の罪深さを見て、その度に私たちは本当にがっかりします。「情けない!何という者だ!」と、パウロもそのことをよく知っていました。もしかすると、パウロは私たち以上に彼自身のことを知っていたかもしれません。そのことを彼は私たちにこのローマ書7章を通して繰り返し教え続けてくれたのです。罪との戦い、その戦いに敗北を帰したとしても、パウロはその中で失望の状態に立ち留まり続けることはなかったのです。また、自己卑下を繰り返しながら落ち込んで喜びを失うこともなかったのです。彼は罪と戦い続けたのです。
そして皆さん、そのようにあなたも歩んで行くようにとパウロは望むし、神ご自身もそのように望んでおられるのです。
ですから、この神の尊いみことばは私たちに、パウロだけでなく私たちにも日々経験する葛藤を教えてくれ、同時に、そこからどのようにして私たちは変えられて行くのか、どのように私たちはそのような現実の中にあって勝利を重ねて行くことが出来るのか、そのことを教えてくれるのです。そのことを私たちは学んで来ています。覚えておられますか?この7章14節からは三つの箇所に分かれていました。14-17節までと、18-20節までと、そして、今日私たちが見ようとしている21-25節までです。この中でパウロは自らを正しく吟味し、そして、自分の罪深さを正直に述べて、そして、私は信仰者としてこのような葛藤を日々経験していると、正直な証を記してくれています。彼は自分と神の基準である律法とを比較した時に、本当の自分の姿が良く分かったと言います。人と自分を比較するのではない、神が私に望んでいる基準と自分を照らし合わせたら、どんなに自分がその基準から外れているかということがよく分かると言います。「律法は霊的なものだけれども、私はそうではない。私は霊的な者ではない。」と、パウロがそのような告白をしました。自分自身の行動を見る度に、自分自身の心を見る度に、自分が抱く思いを見る度に彼の心は嘆いたのです。その嘆きがこのようなことばになって表現されたのです。「私は善をしたいと願っているのに悪を行なっている。私は自分が憎むことを行なっている。」と。
ですから、パウロの葛藤を見る時に私たちは彼が自分を正しく知っていただけでなく、彼がどれ程神の前に正しく生きて行くことを望んでいたのか、そのことを教えられるのです。パウロは確実にみこころに反することを憎みました。常にみこころに従って生きたいと願っていました。神が悲しまれることから離れようとしました。神が喜んでくださることを何よりも優先して、そのように生きて行きたいと願っていたのです。ですから、そのような願いを持ちながら実際にやっていることを見た時に、彼の心は張り裂けるほど悲しみと苦しみの中にあったことは間違いありません。そして同時に、そのように生きているあなたも同じような経験をしているはずです。このパウロが私たちに与えてくれた三つ目の証を私たちは今日見て行きます。神の律法を完璧に守ることが出来ないことへのジレンマ、そのことに関してパウロはこのような証をしています。
Ⅲ.パウロの証 その3 21-25節
A.評価 21節
21節にはこのようにあります。「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」、先ず、これまでと同じように、私たちはここでパウロ自身が自らに対する評価を下していることを見ます。彼はこのように言うのです。「私のうちに善と悪が共存している。」と。彼のことばを使うなら「善と悪の共存の原理」です。つまり、彼が言いたかったことは「善をしたいという願いが私のうちにあるけれど、残念ながら、私のうちには悪が宿っている、そのような心だ、そのような状態に自分はいる。」ということです。彼はそのことを証しているのです。このような法則が自分の中に存在している、このような原則が自分の中にある、どうしようもないと。
B.証言 22-23節
それに関してこのように続きます。22-23節「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」、パウロは「私はこのことを「見いだす」」と言っています。これは「分かる、認識する、認める」ということです、つまり、このようなことが私の中に起こっている、それが現実だと言うのです。何が起こっているのか?戦いがあるということです。私の中で二つのものが戦い続けていると言うのです。ですから、この「戦いをいどみ」ということばは、あるものがあるものに対して戦っている様子です。二つの対立する軍隊が入り乱れて格闘し合う様子を描いているのです。二つの対立する軍勢が入り乱れて格闘し合っている、そういう意味をもったことば、その動詞をパウロはここで使っています。
◎何と何が戦っているのか? パウロは教えています。
1.内なる人 対 からだ
「内なる人」と「からだ」が戦っていると言います。22節に「内なる人としては」、23節には「私のからだの中には」とあり、この戦いが存在していると言うのです。
a)内なる人:神の律法を喜んでいる
「内なる人」とは「生まれ変わった新しい私」のことです。私は生まれ変わった、私たちはそのことをこれまで見て来たのです。例えば、もう一度21節を見ると「私は、善をしたいと願っている」と言っています。そのような自分に生まれ変わっているのです。善をしたい私に変わったのです。そういう願いをもつ者に変わったのです。ですから、内なる人とは新しく生まれ変わった者です。その内なる人は神の律法を喜んでいるのです。これはかつて生まれながらの私たちがもっていなかった特徴です。ところが、生まれ変わることによって、内なる人が新しくされることによって、つまり、救われたことによって神の律法を喜ぶ者へと変わったのです。
b)からだ:からだの中に罪の律法が存在している
23節には「私のからだ」とあります。私たちはもうすでに見て来ました。彼は、このからだ、肉の中に異なった律法、罪の律法が存在していると言うのです。ですから、自分の内なる人は新しく生まれ変わっている、しかし、自分にはまだ罪によって影響を受けている「からだ」が存在していると、そのことはすでに繰り返し見て来たことです。
この「内なる人」に関してジョン・マレーという神学者はおもしろいことを言っています。「これは最も深いところにある最も真実の自分である。」と。本当の自分、そこが生まれ変わったからその人には新しい生き方が始まるのです。皆さんもよく聞かれることと思いますが、宗教は私たちのうわべを一生懸命変えようとします。でも、内側は変わりません。しかし、イエス・キリストが為さったみわざは、私たちの内側を変えることです。だから、内側が変わったから、そこから自然に良き働きが生まれて来るのです。内なる人は最も深いところにある最も真実な自己であり自分であると。
この「内なる人」ということばは新約聖書の中に3回出て来ます。
(1)「内なる人」は神の律法を喜んでいる。今見ているローマ7:22です。
(2)「内なる人」は日々新たにされる。Ⅱコリント4:16「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」、つまり、内なる人は、神の律法を喜ぶだけではないのです。日々新たにされて行くところなのです。
(3)「内なる人は神によって強められる。エペソ3:16に「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」と記されています。ですから、三つ目に教えられることは、内なる人というのは神によって強められるところなのです。
このように「内なる人」とは生まれ変わった部分です。先程も話したように、生まれ変わったから神の律法、神の教えを喜んで聞こうとし、喜んで受け入れようとします。主が私たちの内側を日々新たにしてくださり、キリストに似た者へと変えて行ってくださる。そして、神が内なる人を強めて行ってくれると言うのです。生まれながらの人間は罪によって支配され、罪の奴隷でした。その「内なる人」が変えられたのです。ですから、「内なる人」と「からだ」の戦い、それが今現実に私の中に起こっていると言うのです。皆さんも今、そのことを経験されているはずです。みことばを聞き、そのみことばに喜んで従って行きたい、そして、神の前に間違ったことを犯したとき、罪を犯したときは「神さま、本当に申し訳ない、赦していただきたい」と、そのような思いをもって歩んで行くというのは、あなたの内なる人が新しくされているからです。しかし残念ながら、私たちのこのからだはこれまでと同じような生き方に私たちを引き込んで行こうとするのです。ですから、戦っているのです。そのことをまずパウロは最初に教えているのです。
2.心の律法 対 罪の律法
a)心の律法 23節 ― 心を支配している律法
パウロは律法を比喩的に用いています。特にここでは「行使された力、権威、支配」という意味で使うのです。ですから、心の律法とはその心を支配している律法のことです。先程のジョン・マレーは「心が仕えている法則としての神の律法」という説明を加えます。つまり、新しくされた私たちは、心から神の教えに従って行こうとするのです。心が神の教えに仕えている、仕えようとしているのです。その証拠に、すでに見ているように、16節には「もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。」とありました。14節には「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。」とあり、あなたがこのように思うのは、あなたが生まれ変わっているからです。神の教えを聞いて、これはすばらしい教えで本当に正しい教えだ、この教えを私は受け入れて従って行きたいと、そのようにあなたが心から思うのは、あなたの心がそのように変えられているからです。
人々は「いつも喜んでいなさい」という神のおことばを聞くと、あぁすばらしい、本当に慰められると言います。いくつかのみことばは好きだと言っても、聞きたくないみことばもたくさんあるのです。しかし、私たちイエス・キリストを信じている者、内側が変えられた者たち、生まれ変わった者たちは心から神の教えられていること、神が要求されていることに心から「アーメン」と言います。「その通りです、神さま。私はそのように生きて行きたい。」と。心が変えられている証拠です。
b)罪の律法 23節
23節に「罪の律法」と出て来ました。「異なった律法があって、」、「からだの中にある罪の律法のとりこ」と書かれています。罪によって私たちのうちに働いている「罪の力」です。罪の影響力は私たちは日々経験しています。私たちを罪へと導いて行こうとする力です。生まれ変わった私たちがしたいことではなくて、したくないこと、私たちが憎んでいることを行わせようとする力です。ですから、生まれ変わった信仰者の中にあるその善に対して、内住するその罪は戦い続けているのです。どのように戦い続けているのでしょう?「罪の律法のとりこ」にするためです。もう一度奴隷とするためです。23節を見ると、パウロはここで「私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」と言っています。そのことを知っている、そのことは分かっていると言うのです。パウロはそのような状態になることを望んでいたのでしょうか?望んでいません。しかし、そのような状態へと引っ張って行く力が存在していると言っているのです。
ですから、私たちはこのようにこのみことばを見た時に、罪の奴隷であったときにはなかったそのような新しい思いがパウロのうちに存在していること、そして、同じ思いが私たちのうちにあることを私たちは教えられるのです。それは神に喜ばれることをして行きたいという新しい思いです。しかし残念ながら、皆さんがご自分をよく見つめると、そのような願いがありながら、かつての罪の生き方へと引っ張っていく力が存在していることを知ります。そして、私たちは悪い思いを抱いてしまったり、良くない考えをもってしまったり、良くないことを言ってしまったりしてしまうとき、私たちはそれに対して「間違っていた」と向き合うのです。パウロがここで教えているように、なぜ、これまでと同じように罪を重ねることを喜んでいないのか?それはもう罪が彼にとっての主人ではないからです。彼は新しい主人に仕える者です。だから、その主人を悲しませるという現実に対して心を痛めているのです。罪が主人なら罪に罪を重ねても心を痛めることなどなかった。しかし、異なった主人、本当の主人に仕える者になったときに、その方を悲しませることを為すときに心が痛むのです。
このような葛藤をパウロ自身は経験していたのです。皆さんに詳しい説明をしなくても毎日の生活においてあなた自身がどのような誘惑を受けているのか?それはあなた自身がよくご存じです。サタンは非常に巧妙に私たち信者に働いて、私たちを誘惑したり、迫害したり、失望させるようにと働き続けます。キリストとの交わりから引き離そうと働くのです。主の働きから離れて行くようにと働くのです。覚えていますか?ヨブ記1章に記されていること、ヨブに関してサタンは主なる神のもとに行って訴えるのです。「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。:7 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」:8 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」:9 サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」(ヨブ記1:6-11)、与えられているたくさんの祝福、それを奪ったらきっと彼は神をのろうのに違いないと。つまり、サタンが望んだことは、神の前に正しく歩んでいるヨブがそのような歩みを継続しないように、ヨブが間違った歩みをして行くことです。神をのろう生き方をするように、そのことを願って彼は主の前に出て来るのです。ですから、サタンが望んでいることはそういうことです。罪が私たちに働いて私たちを引き込んで行くのと同じことです。
ですから皆さん、罪の中を歩んでいるときは神に喜んで仕えたいなどという思いはそんなに強くありません。自らの経験を通してそう言えます。神の前を喜んで歩んでいるときは喜んでその方に仕えて行きたいと思います。ところが、私たちが何か罪を犯し、その罪が私たちのうちでだんだん大きくなるにつれて、これまで喜んでして来た働きに喜びを失ってしまい、そして、いつの間にか重荷に感じられてその働きからだんだん離れて行ってしまう、そのようなことはありませんか?なぜなら、サタンはそのように望んでいるし、そのような働きを今も継続しているからです。Ⅰペテロ5:8のみことばを覚えておられますか?ペテロ自身がサタンの働きに関してこんなことを言います。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」、「あなたがたの敵である悪魔が」とあります。信仰者であるあなたの敵です。そのサタンが「食い尽くすべきものを捜し求めながら、」とあります。「食い尽くす」とは「殺す」ということです。このことばは殺すことと関連しているのです。その攻撃の対象はだれですか?サタンの敵です。サタンの敵とは私たちです。クリスチャンであるあなたです。あなたはこれまでサタンを愛しサタンに従って来たのですが、生まれ変わって主なる神を愛しその方に従う者へと変わったのです。ですから、彼の願望はそのような信仰者を苦しめるだけでない、彼らを呑み込んでしまう、彼らを殺してしまうほどだと言うのです。この「殺してしまう」とは救いを奪うことではありません。なぜなら、信仰者が救いを失うことはないからです。ここで言われていることは、その信仰の活動が出来なくなるように、信者の証を台無しにするように、そのように働き続けるということです。なぜなら、主に忠実に歩んでいない信仰者はサタンにとって全く無害です。彼らはキリストの栄光を現わしていないからです。そのような信仰者はサタンにとって何の脅威でもない、サタンが困るのは、主に忠実に従い主の栄光を現わしている者です。サタンはクリスチャンが彼が望んでいるような信仰者になるようにと、その働きを継続していると言うのです。
「ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とは、ちょうど、飢えたライオンが獲物を必死に捜している様子です。つまり、気をつけていなければ、どれ程私は霊的だとか、信仰歴が長いなどと思っていても、すぐにそのような誘惑に陥ってしまう可能性があるのです。
どうですか?信仰者の皆さん。あなた自身は主に対する献身的な思いにおいて成長していますか?主を愛する思いにおいて成長していますか?どれ程多くの働きをしているかではない、どれ程あなたの心が主に対して変えられているかです。あなたが益々主を知る者、主を愛する者となれば、そこに必ず行ないという結果が伴って来ます。どんなにたくさんの行ないをしても、心が伴っていなければ段々疲れて来ます。燃え尽きてしまいます。最初は良いのですが途中で息切れします。そのような信仰者は多いのです。主のために一生懸命する、でも、内側がしっかりしていなければ長くは続かないのです。
私たちクリスチャンが覚えておかなければいけないことは、あなたが信仰的に忠実に歩み続けること、神を愛して神に忠実に従うことを望んでいない存在がいるということです。ペテロはそのことを警告しています。神はそのことを私たちに警告するのです。しっかりしなければいけないのです。目を覚ましていなければいけないのです。大丈夫だと思ったその瞬間が問題なのです。パウロは言います。「罪の律法のとりこにしている」と、そのような力、そのような働きが為されていることを彼は十分に知っています。
そのような葛藤を述べて来たパウロですが、最後24-25節を見てください。
C.結論 24-25節
1.自分を知っている ― 私は、ほんとうにみじめな人間です。
24節「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」、パウロは間違いなく自分のことをよく知っています。「私はほんとうにみじめな人間です」と言っています。悲惨な者、哀れな者という意味です。自分のことを正しく知れば知るほど本当に悲しむべき者だ、もうどうしようもないと言います。あなたも自分自身を見てそのような思いをもっておられるかもしれません。ご自分を見てどうしようもない者だと思っておられるなら、あなたは正しいのです。やっと自分のことが見えて来たのです。私たちが自分自身を見て気付かされて行くことはそのことです。今まで主を称えていたのに次の瞬間に私たちは罪を犯してしまっている、特に、私たちが主の働きをしている時にそのような失敗を経験します。そうではありませんか?
どのようなときにも、私たちは様々な誘惑にさらされています。自分を誉めたい、自分を高ぶってみたいと、私たちはいろいろな誘惑の中に生きています。そして悲しいことに、私たちはこの罪に対して敗北に敗北を帰しているのです。この偉大な信仰者だったパウロが、「私はほんとうにみじめな人間です」と言いました。私は悲惨な哀れな者だと…。そのことを知っている人こそ、言い方を変えれば、霊的なリーダーだと言えるのです。詩篇130:3で著者がこのようなことを言っています。「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。」、あなたがもし私の不義に目を留められるのなら、私はあなたの前に立つことは出来ませんと。でも、神は確かに私たちのすべての汚れを知っておられます。あなたが知っている以上に、私が知っている以上に、あなたや私の罪を神はご存じです。だから、この恵みを私たちは驚きの思いをもって見つめるのです。神はなぜ、このような者をこれ程愛してくださるのか?なぜ、このような者に日々これ程すばらしい祝福を与え続けてくださるのか?私はどれ程罪に染まった汚れた者であるかを信仰者がしっかりと覚えて歩むことです。自分を正しく知ることです。
2.希望をもっている ― 私を救い出してくれるのでしょうか。
パウロはその葛藤の中にあっても希望をもって生きていました。「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」、「救い出してくれる」とは、そこから解放されるということです。たましいの救いのことではありません。パウロの葛藤は、神の前に喜ばれることをしたいけれど、私のからだの中には罪が存在し、その罪が私をかつての神を喜ばせない神の栄光を汚すような生き方へと引っ張っている、いったい、いつになったらこのからだから解放されるのかと、そのことを言っているのです。ですから、パウロがこのことを言ったのは、彼自身がその日を待望していたからです。これは絶望の叫びではないのです。彼はそのことを待ちこがれているのです。なぜなら、パウロが書いたみことばの中にはそのこと、私たちが生まれ変わるということがたくさん教えられているからです。特に、この「救い出す」というのは「危険から救い出す」、「戦友の叫び声を聞いて彼を敵の手から助け出そうとする兵士を表わしている」、そういうことだとマッカーサー先生は説明を加えています。
皆さん、描けますか?敵に捕らわれている者、敵の手の中にいる戦友を何とか助け出そうとそこに走って行く、その兵士を指しているのです。そこから解放するために、その捕らわれた状態から解放するために…。これはたましいが捕らわれていると言っているのではありません。この「からだ」のことです。ですから、「だれがこの死の私自身を、救い出してくれるのか。」と言っていません。「だれがこの死の、からだから、」と、からだの贖われること、解放される部分をこのように明記しているのです。彼が言う解放とは「たましい」ではないのです。人間はみな罪によって支配されているたましい、その「内なる人」が解放されなければいけなかった。イエスを信じることによって解放されました。自由にされたのです。でも、問題が残っているのです、それが「からだ」なのです。ですから、パウロは再び「この死のからだから解放してもらえるのはいつなのか?」と言うのです。しかもおもしろいことば「死のからだ」と言います。死の支配下にあり死に向かっているのは「からだ」だけなのです。あなたの「内なる人」が死に向かっているのではないのです。新しくされたあなたには永遠が保証されています。しかし、私たちの肉体、このからだは滅びへと向かっているのです。ですから、私たちのからだは痛むのです。段々老いて行くのです。パウロが言っているのは「からだ」だけです。
だから、このからだが死を迎えると私たちはこの戦いから解放されます。このからだを抱えているこの今、私たちはこの地上にあって戦いを経験しているのです。また、主イエス・キリストが迎えに来てくださるとき、私たちはこのからだから解放されるのでそのときにこの戦いは止むのです。そのときに私たちは新しいからだへと生まれ変わるのです。私たちはこのパウロのメッセージを聞きながら、希望にあふれているパウロの姿を思い浮かべませんか?この戦いは永遠に続かない、もう間もなく、私たちはこの戦いから自由にされるのです。解放される日がやって来るのです。パウロはなぜそのことを待望していたのでしょう?なぜその日を待ち望んでいたのでしょう?そのときに私たちはもう主を悲しませることがなくなるからです。主の再臨を待望しているパウロ、主にお会いすることを待望しているパウロは、そのときにすべての点で主を喜ばせることができると知っていたからです。彼は自分勝手な願いをもってそのことを望んでいたのではなかったのです。彼の願いは神を喜ばせることだけでした。神を喜ばせるためにこのからだは邪魔だったのです。だからといって、彼は自分で自分のいのちを絶とうなどとは考えていません。なぜなら、私たちのいのちは神が私たちに与えてくれているものだからです。
感謝なことに、私たち信仰者はどんなに絶望的な状況にあっても、力の源であり希望の源である神を覚えて生きることが出来るのです。
Ⅱコリント5章でパウロはこのことに関してこのように証しています。5:4「確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」、彼は新しい栄光のからだを早く得たいと思っていました。地上ではいつも絶望の連続だけれど、その約束された栄光のからだを早くいただきたいと。そして、8-9節にも「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」とあります。パウロはその思いだけをもって生きていたのです。主に喜ばれたい!と。イエス・キリストを信じた後、彼はその願いをもって生き始めました。なぜなら、それが救われた人の特徴だからです。しかし、現実は神を悲しませることを繰り返している、その葛藤の中で、早く私のこの罪のからだが贖われてほしい、そうすれば、もう神を悲しませることがなくなるからと。ここまで徹底して神だけを喜ばせたいという思いをもって生きていたのがパウロです。凄い信仰者です。そして、この模範に倣ってあなたも歩みなさいとパウロは教えているのです。どうですか皆さん、神だけを喜ばせたいという思いをもって生きていますか?
◎まとめ
パウロのこの葛藤をこのように見て来ましたが、これまで学んできたことをまとめます。
1.キリスト者と未キリスト者の違い
パウロは私たちにイエス・キリストを信じている者と信じていない者との違いを明らかにしました。
キリスト者とは:
(1)新しい性質をいただいた人
(2)「内なる人」が新しくされた人
(3)贖われていない肉がまだ存在している人
未信者とは:
(1)古い性質によってすべてが支配されている人
(2)古い人
(3)贖われていない肉によって支配されている人
このことをしっかり考えてください。大きな違いがあります。ある人はこのような質問をします。イエス・キリストを信じたクリスチャン、その人のうちに「古い人」と「新しい人」が共存しているのか?と。答えは「NO!」です。イエスを信じて救われた私たちのうちに、これまでの古い人と、そして、新しく与えられた新しい人が共存しているのではありません。私たちは生まれ変わったのです。パウロはこのように教えました。私たちがすでに見たところです。ローマ6:6「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」、イエス・キリストを信じたときに私たちの古い人はもう死んだのです。死んだ人が私たちのうちに生きていることは有り得ないのです。
また、エペソ4:22を見てください。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、」、注目していただきたいところは、「古い人を脱ぎ捨てる」ということ、この動詞はもう過去に起こったことです。そして、同じ24節を見ると「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」とあります。「新しい人を身に着る」、これも過去のことです。パウロがこのような時制を用いたことには理由があります。パウロはここで「救いとはどのようなものか」を教えたのです。救いとは「古い人」を脱ぎ捨てて、同時に、「新しい人」を着た、そのことだと言うのです。悲しいことに、私たち救われた者の肉のうちには罪が存在しています。しかし、「古い人」が今もなお私たちのうちに存在しているのではないのです。クリスチャンのうちに「古い人」はいないのです。あなたは「新しい人」なのです。
また、古い性質と新しい性質があなたのうちに共存しているのでもありません。新しい性質だけが存在して、まだ、贖われていない肉のうちにあなたは閉じ込められているのです。ですから、ローマ7:23にはこのようにありました。「私のからだの中には…私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」、私のうちはまったく新しくされた、内なる人は生まれ変わったのです。新しい人が私のうちに住んで古い人はもう死んだのです。新しい性質が私に与えられたのです。でも、この肉が私を取り囲んでいる、そのような状態にいるのが信仰者だとパウロは教えたのです。クリスチャンの皆さん、ぜひ、そのことを覚えてください。あなたは新しくされ、あなたのうちには新しい人が存在しているのです。
2.罪に勝利するにはどうすればいいのか?
最後に、私たちが見ておきたいことは、実は、8章に入ると、罪との葛藤を経験する私たちクリスチャン、でも、その中にあって私たちはどのように勝利して行くのかということを、パウロは教えて行きます。その前に、皆さんに二つだけぜひ覚えていただきたいことがあります。
(1)罪の告白
どんなときにも罪を告白することです。Ⅰヨハネ1:9でヨハネは私たちに罪の告白の大切さを教えています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」、今見るのは、詩篇32:3です。ダビデはこのように言いました。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」と。何を言っているのか、1節から見てください。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」、ダビデが言うことは、罪を告白しないでそのままの状態にしているときは、私たちを大変苦しめる結果をもたらすということです。からだが痛みで苦しんでいたことを強調しているのです。恐らく、皆さんも、罪を犯してそれをずっと放っておくときは、まず、喜びが無くなって行きます。感謝もなくなります。心はだんだん苦しくなって来ます。ダビデはそのことを告白しているのです。私たち信仰者が罪をそのままにしておくなら、そこにはいろいろな問題があり、何の祝福もありません。ですから、私たちはこの罪との戦いにあって、日々、自らの心をしっかり吟味して、罪は告白することが必要です。もし、あなたの心の中に何か隠された罪があるなら、それはあなたの心に働いてあなたから祝福を奪って行き、あなた自身を祝福から遠ざけて行きます。悲しいことに、どれ程信仰的な霊的な信仰者も罪を犯すのです。神を悲しませるのです。しかし、私たちは神を喜ばせたいと願っているから、その罪をすぐに神の前に告白して行きます。私たちはその大切さを覚えなければいけません。
(2)神の助けを仰ぐ 25節
もう一つは、神の助けを仰ぎながらいつも生きることです。7:25を見ると「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」、パウロは後半に、私の新しくされた心は神に喜んで仕えて行きたい、神の教えに従って行きたいと願う、しかし、私の肉は私を罪に引っ張って行こうとすると、その葛藤を再びここで繰り返しています。最初のところでは「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と言っています。確かに、24節ではすでに見たように、この罪のからだからいつ私を解放してくれるのかと、そのことをパウロは待望していました。そして、25節で「ただ神に感謝します。」と言うのです。なぜでしょう?解放されるという希望は神にかかっているからです。神が私たちに新しいからだを約束してくださったのです。ですから、パウロはそのことを覚えて、その約束をくださった神に感謝をささげるのです。だれが私たちに希望をくれるのですか?神です。どんなときにも希望をもって生きることができるのはなぜでしょう?神がその希望をくださるから、神を見て歩むならその希望をもって生きることができるのです。
だれが私たちに罪からの勝利を与えてくれるのでしょう?神です。主イエス・キリストは罪に打ち勝たれました。死にも打ち勝たれました。この完全な勝利を得られた方が、私たち信仰者にもその勝利を約束してくださったのです。だれが私たちに救いをくださるのでしょう?この救い主が与えてくれるのです。だから、私たちの感謝はすべて神のほうに向くのです。非常に興味深いことは、こうして見て来たように、パウロはみことばの中で自分の心の葛藤を証しました。そして、最後に彼がしたことは、自分を見つめていた目を神の方に向けることです。そのとき、その神に対する感謝があふれるのです。クリスチャンの皆さん、そのときに私たちは勝利を経験するのです。どうして私の信仰生活はこんなに弱いのだろう?と…、しっかり見るべきところを見ていますか?信頼するべき方にしっかり信頼して生きていますか?もしかすると、自分の力で、自分の知恵で、自分の経験で、何とか自分でしようと思っていませんか?自分の本当の姿を見たとき、私たちは神の憐れみによって自分の罪深さに気づかされます。そして、いつまでこのような戦いが続くのでしょう?早くこの戦いから解放されたい、もうあなたを悲しませることをしたくないから…、神に感謝します、その日が必ず来ることを私たちは知っているから、この罪のからだから解放されて栄光のからだをいただくその約束をいただいているから、神さま、感謝します。あなたを悲しませる日は終わりを告げ、栄光のからだをいただいて、あなたを称えながら、あなたとともに永遠を過ごす、神さま、感謝しますと。パウロの目はそこに向くのです。自分から、状況から、すべてを支配しておられる約束の神に…。そのときに感謝が生まれるのです。
信仰者の皆さん、この地上にあって、私たちは罪との戦いを継続して行きます。敗北するなら私たちはそれを告白して、主の前に正しく歩み続けて行きます。そのようにして私たちはこの地上の歩みを継続して行きます。どうぞ、希望を見失わないように、希望を忘れないように、あなたは栄光の姿へと変えられるのです。悩まされてきた罪のからだから解放されるのです。その日が主によって約束されています。だから、今、私たちはこのような戦いの中にあっても希望をもって生きることができるのです。そのような信仰者であるべきです。そのような信仰者として生きることです。それがパウロと同じように、救われた私たちが救ってくださった神に対して取る態度です。主よ、感謝します。こんな私を救ってくれて、こんなすばらしい約束をくださって感謝しますと。そのように今日を生きることです。